戦国ジジイ・りりのブログ

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2016年05月21日
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カテゴリ: 城(東北・関東)
金仁謙は第11次朝鮮通信使の従事官の書記として
宝暦14年(1764)2月16日に江戸入りした。

その旅のことを書いた『日東壮遊歌』(高島淑郎訳注/平凡社東洋文庫)は
副題が「ハングルでつづる朝鮮通信使の記録」となっていて、
もちろんわたくしは日本語訳されたものを読んだ訳ですが、
たぶん申維翰の『海遊録』の原文は漢文で、ゆえに和訳されていても
相当読みづらかったのに対し、『日東壮遊歌』は原文がハングルなために読みやすい。
(ただし、文士である金仁謙の記録がなぜハングルで書かれているのかは不明。
解説によると、漢文で書かれた『東槎録』をハングルで書き写したのが


すでに 「(38)」 で金仁謙の文を一部紹介したように、
彼自身は江戸まで行きながらも儀式に臨まなかったので、
金仁謙の分の記事についてはカットしようかとも思っていたのですが、
それなりに詳しい話も同僚から聞いて書き遺しているし、
申維翰が書いていない内容も書かれているので、ついでにここで紹介しておきます。

今回もより前掲書からの引用が中心になりますが、
なぜわたくしが金仁謙に対していい印象を持っていないのか、
本文を読むことで理解して下さる方もおられるんじゃないかと思います。


さて、江戸に到着した一行は毎日日本人からの挨拶を受けたりしていたが、
2月27日にいよいよ登城となった。


使臣方は朝服を召され、裨将らは戎衣、文士訳官は官服に身を整える。
  使臣方の輿が従卒らに担がれ、笛や太鼓を打ち鳴らし、六行の礼をもって進む

しかし、金仁謙は「(38)」で紹介したような理由で登城を拒否した。
三使臣は

 「ここまで来た上はともに赴き見物してきたとて悪いことではないから出かけよう」

と説得したが、金仁謙は上役の誘いにもガンとしてうなずかなかった。

使臣方が仕方なく笑って言われる。
  「そうして帰国した後、ひとり良い格好しないでくれよ」
  「良い格好などとんでもない。物事の理を申し上げたまでです」


別に一行をおとしめるのがこの記事の目的ではないのですが、
いちおう言葉を添えておくと、要するに朝鮮側では日本人をさげすんでいるので、
帰国後の本国で日本人に頭を下げなかった金仁謙の株が上がる、
ということを意味しているらしい。

もちろん、三使臣がそんな駄々をこねたら任務が果たせない。
さすがに国使なだけあって、三使臣は別の場面でも
きゃんきゃんわめきたてる金仁謙を政治的判断で叱りつけたりしている。

金仁謙は申維翰よりも下の立場だったようで、
別に登城しなくても不都合はなかったんだろうけど、それでも三使臣は

「まあ見物だと思ってさ。
軽く行こうぜ、カルく」


と穏やかに諭している。
三使臣はこの旅の朝鮮側の責任者でトップの地位にあるのに、
それでも金仁謙はひとり宿舎に残った。
そして夕方になって帰ってきた同僚の南玉をつかまえて詳しく聞いたところによると、
まず本丸御殿の玄関に入るまでは「(38)」で書いた通りで、

板の段を上り柳の間に入ると、使臣方の外の控えの間。 
  角一本出た紗帽を戴いた紅衣の者や、木靴を逆さにしたような冠を戴いた者がいたが、
  素足で坐っている者の数がきわめて多かったという。

  内の控えの間に入る。松が描かれた部屋である。使臣方の右手に倭人数十人が坐していたが
  皆黒い絹の官衣を着け、一角帽を戴いている。通詞に尋ねると、執政(老中)らとの
  ことである。対馬島主は黒衣を着てそのかたわらに坐り、その後には紅衣を着た者が
  十列ほども並んで坐る。これは各州の太守らで、林信言、林信愛はいちばん端に坐っていて
  軽く会釈したとか。

  執政に導かれ梅の間に入り、一度着座した後また退室。次に国書を奉じて入り四拝し、
  私礼単(非公式な贈品目録)を差し出し、また拝礼。関白(将軍)の宴に臨んでまた礼。
  退出する際また礼をし、前後合わせて四度も四拝する。堂々たる千乗国(大国)の国使が
  礼冠礼服に身を整え、頭髪を剃った醜い輩に四拝するとは何たることか。退石(金仁謙)が
  来なかったことがうらやまれてならない。
  首訳と文士はそれぞれ一列に並び、拝礼を済ませ退室する。軍官と上官全員は二組に分かれて
  拝礼。次官と小童らは落縁で拝礼。中官は前庭で拝礼する。

  (カッコ内はジジイが追加)

「こんなに拝礼させられたんだよ!」
「ええっ、マジか!?」
「も~お前、ホント来なくてよかったよ」


・・・て金仁謙と南玉の会話の様子が目に浮かぶようですが、
金仁謙や南玉の悪意のかたまりの部分を除いて一連の流れを見てみると、
申維翰の頃とほぼ同じ流れであり、おごそかに儀式が執り行われたのがわかる。
カピタンの謁見とはまったく違うことは言わずもがな。

人から聞いただけの話の割に内容が細かいのが笑えるところで、
「梅の間」は御殿図には見当たらないし、儀式が大広間以外で行われるはずがないので
ふすまに梅の絵でも描かれていたのだろう。
「松が描かれた部屋」は恐らく大広間に連なる「松の間」のことだと思う。
江戸に出ていた諸大名が正装して儀式に参加していたこともわかる。

この時の朝鮮通信使は、第10代将軍・家治の就任祝いのためだった。
南玉の話は続く。

関白の坐っている所が遠く暗いので顔はよく見えなかったが、白い衣服を着ていたという。
  使臣方の席は関白に近く時間も長かったので、仔細に見たそうである。細面(ほそおもて)で
  顎がとがり、気は確かなようだが挙動に落ち着きがなく、頭をしきりに動かし折り本を弄び
  やたらにきょろきょろして泰然としたところがない。傍らには6,7人の者が侍っていたと
  いう。

  饗宴の席に赴くと、膳は7つ出され、飯は3度、汁も3度運んでくる。肴を3度取り替え、
  茶は1度持ってくる。一対の造花は先の振舞いのときと同じである。食べ物の奇怪さ、
  箸を付けられる物はまったく無い。


申維翰の記述だけを読むと、儀式の後の饗応で一体どんな料理が出されたのかはわからない。
ので、一国の国使をもてなす宴としてはちょっと考えにくいものの、
「三献の儀」で出されるようなまともに食べられる料理じゃなかったのかもしれないとも思った。
が、金仁謙(つか、南玉の)話ではっきりわかった。
これは 式正料理(本膳料理) (おそらく三汁七菜あたりの豪華なもの)だったんだ。
もちろん料理の内容まではわからないけど、幕府がメンツをかけて
朝鮮国の国使をもてなす訳だから、本当に食べられないものを出すハズがないのだ。
そりゃそうなのだ。

まあ、わたくしの脳裏に焼き付いている式正料理といえば室町期の大内さんちのもので、
江戸期のものとは多少違っているかもしれないけど、
たとえば現代の懐石料理なんかよりももっと盛りつけなども派手だったろうし、
初めて見る朝鮮人にとってそれが奇抜に見えたであろうことも想像がつく。

その後には少し御殿の記述も出てくる。

楼閣や軒下は丹青(各種の色で描かれた絵や模様)を施さず、
  柱、梁、垂木にはことどとく鍍金(めっき)し、屋根瓦は銅で葺いてあるようだ。
  殿宇は狭苦しいうえ、回廊も薄暗い。特に贅沢とは思えないが、精巧かつ堅緻(けんち)
  である。木目の入った材木を使い、つるつるに磨き上げられている。

  使臣方が退室される際には四人の執政が従ってきて、玄関の式台で揖して送る。
  島主と目付らは式台の下で揖し、二人の館伴、二人の長老は第三門(中之御門)の外まで
  来て揖して見送る。使臣方は第四門から輿に乗られ、第六、第七の門では皆それぞれ
  馬や駕籠に乗る。行列の威容を整え、館所に戻る頃には雨もあがったので、雨装束を解く。
  三絃鼓笛を打ち鳴らし、三重の濠を渡ると、長い多聞と白い築地の塀が続き、朱塗りの高い
  門には金の彫刻が施され、銅で飾った家々が左右に連なっている。通詞に尋ねてみると、
  執政や太守の屋敷とのことである。黒衣を着た執政らには気品ある者も見受けたが、
  紅衣を着た者どもは形ばかりの人形のようであったという。


御殿内部の木材については ケンペルも書いている ので、
薄い漆だけを塗って木目の美しさを活かした立派な木材は
ガイジンの目にひときわ印象深く映ったのかもしれない。

珍妙な冠の描写からすると参列者の服装はおそらく衣冠または束帯で、
『徳川盛世録』によると四位以上が黒、五位が浅緋だそうな。
江戸城で粗相でもあれば後が大変なので、黒衣より格下であろう紅衣の者が
「形ばかりの人形のようであった」のは当然とも思える。

南玉からこれらの報告を聞いた金仁謙は最後に

こうして話をすべて聞いてみると、行かずに休んでいたことが真実良かったのだと
  嬉しくもあり幸いとも思う。


と述べている。

翌日、対馬藩主がイベントの成功を祝いに来て、

更に言うには、関白より言葉があったとかで
  「朝鮮国の使臣らは礼儀正しく気品も備わりなかなか立派である」
  とのこと。聞いていて可笑しい。


その2日後の3月1日。

三人の兵房担当と三人の首訳が馬上才を引き連れ関白の御殿に赴き、技を披露して帰る。
  関白が大層褒めたということである。


さらに3月6日には

射芸が催され、我が一行からも8名を選抜、関白の御殿へ遣わす。島主の采配で行われるが、
  各州の太守も集まっていた。


「馬上才」は解説によると曲馬を演じる者で、寛永12年(1635)に家光が観たいと
朝鮮に交渉して初めて日本で馬上才が演技したそうで、
それ以後朝鮮通信使の一行に加えられるようになったそうな。

「射芸」はそのまま弓芸のイベントらしく、朝鮮側からは軍官らが参加したが、
当日の成績が悪かった金応錫は「病みつくほどに気落ち」して、
それに対して金仁謙は「可笑しくもあり哀れでもある」と言っている。

これらの記述から、使臣が国書を持って江戸を発つまでに、
儀式以外でも城内に通信使の一行が迎えられ、文武の文化交流が行われていたことがわかる。



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最終更新日  2016年05月22日 08時40分36秒


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