『異邦人』



主人公ムルソオの母親のいた養老院から母親が死んだという電報が来るところからこの物語は始まる。
ムルソオは自分の身体に正直に生きる。
ママに会いたいから会いに行く。
そこに理由などない。
ママが死んだけど、それだけだ。
悲しいという感情は彼にはない。
いや、正確には悲しむ理由が無いのだ。

恋人のマリーに愛しているかと聞かれれば、たぶん愛していないと答える。
愛する必要性がわからない。
いっしょにいてセックスをして、楽しい時間をすごして、そこになぜ愛が必要なのかわかならい。

彼はアラブ人を銃で射殺する。
5発弾丸を撃ち込むのだが、1発目と2発目のあいだに時間が空く。
そこに判事は理由がほしい。
もちろん彼には理由などない。
生きるのに理由のない彼は恐れられ、やがて社会から排除されていく。

きわめて精神的なものに支配された社会と、身体的な判断で生きていく主人公の対立。
間違いなく主人公は「他者」として存在する。
しかしそれは、「異者」じゃない。
だれもがうちに秘めたもの。
だれひとりとして気づかない、あるいは気づくのを怖れている「他者」なのだ。

作者のカミュは『シーシュポスの神話』の中でこう言っている。
「身体はぼくの唯一の確実性である」
唯一の確実性である身体が、意識下へ追いやられてしまった人間社会。
身体の下す判断は「不条理」なものとして扱われてしまう。
しかし、その不条理なるものによってのみ、その意識社会の持つゆがみが浮き彫りにされてゆく。


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