2010年07月23日
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長門市三隅の村田清風記念館です。
 村田清風は、藩政刷新は人材育成にあると考え、家屋の一室を「尊聖堂」と命名、私塾としました。1843年(天保14年)春のことです。清風の学風は萩の「松下村塾」や須佐の「育英館」に及び、幕末維新の人材を陸続として輩出して行きます。その熱誠は俗論党に抗して自刃した周布政之助、安政の大獄で死罪となった吉田松陰、第二次征長戦争に打ち勝ち病死した高杉晋作などへ、脈々と継承されました。


村田 清風(むらた せいふう、1783年5月26日 - 1855年7月9日)

 1783年、長門国大津郡三隅村沢江に長州藩士(代官)・村田光賢の長男として生まれました。通称は亀之助、四郎左衛門、織部。名は順之、清風。号は松斎、梅堂。
 幼少時から優秀で、藩校・明倫館に入学しました。ここで優秀な成績を修め、学費免除のうえ、明倫館書物方となりました。1808年、時の藩主・毛利斉房の小姓として仕えました。以後、斉房から5代の毛利敬親の代まで要職を歴任しました。さらに、江戸に上って塙保己一などから兵法や海防策を学び、さらに知識を広げました。1819年、村田家の家督を継ぎ、祐筆添役、当職手元役、撫育方頭人となりました。
 1838年、表番頭と江戸仕組掛を兼任して藩政の実権を掌握しました。そして、藩主・毛利敬親のもとで天保の改革に取り組みました。この敬親は政治的に暗愚で、何事も消極的で「そうせい侯」とまで呼ばれましたが、それが逆に幸いして清風は何一つ遠慮すること無く、藩政改革に手腕を振るうことができました。
 まず、清風は財政再建政策に取り組みました。この頃、長州藩は借金に苦しんでいましが、清風は37年をかけて借金を返済する方法を採りました。次に、藩はこれまで特産物である蝋を専売制にしていましたが、清風はこれを廃止して商人による自由な取引を許しました。その代わり、商人に対しては運上銀を課税しました。さらに、この頃の下関海峡は西国諸大名にとっては商業・交通の要衝でしたので、清風はこれに目をつけました。豪商の白石正一郎や中野半左衛門らを登用して、越荷方を設置しました。越荷方とは藩が下関で運営する金融兼倉庫業であり、言わば下関を通る貿易船などを保護する貿易会社でした。このような清風の財政改革により、長州藩の財政は再建されていきました。また、清風は教育普及においても力を注ぎ、庶民層に対しても教育を薦め、1849年には明倫館の拡大も行なっています。他にも、1843年に学問所である三隅山荘尊聖堂を建設しています。
 しかし改革の途中で中風に倒れ、家老の坪井九右衛門に藩政の実権を譲って隠退しました。その後、病から回復して子弟教育に力を注ぐ一方で、「海防糸口」、「病翁寝言」、「遼東の以農古」など、多くの著作を記しています。1855年、清風を尊敬する家老・周布政之助の要請で再び藩政に携わりましたが、清風の改革に対して反対派である椋梨藤太の台頭などもあって再びの改革には失敗。同年、持病である中風が再発して73歳で死去しました。
 清風が行なった改革は、幕末の長州藩における大きな財産となりました。





開館時間  午前9時~午後4時30分

休館日   月曜日・祝日の翌日
      年末年始(12月28日~1月4日)

観覧料   個人
      一般/200円  高・大学生/100円 小・中学生/50円
      団体(20人以上)
      一般/160円  高・大学生/ 80円 小・中学生/40円

お問合せ先 村田清風記念館
      TEL0837-43-2818




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最終更新日  2010年07月23日 00時04分49秒
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