
最終日の夜、ご当主の田中さんと出展者合わせて7名で打ち上げ会をした。もちろん展示会場となった蔵の土間で。
照明を落とし静かな音楽を流すとその空間は昼間とはまた違った魅惑的な表情を見せて僕たちを包みこんだ。
いつしか若い家具作家たちが自分たちの作品/商品の価値について熱心に語りだした。それは偶然にもぼくがこの蔵で考えていたことにまっすぐつながっていた。
その朝ぼくは鎌倉へ向かう電車の中で次のようなメモを書いていた。
「価値と価格は別物である。価値を無視して価格の変動を追う者が投機家である。一方、価格に頓着せず価値にのめりこむのは道楽者である。価値も価格もわからず金を使うのは浪費家である。浪費家は愚か者の一種である。価格を価値に近づけるための努力がないと価値あるモノたちはいつまでも商品としては浮かばれない。」
この夜の議論を終えて帰宅してからぼくはさらに次のように考えた。
問題の核心は、価格が客観的な量であるのに対して価値は主観的な量だということである。市場価格は参加者の最大多数に支持される価値を反映しているはずだ。目利きは常に少数派である。多数派は目利きの評価に追随する。従って価格は遅れて価値に近づく。しかし、その調整に要する時間は一定ではない。「そのとき」が来る前にその商品が「絶版」となることもある。また価格は価値に近づいた後それを通り越してまた反対側へ遠ざかることもある。いや、それがフツウである。
いずれにせよ、価値が主観の世界にある以上「そのとき」や「その値」が客観的に判定されることは決してない。
商品はそういう世界に浮遊するしかない。
製造者はより安く作るしかない。
作家と目利きは自分の主観を主張するしかない。
商売人はより多くを、より安く買いより高く売るしかない。
購買者は金を払い、買ったものを楽しむしかない。
製造者でありかつ作家でありかつ商売人である場合には、葛藤に苦しむしかない。