周防 灘の凪を望んで

周防 灘の凪を望んで

July 14, 2009
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テーマ: いい言葉(573)
カテゴリ: 名言セラピー



アメリカの研究所で働いていたころは、

「あいつはいつ寝ているんだ?」と驚かれたそうです。


24時間研究し続ける男。
「24時間男」(トゥエンティフォーマン)と呼ばれていたんです。

なぜ野口英世はそれほど働き続けられたのか? 
どんな思いを秘めてたからそんなに働けたのでしょうか?

◇

大正4年(1915年)、


世界的に有名な学者の帰国に、全国各地から講演依頼が殺到。


英世はその全国の講演には母のシカさんを連れて回りました。
大阪の箕面の料亭では、
関西ナンバーワンといわれる芸者が舞を舞って歓待してくれました。

しかし英世は、それには目もくれず、


「お母さん、これはかつおという魚のお刺身ですよ」

「お母さん、松茸のおつゆですよ」


と箸を取って食べさせ「お母さん、お母さん」と言って
母をずっといたわっていたのだそうです。



◇



野口英世1歳の時。



左手は指がくっついてしまい、
まるで松の木のこぶのようになってしまったのです。


「開かない、この手で農作業はできない。この子は学問の道しかない」



ここから、シカさんが死に物狂いで働くのです。
貧しい家庭でしたが英世にできるだけの学問をさせるためにです。


近くの川で網をもって胸まで水につかり
夜が更けるまで魚を取り翌朝それを売りに歩く。
また重い荷物を背負い、20kmの山道を運ぶ仕事もした。



「どんなに働いても、決して体を害することはない。
 心が愉快であれば」とシカさんは語っています。




また、シカさんは産婆(助産婦)の仕事もするようになりました。

産婆の仕事をするには検定試験に合格しなければならないのですが、
シカさんは小学校にも行っていませんから
文字をちゃんと習ったこともないのです。

筆や紙を買えるお金もない。そこでお盆の上に、
灰を薄く乗せ、その上をなぞって必死で文字を練習し
見事に資格を得たのでした。


ちなみに産婆の資格を得てからの三十年間で
取り上げた子供の数は二千人余り。


不思議なことにそれら全てが「安産」だったそうです。
そのことを尋ねられるとシカさんは



「それはオレ一人でやってんでねえがらだし。
 お産の時は必ず観音様にお祈りしながらやんのし。
 そうしっと観音様がお力を貸してくれらんのし」


と、いつもそう答えていたそうです。



野口英世はこう語っています。

「母があれほど働いてるのにわたしに、
 これくらいできなくてどうしますか」

大正4年、なぜ、15年ぶりに野口英世が帰国したかとういうと、
アメリカで研究していた英世に母、シカさんから
こんな手紙が届いたからなんです。


「おまえの出世には、皆たまげました。
 私も喜んでおりまする。
 どうか早く来てくだされ。
 早く来てくだされ。早く来てくだされ。
 早く来てくだされ。 早く来てくだされ。
 一生の頼みでありまする。

 西さ向いては拝み、
 東さ向いては拝み、しております。
 北さ向いては拝みおります。
 南さ向いては拝んでおりまする。

 早く来てくだされ。
 いつ来ると教えてくだされ。
 この返事、待ちておりまする。寝ても眠られません」


お母さんのために……

お母さんのために……

お母さんのために……

私は、世界に役立つ男になる!


これが「トゥエンティフォーマン」と呼ばれた
野口英世の原点の思いだったんだと思います。





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Last updated  July 14, 2009 01:19:34 AM コメント(2) | コメントを書く


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