ステイメンの「徒然なるままに」

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2016.06.26
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カテゴリ: drama
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 関八州に覇を唱えていた後北条氏は「戦国大名」としては滅亡し、奥羽で猛威を振るっていた「独眼竜」伊達政宗も内心ではともかく、少なくとも表面上は秀吉に服従し、これで秀吉に対抗するものはいなくなり信長以来の宿願とであった「天下一統」は遂に成し遂げられました!

 その「豊臣による天下」を受け継ぐべき関白秀吉の嫡男鶴松は、秀吉の期待を一身に背負い、3歳のかわいい盛りを迎えた夏、病を得て重篤な状態になっていました。どうも生まれつき「蒲柳の質」だったようで、生まれた山城国淀城において生母茶々や薬師に見守られながら床に伏している状態が続いています。
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 天下人秀吉の後継者が病にかかっているということで、見舞い客がひっきりなしで訪れているようで、石田治部少輔三成は馬廻衆である平野長泰と真田源二郎信繁に、見舞い客の選別を委ねます。
 そして内密の話として明かされたのは、鶴松はこの夜が山らしいということのようです。それを知るなり、長泰が
 長泰:「利休殿の祟りではないか、とひそかに噂する者がおるようで」
と言いだしました。
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 その千利休は 天正19年(1591)2月28日にセルフあぼーんしているので、時系列的にはそれより以前のこと、先年の小田原征伐の折に、家康や大谷刑部少輔吉継からの密使として小田原城内に入った際、源二郎信繁は「魚屋(ととや)」つまり利休の刻印が入った鉛球をハケーンして持ち帰っていました。

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 この物的証拠を前にしても、「表のことは秀長に、内々のことは利休に」と言われるほど関白秀吉からの絶対的な信任に自身を持つ利休は涼しい顔をして全く動じません!
 吉継:「これが何か、ご存じであろうな!」
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 利休:「鉄砲弾をこさえる鉛でございますな。」
 吉継:「源二郎が小田原城内で見つけた。そしてここに其方の刻印が打たれておる。」
 利休:「ホンマでんなあ。」
 三成:「北条にこれを売りつけたとなると、ゆゆしきことじゃ。」
 信繁:「小田原城の蔵の中には、これが山ほど積まれておりました。」
 利休:「あんさんの話を、どれだけ殿下がお信じになりはるか、でんなあ」

 このまま利休を訴えても秀吉が信じない恐れがあると感じた刑部少輔吉継は、治部少輔三成と一緒に豊臣政権のNo2である大和大納言秀長に助力を請うべく面会に向かいます。
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 当時、既に死病に取り憑かれていた秀長卿は、刑部少輔らの訴えに耳を傾け、「最後のご奉公」として聚楽第の兄秀吉の元を訪れます。

 秀長:「あの者は、茶人であると同時に、堺の商人なのです。堺衆に利があると見れば、北条と取り引きをすることもいとわぬ。志を同じくする者と信じては、利休を見誤ります」

 秀長:「利休は力を持ち過ぎました。」
 秀吉:「ひとまず、預からせてくれ。」
 秀長:「兄上はあと何年生きられるおつもりですか!」
 秀吉:「何だ、いきなり。」
 秀長:「もちろん、兄上が居なくなっても私が居れば鶴松様をお守りして何とかやっていけるでしょう。気がかりなのは兄上も私も居なくなったとき、誰が鶴松様をお支えしていくかです。今のうちに、力のある大名たちが、皆で、鶴松様をお守りしていく、それしかありません」

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 それから間もない天正19年(1591)1月22日、尾張中村の百姓から大和・紀伊・和泉の3ヶ国の大大名に出世し、兄秀吉の覇業を補佐して短期間で勃興した豊臣政権における貴重な調整役として機能してきた従二位権大納言秀長はこの世を去りました。享年52
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 そして時は進み、淀城では、鶴松が病と闘っている中、能吏である刑部少輔吉継は鶴松が翌朝まで持たないと考え、死後の段取りを進めていました。まだ鶴松が生きているのに、その死を前提として段取りを進める吉継の冷酷さに三成は戸惑う中、大徳寺を訪れた時のことを思い返します。

 臨済宗の名刹である龍宝山大徳寺は、後醍醐帝が京都五山のさらに上位に位置づけ、室町期に貴族・大名・商人・文化人など幅広い層の保護や支持を受け、関白秀吉も帰依していたのですが、その山門の楼上にある一室に案内された刑部少輔吉継と治部少輔三成は、ある木像に目を向けます。
 僧侶:「何しろこの山門の修繕が成ったのは、あの方のおかげゆえ、ありがたく頂戴したのですが」
 三成:「これは、利休をかたどったものだ」
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 聚楽第の石田屋敷に戻った刑部少輔吉継と治部少輔三成は酒を交わしながら利休追い落としの策を練ります。そして
 吉継:「追い落とせるなら、多少手荒なことをしても、かまわぬな」
 と一計を案じ三成も承諾します。

 そして、石田治部少輔三成が関白秀吉に対し、茶頭筆頭である千利休の弾劾を行います。
 三成:「利休はおのが姿に似せた木像を作り、それを大徳寺の山門に飾らせました」
 秀吉:「だから?」
 三成:「木像があるのは、山門の真上でございます。つまり、殿下が山門をくぐるとき、知らぬ間に、利休の足の下を通っていたことになりまする」
 秀吉:「……利休が置かせたのか?
 吉継:「全てあの者仕組んだこと、決して許してはなりません。」
 秀吉:どうすればいい?」
 三成:「堺の屋敷に蟄居させるのがよろしいかと」
 秀吉:「良きようにせよ。」
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 結局、関白秀吉は石田治部少輔三成に処分を一任します。そして三成は刑部少輔吉継と真田源二郎信繁を同道させて処分を言い渡しに利休の元を訪れます。
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 三成:「千利休、その方の振る舞い許しがたく、よって本日をもって京から追放、堺にて蟄居を命じる」
 利休:「そりゃ、御無体と違いますか。そや!これは鶴松様の平癒を念じましての献上金でございます。」
 三成:「ありがたく頂戴するが、それとこれとは話が別」
 吉継:「殿下のお達しはまだある。」
 利休:「まだ、ございますか?」
 吉継:「利休、お主には、蟄居半月ののち、切腹を申しつける!」
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 またまた回想シーンから戻り、鶴松の病篤い事に治部少輔三成ですら、「これは利休の祟りでは」と思い始めます。しかし刑部少輔吉継はそんな同僚の考えをあっさり一蹴します。
 つまり、「祟りなどあるはずが無いから利休のことは忘れろ。自分が最初に祟られるはずだ」と諭します。しかし実際には刑部少輔にこのときはまだ何も災いは起こっていませんでした。
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 そして、源二郎信繁はといえば、兵3000を動員し包囲した堺の屋敷において、蟄居の身となった利休の監視役を担っていました。その信繁は、なぜあのような像をつくったのか利休に問いかけます。
 利休:「わては、商人の街に生まれ、カネが人の心を、そして国を動かすことを学びました。そして知ったんや。戦は儲かりまっせ。」と『死の商人』丸出しの論理を展開します。
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 利休:「しかし、人の心を、命を、金で操るは、業の深いことや。それゆえ、わては茶をたてる。ここまで茶の道を極めることができたのは、それだけわての業が深いゆえ」
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 信繁:「何ゆえ、あのような像をこしらえたのですか?」
 利休:「あれで、足を掬われましたなぁ……。ひと言で言えば、宿命(さだめ)や」
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とその意味深長で不気味な笑い声は信繁の耳からしばらく離れなかったようです。

 「鶴松危篤」の報は京の真田屋敷に滞在中であった真田安房守昌幸の耳にも届き、淀城に「薫(山手殿)」を同道させて見舞いに参上します。その案内された一室に信繁が顔を出すと、一刻も早く鶴松の状態を知ろうとします。
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 一方、小田原征伐の論功行賞により、晴れて上州沼田城主となった信幸は、領地の経営に追われる日々を過ごしていました。秀吉の「天下一統」により長らく続いた戦乱の世はようやく終わり、これからは領民の為に金を使おうとする信幸。
 しかし、昌幸同様に前時代の遺物「戦莫迦」な大叔父の矢沢頼綱が堀を拡げ沼田城内に真田一族が大好きな「隠し扉」をこしらえるなどやりたい放題で城主である源三郎信幸を困らせています。

 そしてもう一つの頭痛の種になっているのが、未だに心を開かない小松姫の存在。ツンデレもここまで来れば疲れるだけです。そんなスッカリお疲れモードの信幸の心を癒やしてくれるのはやはり元正室にして従姉でもある「こう」さんだけです。

 小田原城で信繁と再会したヒゲ面の ガロード・ラン 小山田茂誠は、妻であるまつの元を訪ねていました。まつの記憶喪失はこの小山田茂誠と再会したことで完全に治ってしまいました!いやはや何というご都合主義

 結果として、これにより昌幸から帰参の許可を得た茂誠は、岩櫃城城代を任され、まつとともに赴任することになります。

 まつは高齢のため体調を崩していた祖母のとりと再び離ればなれになることを嘆きますが、とりは「たとえ住む場所は違っても、心は常にひとつ。一家とはそういうものです」と諭すのでした。
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 舞台は再びもどって、淀城の広間で平野長泰と源二郎信繁が見舞い客に備えていると、近江から尾張、伊勢に転封になった中納言秀次が「ウザ」きりと連れだってやってきます。当然、秀次は直ぐに案内されますが「ウザ」きりは鶴松が大好きな「でんでん太鼓」を北政所「寧」から受注していたためそれを納品しにきたとの事です。
 ちょうど折良く北政所が現れて「でんでん太鼓」を受け取っていくと、次に茶々の乳母である大蔵卿局がやってきます。どうやら鶴松の病が「利休の祟り」だという噂を耳にしたようです。
 大蔵卿局:「姫様も心配されていました。あの方の死に、ご自分もいささか関わっておられましたから」
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 どういうことかと信繁が問いただすと、
 1.茶々は利休を父親のように慕っていた。
 2.小さな利休の木像をそばに置きたい。
 3.茶々の甘えに応じ、利休は木像を発注。
 4.しかし納品された木像は、ビックサイズで処理に困る。
 5.「あのお寺に預かってもらえばよいのでは?」と茶々が提案したのが大徳寺だった。
 という顛末でした!

 そのころ城内の台所では、薫の指導の元、片桐且元が「万病に効く明国の薬」を煎じていた。しかし、煎じた汁のほうが必要だと知らない「慌て者」の且元は煮カスを残して汁を捨ててしまいます。
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 慌てた旦元はわずかに残っていた根で、再び薬を作ろうとするのでした。が、そうして苦労した出来上がった薬を何と昌幸が「味見」してしまって且元の努力は全ては水泡に帰してしまします!
 薫 :「殿……。今食べたのが全てでございっます」
 昌幸:「えっ?」
 薫 :「いろいろございまして」
 昌幸:「わしが元気になってどうするんじゃ!」

 また、極秘裏に葬儀の段取りをしていた三成と刑部のもとを、加藤清正と福島正則が現れました。そして鶴松の病気平癒を願って祈願の水ごりをしようと三成を誘いましたが三成はそっけなく断りました。これに対し脳筋2人は当然激怒しますが、先に水垢離を行っていた2人の元に現れたのは何と治部少輔三成その人!「無駄なことが大嫌い」と日頃から広言する三成をして、鶴松の病気を何とかしたいという強い思いが「水垢離」という行為に現れたのでしょう!
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 水垢離を終えた三成は、尾張中納言秀次や羽柴秀俊(後の小早川秀秋)、秀次の次弟秀勝や三弟秀保そして秀吉の養子でもある宇喜多秀家ら一門衆を集め、鶴松の命は今夜が山だという事を伝えます。
 そして最年長である秀次に対しては、秀吉をこれまで以上に支えてほしいと覚悟を促し、他の一門衆4名には
 三成:「方々には、中納言様をお助けし、豊臣家の繁栄にお尽くしいただきとうございます」
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 と一致団結して豊臣家を盛り立てようと協力を誓いました!

 しかしその一方では、江戸という辺境のド田舎に追いやられた勘助家康が「謀臣」本多正信ともに、そして安房守昌幸も腹心出浦昌相ととも鶴松亡き後の政権の混乱を期待して策謀を巡らします!
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 そしてその夜遅く、鶴松の容体が急変します。御簾の中では、医者たちが懸命な治療に当たっています。暫くすると、秀吉が疲れきった様子で御簾から出て、ふらりとどこかに歩いていきます。
 信繁が追いかけると、秀吉は鶴松の遊び部屋に座り込んでいました。
 秀吉:「教えてくれ。鶴松はなんのために生を受け、なんのために死んでいくんじゃ」
 信繁:「殿下、よくないことを口にすると、そのとおりになると申します。今は、よいことだけを考えましょう」
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 信繁は思いつくまま、鶴松の元服後の名前など明るい将来を話題にした。次第に、秀吉の表情が和らいでいく。
 秀吉:「ゆくゆくは、鶴松は関白となり、そしてこの国を治める」
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 秀吉が遠い目をしたそのとき、且元が駆け込んできました。

 天正19年(1591)8月5日未明。関白秀吉の後継者として期待されていた鶴松はわずか数え3つでその余りにも短い一生を終えました。法名は祥雲院殿玉厳麟公神童。

 ようやく手に入れた我が子を喪った関白秀吉は、死したる鶴松に向かって放心状態ででんでん太鼓を鳴らしています。
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 やがて茶々が部屋から出てきましたが、泣いてはおらず廊下でたたずんでいました。それを見た源二郎信繁 。
 信繁:「鶴松様のそばにいて差し上げなくてよろしいのですか」
 茶々:「だって、死んでしまったんですもの。横にいたところで仕方ないでしょう…皆、死んでしまう、私の大切な人たち」
 そこへ北政所「寧」が現れてゆっくりと茶々を抱きしめると、堰を切ったように茶々は慟哭しました。
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 政権No2たる大納言秀長につづいて後継者鶴松も喪うという悲劇に見舞われた豊臣政権と関白秀吉。しかし、これすら豊臣家の人々を襲う更なる悲劇の序章にすぎなかったのです!


 実父浅井長政、実兄浅井万福丸、義父柴田勝家、実母お市そして今度は我が子鶴松。またもや自分にとって掛け替えのない大切な人が喪ってしまった茶々は、自分の運命を恨めしく思い声をあげて泣くしかありません😢
 そして、最底辺から駆け上り、遂には関白として天下一統を成し遂げた偉人である豊臣秀吉も、愛息の夭折という事態に際しては何も出来ない無力感あふれる「一人の人間」でしか無かった事がよく表現されていたと思います。
 また、「武士」では無く「商人」に過ぎなかった千利休への賜死のやり方が「切腹」であったことは、秀吉による最後の「礼」であったとも言われています。
 それにしても、歴史に「if」は禁物ですが、豊臣秀長と鶴松、この二人が長命していたならば、その後の日本の歴史は大きく変わっていたでしょう!少なくとも「秀次事件」やその一族家臣の粛正という事態は避けられたはずですし、豊臣政権崩壊にしてもその時期も形も大きく変わっていたと考えられ、日本の歴史や民族性にも影響が出たと考えることが出来るでしょう!

 いずれにせよ、これから押さえ役であった実弟秀長と後継者鶴松を喪った秀吉の大暴走が始まっていきます。それがどう表現されていくか、次週以降も目が離せません!

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Last updated  2016.06.26 23:23:20
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