戦国ジジイ・りりのブログ

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2016年09月04日
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カテゴリ: 城(東北・関東)
ツュンベリー:
  会社がタイオワンに進出した頃から周辺の変動も大きくなっていくが、
  どうする?
  そのままタイオワンの話を続けるか?


りり:
  う~~~っと・・・
  ただでさえ複雑な歴史なんで、なるたけ時系列でお願いします。


ケンペル:
  よし。
  平山常陳が処刑された同じ月の1622年8月、イギリス東インド会社のバタビア支配人
  ファースランドは日本商館の採算が悪いことを理由に閉鎖を命じ、コックスらを召喚したが
  コックスはすぐには応じず、事務整理の都合上次の季節風期まで残留することを回答した。
  しかしこれはバタビアの理解を得られなかったようで、コックスは手ひどくなじられた。
  さらに抵抗する意思をなくしたコックスは商館での決議をへて閉鎖に応じることを決め、
  日本人関係者に贈物をして暇を告げ、1616年に得ていた朱印状と商館倉庫の保管を
  平戸候に託した。


り:うん?
  アンボイナ事件で肩身が狭くなったので商館を閉鎖したって訳じゃないのか・・・


ズーフ:
  まあ、まったく無関係ともいえないかもしれない。
  バタビアからコックスへの叱責状が送られたのは、事件の後だからな。
  だが、イギリスでは採算の悪い商館を閉鎖する案が事件の前から持ち上がっていたので、
  事件が直接の原因ではないだろう。
  イギリス側でも我々と同じように中国貿易の足がかりをつかもうと努力はしていたが、
  成果を収めるには至らなかった。


申維翰:何の事件が、なんだって?

レフィスゾーン:
  モルッカはヨーロッパで珍重された香料を産出するので、争いが激しかった地でね。
  我々がモルッカ諸島のアンボイナに進出したあと、イギリスも進出してきて競争が激化し、
  それで 英蘭防禦協定 の中には香料貿易に関する項目も含まれていた訳なんですが、
  現地では協定を無視した動きなどもあり、争いは相変わらずだったようです。

  そして1623年2月、イギリスの傭兵だった日本人が我々の砦の内部事情について
  聞き込みをするなどの不審な動きがあったのでこの男を拷問にかけたところ、
  イギリスによるオランダ砦襲撃の計画を自白したので、ただちにイギリス人達を捕らえ、
  拷問によって計画が事実であることが明らかになったそうです。
  それでイギリス人や傭兵の日本人などを処刑して、同地でのオランダ支配を確立したのが
  アンボイナ事件です。


金仁謙:
  それなら、倭国で肩身が狭くなるのはオランダ人なのではないか?
  処刑した中に倭人も含まれているのだからな。


レ:どうでしょうね・・・
  ただ、前回の報告書の中でカンプスは

 【皇帝(将軍)の名誉欲は帝国内に限られ、何人に対しても戦争を開かず、海外にいる臣民が
  彼に迷惑をかけ、外国君主との戦争の原因となることを許さない。】

  という解釈を示しているので、のちに日本人の海外渡航を禁止することになる
  ひとつの遠因になったという可能性はあるかもしれませんね。
  別の見方をすれば、日本人を守るための措置だったとも言えるのかもしれませんが。


り:ともかく、モルッカと日本からの撤退が重なって、イギリスはインドの方へ
  重点をスライドしていく訳ですね。
  で、ライバルが1人減ったと。
  とはいえ、倉庫の管理を委託していくあたり、完全に撤退する気はなかったようだけど。


ズ:今後に望みをつないでいたからこそ、穏便に退去する策を取ったのだろう。
  現に、かなり時間が経ってからイギリスは通商再開を求めに来たしな。
  そのほか、出国までに平戸候への貸付金の回収が進まなかったので、
  コックスは我々に取り立ての継続を依頼していった。


ツ:平戸候には、我々も多額の貸し付けをしていてねえ~。
  オランダ商館が平戸から長崎に移されたあと、事あるごとに平戸候に借金の返済を
  頼んだんだが、なんだかんだと理由を付けられてなかなか返してもらえなかったと
  時の商館長が書き残しているよ。


ケ:リチャード・コックスが日本を出国したのは1623年の末だったが、
  同じ年にはポルトガル人の日本在住禁止と朱印船のマニラ渡航の禁止が公布された。
  この段階ではまだ完全にポルトガル人が追い出された訳ではなかったが、
  それまで宿としていた日本人キリシタンの家に泊まることは禁止され、
  キリシタン以外の家に泊まることが定められた。


り:ふん、いよいよだな。

ケ:翌年は会社がタイオワンにゼーランディア城を築いた年だが、
  ついにスペイン船が来航を禁止された。


り:まずは小さな虫からか・・・
  これで2匹目退治。
  スペインが渡航を禁止されたのはなぜなんでしょうねえ。


ツ:まあ理由は色々あるだろうけど、キリシタン関係も大きな理由だろうな。
  キリスト教禁制を出しても宣教師の潜入が収まらないので将軍が怒ったともいうし。


レ:日本に入ってきていた修道士はイエズス会だけじゃなかったからね。
  日本での布教のパイオニアともいえるイエズス会はさすがに日本との関わりも深く
  状況を判断できるだけの知識もあったけど、日本での経験が浅く、
  甘く考えがちだった新参の宣教師の中には禁教下でも布教をやめなかった者もいたらしい。


り:なんでそんなに頑張るんだろ?

レ:頑張りはまだ続くんだよ。
  スペイン人は追放されても布教は諦めなかった。
  スペイン人が日本に入れないのなら、日本人をマニラで教育して布教にあたらせるしかない。
  そう考えたスペインのマニラ総督アロンソ・ファハルドは日本人学校の建設に着手した。
  しかし、ファハルドはブヨ(島人が噛んで楽しむ果実)や煙草を専売にして
  学校の建設・運営費に充てようとしたので一般商人らの恨みを買い、ファハルドが死ぬと
  学校建設計画は破棄された。
  それに、もうすでに日本で禁令が出ているのに今さら学校を建てても遅すぎるし、
  すぐに役に立つかどうかわからないものを建ててどうなるって意見もあったらしい。

り:へえ、もはや執念だな。

ケ:スペインも我々がタイオワンに拠点を持つ危険性を十分認識していたが、
  後手に回った。
  彼らが基隆(キールン)港を占領し、社寮島にサン・サルバドル城を築いたのは
  1626年だ。


り:スペインの台湾進出、やけに遅くないですか?


レ:ちょうどファハルドが死んだりしたんだよ。
  スペイン人は勇んで基隆に陣取ったものの、この頃のマニラの財政状況はあまり良くなく、
  基隆に着いたスペイン人はすぐに困窮してねずみや犬を食って飢えをしのぐ
  ありさまだったらしい。
  基隆でも早速布教を始めたから、現地人との関係はなかなか良好で、彼らから
  食料を援助してもらったこともあったようだよ。


ツ:それでタイオワンを攻めようとしたらしいが、応援の船は暴風雨で
  基隆にたどり着けなかったりと困難もあり、また台湾遠征に反対する者もいた。
  他にもっとやるべき事があるだろうとか、台湾にはろくな産物がないとか、
  オランダ人はあくまで貿易の拠点を築いただけだから、別に今叩かなくてもいいだろうとか、
  それより中国人と日本人対策のが先だとか。
  スペイン人はずいぶんと海外に在住する日本人に手を焼いていたようだからな。
  基隆は台湾北部にあってタイオワンと日本の間に位置していたから、
  我々にとっては邪魔な存在で妨害されたこともあったけど、彼らは1642年には
  撤収した。


ケ:スペイン人がサン・サルバドル城を築いた年は後水尾天皇の二条城への行幸があったので、
  参府は江戸ではなく京都で行われたが、我々はスムーズに将軍に謁見が許されたのに、
  ポルトガル人は冷たくあしらわれたという。


り:日本に貼りついていた最大の虫にも、すでに逆風が吹き始めていたようですね。
  もっとも、スペインの来航禁止にしても、オランダ人の地道な悪口運動が
  後押しをしたというのが一般的な見方ですけど。
  貿易面だけじゃなく、カトリックVS.プロテスタントの側面もあるからな~。
  ホント、めんどくさいったらありゃしない。

レ:めんどくさがり屋だなあ、お前(笑)。

り:そういうレフィさんだって、参府日記で結構めんどくさいを連呼してるじゃないですか。

レ:だって日本人てマメすぎるっていうか、ちょっとウザいっていうか
  お前だって大まかなところを知っているのなら、わかるだろう?
  私の気持ち。


り:そりゃあまあ、ズーフさんの次の商館長になったブロムホフあてに、通詞から
  「お腹がすいたから、パンをひと切れわけてください」とか
  「コーヒーに砂糖を少し入れてもらえませんか」とか言ってる書状も残ってるし、
  シーボルトさんの参府記録なんかでもちょいちょい来客があって、
  「うわあ、これ、ウザかっただろうな~」とは思いましたけどね。


レ:だろ?

ケ:話を続けるぞ。
  少し話が前後するが、ここからタイオワンだ。
  我々がタイオワンに拠点を置くと、その影響はすぐに現れ始めた。
  日本人はタイオワンにも朱印船を出して交易していたからだ。
  1624年に出た朱印船は航海に失敗して何の積荷も得られずむなしく帰国したが、
  この失敗はすべてオランダ人にあるといい、しかもオランダ人の品はすべて略奪したもので、
  略奪のなかった年には日本への輸入はないなどと罵倒した。


申:痛いところを突かれたな。
  敵はポルトガル人だけではなくなった訳だ。


ケ:日本在住の中国人もタイオワンに来ていたので、彼らもライバルだった。
  我々に好意を持たない中国人の海賊は、タイオワンへは全く絹織物を持ち込まず、
  わざわざ他の港で荷を下ろしてひそかに陸路でタイオワンへ運び、闇に紛れて
  日本人に荷を売るなどという行為をしていた。

  そこで1625年、タイオワン長官のソンクは日本人に10%の関税を課し、
  日本在住の中国人の渡航を禁じた。その頃、日本人の朱印船2隻が
  タイオワンに入港したが、自分達は将軍の朱印を持った商人であり、
  以前からこの土地を所有していること、日本ではオランダ人に課税していないのだから
  不当だなどと主張して関税の支払に応じなかった。
  それでソンクは、日本人の買い入れた生糸のうちの15ピコルを没収した。
  この船は長崎代官・末次平蔵政直の船だったので、平蔵はこの件について幕府に訴えた。


り:この道は、いつか来た道~

ケ:幕府はすぐには反応を示さなかった。
  しかし、これ以降タイオワンに行く船に与えられる朱印状は一般の商人には与えられず、
  限られた大商人だけに与えられることになった。
  さらに、末次平蔵は幕閣の松平右衛門太夫正綱から関税を支払う必要はないという旨の
  書状を得ていた。


り:松平正綱?
智恵伊豆のパパ じゃないか~。


ズ:智恵伊豆・・・
  島原の乱で大将を務めた男だな。


り:そう、それ!
  実際には、信綱は正綱の養子ですけどね。


ズ:前回、禁止されていたにも関わらず高官が朱印船に出資していたと話しただろう?
  松平正綱もそのうちの1人だ。


り:ほ~ほ~ほ~・・・それは・・・

ズ:ほかの出資者に、永井尚政、井上正就などもいる。

り:永井尚政か・・・
  小牧・長久手で池田恒興を討った永井直勝の子だな。
  まだそういう時代の話か~。


ズ:先に京都でスムーズに謁見がかなったとの話が出たが、実際はひと悶着あった。
  これら幕閣の出資者は直接利害が絡むので、謁見を妨害しようとしてきたのだ。
  平戸時代の我々の世話役は平戸候だったが、平戸候が必死になって我々の弁護を
  してくれたおかげで将軍への拝謁が叶ったのだ。


り:ふ~む、皆さんが江戸に参府した折には時の幕閣の他に 平戸候にも挨拶 してますけど、
  そういう平戸時代のあれこれがあったからなんですね。


レ:もっとも、筆頭の閣老だった大炊殿が我々と親しい間柄だったというのも
  大きいけどね。
  そして将軍も我々に対し好意を示して下さったのが決定的だった。


り:土井大炊頭利勝は、「不快な、苦い、黒い、醜い、絵に描いた悪魔のような
  恐ろしい顔をした人」とオランダ人から恐れられていたって聞きましたけど


レ:それはそれだよ。
  最高閣老の口添えを得られたことは我々にとって非常な利益になった。


り:オランダ商館は井上正就の弟とはのちに深く関わることになりますけど、
  ここでもよく耐えていい関係を築けたことが商館の存続につながる訳ですもんね。


ズ:この時、商館長はコルネリウス・ファン・ナイエンローデだった。
  ナイエンローデは、タイオワンでは日本人を決して雇わないよう勧告している。


金:なぜだ?

ツ:日本人同士で内通するに決まってるからさ。

り:ナイエンローデはあまり評判のよくない商館長で、永積洋子氏も結構きついことを
  書いてますが、


ツ:実際、現地で色々トラブルがあったようだから仕方ないだろう。
  もっとも、同情すべき点もある。
  平戸の商館長はスペックス(2回目の就任)からカンプスに代わり、カンプスの後は
  ウィレム・ハイヘンが継ぐはずだった。ところが、ハイヘンは日本到着を目前にして
  船上で亡くなった。
  カンプスはすでに任期を終えて出国する許可を得ており、船長として来日した
  ナイエンローデに日本に留まるよう依頼し、ナイエンローデは総督からの指令が来るまで
  日本に留まることにした。

  しかし、その3ヶ月後、カンプスは急死した。ナイエンローデはなんの引き継ぎもなく、
  日本についてのなんの経験もなく、急遽商館長になることになったんだ。
  日本のような難しい地に、しかもタイオワンにからんで緊張が高まっている時期に、
  何の経験も知識もなく商館長として立ち回らなければならなかったのは
  気の毒な気もするね。


り:でも素直な目で見ると、ナイエンローデはそんなに
  勝手なことやってる訳でもないんですよね。
  てか、理を通そうとするまっすぐな人っていう気がしたんですけど。


ズ:だが、これはもはや「政治」だ。
  理は確かに大切だが、我々をねたむヨーロッパ人からどれだけ卑屈だと非難されようと、
  相手国の状況や慣習に応じて柔軟に臨機応変に対処していく必要がある。
  日本のような国はとくにそうだ。


レ:ナイエンローデだけじゃなく、タイオワンの長官だったソンク、
  その2代あとに長官となったピーテル・ノイツ。
  微妙な時期に、日本を知らなさすぎる人物が重なった。
  これが、事件に発展したひとつの要因でもあるだろうね。



※今回の主な参考文献
『日本大王国史』(カロン原著、幸田成友訳著/平凡社東洋文庫90)
『平戸オランダ商館日記 近世外交の確立』(永積洋子/講談社学術文庫)
『日欧通交史』(幸田成友/岩波書店)
『西班牙古文書を通じて見たる日本と比律賓』(奈良静馬/大日本雄弁会講談社)
『出島 異文化交流の舞台』(片桐一男/集英社新書)


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最終更新日  2016年09月05日 22時03分29秒


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