Nine Days' Wonder

Nine Days' Wonder

February 15, 2006
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 今日は、いや今日もテストでしたね。

 あんまり芳しくないです。

 僕より三割り増しで芳しくないYutaと共に各先生方の下へ恒例の 御礼参り ではなく お百度参り でもなく土下座参りに行ってきました。

 単位が落ちたら僕退学なんです!(リアルに

 と泣き落としにかかるという毎年繰り返される地方の行事のようなものです。

 僕たちはもう年期が入っていてワンランク上のスライディング土下座やヘッドスライディング土下座などE難度の技でお願いしてきました。

 後は天命を待つだけです。カノウテンメイじゃないです。



 平野啓一郎著のエッセイ『文明の憂鬱』の一文を読んで筆者の述べたい事と自分の考えを書けとありました。

 エッセイの内容はクローンは神の領域だ。臓器移植は異常な行為で個を群体にしてしまうとか、人工臓器の移植は精神と肉体の乖離につながるなど僕好みの内容でした。
 特に死者の断片を組み合わせた不思議な有機体という言い回しはすごい発想だなと思い、一人、コオネとクオンを思い出してました。

 この倫社。全開僕は奇跡の満点を取っていたので適当に済ませようと思っていましたがめちゃくちゃ俺節全開で答えを書いてきました。

 僕の回答です。
 筆者の意見。臓器移植という行為は生命として在る自己という個人の境界を曖昧にしてしまい。個という概念が群体という概念に侵食されてしまう。臓器移植者を彼と認める要因は能との関係だけなのかあるいは意識という存在しない器官によるのか、彼を彼として留めているものはかつての彼の輪郭だけなのではないだろうか。

 自分の意見。臓器という他を内包するという事は自己は他によって構成されているという矛盾を生む。私はこの群体という表現はとても的を射た例えだと思いました。精神を宿すべき肉体が本来自己を構成していたものでなくなっても自己という精神は存在し得るということは自己を認識する境界というものはそれこそ自分の認識という曖昧な括りでしかないのではないかと思います。

 何点取れるでしょう?電波入ってます。

 つまり腕を切り落とした人間の腕と体はどちらもその個人だけれど体が本体と定義されるのは精神を宿している方、生命活動を行える方が本体とされるからであって、けして『自己』が切り落とされた腕に無いわけではないという事。
 もしその人の本質が腕にあった場合、腕を失ったその人はもはや、その個人ではないのではないかという考え。

 こういう概念考察の問題だけだったら僕は優等生でいられるんです。








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Last updated  February 15, 2006 08:01:33 PM
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津本 小生

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