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2022.05.08
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カテゴリ: 京の史跡探訪
1001年頃の「紫野」を流れていた川の流路推定ができたので、1021年が経過した現在の様子を実際に確認した。


まず、「大宮末路」と「安居院南大路」の交差点(地点①)から、「有栖川」を上流に向かいます。


現在の「智恵光院通」と「蘆山寺通」の交差点で、流路は北に向かいます。この区間は「紫野斎院」造営に伴い、流路が整備されたと想定しています。(地点②)この辺りで北から流れてきた「若狭川」に合流します。


「有栖川」はここへ西から流れてきます。(地点③)


地点④から上流は「徳寿院」の境内を流れていたと考えます。


地点⑤を通過して、


「ケア21 グループホームたのしい家紫野」の敷地を通過し地点⑥へ抜けます。


地点⑦を通過して、


地点⑧を通り、





地点⑩辺りの流路跡は宅地となっています。


地点⑪辺りからは流路跡は小路になっていて、


地点⑫を通過します。


「柏野小学校」の南側(地点⑬)が「有栖川」の最上流部と考えます。
直ぐ西に「​ 紙屋川 ​」が南流しており、それが水源といってもどなたも信じないと思います。
なぜなら、下の写真のように、この辺りの「紙屋川」は深い谷を形成しており、川の西側は高い土手になっていて、「紙屋川」の水が「有栖川」に流れ込むようなことは到底考えられないからです。(地点⑭の地形)

写真奥が下流方向、橋から地点⑬の高低差は5mはあると思われる。


北方向、現在の「紙屋川」は谷底を流れている。写真右の崖の上にさらに「御土居」が築かれていた。

しかし、1021年まえはどうだったでしょうか?
この付近の断面図(下図)を見ると、1021年前の谷が形成される以前、「御土居」の土塁が築かれる以前は、洪水時にこの辺りで「紙屋川」が決壊し、「有栖川」に水を供給していたのではないでしょうか?



豊かな水源を持たない上に、「御土居」建築により、「紙屋川」からの水の補給を失った「有栖川」は、室町時代後期には、その流路を失ってしまったのではないでしょうか。

休憩コーナー
こむぎと ​(喫茶店)
寿菓舗 ​(和菓子)
メンバーズラウンジ凜
カフェ・ド・アウラ (Café de Aura)

次に、船岡山南側山麓から現在の「智恵光院通」で「若狭川」に注ぐ流路、仮に「有栖川支流」と名付けますが、その推定流路を巡ってみます。

まずは、水源と思われる地点⑮に向かいます。


そこは「船岡山」に登る階段があり、小さな祠に地蔵が祀られています。その横には、井戸らしきものがあります。ひょっとすると1021年前は、この地点に泉があり、水が湧いていたのかもしれません。

流路は地点⑯の小路を横切っていたと考えます。


流路は地点⑰で現在の「​ 鞍馬口通 ​」を横切り、


地点⑱で細い通路を流れていきます。


地点⑳でさらに細い通路を進み、


地点㉑では旧流路上は宅地になっていて、


地点㉒で現在の「真教寺」北側で北から流れてきた「若狭川」と合流していたと推定します。


現在の「真教寺」の境内近くで3つの流路が合流していたので、この辺りは上流からの堆積物により、砂州など形成されていたと想像します。よって、その後、流路が失われた後も一帯は荒れ地として、空き地になっていたのではないかと考えます。その空き地に、江戸時代初期に「真教寺」が建立されたのではないかと想像します。

では、この地点から「若狭川」の上流に向かいます。
地点㉓の北側から「若狭川」は流れてきて、


地点㉔で路地を抜け


地点㉕で小路を横切り


地点㉖で現在の「鞍馬口通」を横切り、「​ イタリア食堂ガロッパーレ ​」の横の 路地を流れていました。


地点㉗で流路は駐車場となっています。


地点㉘で小路を流れ、


地点㉙の小路はまるで流路を彷彿とさせます。その後、「建勲前通」を通過して、


地点㉚で流路は「紫野小学校」の敷地内を流れていました。


恐らくこの辺りで、​関白​ 藤原忠通 ​が​ 近衛上皇 ​崩御の葬儀の際、御骨を知足院不動堂に安置し、近衛殿に帰る途中、雲林院の四足門前の小河で藁靴を脱ぎ、手足を洗ったと想像されます。
「​ 兵範記 ​」:平安時代の公家平信範の日記(1132-1171年)


地点㉛で「​ 北大路通 ​」に向かいます。


休憩コーナー
キンダー カフェ (KINDER CAFE)
ラ・カマルティーナ (La Camartina) ​ (イタリアン)
船岡山 清水 ​(会席)

ここからさらに「若狭川」上流を目指します。


まず、私の推定した「若狭川支流」の水源を目指します。
地点㉜で「紫野小学校」北側を西へ向かいます。


地点㉝で住宅地を通り、


地点㉞で「船岡東通」を横切ります。


地点㉟で流路は住宅地の中を通り抜けます。


地点㊱で流路は「​ 媞子内親王 ​火葬塚」の裏を流れていました。


地点㊲に「若狭川支流」の水源と考えられる池がありました。現在は駐車場になっています。


1929年の地図には池もしくはその跡が掲載されています。

引用:近代京都オーバーレイマップ

​さらに「若狭川」の上流に向かいます。
地点㊳から流路は「北大路通」を越えます。


地点㊴で「北大路通」を西へ向かい、


地点㊵から「大徳寺」の境内に向かい、


地点㊶で「堤防跡」を通過します。私には中州跡に思えます。


地点㊷でさらに北に向かいます。


この辺りの「若狭川」の流れが、「龍翔寺西後園敷地指図」(大徳寺文書2-958)に描かれています。

引用:​ 平安京北郊における有栖川の流れ ​ 図3: 永禄11 年(1568)『龍翔寺西後園敷地指図』に描
地点㊸で現在の「近衛家廟所」の敷地内を流れ、


地点㊹から今宮神社東側に向かいます。


地点㊺で「今宮通」にでます。ここに橋が架かっていました。


ここにあった橋の支柱は、現在は今宮神社境内に移されています。


「今宮神社」に到着しましたので、「​ 年中行事絵巻 ​」に描かれている1001年に行われた「紫野御霊会」の様子のアングルを現在の風景と比較してみました。

引用:「​ 年中行事絵巻 ​」

当時の参道は東側にあり、「若狭川」に架かった橋を渡ったところに鳥居がありました。

現在は参道が南側に移ったため、東側の鳥居は失われています。


引用:「​ 年中行事絵巻 ​」

当時の本殿は、現在より東側にありかつ東向きでした。現在の楼門のある辺りが当時の境内の西端にあたります。


休憩コーナー
あぶり餅 本家 根元 かざりや
一文字屋和輔 ​(和菓子屋)

「今宮神社」からさらに上流を目指します。
「今宮神社」東側の道を北西に向かい地点㊻で住宅地を越えて、


地点㊽で階段下を横切って流れていたようです。


地点㊾で「​ 北山通 ​」を越え住宅地の下を流れます。


地点㊿で住宅街を流れ、


地点51で更に住宅街を進むと、


地点52で「若狭川」の水源地に到着します。現在は「大宮西野山児童公園」になっています。


「近代京都オーバーレイマップ」で1892年のこの辺りの地図を確認すると、小さな池が掲載されています。

「​ 近代京都オーバーレイマップ ​」を利用して作成

「若狭川」にはもう一つ水源があったとされます。地点53には共同水場のような遺構が残されています。




京都ぶらり歴史探訪ガイド 今昔ウォーキング / 京あゆみ研究会 【本】





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Last updated  2022.05.08 04:41:03
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