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2009.12.15
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カテゴリ: なぜなにすっぱん
どうも~。今日はきちんと大学に行こう!そう決意した日に限ってついてない シムカ です。

今日は何もサボらず真面目な学生をしてみよう!!一昨日の夜そう決意。

昨日の朝もきちんと起きて大学に行こうと家を出て乗換駅に出ると何故か騒がしい。

「―――車両故障の関係でダイヤが大幅に乱れております、お客様には大変―――」

( ゚д゚ )!?

真面目に行こうと思ったらこれだよ!!なんじゃそら、もうやってらんね('A`)

まぁそんな感じの日々を送っている私ですが、ようやく トルストイ 『人生論』 が読み終わり、



そういうわけですから RS erg に期待している人は回れ右です。いや…期待ってなんだ…?









































今回は以前書いたトルストイの著作である『人生論』の考察の後編として書いていきたいと思う。

前回同様年とに入れておいて頂きたいのは元々私の考察と同じ様な事に関して言及している

部分に対し、両者を比べ、私の意見を書いているものであって、彼の文豪のこの著作が

間違いだなどと糾弾する気はないのが無論の事、まして一介の凡学生が成し得る事では

ないのだという事を始めに言っておき、再び念頭に置いていただきたい。



さて、前回はトルストイはこの『人生論』の中で、人は動物的自我を理性によって抑圧、或いは

制御した上で愛の一言に尽きる幸福なる人生を送らなくてはならいと言っていると書いた。

この愛を万人が抱く事でこの世から争いがなくなるばかりか死の恐怖さえもなくなるのだと



この文章だけ読んだ人が愛など言われて納得出来るとは到底思えない。

ではそういう類も含めて以降、考察していきたい。















まず愛とは何だろうか。

愛するという事は異性―――いや、同性だろうと相手に好意を抱く事だろうか。

私たちが単純に愛を表現するならそうなるだろうが、それはつまり究極、愛とはセックスである。



何せ前述したように動物的自我を理性によってコントロールしなければならないのだから、
(それは例えば一切のセックスを禁ずるとかいう意味では全くない)

利己的な幸福、人生を否定し、自分中心ではなくて他者を愛する愛、それこそが愛なのである。

人を憎まず、ただもう全てを愛し、全てのものを自分が幸福にし、自身を、自身の生命を

捧げつくそうと思う者こそ真の愛を理解し、人生を理解しているのだそうだ。



ここまでで彼の言う愛が少しでもわかって頂けただろうか。

つまり自分の幸福よりも他人の幸福を願えという事であり、それこそが真の愛だという事だ。

他人をこのような定義においての愛で愛し、憎まないのならば確かに争いはなくなるだろう。

しかし、前回も最後に書いた「死の恐怖」に関してはどう説明するのだろうか。















まず死とは自分が生まれてから肉体には様々な変化があったというのにどうして死という

変化だけを恐れるのかと彼は問う。それに対し私はこのように考える。

確かに肉体には体が大きくなったとか、ケガをしたとかで変化は常にあるものなのだろう。

しかし、それはあくまで生という前提があってこそであり、相反する生と死の変化、

つまり前提の変化をそれらと同じくして見る事は出来ない、と。

しかしそれも生命というものを真に理解していなからだと彼は言う。

そのような幻の生命では死を恐怖と感じる。

だがそもそも生命とは時間や空間に囚われず、死なないものであるのだと言う。

私は「死に関する考察」で私を含め表面上では装っている者も、万人が死をおそれ、

その恐怖を克服することは出来ないとしたのだ。

前回も言ったように彼と私の言う事はまるで反対であり、彼に言わせれば私こそ死を、生命を、

まるで理解できていない者の典型例だと言えるのだろう。















死とは自分だけが持つ唯一の肉体、いや肉体を除いたとしてもこれも自分だけの自我という

自己意識が失われ、自分という個が認識出来なくなるので、それに対し恐怖を感じるのは

至極自然な事ではないのだろうかとやはり私は思う。

しかしそれにも彼はこのように答えている。

自我、意識が途絶える事、つまるところ死であるが、意識が途絶えるなど我々は毎日、

眠りという行動によって行なっているではないか、と。

意識が無くなるという点では眠りも死も変わらない。それでも人は眠るのである。

それは人間が根底…いわば超自我において真の自我が時間を超えて生きるのを知っていて、

意識が途絶えてもそれがなくなる事はないのだと納得しているからである。



なるほど、彼の言葉が正しいのならば、私の考えは悉く論破されている事になる。

皆さんはそれで納得しろと申されるかもしれないが、生憎と私は物分りが悪いのだ。

どんなに私の考えが間違っていると、眠りと変わらないなどと言われたとしても恐怖を感じるし、

万人がそうであると納得するまで言い続けるだろう。

そんな馬鹿のためだろうか、彼は死の恐怖に関して最後にこのように言っている。

死に恐怖を感じない理由としてそれは何だと問われれば思い出である、と。















例えば貴方の大切な人が死んでしまったとして、或いは既に死んでしまった大切な人がいて、

死んでしまった今でもその人の顔も体も覚えているだろう。

そこにいかに愛があったかでその鮮明さも様変わりするだろう。

つまり肉体の、時間的な死はあっても、その死後も生命は思い出という形で生き続け、

生者にあらゆる影響を与えるのだ。

私は少なくともこれで納得は出来なかった。皆さんは彼の言葉に納得する人もいれば、

否定する人もいるだろう。それはどちらも正しくて間違っている。何せ答えなどないのだから。

自分の肉体的な死が迫ろうとも真の自我は生き続けるし、他者の間でも思い出として

生き続けるのだから死は恐れる必要がないと叫んだところで現代人に果たして通用するだろうか。

我々現代人は実存主義ではないだろうか。いや、もっと簡潔に言うなれば自分で

体感出来なければ、実感出来なければ何事も納得いかないのではないだろうか。

つまりそれは死ぬまでわからないのだから、やはり人は死に対し恐怖を感じるのだと私は思う。






いや…こういう話の後に余談書くのかどうか迷ったが一応書いておく( ´_ゝ`)

Propellerから新作が発表されるみたいですね!一作目以外全部やってますから期待大!!

うん、そんだけ。





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Last updated  2009.12.15 00:50:09


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