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2020年11月05日
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(1)箱根駅伝

1998年1月3日の午後、横浜駅前の幾重にも重なる人垣の中で、私たち夫婦は、箱根駅伝の復路9区を走る息子、大輔を応援するために、二時間以上も前から携帯用のラジオと液晶テレビを、同時に聴きながら待っていた。
 選手の通過する時間が近づくにつれ、周りの観衆も歩道いっぱいに溢れてくる。
 私たちが、各大学の通過順位やタイムを、細かくメモしながら一喜一憂しているのを見て、隣にいた中年の夫婦が声をかけてきた。
 「どなたか、お知り合いの方でも走られるのですか?」
 息子が走ってくることを教えると、「ほー、それは凄い。息子さんの晴れ舞台ですね。それじゃ、ご両親は一生懸命応援してあげないとね!」
 そんなやりとりをして、周りの見ず知らずの人達と、駅伝の話で盛り上がりながら大輔の姿を待っていた。
 選手の通過時刻が近づいてくると、沿道の観衆はさらに増えて、身動きするのでさえ大変になってきた。この時は、応援する場所を間違えたかなと後悔しつつも、息子がこの鈴なりの観衆の前を走るという親としての優越感と、果たして無事走ってくれるのか、という心配な気持ちが入り混じり、ドキドキしながら待っていた。
 戸塚中継所で、ウオーミングアップする前の大輔に声をかけた時には、調子は悪くなさそうだったし、直前の調整もまずまずだと聞いていたので、内心いい走りを期待していた。
 トップの駒澤大学が快調に飛ばして、目の前を通過した。テレビからの情報によると、大輔は順位を落としたようで、なかなか姿が見えない。アクシデントでもあったのかと、心配しながら待っていると、ようやく拓殖大のオレンジのユニフォームが、小さく見えてきた。大観衆の大歓声の中で、声はかき消されそうだったが、私たちは、「大輔!」「大輔!」と、大声で叫び、身を乗り出しながら、目の前を走り抜ける息子を、必死になって応援していた。
 残り8キロメートルもあるのに、大輔は疲れ切った表情で顎があがり、足の運びも悪い。走る姿は、小さい頃からずっと見続けているので、私には調子がいい時の大輔と違っているのが、一目で分かった。
 来年のチームのシード権がかかっているので、無事タスキだけは渡してほしいと願いながらガッカリしていると、一緒に応援してくれた周りの人たちが、
「立派じゃないですか、箱根を走るなんて。陸上競技をやっていても、誰でも出来ることじゃないですよ。早く息子さんの所へ行ってあげなさいよ」
 そう声をかけて、横浜駅の方へ歩いていった。
 私たちはラジオを聴き、タスキがアンカーに渡ったのを確認してから、ゴールの大手町へと急いだ。
 拓殖大学初のシード権獲得。レース後の打ち上げパーティーでは、大学関係者や選手、応援団が大喜びしている中、大輔は今日の走りに納得がいかないのか、それとも四年間の大学生活を思い返し、感傷にふけっているのか、「俺の人生これで良かったのかな?」
などと、意味深なことを言いながら、周囲の目も気にせず、ボロボロ涙を流していた。

序曲

3月31日のことである。いつものように店の仕事をしていると、大輔から電話があった。
 「あ、お父さん。僕大輔。今病院からだけど、ちょっと入院することになったから・・・・・」
 明日は、入社式のはず。これまで連絡もなかったので、元気で練習しているとばかり思っていた。あまりにも突然の電話だった。
 電話での詳細は、
 「走っていて体がだるいし、疲れやすい、その上顔色も悪いので病院で診てもらった。その結果、急性肝炎で即入院と言われた。総ビリルビン、GOT、GPTいずれもかなり高い数値であり、暫く安静にして様子を見ることになった」
というようなことだった。
 電話の声は普段と変わらないし、入院先である都立府中病院の先生も、
 「二~三週間ぐらいで退院できるでしょう」
とのことで、その時点では、私もそんなに心配はしなかった。
 ただ、入社式にも出席できず、新人研修も受けられないので、同期の人に後れをとることになる。練習も暫く休むことになる。その方が気掛かりだった。それでも、これまでの人生は、わりと順調に進んできた方だから、
「これを一つの試練と受けとめ、ゆっくり自分を見つめ直し、体もリフレッシュさせるという前向きの考えでいくように」
と、自分に言い聞かせた。
 そして、食事療法だけで、特別な治療もしないまま四週間がすぎた。肝機能の数値が次第に正常値近くまで下がってきたので一時退院し、自宅療養することになった。
 4月28日未明の3時、私は福島の自宅を出て、都立府中病院へと向かった。大輔が入院して以来、店が休みのときには毎週、福島の家と病院とを往復していた。それが体調も良くなって退院ということなので、長時間の運転でも疲れは殆ど感じなかった。
 退院の手続きを済ませた後、勤務先のNEC府中に寄り、上司の方や監督さんに挨拶を済ませた。それから急いで荷物を整理して、陸上部の大輔の仲間に会うため、NECの寮に立ち寄った。初めて入るグロレジ(寮)。三階にある大輔の部屋は、男の部屋にしてはわりときれいに整理されていた。視線を窓のほうに向けてみると、ベランダからは、雪をいただいた雄大な富士山を眺めることができた。
 こんな恵まれた環境の中で生活し、大企業の中で優遇され、しかも好きな陸上競技を続けることができるのだから、大輔は幸せな奴だとつくづく思った。
 府中から福島までの帰り道、車の中ではあるが、こんなに長時間、親子二人っきりで話をするなど本当に久しく無かった。
 病気のこと、大学時代に同じ釜の飯を食べ苦楽を共に味わった陸上仲間のこと、自分の将来のこと、そして彼女のこと、また幼い頃の思いで話など、話題はつきなかった。

 これまで父と子の会話といえば、陸上競技に関する事が殆どだった。大学時代にも大輔からの電話は、お金の無い時や故障して走れない時、体の具合が悪い時と決まっていた。だからこの語らいは、退屈もせず、結構新鮮であり、父と子の貴重な時間となった気がする。
 東北自動車道に入ると、大輔が、
「少し運転してみたいな!」
と、言い出した。
 免許は持っているもののペーパードライバーだし、一ヶ月も入院していた体である。それに入社はしたものの、仕事もしていないのにこの上事故でも起こされたら、とんでもないことになる。
「冗談だろう、危ないからやめとけ。これから先、車なんか飽きる程運転するようになるから!」
 そういうと、
「大丈夫、大丈夫だって、100キロ以上は出さないから、それに陸上部の寮に入っている以上、車は禁止だから当分運転できないんだ。少しでいいから!」
 あまりにしつこく頼むので、まあ、高速道だし、走行車線を走るだけなら、それほど心配も無いだろうと思い、蓮田SAから佐野SAまで運転を代わることにした。何事もなく済んだが、つい足に力が入り、緊張して乗っていたのを覚えている。たぶんこの時が、大輔にとって最後の運転になったのではないだろうか。
 それから約半月の間、のんびり自宅で療養を続けた。徐々に肝機能の数値が基準値近くまで下がってきた。医師から職場復帰の許可が下り、5月16日、実業団の大会が開催されている仙台市で、NECの仲間と合流し、一緒に国立市にあるグロレジに戻った。そして、18日からようやく出勤することになった。
 最高で総ビリルビン(黄疸をもたらす色素で基準値は0.2~1.0)が17、GOT・GPT(肝細胞が壊れたとき血液中に出てくる酵素で、基準値はGOTが8~40、GPTが5~45)も、3000~3500という考えられない数値を示し、かなりの数の検査もしたようだったが、結局は急性肝炎というだけで、原因も特定できず肝炎の型も何も解らないまま、治ってしまったということである。本人は勿論、私たちも一体何だったんだろう、という一抹の不安を残したままの再出発となった。


発病

職場復帰してから二ヶ月、陸上の練習は、身体慣らしからジョギング、そして軽い筋トレと階段を踏みながら、少しずつ走れるようになってきていた。
 7月17日、夏の合宿前、定期の血液検査があった。いつもの通り血液を採取して、そのまま長野県の車山高原で、仲間と一緒に夏季合宿に参加していた。
 しかし、21日の朝、監督から突然部屋に呼ばれ、
「血液検査の結果で、気に掛かることがあるから病院で再検査をしてくるように」
と伝えられた。
 練習もそこそこできるようになってきていた大輔は、何のことかピンとこないまますぐ東京に戻り、都立府中病院に向かった。
 再検査の結果、白血球、赤血球、血小板、いずれの数値も標準を下回っていた。17日の検査のときより更に減少していたのである。
 「お父さん、大変な事になっちゃったよ。僕死んじゃうかも知れない、白血球が極端に少ないんだ!」
 その日、大輔は泣きながら電話をかけてきた。何の事かすぐには理解できず、私は一瞬返事が出来ずにいた。
 黙っていると、受話器の向こうで啜り泣く声が聞こえる。
 私は押し寄せる不安を抑え、気を静め、よく聞いてみると、「再生不良性貧血」の疑いが濃厚なので、紹介状を書くから、親元の福島で治療するよう勧められたと言う。医師に告知され、自分でも医学書を調べたりして、それがどんなにか重大で厄介なものかは解っていたようだ。
 私もその病気が白血病と同様、大変な血液の病気であり、かなりの難病である事は知っていた。妹の友人が十数年前、若くして亡くなったのも、この病気だったことが、頭をかすめた。
 それに加え、明日福島に帰ってきて、明後日には福島医大付属病院に入院する事が決まったという。そんなにも急を要するのか、私は心配でたまらなくなり、本屋へ飛んでいった。新しい医学書を次々と読んでいくうちに、頭の中は真っ白になっていった。
 「再生不良性貧血」。骨髄の造血細胞のもとになる幹細胞の機能が低下し、赤血球、白血球、血小板のいずれもが減少する病気のことで、原因は明らかでないことが多い。治療も難しいもので、特定疾患に指定されており、特に急性の場合、治療しても生命が救えることは少ないと、あった。
 夜遅くに、縋るおもいで医師をしている友人に電話をして、事情を説明したが、私が安心できるような言葉はかえってこなかった。
 「もしかしたら、大輔は助からないかもしれない」
 私は愕然とした。その一方で、
 「いや、今の医学は進んでいるのだからそんなことはない。大輔は大丈夫。絶対治る」
 そう自分に言い聞かせていた。妻は押し寄せる不安の波に、

1986年、初めて出場した陸上の大会で1000メートルを走り、入賞。
右は父・忠広さん、左は弟・功治さん
「どうしよう、どうしよう、お父さん。大輔、死んじゃったらどうしよう!・・・・・」
 そう言って、声を出して泣きじゃくり、二人とも眠れぬ夜を過ごした。
 翌23日、私たちは朝から落ち着かず大輔が帰ってくるのを待っていた。
 会社に顔を出したり、身の回りの荷物の整理があるので、夜になると電話があったが、仕事も手につかないまま、長くて不安な一日を過ごしていた。
 福島駅着21時46分の新幹線で大輔は帰ってきた。駅で待っていたのは、大輔の大学時代からの友人、ひーちゃんだった。
 「今日会わなかったら、もう会えないかもしれない」
 そんな電話で呼び出され、不安な面持ちで待っていた。
 ひーちゃんは高校時代、大輔とは別々の学校ではあったが、同じ陸上部という事で、大会等ではよく顔を合わせたりしていた。それが偶然同じ大学へ進むことになり、彼女も陸上部に所属し、郷里が同じということもあって、お互い励まし合いながら、箱根を目指しての四年間、同じ時を東京で過ごした。
 夏に帰省する時はいつも一緒で、よく大輔のジョギングに自転車で伴走したり、福島競馬場に遊びに行ったりしていた。
 卒業間近の二月には、こたつに正座して何やらせっせとペンを走らせている二人の仲睦まじい姿を目にしたこともあった。
 卒業後、郷里の福島で職に就いたひーちゃんは、大輔が急性肝炎で入院していた四月には、休日になると一人で車を運転し、府中の病院まで会いに行っていた。
「久しぶりだね・・・・・」
と、ひーちゃんが声をかける。
 大輔は、少しうなずきながら大きなスポーツバッグを抱えて彼女の車に乗った。
「・・・・・・」
「オレ、死ぬかもしれない」
「・・・・・・」
 唐突にそう切り出された彼女は、とまどいながらも、
「大丈夫、すぐ治るよ」
 その時、死に関わる程の深刻な病気だとは全然想像もしていなかった彼女は、そう言葉を返すだけだった。
 二ヶ月ぶりで嬉しいはずの再会なのに、いつもの様に話が弾まない。重苦しい雰囲気の中で、二人だけの時間はあっという間に過ぎ、家に着いたのは23時を回っていた。
 それから次男の功治も加わり、家族四人とひーちゃんとで少しビールを飲みながらの遅い食卓を囲んだ。妻は大輔の好物を作り、平静を装って出来るだけ明るく振る舞ってはいたが、笑い声の絶えない、賑やかなこれまでの帰省の時とはまるで違っていた。


宣告

翌24日の午前十時、大輔は私の運転する車で家を出た。
 大きなスポーツバッグを抱えて、Tシャツに短パン姿。妻の見送りに、大輔は手を振り「行って来ます」の合図をする。何度も見慣れたこの光景は、学生時代に家から夏合宿へ送り出す時と全くおなじである。しかし、この日の行き先は福島医大病院のある光ヶ丘であり、このあと自分の足で二度とこの家に戻ることはなかった。
 病院は、休日前の金曜日だからなのか、或いはいつもそうなのか、随分と混雑していた。受け付けを済ませて外来へ。担当医は、府中病院からの紹介状と今までの血液検査のデータに目を通し、大輔には入院手続きのため別の窓口へ行かせ、席を外している間に病気の説明を始めた。
 「このデータを見ると、白血球の数が坂を転げ落ちるような速さで減っています。大輔君の骨髄はカスカスの状態に近く、新しい白血球や血小板が作られていません。再生不良性貧血のなかでも急性でしかも大変な重症です。最善の手は尽くしますが、助かる可能性は低く、最悪の時の覚悟だけはしておいて下さい」
 私は頭が真っ白となり、呆然としながら、担当医の淡々とした説明を聞いていた。
 「覚悟?・・・・・・それは助からないという意味ですか?」 私はたずねた。
「そうです」 担当医の答えが返ってきた。
まるで死の宣告ともとれる、非情で冷たい言葉だった。
 私は、スーと血の気が引き、事の重大さをすぐには理解できずにいた。
 大輔が用事を済ませて戻ってくると、担当医は今日の検査内容について簡単に説明し、これからのことを指示すると、忙しそうに次の外来患者の方へ行ってしまった。
 入院のための問診や検査の後、血液や骨髄液を採り、最後に耳たぶに針を刺して止血時間を計る。正常な人は一分以内で止まるのが大輔は八分もかかってしまった。
 病院内で食事を済ませると、看護婦さんに連れられて病室に案内された。
 病室は四人部屋で、中には口唇に赤みがなく咳をしている人や、見るからに血液の病気と分かる患者、薬の副作用らしくスキンヘッドにしている少年もいる。大輔にはまだ症状が表れておらず、三日前までは屋外を走ってトレーニングをしていた訳だから、日焼けもしており、176センチメートルのガッチリとした体格も手伝って、外見上はそんな重症患者になど見えない。
 「退屈だから暇つぶしになりそうな本とかCD持ってきて」
と言うので、私は一旦家に帰り、とりあえず必要な身の回り品を用意することにした。
 一人で店の仕事をしていた妻には、主治医から宣告された事実をどう説明して良いか分からず、暫く隠しておくことにした。

短冊への祈り

入院後三日目、骨髄で血液成分が造られていないため、寿命の短い白血球や血小板不足の症状が表れてきた。手足に無数の赤い斑点が出てきたり、歯を磨くと歯茎からの出血が止まらなかったり、熱も出てきた。
 一週間目には39、3度まで発熱し、点滴も始まり、空気清浄器の付いている個室に移されてしまった。狭い病室から廊下に出ることさえも禁じられた。私たちも履物を履き替え、備え付けのマスクをし、手を消毒してからでないと入室出来なくなった。あまりの急激な症状悪化に、ただ驚くばかりであった。
 翌日、ついに血小板の成分輸血をすることになった。治療の成功と輸血量は反比例すると聞かされていたので、大輔はとても不安がっていた。つまり、輸血をすればするほど、治る確率が低くなるということである。
 その後は、毎日必ずといっていいほど40度近くまでの熱が出て、その度にナボールという解熱剤で徐々に下げるという状態の繰り返しであった。
 八月に入ると夏休みということもあり、NECの監督さんや陸上部の仲間が、連日代わる代わる東京から見舞いに来てくれた。またひーちゃんも、入院以来、片道50キロメートル以上ある道のりを、毎日車を走らせて会いに来てくれた。私たちは、休日以外は仕事を終えてから、夜しか病院には行けなかったので、皆さんが励ましに来てくれるのが、とても有り難かった。
 しかし、入院15日目の8月7日、毎日の高熱は依然として収まらず、免疫力も落ちているからというので、とうとう両親以外は面会謝絶になってしまった。感染症恐いので私たちも仕事をなるべく早く終えて、シャワーを浴びるなどして、出来るだけ雑菌を病室に持ち込まないように努めた。
 外ではちょうど一月遅れの七夕である。病院のロビーの片隅にも七夕の竹が飾られ、そこに2~3日前から色とりどりの短冊が飾ってあった。
 病院の七夕飾りだから当然ではあるが、どの短冊にも、病気の回復や退院を祈る願い事が書いてある。
 私も縋れるものには、何にでも縋りたい心境だったので、奇跡でも起きてくれないかと思い天に祈った。短冊の色は血の色の赤にしようか、何色にしようかと、たわいもなく迷ってしまった。何故かその時は、天や神様に一番近いような気がして金色の短冊を探し出し、一心に願いをこめて書いた。
 「天よ!どうか大輔を見捨てないで下さい」と。
1998年1月3日、箱根駅伝で9区を走り切り、アンカーにタスキを渡す大輔さん。(左)右はアンカーの久保選手
(2)絶食

8月10日、HLA検査(白血球の型)の日がやってきた。骨髄移植に備え、白血球の型を調べるためである。私たち夫婦と弟の功治、それに東京から妻の弟も駆けつけ、採血を済ませた。専門機関に判定を依頼するので、結果が判るまで2~3日かかるという
 この病気のベストの治療法が骨髄移植と聞かされていた。もし、誰とも型が合っていなかった時のショックは、計り知れない。兄弟との確率は25%。大輔は、功治との適合を期待しているようだ。
 その日は、それから皆で妻の実家のある相馬市と、私の実家川俣町へ墓参りに行った。そして先祖様にも、
「どうか型が合っていますように!」
「親より早く大輔を迎えにこないように!」
 縋る思いで手を合わせてきた。
 そんな切なる願いで迎えた二日目の夜、担当医からの報告は、全員不適合ということだった。
 ある程度の覚悟はしていたものの、ひとつの希望が断たれたことは、やはり残念でならない。夜遅いこともあり、大輔には明日、熱がなく気分の少しでもいい時間帯に、先生から伝えてもらうことにした。
 翌日の夜、いつものように病院に行くが、どんな様子でいるのか心配で、おそるおそる病室のドアを開けた。
 大輔は、「やっぱり駄目だったよ。でも、薬による治療もあるらしいからそれに賭けるよ・・・・・・」
 そう言って、気丈なところを見せてはいるが、目が充血しており、泣いていたのが一目でわかった。
 どんな言葉をかけてやればいいのだろうか、そう頭を巡らせていると、
「俺は馬に縁があるみたいだよ、馬に助けてもらうようになるかもしれないんだ」
 馬の好きな大輔は、そう自分に言い聞かせるように、話し始めた。
 白血球の型が合わなかったから、骨髄移植は厳しくなったけれど、ALG(抗リンパ球血清)療法といい、動物からの血清を使うらしく、それで骨髄の機能が快復した例があるらしい。ただ、動物の血清は一度しか使えず、発熱やCRP(体内の炎症の重症度を測る数値で、正常値は1以下、大人の肺炎で2~3程度)の数値があるうちは治療に入ることができない。だからまずは、そういう体に戻すことが先決であり、時間のかかることなので、焦らないこと。(大輔のこの頃のCRPは15)また、原因は不明だが、大輔の場合は急性肝炎からの可能性が高いらしく、日本全国で肝臓病からの再生不良性貧血の症例は12あり、11人は助かっている。だから気を落とさないで頑張ろう。
 と、大輔が一番頼りにしていた女医のY先生からいろいろ聞かされ、励まされていたようだった。
「そうだ、必ず大輔は大好きな馬に助けてもらえるよ!」
 そう言葉をかけながらも、入院当日に主治医から言われた言葉が頭から離れず、単なる気休めなのかと思ったりした。
 14日目、股の付け根付近にIVH(大動脈に管を入れる)を設置した。発熱やCRPの原因を探すため明日から暫くの間、絶食となるので、栄養分の補給のため、今までの腕からだけの点滴では限界があるということらしい。
 血管に太い管を固定され途中で枝分かれした管から数種類の薬と栄養剤の点滴が行われ、キャスター付きの点滴柱を転がし、長い管を邪魔そうにしながら用を足したりする姿は、何とも痛々しい。高熱と苦痛に加え、これから先は激しく襲う空腹とも闘う事になり、不憫さがつのる。
 病院の帰り道、お盆の帰省客で街は賑わっていた。信号待ちの間、ふと目を転じると、道路沿いのレストランで、楽しく食事をしている若者のグループの姿があった。
 それを目にした妻は、
「なんで大輔が・・・・・・可哀想すぎる・・・・・・」
 声を詰まらせながら呟いた。

号泣

8月19日、大輔23歳の誕生日である。相変わらずの高熱と空腹の辛さ。絶食になってからは牛乳も果物も駄目で、口にできるのはペットボトルの水だけという、最悪の誕生日を迎えてしまった。
 面会謝絶で会えないからと、ひーちゃんからのメッセージが届いた。少し笑顔を見せるが目はうつろで、体の置き場所もない程どうにもならない怠さがあるという。
 一日三回の薬も、飲んだのか飲まなかったのかがはっきりしなくなっていたので、その都度病室に届けてもらうことにした。
 25日、いつものように店を早閉まいして、病院で洗濯物の整理をしたり雑談をしたりしていると、
「ああー寒くなってきた、また熱がでる」「嫌だなーこれが辛いんだ」
 そう言いながら、大輔は長袖のトレーナーを着て、布団に入った。1日に2~3回、それも毎日、この繰り返しである。5分おきに体温計を挟むが、見てる間にどんどん上昇していく。寒さのあまり体が震えてくる。真夏なのに湯たんぽを腹に抱え、靴下をはかせて両足首の側にも湯たんぽを置く。それでも歯をガチガチさせて、寒い寒いと震える。
 更に毛布をかけ、看護婦さんや私たちで大輔の両手を握り体を押さえるが、それでもベッドが揺れるほどガタガタ震える。
 3~40分の間に5度近くも体温が上昇してしまったのだから、今までとは全然違う異常な発熱の出方である。注射や解熱剤を用いるが、熱は41、8度まで上がってしまった。
 心臓や血圧の関係で、強い薬や解熱剤を何回もは使えないらしく、なかなか熱が下がらない。
 しばらくして薬が効いてきたのか震えが治まると次第に汗ばんできた。
 熱が下がり始めると、また大変だ。今まで使っていた湯たんぽを、今度は氷枕に替えるが、首まで被っていた毛布、布団、全てが物凄い汗で濡れていく。敷き布団までその都度取り替えるほどだった。汗でびっしょりになった下着やパジャマは、看護婦さんがその都度計りにかけている。
 とりあえず危機は脱したが、私はこんなに苦しむ様子を見るのは初めてだったので驚いた。当直の看護婦さんは、逐一医師の指示をあおぐため、詰所と病室を汗だくになった行き来している。
 翌日、大輔が、
「俺、やばいよ、もう子供できないかもしれない。昨日熱が上がる時、睾丸がすっごく焼かれるように熱くなって痛かったから・・・・・・」
 そう言ってがっかりしていた。
 妻はベッドに座っていた大輔の手を握り、
「大丈夫。そんなことないよ!」
 思わず涙ぐんでしまった。
その時、片方の手を私に差し出してきた大輔は、
「お父さんも」
 そう言うと私たちの手を強く握りしめた。
「死にたくない、死にたくないよ・・・・・・」
 とうとう声を出して泣きだしてしまった。病室で一人、なんと心細い思いをしていたんだろう。
 妻もこれまで病室でだけは、決して涙を見せず、明るく振る舞っていたのに、この時ばかりはどうにも堪えきれず、一緒に泣いてしまった。
「泣くなよ、お母さんは泣くなよ」
妻も私も、嗚咽しながら、
「大丈夫、大丈夫だよ、お母さんやお父さんがついているから。絶対治るから、治してやるから・・・・・・」
 それだけ言うのが精一杯だった。

走りたい

その後も39度前後の発熱を繰り返し、白血球の数も1000以下。(正常値は5000~9000)、それも薬の投与で維持している状態である。輸血量も多くなり病状は日増しに悪化している感じがした。
 9月4日、IVHが詰まり、別の場所に刺し替える。この刺し替えの処置が、かなり痛いらしい。でも大輔は、
 「どんなに痛くても、どんなに辛くても、必ず治ってもう一度走るために我慢する」
そう言って闘っていた。
 大輔には担当医が五人おり、頻繁に顔を出すのはK先生といって、大学を終えたばかりの若い先生である。主治医のI先生は、週一回の総回診の時に、内科部長の先生たちと顔を見せる程度である。私たちが一番頼りにして色々と話を聞いてくれ、治療に関しても解りやすく説明してくれていた女医のY先生は研修のため10月中旬まで病棟には来れなくなった。
 大輔が、若い先生や看護婦さんに、病気の見通しや、毎日のCRP・白血球数を聞くと、数値が悪いこともあってか、返事に困っているようだった。
 夕方、病棟で主治医の姿を見かけると、
「この頃の大輔、良くなっていると思わない。今、I先生が詰所にいたから、病状を聞いてきてくれない!」
と妻が言う。
 しかし、私はI先生には何度か呼ばれて話を聞いていたし、返ってくる言葉は、およそ察しがついていたので、聞きには行かなかった。
 ここ数日、容態が安定し、熱も37.5度で落ち着いており、そろそろ絶食解除になるらしいとK先生から聞いていたので、妻は主治医からもいい答えが返ってくると期待していたのである。
 9月7日、大輔が待ちに待った絶食解除。初めは、スープと重湯の上澄みだけだったが、口から物を入れられるというので、大喜びしている。
 その日の夜、主治医がようやく病室に顔を出してくれた。全然顔を出さないI先生に不満を持っていた大輔が、病状の説明を求めたからだと思う。
 ただ、物事をはっきり言う先生だから、何を言うのかとても心配なので、前もって婦長さんを通じて、嘘でもいいから本人が希望を持てる話をしてくれるように頼んでおいた。
 妻も一緒に話を聞いていたが、それによると、I先生自身も生死を彷徨うような大病をし、奇跡的に執念で蘇ったこと、大輔も決して容易なことではないが、少しずつ良い方に向かっているので、毎日の数値にあまり神経質にならず、長い目で見て、一日一日をぼんやり過ごさないで、何か目的を持って病気と闘うようにと話されたようだ。
 主治医の話に、大輔はやっと治療に入れる望みが出てきたようで、
 「俺、絶対治してみせる。頑張るから・・・・・・」
と言ってくれた。
 主治医の言葉の意味は大きかったようだ。私たちも、本当に良くなっているのではないかと、錯覚しそうだった。
 絶食が解除されたとはいっても、水だけという期間が長く続いたせいか、食べたいけど食べられないという状態である。
 「病院のスープは冷たくてまずいから、お母さん作ってきて・・・・・・」
 次の日から、栄養満点の特製野菜とん汁、アサリ汁と妻は材料を選りすぐり喜んで作り持参した。
 病院食には手も付けずに待っている大輔はフーフーしながら、そして何度も、
 「美味いなー、美味いなー」
と言いながら満足そうにニコニコして食べている。
 入院以来初めて、ほんの数日、ほんの数分間だけ、幸せを感じた時間だった。
 お粥も食べられるようになると、もしかしたらと、期待してしまうほどだったが、白血球数やCRPは全然改善されておらず、逆に浮腫み(むくみ)が表れるようになってきた。
 次第に食欲も出てきて、発熱もないのに、大輔はそれを不思議がり、不満でもあったようだ。
 治癒を信じていたこの頃は、会社に復帰してからの事をよく話すようになっていた。
 「俺、走れるようになったら、まだまだ強くなれるよ」
 大輔は真剣な顔つきで話しかけてきた。
 「もうそんなに走んなくてもいいよ・・・・・・」
もう走れないことを知っている私は、そう言葉を返してしまった。
 「何、言ってんだよ。食事も水分も我慢できるし、そしたら体重も落とせるし、少し時間はかかるけど速くなるよ、絶対に!・・・・・・」
 声を荒らげて大輔は訴えるように言う。
 「走るだけが全てじゃないと思うよ、競技者でなく市民ランナーとして楽しんで走ったらいいよ」
 「いやだよ、そんなの・・・・・・」
 「・・・・・・」
 「お父さん、それじゃ、何を生きがいにして病気と闘えばいいんだよ、何のために拓大に入って、何のためにNECに入ったんだか分かんないよ」
 大輔は声を震わせながら、目に涙をためて淋しそうに言っている。
 それほど走りたいのか、治って再び走ることが、こんなにも苦しい闘病生活を支えているのだろうか。
 何とも言えないやるせなさがつのり、突然襲ってくる病魔を憎々しく感じてしまった。

急変

夕食だけでなく、朝や昼も出来る限り暖かいものを届けて食べさせていたが、絶食の解除から六日目、大輔は急に腹痛を起こし、それまで発熱程度で安定していた容態が急変してしまった。
 心配していたことではあるが、物を食べたことにより、腸の炎症が悪化し大量の出血をしてしまった。熱も40度近くまで上がってしまい、前回のような悪寒と痙攣が起こってきた。
 大輔の受けたショックは、大変なものである。このまま回復して、本格的な治療に入れるとばかり思っていたので、気落ちして泣き崩れてしまった。再び絶食に逆戻りである。
 大輔は廊下へも出られず、IVHの管に数本の点滴がつながれ、空気清浄器を回す機械の音が24時間鳴りっぱなしの中で、窓も開けられない狭くて窮屈な個室で、病気と闘い、孤独や不安、恐怖とも闘っている。人恋しくなるのは当然のような気がする。
 久しぶりにひーちゃんが病院にやってきた。家族以外とは面会謝絶だったのだが、電話は自由にかけられる状態だったので大輔が呼んだらしい。会うのは約一ヶ月ぶり、いくらかでも気が紛れたのか、少し笑顔が見られた。それからは時々、病室に顔を出すようになった。
 9月14日朝、再び出血。主治医から入院後のデータを見せられながら、病状説明があった。
 「白血球を増やす薬を毎日投与していますが、一向に増えてくれないし、腸からの出血も止まらなくなり危険な状態です。現在の医学は目覚ましい速さで日々進歩しています。しかし大輔くんの場合はそれでも追いつけない程、その先を行っています。いつ急変してもおかしくない状態ですから、そのつもりでいて下さい」
 「・・・・・・」
私たちは言葉がなかった。
大輔は浮腫みもひどくなり、黄疸が出ているのがはっきり判るほどになった。
 「肝機能も落ちているのですか?」
と主治医に尋ねると、
 「そうです。全てを総合的に判断して危ない状態です」
 妻は恐いからと言って、一緒には聞けなかった。でも徐々にではあるが、極めて厳しい状況だということは言ってあるので、妻もそれなりの覚悟の様なものは出来ていると思う。
 しかし、こうまではっきり宣告されてしまうと、このあと大輔とどう接したら良いのだろうか。今、目の前にいる大輔が死んでしまう。そんなことは、現実として受け入れることは出来ない。
 妻も私もこの頃から、知っている人を避けるようになってきた。声をかけられても、挨拶もそこそこで逃げるように、その場を離れてしまう。
「大ちゃんどうした?」
 そう聞かれるのがたまらなく嫌だった。店の仕事の中でお客さんと話をするのも嫌になり、不器用な私はそれを態度に出していた。
 勤めにでていた功治は、仕事から帰ってくると、部屋に閉じこもるようになった。家の中はラジオやテレビの音もなく、気味が悪いほど静かだ。家族がおかしくなりそうで、辛かったのだろう。時々叔母の家に顔を出し、
 「あんな暗い家には居たくない、あんな両親は見たくない」
そう、こぼしていたようだ。
 私も、悔しさや苛立ちを何にもぶつけられず、自分で自分をどうすることも出来ずに、いつの間にか、睡眠薬代わりに、酒をがぶ飲みする毎日になっていた。
 白血球の増加が見られないということで、9月15日、グランという白血球を増やすための治療薬の投与を中止した。新薬がどんどん開発されているので、別の薬を色々試してみるという説明があった。でも、この日を境に容態は悪化するばかりであった。
 病室のなかで大輔は時折、動物の横切るのが見えたり、得体の知れない幻影を見たり、精神的にもかなり不安定になってきたようで、カウンセリングを受けたりもした。
 午後の面会時間。面会謝絶だから面会人も来ない。看護婦さんも来ないとき、大輔はテレビを見る気にも、好きな音楽を聴く気にもならないようだった。そんな誰もいない時間は、淋しくて淋しくてどうしょうもないと、弱音をはくようになった。
 そして大輔は、
「楽になりたい・・・・・・」
そう呟くようになった。
「もう一人にしてはおけません」
婦長さんからも夜の付き添いを指示され、暫く店を閉めて、妻と交代で泊まり込むことにした。
(3)メモリーテープ

9月18日の夜、私は幼なじみのMに病院から電話を入れた。
 「ビデオテープの編集をしたいんで一緒に手伝ってくれないか!」
 「いいけど、今頃、一体何のテープだ?」
 「大輔の、小さい頃のロードレースから箱根駅伝まで繋いで欲しいんだ」
 「・・・・・・」
 「もしもの時にそれを使いたいんだ・・・・・・」
 「そんなに悪いのか?・・・・・・」
 私と彼は、小学校から中学、高校まで同じ学校であり大輔が赤ん坊の頃から一緒に旅行をしたり、今でも家族ぐるみで付き合っている間柄なので、発病後から生命に係わる大変な病気であることは伝えてあった。
 「おまえがそこまで覚悟してるなら、分かった。明日、行くから・・・・・・」
 電話を切った後、とんでもない事を頼んでしまったのではないか。果たしてそれで良かったのか。後悔の念もどこかにあったので、少し気を静めてから病室に戻ると、そんなこととは知らない大輔は、
 「何処へ行ってたの?長かったけど・・・・・・」
私は胸が痛み、「すまない」そう心の中で詫びていた。
 翌日、妻が病院で付き添っている間に、彼がビデオデッキ等の編集器材を持ってやって来た。
 「こんな事をして、本当にいいのか?」
 何度も念を押されたが、私の中では奇跡を願いつつも、医師の説明やデータを見る限りその可能性は絶望的な事であることも理解していた。いざという時は慌てないで、きちっと旅立たせてやりたい。それが父親の努めだと思うようにしていた。
 何本ものテープを一通り見てから、気に入ったシーンをピックアップして繋いでいく。しかし、テレビの画像と共に、その時代、その時間、その瞬間に戻ってしまい、知らず知らずに涙があふれ、なかなか辛い作業だった。
 小学校5、6年は県内のロードレースで負け知らず。朝早くから起きて妻が弁当を作り、家族全員で開催地に出掛ける。車中では大輔だけが少し緊張気味であるが、私たち夫婦と弟の功治はすっかり行楽気分である。会場に着くと真っ先に賞品を見渡す。
 「今日のトロフィーは大きいぞ!・・・・・・」
 そう言って、ニヤニヤしながらウオーミングアップを始める。帰りの車の中、必ずそれを手にし、レースを振り返りながら大騒ぎしている。
 中学1年の陸上全国大会、トレードマークの母親手作りで少し長めの白いハチマキをなびかせ、ペース配分など考えずに、ただ前へ前へとガムシャラに走って5位に入賞した坊主頭の大輔。
 高校3年の夏、膝の故障と貧血を克服し、少し大人びた逞しい姿での1500メートル走、7位だった宇都宮インターハイである。
 大学3年、初めての青東駅伝(東日本縦断駅伝)では、地元の福島市内を走らせてもらい、ぶっちぎりで区間賞を取ったときの、左手で大きくガッツポーズしている雄姿。
 そして最後の箱根駅伝、苦しみながらも23キロメートルを走り抜いた大輔。ほんの八ヶ月前の姿である。
 「縁起でもない」
 そんなふうに咎められそうなので、家族には内緒で編集した16分間のメモリーテープ。一ヶ月半後、実際に使うことになるこのメモリーテープが、三日後に完成した。


白衣の天使

容態は相変わらず一進一退をくり返している。病室には入れないが、見舞客が増える。心配して来てくれるのは有り難いが、私自身も人とあまり会いたくはない。大輔も再びの絶食でイライラが強くなっている。
 「何も悪いことしていないのに、何で俺がこんな目に遭うんだ。・・・・・・」
 「いつまで我慢すればいいんだよ・・・・・・」
 9月21日、点滴柱を倒してしまって管が外れた。その管は寝起きや着替え、歩くときのために余裕をもたせ、少し長めにしてある。だから用を足す時などは大変である。
 一日に2~3回、39度前後の高熱がでる。それを薬で徐々に下げる。時々激しい腹痛を起こし薬を飲む。朝・昼・夜と食後(水後)に4~5種類の薬。それに十本近い点滴と何本かの輸血。薬によるうがいと吸入、検査のための採血。殆どこのパターンを毎日繰り返している。薬漬け(そうしないと生きていられない)の状態で、身体の中はいったいどうなっているのか恐ろしいようである。
 毎日の細かい数値は気にするなと言われても、良くなっているのか悪化しているのか、白血球数やCRPはどうかなどを知りたいと思うのは、当然のような気がする。少しでも明るい情報を聞きたかったのだと思う。
 人との接触は家族以外、医師と看護婦さんだけである。看護婦さんの中には、大輔君は優等生の患者だという人がいる。
 言葉にできない程苦しいはずなのに、暴れたりもせず、文句も言わず、必死に病気と闘っている。
 困る事といえば、
 「いつから治療に入れそう?」
 「治ったら走れるようになるかな?」
 「白血球数増えた?」
 「CRPは?」
などと、質問された時だという。
 「痛かったら痛いとか、言いたい事がある時や、怒りたい時は、我慢しないでいいからね」
と、言われても、
 「俺はマナ板のコイのようなもんで、自分では何もできない体だし、看護婦を敵にしたくない。治って走れるようになるなら、何でも我慢する。」
 髪を切ったり、洗髪(水を使わないシャンプー剤で)は、時々妻がやってあげていたが、タオルを使っての身体拭きには、看護婦の卵の研修中の学生が来る。
 その中に笑顔の可愛い学生がいた。
 大輔も、後になって分かった事だが、彼女は大輔の容態が精神的にも最悪で、意識もあやふやの状態の頃から大輔の係になり、ずっと、やさしく接してくれていたようだった。
 容態が落ち着いてくると、心も穏やかになり、走っている写真や新聞記事のスクラップを持ってきてと言い出した。
 「昔を懐かしむなんて、過去の人みたいだな」
と、言いながらパネル写真を病室に飾っている。病気とは全く無縁で、多少なりとも周囲から脚光を浴びていた頃の姿も、見てほしかったのだと思う。
 気持ちの持ちようとは良く言ったもので、この頃、確かに大輔の病状が少しではあるが数値の上でも良くなっていた。
 妻が泊まった朝などは、髪を整えてもらい髭を剃り、お気に入りの白いトレーナーを着て、看護学生が来るのを心待ちにしていたこともあったようだ。3週間交替なので、あっという間に別の病棟に移ってしまい、ちょっぴり淋しそうだったが、その後も、非番の時などに時々顔を出してくれていた。
 後になって(大輔が亡くなった翌日)、彼女が自宅まで線香をあげに来てくれた時に知った事だが、彼女にもそれなりに悩みがあったそうで、
「大輔さんにはとても励まされ、沢山のアドバイスを頂きました」
 そう言って涙を流していた。

僕、死ぬんですかね

主治医から、大輔の生命に危機が迫っている事を告げられてから、近親者が遠方からも次々と見舞いに来るようになった。断っても、もう一度、大輔に会っておきたいといって病院までやって来る。
 面会謝絶なのに、親戚の人たちが急に病室に顔を出したりしたら、そうでなくても神経が過敏になっている大輔はどう思うだろう。せっかく来てくれたお見舞いの方々には悪いとは思ったが、誰が来ても大輔には会わせることは出来なかった。
 病室に泊まり込んで付き添うようになって一週間ほど経ち、出血は収まり少し安定してきたが、輸血量は逆に増え、高熱と猛烈な腹痛は相変わらず続いた。熱が収まり楽になると、空腹の辛さが襲ってくる。そんな時は果汁3%未満のペットボトルの水を2~3口飲んで癒すだけ、それでも、ほんのりと味がするので、
「あー、美味い」
と、大輔は言う。
 妻は高血圧症で服薬治療中なので、大事をとり、夜は私が泊まり込むことの方が多くなった。時々二人でオセロゲームをしたり、テレビや本を見ながら気をまぎらし過ごした。
 24時間点滴のため、2~3時間毎にトイレに起きるが、大輔は私を起こさないように気を遣い、そーっとベッドを降りようとする。私が目を覚ますと、大輔は、
 「あ、起こしちゃった!寝てていいよ」
と、悪そうに言う。
 大輔自身、親の生活の乱れや、仕事上の迷惑をすごく申し訳なく思っていた。それでも親が側にいると安心するらしく、精神的にもだいぶ落ち着いてきた。特に、母親が泊まりの時などはことのほか嬉しいらしく、穏やかな顔になり、機嫌が良くなるのが分かった。
 9月25日、NEC陸上部トレーナーの杉山さんが見舞いに来ることになった。杉山さんは大学卒業後、アメリカでトレーナーとしての勉強をしてきた方で、入社前から何度かお世話になっており、大輔にとっては頼もしいお姉さんという感じである。
 杉山さんは、春の急性肝炎発病の時も、今度の「再生不良性貧血」の疑いがかかった時も、医師から最初の説明を、大輔と一緒に聞いてくれた方である。
 職業柄、再生不良性貧血という病気が、不治の病で、しかも、生命に係わるような恐ろしく重大なものである事や、大輔は病気を治してもう一度走る事を夢見て闘っているけれど、陸上選手としての明日は無い事も、また社会復帰が絶望的な事も、全て分かっていたはずである。
 杉山さんが病院に着いたのは午後2時過ぎであった。午前中高かった熱も下がり、比較的気分のいい時間帯だった。恐る恐る入ってきた杉山さんは、大輔の様子を見て一安心したらしく、結構長い時間、私たち夫婦を交えて色んな話をした。
 大輔は寮の仲間や職場の事が、やはり気になるらしく、杉山さんに熱心に近況を尋ねたりしていた。今迄のレースの事とか、将来の事など、その殆どが陸上競技の話題で、とても楽しそうだった。
 「国立に戻ったら快気祝いをするから、美味しい焼き肉屋を探しておいて」
とか、
 「寮の近くのクリーニング店が安いから、スーツとシャツを出しておいて」
などと、東京へ戻ってからの暮らしを思い浮かべている様にも、私には感じられた。
 大輔は杉山さんに、時には憎まれ口をきくなど、とても元気に振る舞い、知らない人が見ると、もうすぐ退院できるのではと思えるほどの元気であった。
 そんな賑やかなやり取りの中、突然、
 「ねえ、杉山さん。あの日、国立のファミレスで話した事、覚えてる?・・・・・・、僕が杉山さんに、『僕、死ぬんですかね?・・・・・・』って聞いたら『人間はいつかは死ぬんだから・・・・・・』って、杉山さんは言ったんだよ、あの言葉、何の慰めにもならなかったなぁ・・・・・・」
 大輔がそう話し始めた。大輔自身、「死」という言葉の意味や、「死」についてどう感じていたんだろう。
 「僕が死んだら新聞の片隅にちっちゃく載るのかな・・・・・・」
などと、最近の会話の中でも、「死」という言葉を多使うようになってきている。自分が現実に死と立ち向かい、希望のひとかけらも見いだせない今、
 「僕、死ぬんですかね・・・・・・」
この問い掛けは本心なのかも知れない。
 大輔は小学校から大学までの間に、身近な友との悲しい別れを何度か体験している。若い彼らとの別れは、事故や病気が原因であり、それも突然やってきている。
 人間としてこの世に生まれたなら誰でもいつか必ず死をむかえる。当たり前の事ではあるが、天寿を全うした人との別離でさえ、身内にとっては辛くて悲しいものである。
 大学1年の夏、高校時代から同じ陸上部仲間だった友の突然の訃報が届いたとき、東京からかけつけた大輔は、
 「信じられない、なぜ・・・・・・」
という顔つきで言葉もなかった。
 永遠の別れから戻って、
 「親が可哀想で、見ていられなかった・・・・・・」
 そう呟いた言葉が忘れられない。
 練習があるからといって、とんぼ返りして東京に戻っていったが、それから陸上の方も暫く低迷し、立ち直るまでの時間もかなり長かった。途中、大学も陸上も辞めて、別な道に進みたいから予備校にいかせてくれ、とまで言い出した。この時ばかりは親の説得も通じず、私も覚悟を決めていた。ただ辞めてから後悔だけはしないように、最後は自分で決断するように助言するのが精一杯だった。
 散々迷った末、結局は箱根を走る夢を捨てきれず、仲間の元へと戻っていった。
 もし、戻らなかったら、もし陸上を辞めて別の道に進んでいたら、今でも普通に暮らしていたのではないだろうか。
 人間の寿命というのは、生まれながらにして決まっていると聞いた事があるが、本当にそうなのだろうか。今でもそんな事をふと思う時がある。
 気をまぎらすほんの一時であったが、あっという間に二時間近くが経ってしまった。
 杉山さんは、
 「疲れるといけないからそろそろ帰るね・・・・・・」
 「また、来るからね・・・・・・」
 そういって、笑顔で病室をでた。
 杉山さんとの話は、後の「天国のダイスケへ二十三通の手紙」の中で判った事だが、死についての大輔の問い掛けに、
 「あまりに突然、それも生まれて初めての問い掛けに戸惑い、何と答えてよいか本当に分からなかった。自分の未熟さを痛感させられた」

と、述べている
大輔さんが亡くなったあと自宅に届いた「21世紀のボクへ」のハガキ
(4)別離

大輔の病状は一進一退で経過している。容態が安定しているわけではないから、先の事は全然読めない。
 毎日の点滴や輸血で、IVHがスムーズに流れなくなる。時々詰まってしまい、それが何日かすると完全に止まってしまう。そうなるとIVHの刺し替えである。これがかなり痛いらしい。詰まった股の血管の回りはパンパンに固くなり、炎症もひどい。
 10月7日、大輔の容態が急変した。夕方から断続的に出血を繰り返し(便意をもよおし便器に腰を下ろすと、便ではなく大量の血液が流れてしまう)、翌朝まで2000ccを超してしまった。一晩で全血液量の半分近い出血である。血小板と通常の緊急輸血を続けていたが、これ以上続くようだと命に関わってくる。
 この病気になる割合は日本人の場合、100万人に15人程度らしい。
 発病当初、
 「俺はやはり凡人じゃないんだ、病気にまで選ばれた人間なんだ」
 そんな冗談も言っていた。
 病気入院中を知っているのは、ごく数人の親しい友人だけである。だから多くの友は、大輔が颯爽と走っている、晴れ晴れとした雄姿しか知らない。体が故障で走れない時も、記録が低迷し伸び悩んでいる時も、原因がはっきりしているからと強気だった。そんな負けん気の強い大輔だから、今の姿は決して見せたくなかったのであろう。プライドが許さなかったのだろう。
 病室には電話があるのに、自分からは殆どかけないし、あまりかかってもこない。
 一人っきりの時は、苦痛や孤独感、死への恐怖などで精神状態がおかしくなっても不思議はない。なぜもっと早くから付き添わなかったのか、と後悔した。
何かに集中したり、生きる目標を持たないと、現状に堪えるのは困難だ。そんな思いで職場復帰後のためにと、ノートパソコンをいじり始めた。
 解らないことがあれば、叔父に電話で聞きながら操作している。薄暗い病室の中で点滴をしながら手を動かす姿は何とも痛々しい。
 ある日、大輔は、
 「我慢にも限界があるよな、こんな先の見えない病気、そんなに耐えられないよ・・・・・・」
 「ここは10階だから飛び降りたら楽になるだろうな・・・・・・」
 涙をこぼしながら、淋しそうな、思い詰めた顔で呟く。
 もう大輔に未来はない。奇跡は起こりようがない。私にもそれは分かっている。分かってはいるが・・・・・・。
 夜中の薄暗い病室で、大輔の苦しそうな顔を見ていると、幼い頃に弟や友達と野原で無邪気に遊んでいる姿、走ることに目覚めた小学生の頃、私と一緒に早朝マラソンやソフトボールをしている姿、高校、大学時代に必死で走っている姿、楽しそうに笑っている顔、泣いている顔、色んな思い出が次から次と、走馬燈のように浮かんできて、どうにも涙が止まらないことが幾度となくあった。
 もう一人では窓も開けられないし、ベランダの手摺りも乗り越えられない。歩くのでさえままならなくなっていた。そんな日が続くと余計なことや物騒なこと、破滅的なことを、つい考えてしまう。
 「一緒に飛んで楽にしてやろうか・・・・・・」
などと・・・・・・。

1996年、地元の福島で区間賞を取った青東駅伝での走り
10月下旬、いろいろな抗生物質を試してみるが、一向に改善は見られない。その上、頭痛、腹痛の他に胸や手足など全身に痛みを訴え、咳き込み始めた。一番恐れていた肺炎の症状がはっきり表れてきた。酸素吸入も始まった。肺炎になったら命に関わる事は、大輔も知っていた。
 10月31日、ついに主治医から私は、
「覚悟して下さい」
と、目の前に死が確実に迫っている事を告げられた。
 妻は、タイタニックのCDをかけながら、ひーちゃんが持ってきてくれた「クリスマス・ボックス」という本を枕元で読んでいる。まるで幼い子を寝かせる時のように、優しく、優しく読んでいる。
 私は、遠い昔に何度も目にしている微笑ましい幸せな時を思い出していた。

 昭和48年2月、私たち夫婦は結婚と同時に福島市で居を構えた。私は会社勤め、妻は6坪ほどの小さな美容院を開業した。
 ところが開業後間もなく、妻は腎臓を患い手術。その後も入退院を繰り返し、店は開けたり閉めたりの期間が続いた。休むこと無く平常通りの営業ができるようになったのは、開業3年目を過ぎてからだった。
 それからは、今までのことが嘘のように妻は元気になり、店は狭いながらも従業員を雇うほどに繁盛し、男の子二人も授かり、仕事に、子育てにと忙しくも充実した日々を送った。
 日曜、祭日に子供を連れて遊びに出掛けるのは、仕事が休みである私の役割でもあり、楽しみでもあった。
 弁当持参で毎週のように野原や川原、運動公園などで、一緒に駆け回ったりボール遊びをしていたものだった。
 その後、今度は私が内蔵の病気で入院したり、諸々の事情が重なり脱サラを決意。通信教育で美容師の□を取り、妻と二人で店に出るようになった。私がもうすぐ三十路という頃であった。


11月1日、朝8時、酸素吸入しながら自分でテレビのスイッチを入れた。全日本大学駅伝を見るためである。後輩たちの走りを応援し、母校の3位入賞を確認すると、
 「強くなったなー、俺も頑張らないとなー」
 そう言って喜んでいた。
 その日の午後は、願をかけるという意味で入院以来断っていた競馬中継を観た。競馬は東京競馬場がすぐ近くということもあって、練習がフリーの休日には殆ど欠かさず通っていた程、大好きだった。虫の知らせなのか、それを気晴らしにやってみたらと、勧めてみたのである。
 大輔は、武豊騎乗の「サイレンススズカ」に賭けた。圧倒的人気を集めたこの馬はスピードランナーのように、スタートから逃げまくった。華麗にも無謀にも映る走りだが、サイレンススズカにゴールはなかった。故障で走れなくなった競走馬の末路は大輔も知っている。
 それが何故、今なのか!・・・・・・
 皮肉な運命にもてあそばれるかのような、嫌な予感がした。
 そんな予感が的中したかのように、その日の夕方、容態が急変して呼吸が苦しくなり、主治医に呼ばれた。
「今の状態では本人が苦しいだけで可哀想。例えで説明すると、水中で溺れていて時々水面に顔を出し、息をしているようなものです。だから、人工呼吸器を付けて助けてあげましょう」
 妻は、人工呼吸器を付けさせたくないと言う。かといって、あんなに苦しんでいる姿を見ているのも切ない。
「人工呼吸器を付けてからでも、助かった例がある」
 そんな医師の言葉に、最後の奇跡を祈り、取り付けてもらうことにした。
 病室を出るときの大輔の苦しくて不安そうな顔、
「お母さん、何するの・・・・・・」
と叫ぶ声を後に、まともな話もしないまま慌ただしく病室を出された。処置は急を要することなのでやむを得なかったとしても、今でもこの事だけは悔いが残ってならない。別離の会話が出来なかったことが・・・・・・。


再び病室に入ると異常な光景がそこにあった。口に呼吸器の管を固定され、両手をベッドに括り付けられた大輔が、しきりに手を動かし、口元に持っていこうとしている。
 部屋の中は酸素吸入の機器と心電図、呼吸・脈拍等を示す医療機器が、所狭しと並んでいる。酸素50%(50%を人工呼吸器からの酸素吸入に頼る。数値が低いほど自力の呼吸に近づく)の状態であり、麻酔薬の影響で意識は薄いものの、呼び掛けには目や口元の動きで反応し、手を握ると握り返してくる。
「苦しいの!・・・・・・」
と、私が声を掛けると、大輔は首を振り、一筋の涙を流す。無念さ、悔しさ、非情さを訴えているように見える。
 11月2日、酸素が80%になり、予断を許さない日が続くというので、家族は病院で待機していた。最近は毎日のように電話で話をしていたひーちゃんも、目を真っ赤にして側にいる。
 この知らせを聞いた友人も東京など、あちこちからかけつけている。誰もが信じられないという顔で呆然としている。
 「大輔は、レースに例えると、ラストスパートをずっと続けている状態なんだ」
 そう伝えると、ラストスパートには限界があり、力尽きることを知っている陸上仲間の彼らは言葉もなく涙ぐんでいた。
 11月3日、薬による一時的なものなのか、それとも奇跡が起こったのか、肺の曇りが薄くなり、X線写真でもそれがはっきり分かった。酸素も再び50%に戻し、自力で呼吸しようと必死に闘っている。
 「肺炎が良くなっているぞ・・・・・・」
 「頑張れよ・・・・・・」
 そう声をかけると、はっきり反応する。
 この時私は思った。奇跡とは、起こり得ない事が起こるから奇跡なんだ。このまま肺炎が治まってくれれば呼吸器も外せる。微かではあるが、そんな望みが出てきた。とりあえず今のこの状態から脱してくれたら・・・・・・、ただそれだけである。
 しかし、そんな期待も直ぐに砕かれ、高熱(40度以上)、黄疸、呼吸数、脈拍数(120~140)血圧、全てが悪化。CRPは何と30である。
 いくら大きな声で呼んでも、全然反応が無い。
苦痛で歪んだ顔と、浮腫んで足先までパンパンに腫れ上がってしまい、まるっきり変わり果てた身体を見ていると、大輔の今迄の人生は一体何だったのだろうと思う。
 よちよちと歩き始めてから23年間の、いろんな事が頭を駆けめぐってくる。
 振り返ると、何をするにも、何処へ行くにも家族はいつも一緒だった気がする。
 そんな私たちの大事な宝物が、今、手のひらから落ちようとしている。
 11月9日午後10時30分、汗だくになり必死で心臓マッサージをする当直医に妻が言った。
「もういいです。これ以上苦しめないで・・・・・・」
 木枯らしが吹き荒れ、落ち葉が舞い上がる晩秋の真夜中、親子3人の乗った車は、ゆっくり自宅に向かった。
「もうすぐだよ、大ちゃん。もうすぐ家に帰るからね・・・・・・」
 妻は泣きじゃくりながら大輔の横で話し掛けている。
 私も、ハンドルを握りながら、とめどなく流れる涙を堪えることが出来なかった。


天国のダイスケへ23通の手紙

109日間の壮絶な闘病生活の末、駆け足で天国へ旅立っていったダイスケ。
 自宅に戻り川の字になって最後の床につくとき、苦痛から解放されたダイスケの顔は、とても穏やかだった。
 納骨までのセレモニーを済ませてから、12月20日、妻と二人で東京の寮へ大輔の荷物を取りに出掛けた。
 つい数ヶ月前まで生活をしていた大輔の思い出いっぱいの部屋、
「こんないい所・・・・・・。大輔も元気で戻ってきたかったでしょうに!」
 始めて部屋に入った妻は、そう呟きながら切なそうに辺りをみわたしていた。
 大輔の遺品に触れるのも辛かった。きちんと整理された衣類や書物、スポーツウエア。その中に沢山の手紙の束もあった。アルバムの中には私たちの知らない大輔の姿がいくつもあった。
 ワゴン車いっぱいに荷物を積んでの帰り道。夜の東北自動車道にさしかかると、隣に座っていた妻が突然大きな声で叫んだ。
 「あ、このシーンだ。夢の中のシーンと同じなの!」
 「そう!大輔も一緒に乗っていたの!」
 それは大輔の旅立ちから数日後に妻が見た夢と同じだという。
 不思議なことに、同時期、私も真っ暗な闇の中を荷物で満載のトラックを猛スピードで運転している夢を見た。助手席には、ずっと黙ったままの妻と大輔がいたのである。
 実は、弟の功治までが似たような夢を見せられたという。
 きっとこの時、大輔も自分の大切な荷物と一緒に乗っていたのかも知れない。また、最期の別れを言えなかった大輔から、家族へのメッセージのようにも思えた。
 そして、私は、大輔がこの世に生まれ、23年間生きてきた証を、何らかの形で残すべきだと強く感じた。
 こうして、幼少から小・中・高校の恩師、同級生、大学や社会人になってからの監督、同僚ら、生前特に親交の深かった方々にダイスケへの手紙をお願いした。
 あれから一年、私の手元には天国のダイスケへ綴った「23通の手紙」がある。ダイスケが生きた23年、この手紙を読む度にありし日の元気な大輔の映像がフラッシュバックして来るようである。
1998年3月、拓殖大学卒業式で。大輔さんは前列左から2人目
貴方は、ケンカをしたときも、友達をやりこめる子供ではありませんでした。だから、いつも、もめると泣いてやってきました。
 長いまつ毛がぬれて、下から悲しそうに見上げる目は、とても澄んでいて、とてもかわいらしかったな。優しい子だったから、皆、貴方が好きでした。(4、5歳時の保母 栗山)
散る桜 残る桜も散る桜
 いつか間違いなく、僕も君のご両親も、弟も君に会いに行く日が来る・・・・・・ それまで安らかに、静かに、自分のお気に入りの蓮の上で僕らを待っていて下さい。(小学1、2学年担任 斎藤
「健康である事を有り難く思えよ・・・・・・」
 これはお前が最後に言った言葉だ。今迄のどんな言葉よりも、辛さ、悔しさ、苦しさが伝わってきて重かった。
 この先、大輔に笑われないように生きていくつもりだ・・・・・・もしかしたら誤った道を行くかもしれない。でも一生懸命生きてみるのでみててくれ・・・・・・ではまた・・・・・・(小・中学からの友人 安斎)
大輔、本当に今、俺大輔に会いたいよ、会って飲みながら騒ぎたいよ。何で大輔が、って感じだよ
(小・中学からの友人 木藤)
もう一度、もう一度だけ頑張ってみろよ。辞めんのは箱根走ってからでも遅くねえだろう」そうしたら、「門限ぎりぎりだ・・・・・・」そう言って、電車が入ってくるホームまで必死で走る大輔の後ろ姿を見て、
「こいつは箱根に出るまで走り続けるだろうな」そう思い安心した。(中学からの友人 斎藤)
大輔、たしかにあの時、口を開いたよな。人工呼吸器で言葉にはならなかったけど・・・・・・教えてくれ、なんて言おうとしたんだ。
 今でもたまに走ることがある。走るたびにお前を思い出す。(高校時代、陸上部同期 神野)
あなたが追いかけた険しい道、僕もこれから同じような道を歩いていかなければなりません。それがどんな道であろうと、生きていかなければならないのです。(大学時代、陸上部同期 久保)
DAIMANと生きてきた季節を、これからはDAIMANなしで生きていく。でも、決して一時も忘れることはないから心配しないで。(大学時代同期 斎藤)
私にとって、桜の花はダイスケの忘れ形見です。来年の春にはどんな桜の花に姿を変えてダイスケは私の目の前に現れてくれるのかとっても楽しみです。
 ダイスケ、また来年も国立駅前の桜並木で逢おうね・・・・・・(NECトレーナー 杉山)
大輔の誕生日には、ふくしま駅伝の仲間と飲みながら、お前のいる天国に向かって、乾杯でもしようかと思っている。みんなの声が聞こえたら、どんな形でもいい、夢の中でもいい、返事をくれないか。(ふくしま駅伝監督 美作)
まさか死んでしまうなんて思ってもいなかったから話もあんまりしなかったし、遊んだりもしなかった。今凄く後悔している。 俺もお兄ちゃんの分、ちゃんと生きる。お父さんとお母さんの事は俺がいるから心配しないでね・・・・・・(弟)
もう一度走る姿が見たい。ビデオじゃなく私の目の前を走ってほしい・・・・・・ きっとお母さんは、貴方の一番のファンだったのかも知れません・・・・・・
 母の日、私に付き合って「タイタニック」観に行きましたね、今、あのサントラ盤を聴くと隣に座っていた貴方を感じます。辛くて聴けません。とってもいい曲なのに・・・・・・
 23年間、素晴らしい想い出と優しい微笑みをありがとう。(母)
追悼誌「天国のダイスケへ23通の手紙」より一部抜粋
(おわり)





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最終更新日  2020年11月05日 10時18分29秒
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