『水滴』



物語は主人公の徳正の右足が突然、冬瓜のようにはれ上がるところから始まる。
カフカの『変身』を彷彿とさせるが、背景にあるのは不条理ではなく、ダブルスタンダードだ。
もちろんそれ自体不条理だということはできるが、不条理に対して順応する自分に対しての疑問が右足にたまった水として顕在化している。

徳正は第二次世界大戦で沖縄で内陸戦を経験している。
そのときの仲間はみな戦死したにもかかわらず、徳正は生き残った。
自国の勝利のために、他国の人間の命を奪ってもよいというテーゼ。
自国の勝利のために、自分の命を差し出さねばならないというモラル。
それは平和な世の中ではまったく逆の真理として受け取られる。

戦争は世界をいや、世界観を変えてしまう。
人を殺してはいけないというもっとも根源的なモラルが通用しなくなる。
地球より重かった人の命が、虫けら同然に扱われる。
人間は戦争というシステムに翻弄される。
いや、翻弄されるほど弱いのだ。
だからダブルスタンダードに苦しみながらも、日常生活を淡々と暮らしていくことができる。

徳正の足にたまった水は戦死した仲間に対してのざんげの気持ちのこもった生命力を持った水であり、同時になんの成長もなく日常の中、よどんでいく水である。
小説というよりも寓話としての色調の強い表現とはなっているが、人間の弱さが鮮明に描かれている。
人間は弱いからこそ生きていける。
たとえこころの奥底でひとり苦しんでいったとしても。。


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