パイレーツ2塁手ホゼ・カスティーヨ物語
しかし、ことは簡単には運ばない。すべてのラテン人選手が経験するといっていい、アメリカでの新生活の壁。最大のものは、そう、英語。カスティーヨがパイレーツのルーキーリーグ、ブラデントンに合流したのは1999年だった。
「本当、大変だったよ。当時は全然しゃべれなかったから。食べたいものを説明できないんで、レストランに入ることができなかったんだ。仕方ないから自動販売機通いだよ」
当然ホームシックに襲われる。カスティーヨも例外ではなかった。荷物をまとめて故郷に帰ることを考えた。
「落ち込んだね。長い時間だった。当然ベースボールに打ち込めないからスランプにもなったし。でも、あるとき目が覚めて、前日まで考えたこと一切を頭の中から追い出した。なぜここへ来たのか、そのことを思い出したんだよ」
自分を取り戻したカスティーヨ。2002年のAリンチバーグでは打率3割、16本塁打81打点を遊撃手としてマークした。
「自信が付いた。これでやっていけるというシーズンが続いた。将来有望な選手のリスト入りもできたし」
だが道のりは厳しかった。当時すでにパイレーツのショートストップにはジャック・ウィルソンがどっかり座っていた。カスティーヨが後のオールスター選手ジャックからポジションを奪うことは考えにくい。
しかし、神は彼に微笑んだ。翌03年開幕後すぐにポウキー・リースが負傷したためセカンドのポジションが空いたのだ。早速カスティーヨは2塁の練習を始めた。パートナーはこれまたベネズエラ人で元大リーガーのアルバロ・エスピノーザ。来る日も来る日もゴロのキャッチング練習を積んだ。その甲斐ありAAアルトゥーナから04年にメジャーリーガーにカスティーヨはなった。正2塁手として。
好事魔多し。
8月5日から21までの15日間で15打点と絶好調だった翌22日。カーディナルズ戦で併殺を決めるプレイで事故が。左ひざにスライディングを受け、MCLを断裂してしまったのだ。
「本当につらかったよ。シーズンの最後1ヵ月間を他の選手がプレイしているのを見ているだけなんだから。さらに追い討ちで僕の所属するチームがウインターリーグのカリビアン・ワールドシリーズを制するし、ワールドベースボールクラシックにも出られなかった。でもケガから100%復帰したし、その分を取り返すシーズンにしたいと強く願っているよ」
序盤の好調さは少し薄れてきた。しかし、これまで順調に成長を遂げてきたカスティーヨはこのまま終わりはしない。近い将来毎年のようにゴールデングローブ賞を取り、オールスターゲームで背番号14を見続けることになるだろう。
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