『ノルウェイの森』  



主人公のワタナベは親友キスギとその彼女直子の三人でよく遊んでいた。
そんなキスギがバイクのガスで自殺したのが三人が17の時だった。
その時からワタナベと直子はキスギの死を共有する。

もともと『社会』になじめない直子はキスギを通してワタナベに接し、ワタナベを通して外部にリンクしていた。
直子とワタナベをリンクさせるキスギを失った直子はキスギの幻影を抱き、「こっちの世界」から一定の距離を取った場所に安定を求める。
それゆえに『社会』とコミュニケーションを取ることがなかなかできずにいた。

それでも時間を重ねるだけの日常は、無情にもコトバで綴られた記憶を剥ぎ取ってゆく。
キスギへの記憶とともに、直子はコトバも失ってゆく。
ワタナベはそんな直子を少しずつ、少しずつこちらへと引き戻してゆく。
焦らずにゆっくりと。(焦る理由も必要もなかったのだが。)
そんなワタナベに触れながら、直子はすこしずつ語りかけるコトバを取り戻してゆく。

直子の二十歳の誕生日、ワタナベはケーキをもって彼女のアパートで誕生日を祝う。
キスギの幻影を抱いていることで辛うじて正気(ただし、なにが正気でなにが狂気か、こたえることなどできない)を保っていた直子は、時間のプレッシャーと、ワタナベへの想いに心のバランスを崩してゆく。
忘れ去られることを本能的に恐れた直子は、濡れてワタナベを向いいれることで、必死にワタナベのそして自分の生にすがりつく。
それがこっちの世界からのさらなる遊離を引き起こす。。

結局直子のコトバは飛躍することができなかった。
直子がワタナベを思えば思うほど、飛躍できないコトバたちに押しつぶされてゆく。
直子は自分をワタナベの中へ残す手段として死を選ぶ。
いや、単にあちらの世界に生きることに疲れただけなのかもしれない。
それでもその事実は確実にそして強烈にワタナベの気持ちを揺さぶった。

そして、17年の時を経て、直子の顔もすぐに思い出せないくらい、記憶は不完全になりつつある。
あれほど愛したのに。
あれほど辛かったのに。
その自責の念が「ノルウェイの森」のメロディーによって限りなく増幅される。


この物語はワタナベと直子のほかにも多くの人物が登場し、それぞれがこちらの世界、あるいはワタナベのこちらの世界での住人振りを演出するのに、非常に重要な役割を演じている。
突撃隊、永沢、緑、玲子(レイコではない)、ゆきずりの女の子たち、そして衝心旅行にあらわれる若い漁師。
彼らは普通に、でも彼らにしかない日常を生きている。
そして積極的にワタナベに語りかけてくる。
ワタナベはこっちの世界の住人ながら、日常へのこだわりが無い。
ペルソナをつけた人々の息に焦がれる。

舞台としての日常とは別に、生きていくうえでのルーティンとしての日常は、ワタナベがどんな状況にいようと生きている以上こなしていかなくてはならない「コト」として厳粛に存在を主張し続ける。
ところが結局のところ、この「コト」でしか直子と通じることができないことを思い知らされワタナベは苦しみ、緑のいる「日常」へと安楽を求めようとする。
それを直子が知ってたかどうかは問題ではない。
そのタイミングであっちの世界が消滅したことにワタナベは自暴自棄的に苦しんでいく。

こちらの世界もあちらの世界も失ったワタナベは、それでも生き続ける。
自分の所在のわからないままに。。

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