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Feb 20, 2009
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カテゴリ: 戦国雑記。

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「信長を考える」 (二)

 父、信秀の死で信長が家督を継いだのが、天文二十年三月である。

 時に信長十六歳で上総介と称した。

 この時期から永禄三年(一五六〇)、桶狭間で今川義元を討ち取るまでの

十年間は、信長にとって尾張統一の合戦の連続となった。

 それも織田一族との戦いであった。

 信長は一門衆との戦いで筋金入りの男へと鍛えられていったのだ。

 まず宗家の守護代、織田彦五郎を討ち取り清州城に移りすんだのが二十

二歳であった。この合戦に味方した叔父の織田信光まで謀殺している。

 一族あい争う合戦で最も烈しい戦いは、弟の信行との争いであった。

 信長の最初の守役、林通勝(みちかつ)が、宿老の柴田勝家と共謀し信行を

擁立し、公然と主君信長に反乱を起こしたのだ。

 この原因は父の葬儀の際の、信長の奇矯な振る舞いであった。

 ここに実母の土田御前までが、弟の信行に加担したと言うから悲惨であっ

た。信長はこの合戦で何を思ったであろうか、母と弟、さらに宿老に裏切られ、

肉親であろうと宿老であろうと決して心を許してはならぬと、信長が考えたと

したら、後年の狂気のいったんはこの時期に芽生えたのかも知れない。

 二十三歳の信長は自ら、陣頭に立って反乱軍と対決し勝利を得たのだ。

 こうして信長の非凡な軍事的才能が開花したのだ。

 信長は林通勝、柴田勝家を許したが、弟の信行のみは許さず、翌年の弘治

三年十一月に、信行を偽って清州城に呼び出し謀殺した。

 こうした陰惨な謀略を用いて信長は一門を制圧したのだ。

 このような肉親相食む戦いは、なにも信長一人ではない。戦国乱世の

習いとし、大なり小なり各大名もそうした肉親との葛藤を演じている。

 信長の肉親、兄弟に対する冷淡さは後年になっても変わらないし、

 自分の子供等に対しても無関心であったという。

 面白い逸話がある、(信長公記)の中で「織田喜六郎殿御生涯の事」という

一節で書かれている。織田喜六郎は信長にとり五人目の弟である。

 この喜六郎が供も連れず、ただ一騎で野駆をしていたところ、敵と誤って

織田信次の家来に射殺されてしまった。織田信次は信長の叔父であったが、

射殺した男が信長の弟と知って他国へ逐電してしまった。

 信長はその知らせを受け次ぎのように言ったと云う。

「我々の弟などといふ者が、人を召し連れ候はで、一僕ものの如く、馬一騎

にて懸けまわりしこと、沙汰の限り卑怯なる仕立なり。たとへ存生に候へども、

許すまじきことなり」

 つまり殺された弟が軽率であった、そんな者はたとえ生きていても自分が

許さない。と信長はそう言ったそうである。

 肉親の弟を殺されても、このように言い切る烈しい気象をもっていたのだ。

 それ故に能力で人を評価し、情愛に流されない後年の信長の片鱗が、窺が

いしれる言葉である。

 永禄三年五月、信長が最も恐れた事態が勃発した。駿河、遠江、三河の

三国をもつ太守の今川義元が上洛の軍勢を発したのだ。

 この時、信長は情報網で逐一、今川勢の動きを捉えていたと云われる。

 なんせ今川勢の兵力は二万五千名、信長は二十七歳で集められる兵力は

せいぜい二千から三千名であった。

 まともに戦ったら勝ち目のないことは十分に判っていた。

 五月十日、先鋒として井伊直盛が出陣し、これに松平元康が従っていた。

 十二日、今川義元本隊が駿府城を出発し、十八日には沓掛に本陣を構え、

先鋒は境川を渡河し尾張領に侵入した。        続く






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Last updated  Feb 20, 2009 02:07:06 PM
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