戦国ジジイ・りりのブログ

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2015年04月09日
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カテゴリ: 旅日記(近畿)
明智一族の墓の左には墓地が広がる。
西教寺の主要なお目当ては移築門と明智一族の墓だったけど、
墓マイラーであるわたくしは他の墓もお目当てにしていた。
ここには戦国関係の方の墓も色々あってね。

墓の配置図は墓地の入口に書いてあったけど、
ちょっと現地ではよくわからなくて、まず建物を見に行ったらしい(←覚えてない)。

デカい本堂は前回書いたような事情でまともな写真がありませんが、
解説板の写真だけはしっかりあるので(笑)、ご紹介します。

 【重要文化財 建造物 西教寺本堂一棟


  本堂は桁行七間、梁間六間、一重、入母屋造、本瓦葺の建物で、正面には三間の
  向拝を付けています。棟札によると、元亀2年(1571)の織田信長の比叡山
  焼打ちによる本堂焼失後、天正2年(1574)に本堂の再興棟上が行われたことが
  わかります。その後享保3年(1717)に第20世の真際(しんさい)上人が
  再建に乗りだし、門末檀徒から浄財を集め。元文4年(1739)に落成したのが、
  現在の本堂です。

  正面の欄間や須弥壇は、すべて欅(けやき)の素木造りで豪華な彫刻を施し、それぞれ
  江戸時代の特色をよく表しています。昭和61年5月24日に国の指定文化財と
  なりました。】

いやん、ゴーカな彫刻だって。
団体様のイベントが終わった後も撤収作業やらで


でもたぶん、これは本堂の屋根だと思う↓。


坂本・西教寺54


すごい派手~(笑)。
今のわたくしが西教寺に行ったらここだけで相当な枚数の写真を撮るだろうな。

こちらが本堂の隣にある鐘楼↓。


坂本・西教寺52


袴腰がまぶしいぐらい白い。
あまりに白いので写真を見て龍宮造かと思った。

 【大津市指定文化財 建造物
  西教寺鐘楼 一棟

  この鐘楼は、重要文化財の本堂の東側に、棟を南北に向けて建てられています。構造は、
  桁行三間、梁間二間、袴腰付、入母屋造、本瓦葺です。総檜造で、上層は軒の出が深く
  重量感があり、それに呼応して下層の袴腰は裾が広く安定感があります。蟇股に配された
  猿の彫刻や籠彫(かごぼり)の木鼻など、細部にわたって精巧な意匠が施されています。
  内部に残された棟札や高欄の擬宝珠の刻銘から、本堂と同系の中島治良左衛門春道を
  棟梁として、天保2(1831)年に建てられたことが知られます。】

え~、意匠?
現地ではたぶん気づいてないから撮ってないんだろうけど、
写真を拡大して見ると確かに下層の組物の間の蟇股にサルっぽい彫刻がある。
もしかして、鐘楼の蟇股は全部サルなのかな。


で、鐘楼とは反対側の本堂の隣にあるのがこちら↓。


坂本・西教寺49


 【重要文化財 建造物 西教寺客殿 一棟

  この客殿は、桁行一二間、梁間八間、こけら葺の建築で、慶長3(1598)年、
  伏見城の旧殿を大谷刑部少輔吉隆公管堂および山中山城守令室が檀越となり移した
  ものともいわれていますが、いずれにしても桃山様式をよく現わしています。
  客殿は南北に長く、東面と南面には広縁及び落縁があります。東面は、狩野派によって
  描かれた襖絵の絵柄によって、北から控の間、鶴の間、猿猴(えんこう)の間、
  賢人の間及び花鳥の間に分かれており、西面はもっとも南に最上の室の上座の間が
  あって、北へ内仏、書庫、茶室、八畳の間と多くの室があります。特に上座の間の
  床・棚は古式を遺して障壁画も完備した優秀な建築で、通称桃山御殿と呼ばれています。
  明治35(1902)年7月に国の重要文化財に指定されました。】

まあ、中には入れませんのでね~。
ここからだと大きな破風ぐらいしか見えないけど、
それでも相当風格のある建物だってことはわかる。

「大谷吉隆」は「大谷吉継」の方が通りがいいけど、
関ヶ原なんかでは「吉隆」の名で石碑などがあった。
「管堂」って何だ?


本堂の裏手にあるのが大本坊↓。


坂本・西教寺57


建築を見たい人間にとってははっきり言って幕はジャマですが、
仕方ありませぬ。

 【大本坊(昭和33年)

  元亀2年(1571)織田信長の比叡山焼き討ちによって西教寺が全焼、本堂・丈室・
  鐘楼・僧厨などが焼失した。坂本城主となった明智光秀公が、西教寺を菩提寺にしようと
  して、復興には特に心を用い大壇越となって、坂本城の陣屋を寄進して大本坊を再建した。
  昭和33年に大本坊を改築の際、「天正年中明智公所造之古木」と彫った古材が屋根裏から
  出てきた。明智光秀公と妻煕子夫人の御木像が安置されている現大本坊は、昭和33年に
  完成されたものである。

  昭和の木造建築物では、滋賀県内最大の建造物と言われている。東西33.42米、
  南北25.42米、面積257.5坪からなっている。
  大本坊とは庫裏のことを言う。この建物の中には、宗政を司る天台真盛宗宗務所・寺務所が
  あり、全国門末寺院を統括している。また本坊庭園は、江戸時代の作庭で三尊石組の枯山水
  の石庭である。】
  (ここまですべて【】内は現地解説板より。漢数字は戦国ジジイが変換。
  「煕子」はさんずいが付くのが正当な字。)

ほお、光秀はいいとして、煕子の木像まであるとはね。

元亀の「叡山攻め」の際には、織田家家臣たちは反対したというのが一般的な説で
光秀もその一人だけど、ウィキペディアには

 【叡山焼き打ち10日前の9月2日付けの雄琴の土豪の『和田秀純あて光秀書状』で、叡山に
  一番近い宇佐山城への入城を命じ「仰木の事は、是非ともなでぎりに仕るべく候」と
  非協力な仰木(現大津市仰木町)の皆殺しを命じており、叡山焼き打ちの忠実な中心的な
  実行者だと判明した。】

とある。

ここまでの記事で、元亀の「叡山攻め」で僧・民間人もろとも凄惨な大虐殺が行われたという
説についてはわたくしは懐疑的だと何度か書いてますが、
攻撃の範囲と程度が問題なのであって、山上・山麓ともに
それなりの攻撃があったことを否定している訳ではありません。

そういう経緯を持つ坂本に要となる城を築いて治めることになった光秀の苦労は
かなりのものがあっただろうとも思うし、戦国期に入って民衆の信仰を集めてきた
西教寺を丁重に扱ったというのは当然の政治的配慮とも思えるのですが、
「叡山攻め」ののちに大壇越となった光秀を顕彰する向きの解説はあっても、
そもそも復興しなければならなくなった元凶のうちの一人が光秀であることには
触れられていないんだな・・・

まあ、正式な国交を結んで何十年も経つのにいまだに先の大戦の
謝罪と反省をしつこく要求し、人んちの教科書にまで口を出すどこかの国なんかよりは
よっぽどプラス思考でいいと思うものの、 「お寺に寄付をすればこれだけいいことがあるよ」
とした井沢元彦氏の言葉
もちょっと頭をよぎる。

まあま、それはともかく、大本坊と本堂は渡り廊下でつながれており↓


坂本・西教寺58-2

どっしりと風格のある実に立派な建物でした。


して、墓場の方へ戻る。
境内図を見ると客殿からさらに奥へと行ったところには
真盛さんの廟があるらしいんだけど、当時は真盛さんについて特段の興味が
あった訳でもなく、そこまで行っておりませぬ。

で、わかりにくい墓地の配置図を参考にしながら墓場をうろつく。
愛用の頼政の数珠をぶら下げながら歩くことしばし。
看板があったのでようやくお目当てを見つけることができた。


坂本・西教寺・山中長俊の墓2


 【豊臣秀吉の家臣 山中山城守 橘長後の墓

  山中山城守は、敦賀城主大谷吉隆(刑部)と大壇越となって慶長3年(1598)に
  京都の伏見城にあった秀吉の御殿の一部を西教寺に移築寄進された。現在「桃山御殿」
  西教寺客殿と呼ばれている。】
  (現地解説板より。漢数字は戦国ジジイが変換)

え~・・・
西教寺のこの墓へ来た方の多くが書いていることですが、
この新しく綺麗な解説板は大変な間違いを犯してます。
わたくしも、現地で


誰じゃい、それ!?
でも山城守だし、これでいいハズだよな・・・」


と困惑しましたから。

戦国のラストを飾る天正年間頃の華やかな時期に活躍をした武将の多くは
色々と主君を替えた経歴をお持ちですが、この方も数回とらば~ゆしてます。

わたくしがこの方のことを知ったのは、「真田太平記」だっけか。
全巻オトナ買いしたにも関わらず、池波正太郎のクセのある文体が鼻について
中身うんぬんより文章がキライで関ヶ原前夜で読むのをギブアップして、
早々に売っぱらってしまったのでもう確認はできませんが、
秀吉の祐筆でありながら甲賀の忍びの頭領というような設定で
陰で色々暗躍した流れだった気がする。

あと、小田原攻めの際には忍(おし)城主の成田氏長の豊臣方への内通にも
暗躍したとされる方ですが、 長後じゃなく長俊 ね

間違いは名前だけじゃない。
境内にある他の看板との矛盾もあるのだ。

墓地入口にあった配置図の長俊の説明には【伏見城の旧殿を西教寺へ移築した大壇越
豊臣秀吉の家臣】とあり、大津市教育委員会設置の客殿の解説には
【伏見城の旧殿を大谷刑部少輔吉隆公管堂および山中山城守令室が檀越となり移した
ものともいわれています】とある。

墓碑は現地ではほとんど読めなかったけど、よそ様の訪問記によると
「慈芳院殿華屋盛林大姉」とあり、これは山中長俊の奥様の戒名らしい。
しかも、「慈芳院」は長俊が夫人のために建てたとも言われている寺で、
そこに長俊の墓とされるものもあるらしい・・・

「大姉」なら確実に女性の墓なワケで、これを目当てのひとつとして来たのに
残念なことではありますが、これはたぶん長俊の奥様の墓なのでしょう。

なんでこんなことになっているのかはわからないけど、
ウィキペディアにも長俊の【墓は西教寺】とばっちり書いてあるし、
これをお目当てに来る戦国ファンも多いハズ。
でもこのままじゃお墓の主にもあまりにも失礼だから、
大切な大壇越に礼を欠かぬように西教寺様には正しい情報を記載して頂きたいものです。


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最終更新日  2016年02月06日 00時11分41秒


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