2010年07月21日
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カテゴリ: 萩市周辺観光情報

 毛利輝元の墓所で、輝元と夫人及び殉死者長井治郎左衛門の墓石があり、これらは花崗岩製の五輪塔形です。
 ここは以前輝元の隠居所である四本松邸があり、死後に菩提寺として天樹院(輝元の法号)が創建されましたが、明治2年(1869)廃寺となり墓所のみが残りました。大照院、東光寺とともに国の史跡に指定されています。


毛利輝元

 天文22年(1553)毛利隆元の長男として生まれ、永禄6年(1563)家督を相続する。祖父・元就(三矢の訓えで有名な戦国の武将)の後見を受け将軍足利義輝の一字を拝領して輝元と称す。元就没後は、両叔吉川元春と小早川隆景の補佐を受け出雲国から尼子勝久・山中幸盛らを追放、備前国の浦上宗景を圧迫し、讃岐国にも兵を出した。天正8年(1580)信長に追われた足利義昭を厚遇し、上洛して信長と覇を争う。同年6月、備中高松城下で講和成立直後に本能寺の変を知るが講和を守って追撃せず、秀吉の中央での制覇に好機を与える。豊臣政権下に入っては四国・九州出征において先鋒をつとめ、参議に任官。天正17年(1589)太田川口のデルタに築城を始め、この地を広島と命名。本拠を吉田郡山城から広島に移す。同19年秀吉から安芸・周防・長門・石見・出雲・備後・隠岐七ヵ国および伯耆国三郡と備中国内で120万石の知行目録を与えられ、中国にその勢を振るった。慶長2年(1597)に五大老に列せられ、秀吉の死去にあたり秀頼の補佐を委託される。慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いでは、自身は大阪西の丸にあって西軍の総帥とみなされたため七ヵ国を削られ周防・長門両国36万9千石に減封された。同5年10月薙髪して隠居し、家督を6歳の秀就に譲り、同9年(1604)11月築城中の萩城に移った。寛永2年(1625)萩城内で死没。73歳。


猫ノ丁の伝説

 この天樹院の南側に『猫ノ丁』という名の通りがある。むかし、萩城を築城した輝元が亡くなったとき、長井元房という重臣が、当時この猫ノ丁に住んでおり、この元房が可愛がっていた猫がおり、元房が藩主のために殉死をすると、この猫は非常に悲しみ、藩主の墓所天樹院内の元房の墓の傍を離れず、元房の四十九日の法要の日に、その愛猫は舌をかんで墓前で死んでいた。その後、夜になるとこの付近より、何所ともなく猫の鳴き声が聞こえ、この話が世間に広まり、夜などは人通りさえなくなった。このため天樹院の寺僧は、愛猫の死を憐れんで、寺内に手厚く葬ったとのことで、何時のまにか猫ノ丁と言うようになったとの話である。


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最終更新日  2010年07月21日 00時03分44秒
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