『長男の出家』


相手がいてはじめて「関係」なるものが生じる。
この物語は人間関係というものがいかに捉えるのが難しいのかを思い知らせてくれる。

主人公は女房と息子、娘という4人家族の大黒柱である。
しかし、他人に対して、特に身内ではない他人に対してやたらと気を使う。
気を使うがゆえに、自分の弱さに対してどうしても逃げてしまう。
その弱さからか、半ばなし崩し的に長男を出家させてしまう。

出家すると俗的なものから別離することとなる。
修行の身において一番邪魔なものは肉親、特に親だといわれ、息子とほとんど話すらできない日々を送ることとなる。
そのことで妻に責められる主人公。
そこで彼は息子が坊主になりたかったことをこんこんと訴え、長男の出家は夫婦で話し合って決めたことだと言い、自分はみんなの意見から一番いいように結論付けただけと言い張る。
一方妻は自分に相談も無く出家が決まったこともあり、主人公の身勝手な決断に辟易としている。
そうなのだ。
主人公は回りの顔色を伺い、彼らが喜ぶように取り計らう。
ところが妻はまったく違うことを気にしており、旦那の気の回し方に不満すら憶える。

長男の出家をきっかけに夫婦の仲は急速に冷えていく。
いや、冷えていくと言うよりは、お互いが自分を主張しだすことにより、関係がギクシャクしだす。
長男の出家によって関係がギクシャクしだしたのか?
いやそうではない。
人間の関係は、かかわる人間の気持ちによってまったく逆のものとなる可能性がある。
人間関係を自分だけの尺度で測ったときに、相互的関係は消滅する。
そこにあるのは不可逆な一方的な関係である。
主人公の意見や世界観のおしつけでしかない。

すれ違う関係を修復しようといろんな人と会話を試みるが、そこには常に自分がいる。
そして自分を相変わらずかばう自分がいる。
おそらくこう言う人は、常に新しい人間関係の中でしか、自分へ気を使ってもらえる関係の中でしか生きていけないのではなかろう

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