今を生きよう


日々の生活の積み上げが、その繰り返しが人生そのものだ。それなら、日々の瞬間こそ充実して過ごせることが人生の喜びであり幸福感だと思う。
あの時は楽しかったなという思い出もある。先に計画してある旅行とかへのわくわく感もある、約束した時間までの待ち遠しさもある。楽しい時ばかりだと何が楽しいのかわからない。欲にきりはなく、お金も有り余るほどあると喜びが薄れる。人間の能力、特に心の部分の成長に限界がないように....
さて、日常の生活では、少なくとも何も焦る必要はなく、先行きを不安がる必要もない。心配症の取越し苦労も取越しなのだ。心の部分で満足できないと不満になる。これも楽しくはない。自分はこうしたいのにという本心を何故否定するのだろうか。
せっかくそういう発想なり思いが涌き出てくる片っ端から否定したり抑制してしまうのは何だろう。自分の良心なり理性でブレーキをかけているという一般論は、ある面で正しいが、ある面では違う。
カント曰く「自由とは好き放題に好きなことをやることではなく、自己の良心にしたがって自己を律することである」と...これはカントさんの人生観であって哲学的に普遍性を持って全てそういうものだとすることが一部の常識と化す。
哲学も宗教も所謂スピリチャルな部分の解明とかになるわけですが、どれも一般論でその人にはその人のマイナーチェンジとか解釈が必要だと思います。一人一人異なるので当然そうなりますよね。
日々わくわくしてたら何と落ち着きの無いちゃらちゃらした奴だと思われる。たまにわくわくすれば良い。わくわくしない日々のほうが圧倒的に多いはずだ。
その普通の日々にわくわくすることを考えてわくわくするとかなりわくわく感の時間が増える。でも残った非わくわく感のときはどうしたものか?!
その人なりの役割がきっとある。たぶん生まれる前に決意してこうしようと思っていた事があると思う。それが何なのかは死ぬまで解からないかもしれない。解からないようにできているから、ならば、解かるときまでやりたいと思ったこと、良かれと思う本心の方向に一歩踏み出せばいい。全てわからなくても、気持ちの良い方向なりスタンスが見つかる。
なんか気分良いな~ということだ。何でも良い、大きいこと小さい事関係無く、なぜか心が落ち着くというか安心できるというか、ぴったりするフィット感のようなもの...
それが非わくわく時の過ごし方だと。
ゆったりと流れる時がある。好きな雰囲気の中で旨いコーヒーを飲んだり、炭火で焼いている帆立貝に醤油をたらすときとか、温泉上がりのビールの喉越しとえだまめとか、
何でもいいんだ。自分が居心地のいい場所だとか人だとか、周りの全ての環境要素が与えられていることを感謝して味わう胆があれば、気合があればいい。
幸せは今だ。考えても考えなくても先のことはさきのこと、今できることを今、気合入れて力まずに精一杯やらせてもらう。結果は天にお任せさ...気楽にやればいい。ちゃんと味わうために。先は急がず、ゆったり、自分の本心に任せて今を生きよう。




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