2006年12月15日
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「裁いてはいけません」というのは、イエス様の言葉です。

しかし、これは裁判をしてはいけませんということではありません。

裁くとは、法廷で使われる言葉です。それは、善悪を決定することです。ある人を罪に定め、また、ある人を無罪にします。

しかし、この善悪を決定できる方はただお一人、神様だけです。しかし、法律や憲法は、その神様の言葉である聖書が土台になっています。ですから、勝手に裁判官が裁くのではなく、その法律に乗っ取って裁きがなされます。

しかし、裁いてはいけない裁きとは何でしょうか? それはまず、自分の好き嫌いを基準にして裁きを下すことです。

世の中の人も、クリスチャンであっても関係なく、人は自分の好き嫌いで善悪を言ってしまうことが多くあります。

しかし、表面的には、正しいことのように聞こえたり、大義名分が掲げられているかも知れませんし、もっともらしく見えるかも知れません。

ですから、ある人のことをあることで痛烈に批判したとします。しかし、この場合、自分のことを棚に上げて批判する場合があります。そう、自分も同じ要素を持っていたり、同じこととをやって来たり、それを隠しているかも知れません。これなどは、裁いてはいけないとうことに当てはまります。

そんな時は、「僕にも、私にも、そんなことがあるけれど、やっぱりいいことではないと思うから、お互いに気をつけて行こうね。」と言えたら、どんなにいいでしょうか。言われた相手も素直に聞けるでしょう。



そのことを、自分と親しい友人、恋人、親友がしたらどうでしょうか? 「しょうがねーなー」で済んでしまうのではないでしょうか。また、それが家族であったとしたら、もっと甘い基準になってしまうだろうと思います。

クリスチャンになりますと、お互いを「~兄弟」とか、「~姉妹」と呼び合います。これはいいことだと思いますが、聖書は、そのように呼び合いなさいとは教えていません。

聖書が教えることは、本当の兄弟、姉妹になりなさいということです。つまり、家族になるということです。

もし、赤の他人であったり、敵対関係にある人が行なったことならば、すいぶん悪いことに感じたとしても、それが家族だとしたら、「まあまあまあ」で終わってしまうものでしょう。

聖書が教える「裁いてはいけません。」という教えは、自分自身に対してもそこまで厳しくはしないのに、否、人に厳しい人ほど、自分には甘いものです。このような人に対してです。

また、相手を家族の一員、親友と思った場合、生じて来るとしたらそれはおそらく裁きではないでしょう。

みなさんも、誰かから厳しく批判されたり、裁かれた経験があるだろうと思います。私も痛烈に批判された経験があります。

しかし、その時感じるのは、その人は私を、家族や親友とは決して思っていないということです。そして、私の問題を本当に解決しようとは思っていないし、まして、私のために死んでくれるほどの愛は持っていません。

みなさん、神様は、私たちに対して、親友となって下さり、家族として迎え入れて下さり、本当の問題解決を願って、十字架にかかり死んで下さいました。

裁いていい裁きとは、このような裁きです。

どうぞ、私たちは、他の人に対して、神の愛を持ったら、100のうち99以上は裁く必要のないことだろうと思います。



素晴らしい一日でありますように。
God bless you!





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最終更新日  2006年12月15日 08時09分43秒
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