小説 青い空から吹いた涼しい風






1.二十七歳 七月の尾道


 私の前に石畳の古びた階段がある。

 それは、迷路のように山の斜面に建ち並ぶ、古い木造作りの家屋の間を

縫い、山頂にある展望台へと続いている。

 今、私はその展望台へと向かう為、この階段を登ろうとしている。



 昨日の午後に、安藤美琴は尾道に到着した。平日と言うのもあり、この駅

で下車したのは、美琴ただ一人であった。

 ホーム脇で、手に持ったボストンを地面に置き、腕時計を見ると午後三時

を少し回っていた。

「取り合えず、ホテルへ行こう」

 ショルダーバックを肩に掛け直し、ボストンを持ち上げ改札口をでる。駅

前は広い広場になっていて、バスの停留所とタクシー乗り場が在った。

 バックから、携帯電話を取り出して、あらかじめ旅行代理店に予約を入れ

て貰って置いた旅館の電話番号を押した。三回のコールでフロントの女性従

業員が電話に出る。美琴は、今日予約を入れている者だと告げ、旅館までの

道を尋ねると、親切丁寧に道順を教えてくれた。その案内通りに歩いていく

と、五分足らずで旅館に着く。

 チェックインを済ませ、通された部屋は、窓から海が一望できる和風の部

屋。仲居が入れてくれたお茶を飲み、景観なエメラルドグリーンの海をしば

らく眺めていると、移動での疲れも幾分かは和らぎ、初めて訪れた地を散策

しようと思いたち、美琴は日も落ちかけた街へと出掛けた。



 駅周辺は、色々な店が在る。先ほどは、旅館に向かうことで頭が一杯で、

気が付かなかったが、美琴の良く知っている有名デパートもその中に在っ

た。

 ふと見ると、駅のメイン通りを少し外れたところに、アーケードに囲まれ

た商店街が在る。そこには、八百屋、魚屋と言った食材を扱う店が軒を揃

え、夕食の買出しに来たであろう人達で賑わい、活気に溢れている。美琴

は、その人垣をすり抜けるように、アーケードの奥へと足を進めていく。

 10分位は歩いただろうか、美琴の目の前に渡し船乗り場が現れた。

 渡し船と言うと、小さな船を連想しがちだが、それは普通自動車なら10台

は積載出来る。漁船をふたまわり大きくした感じで、瀬戸内海に点在する離

島に住む人達の通勤や、通学と言った手段に使われている交通機関である。

 出航の時刻にはまだ早いのか、高校生らしき数人の男女が、時間を持て余

すように雑談に興じてた。美琴自身も、学生時代の頃は電車の待ち時間など

友達と雑談に花を咲かせたものだと、ふと懐かしさを覚え、近くに在ったベ

ンチに腰掛け、その光景を眺めた。

 しばらくすると、次第に乗客も増え始め、出航の時刻を迎えた。汽笛を鳴

らし、ゆっくりと岸から船は離れていく。初めてその光景を見る者には感動

的なシーンで、美琴は胸が躍った。

 船は次第に小さく遠のいて、向かいにある離島の街灯りの中に吸い込まれ

るように溶けて行った。

 気が付くと、辺りはすっかり薄暗くなっている。美琴は、ベンチから立ち

上がると、旅館に戻る為にもと来た道を歩き始める。

 アーケードの商店街に入ると、混雑する時間帯が過ぎたのか、人通りもほ

とんどなく、時折すれ違うのは、家路を急ぐサラリーマンだけ。美琴は、ふ

と自分が旅人だと言う事を実感した。-今、すれ違った人には、この地に帰

る場所が在って、待っていてくれる人も居る。それは当然の事なのだが…美

琴の心に、なぜか一握りの寂しさが生まれ落ちた。

 旅館に戻った頃には、日もどっぷりと落ち、辺りは暗闇に包まれていた。

美琴は、本格的に疲れが出始めた体を癒そうと、ここの売りでもある温泉に

入ることにした。

 浴室に入ると、美琴以外に誰一人居なかった。ちょっとした貸切状態に、

心地良い開放感が漂う。

 身も心も十分にリフレッシュして浴室から出ると、仲居から別室に食事の

用意がされていますと告げられた。お膳に着くと、都会育ちの美琴には滅多

にお目に掛かる事のない新鮮な海の幸が並べられ、それを堪能することが出

来た。料理の雰囲気も手伝ってか、普段はあまり口にしない日本酒を飲ん

で、ほろ酔い気分で部屋へと戻った。

 部屋に戻ると、すぐさまに窓を開けて、夜の潮風を全身に浴びた。海から

吹く風が髪を揺らし、頬を優しく撫でて行く。

 目線を海から山に移す、山頂にライトアップされた展望台が、蜃気楼のよ

うにユラユラと揺れて浮かんでいる。その姿は、アニメ映画で観た天空に浮

かぶ城のようにも思えた。

「明日…。私はあの場所に行くんだ!」

 美琴の瞳に熱いモノが込み上げて来た。




2.トテツモナイ長い階段


「やっと…。ここに来れたんだ」

 美琴は、アル想いを胸に、石畳の階段をひたすらに登り続けている。

 夏もまだ始まったばかりだと言うのに、額からは汗がダラダラと流れ、美

琴の形の良い顎から滴り落ちる。瀬戸内海の気候は温暖で、冬でも暖かく雪

も滅多に降る事がない。夏ともなれば、その温度はかなりのモノ。しかし、

湿度が低いので、カラッとした暑さなのだ。だが…このトテツモナイ長い階

段を登る美琴にとっては、耐え難い暑さなのは言うまでもないこと。

「少しだけ休もう」

 美琴は、溜息にも近い言葉を吐くと、青々と葉を茂らした、木の陰に腰を

下ろして、ハンカチで額の汗を拭いた。

「はぁー」

 と。今度は、本当の溜息を付き、バックの中からペットボトルのミネラル

ウォーターを取り出し、一気に半分近くまで飲む。少し落ち着いた。しばら

くの間、目を閉じてセミの声を聴きながら風に吹かれていた。

 どれ位の時間をそうしていたんだろう。不意にバシャッと美琴の後ろで音

が聞こえた。

 振り向くと、エプロン姿のおばさんが軒先に打ち水をしていた。

「こんにちわ。観光ですか?」

 美琴に気が付き、声を掛けてきた。

「はい。展望台まで行こうと思っているんです」

 美琴は、立ち上がり答えた。

「展望台まで歩いて行く人は珍しいね」

「大変だけど、がんばってね」

おばさんは軽く会釈した。それに美琴も答えると、おばさんは家の中へと戻

って行った。

「そうだよね…。展望台まで普通は歩かないか…」

 確かにその通りだ。ガイドブックにも、登りはロープウェイを利用して、

帰りは徒歩でのんびり景色を楽しみながら下りるのがオススメと書いてあ

る。

 大半の観光客は、直接に展望台まで登れるロープウェイを利用し、尾道の

街並みを上空から眺め、ガイドが解説する尾道の歴史に耳を傾け、到着まで

の時間を座って過ごす。その所要時間は、僅か15分程度。

 本来ならば、美琴もそうしていただろう。だけど、今の彼女は、心の一番

奥にある「あの約束を果たしたい」と言う想いが、彼女自身の足で登ること

を決意させた。通り過ぎて行った過去の想いが、美琴の背中を押し、その想

いの強さが身体を動かして行く。

 疲れ切った身体をよそに、美琴の脳裏には、忘れてしまいたい事。嬉しか

った事。色んな遠い昔の出来事が蘇って来る。そう…彼女が生きてきた時間

の分だけ。

 沢山の感情が生まれ、消えて行った。

 そして。

 数多くの出会いと別れを経験した。

 今、美琴の中の記憶たちが静かに語り始めた。



3.十四歳 悲しい家族


「どうして、あなたは親の言うことが聞けないの!」

 母の安藤幸子は、ヒステリックな口調で美琴を叱り付けた。それは、娘が

何かをする度、毎度のごとく放たれる言葉だ。まるで、それが彼女の口癖に

も思えるほど。美琴の言動を縛り付ける呪いの呪文でも在った。

 自分の思ったことを言葉にする。

 それが、親に対しての反抗的態度と受け取られ、その度にそれに見合った

制裁を美琴は受けて来た。どこかの独裁国家に似た、偏った教育をする家庭

環境の中で美琴は、少女時代を過ごした。

 父親の安藤誠は、上場企業の課長職と言う肩書きを持っていた。

 美琴は、仕事場での父の顔は分からなかったが、家庭での父の顔は今でも

忘れることがない。

 事在るごとに幸子を罵倒し、時には暴力さえも振るっていた。幸子は、そ

んな夫に怯える毎日で、やがて、夫への憎しみが、娘の美琴へと向けられる

ようになって行った。ドミステック・バイオレンスの最悪なケースだ。

 美琴の髪型や、服装に至るまで、安藤の良識の枠内で決められていた。そ

れに、幸子は従順に従い、娘をまるで人形の如く扱った。

 美琴自身も、それに従うしか、この家庭の中で生きる方法を知らなかっ

た。その時、すでに美琴は回避性人格障害と言う心の病に侵されていた。臆

病で、傷つきやすいガラスの心は、父が母に行う暴力を震えながら見る。そ

して、母から自分へと行われる暴力。彼女を人から人形へと変えて行った。

 幸子は安藤を憎み、美琴は、父も母も憎んでいた。この家族には、愛と言

う言葉は存在しなかったとさえ思える。



4.夏祭り


「どうして、あなたは親の言うことが聞けないの!」

 何時ものように、幸子のヒステリックな罵声が、一階のリビングに響き渡

る。

 しかし、それは何時もと様子が明らかに違っていた。普段ならば、それで

貝のように口を噤んでしまう美琴が、言葉を返したのだ。

「あのね…」

「今日は、夕方から神社でお祭りが在って…」

「屋台もでるし…。打ち上げ花火も在るんだよ…」

 美琴は話を続けた。

「それに、もう友達とも一緒に行こうねって約束したんだよ」

「学校の友達も、みんなお祭りに行くって言ってたんだ…」

 美琴は、頭に浮かぶ言葉をすべて口に出した。

「よその家はどうか知らないけど、ウチは夜の外出は禁止なの分かっているでしょ!」

「それに、あんたが勝手な事をすると、お父さんに怒られるのはお母さんなのよ!」

 幸子は、畳んでいた洗濯物を床にまき散らし立ち上がった。何時もの制裁

が始まる。

 美琴は、話を止めなかった。

「年に一度のお祭りなんだよ!」

「花火が終わったら、真っ直ぐに帰ってくるから…。お願い!」

 美琴の目から大粒の涙がポロポロと溢れ落ちた。

「もう、お母さんは知らないからね!」

「勝手にしなさい!」

 幸子は、奥にあるキッチンへと姿を消した。

 しばらくすると、何かを乱雑に包丁で切る音が聞こえてきた。




 幸子は、まな板の上の切る必要のないキューリを不乱に切っている。正

直、幸子は困惑していた。

 今まで、母親に対して従順だった娘が、初めて自分の意見を押し通した。

今日までそんな事は一度でもなかったのに…。

 反抗期かもしれないと思っても見た。色々な事を考えていると、次第に腹

立たしく思えてきた。たかが、祭り程度のことで、娘には反抗的な態度を取

られ、きっと…安藤からは罵倒されるに違いない。

《美琴を部屋に閉じ込めよう…》

 そんな考えが、ふと頭を過ぎったが、もうどうでも良くなった。

 リビングに戻り、幸子は自分がまき散らした洗濯物を畳み直し始めた。




 美琴は、二階にある自分の部屋に駆け上がり、洋服ダンスの中から朱赤の

生地に金魚の柄が入ったゆかたを取り出した。それは、父方の祖母が美琴に

去年の夏、買い与えたもの。

 急いでそれに着替え、ピンクの帯を締めた。色取り取りのビーズで装飾さ

れた巾着に、小銭と千円札1枚が入ったサイフ、ハンカチを放り込み、部屋か

ら出た。

 階段を下りると、キッチンからは、あの乱雑な包丁の音は消えていた。

 リビングを見ると、母が散らばった洗濯物を畳み直している。その後姿に

「お母さん行って来ます!」と、声を掛けたが母からの返答はなかった。

 ただ、黙々と父の白いワイシャツを畳んでいる。

 玄関の横に置かれた下駄箱を開け、奥に見えるケースを取り出してふたを

開けると、中には赤い鼻緒の下駄が入っている。

 普段、下駄など履く機会がない美琴は、鼻緒に足を通すと、妙に足の親指

と人差し指の間がくすぐたかった。




 カラン、カランと、下駄を鳴らしながら、日も落ちかけた街を小走りに駆

け出すと、美琴はなぜか、すごく楽しい気持ちが胸に溢れてくる自分に気が

付いた。それは、下駄の鳴らす音さえも、愉快に思えるくらいに。




 神社の鳥居が友達との待ち合わせ場所。

 そこには、まだ友達に姿はなく、美琴は弾む息を整えながら、友達の到着

を待った。

 周りを見渡すと、皆が楽しそうな笑顔で行き交って行く。

 一組の家族に目が留まった。小さな子供がアニメヒーローのお面を頭に付

け、両親の間で嬉しそうに歩いている。時折、母親に身を寄せて、甘えたり

もしている。美琴には、そんな当たり前の光景がすごく新鮮に映った。

 美琴は呟いた。「家族でも、こんな風に過ごせる事が出来るんだ…」

 もちろん、美琴も両親と共に外出する事は度々在ったが、親子三人で並ん

で歩く事など一度でもなかった。安藤は、幸子や美琴を気に掛ける様子もな

く、一人で数歩先を歩き、幸子も、安藤の後姿を見失う事なく、懸命に後を

追った。二人は消して、美琴の手を握ろうとはしない。お互いを思いやる気

持ちは、この沈黙の行進に存在しない。

 美琴は、もしも自分がこの場で立ち止まっても、両親は気が付く事無く、

歩き続けるだろうと、二人の後姿に思うのだが、それを現実に試すことは出

来ず、黙々とその後に続いた。

 子供にとって、自分への両親の愛情がどれほどのモノか試す行為は、とて

も不安なものだ。まして、美琴のような感受性が強い子は、不安以上に恐怖

心が先行してしまう。




 美琴の肩を、誰かが軽く叩いた。

「何度も声を掛けてるのに…。気が付かないんだもん!」

 ちょっと口を尖らせて、友達の北見春菜が後ろに立っていた。




 北見春菜は、美琴と同じ中学に通い、クラスも同じだ。

 中学生にしては、スラリと長身の美琴に対して、春菜は、クラスでも一、

二を争うくらいの小柄な体格。身長が小さい事を、春菜はまったく気にして

いない。本人曰く「私は、まだ成長期の途中なのよ」と、カラッと笑うほど

だ。

 この二人、性格は対照的で、引っ込み思案で、消極的な美琴に対して、春

菜はクラス委員を務める行動派。しかし、二人は妙にウマが合う「ミコ!」

「ハル!」と、呼び合う親友同士。



「ごめん!ごめん!」

「ちょっと物思いに耽っていて…」

 軽く舌をペロリと出して、美琴はおどけて見せた。

「まぁ!夢見るお年頃って感じですかぁ」

 と、春菜は腕を組んで、ちょこんと首を傾げたポーズを取った。

 その仕草に思わず美琴は「あははっ」と、吹き出してしまった。

「さぁ行きますかぁ!ミコ」

「了解!ハル」

 二人の楽しい時間が始まった。





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