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出馬か否か? 小池百合子が以前のこともあって現時点では世論を窺っているところでしょうか、。有権者の東京都民は都知事としての小池百合子に票を入れたのですから、その【都政に専念・従事】されるのが道義的に本筋ではないか?、と思いますけど。以前の都議選でも小池都知事が都民ファーストの代表になり、人気で票を集め終えたら即に代表交代でスタコラサッサと有権者をコケにしました、、こんな策士な人物です。野望の党?、への人気風の吹き具合では一度は短期にせよ、女総理として歴史に名を残すチャンスと考えていると思います。 ですから電撃出馬の可能性もありますね。【これまでの小池百合子の手法一例】「立ち止まる」「見直す」とか言って、マスメディアを引きつけ、過去の行政や周囲の誰かを悪者にして騒ぐ。 「安全性に問題あり」として移転を延期した豊洲新市場が、実は安全だと後になって自ら口にし、まるで罪人扱いした石原慎太郎元都知事の「潔白」が明らかになっても素知らぬ顔。 この策士は攻撃的な一面も覗かせますが、外運に分裂・孤立・意志薄弱の暗示があるので小才を利かした策だけです。 身につけた「闘う私」を演じることが今は唯一頼りの手法のようです。 (動画) 【地上波】小池百合子の野望にスタジオの怒り露わ!都知事なんていらない!スタジオ騒然!!【小池百合子】 外運 ▲12画(分裂・孤立・意志薄弱)人運 ◎13画(小才に長けた人気運)【日本赤十字社 平成29年7月5日からの大雨災害義援金】 受付開始しています。【日本赤十字社 平成28年熊本地震災害義援金】 受付開始しています。終戦の詔勅(玉音放送)※左に現代訳が表示昭和天皇「日本と共にアジアの開放に協力した国々に申し訳なく・・・・・」【大東亜戦争とは】--- 文字数制限で内容を簡略化してあります。 ---【日本が国際連盟の規約に人種差別撤廃条項を提案】時は第一次世界大戦終結後のお話です。 肌の色が濃いものほど欧米諸国では猿扱いしていた時代です。 欧米列強が植民地支配で搾取していた事は今更説明するまでもありませんが、第一次世界大戦後に初めて発足された国際連盟の規約に日本からは牧野伸顕が人種差別撤廃条項を提案、何とか票決にこぎつけて、賛成11 反対5で多数決で勝ったのですが、何と、アメリカのウッドロウ・ウィルソン議長に、この時ばかりは全会一致でないことを理由に否決されました。 植民地支配で欧米列強が搾取していたので日本の人種差別撤廃条項は邪魔でした。 とくに人種差別撤廃に強く反対していたのが英国とアメリカでした。【三国同盟/ABCD包囲網/大東亜共栄圏を含む自存・自衛の大東亜戦争へ】日本は国際連盟から抜けて三国同盟(日独伊)を結びます。しかし、それを脅威としたアメリカは日本に対して、ABCD包囲網で石油や鉄屑など(日本が必要な資源)を入らなくしてしまいました。 働くことが幸せで美徳とする日本人には大変な死活問題です。 そこでやむなく、国際法が認める、自存・自衛の戦争に突入していきました。欧米列強が支配している植民地を攻めて開放していきました。 同時に支那(中国)とも戦争をしていました。 蒋介石の国民党軍を背後からアメリカが支援して泥沼化させました。 日本側へ最後通牒とも受け取れるハルノートで無理難題を突き付けました。 当時のアメリカ大統領は、フランクリン・ルーズベルトで彼は徹底した反日主義者で、中国に甘い幻想を抱き、しかもその側近にはソ連のスパイがうごめいていました。 フランクリン・ルーズベルト(アメリカ合衆国の第32代大統領)は戦争をしないことを公約に掲げて大統領になりました。 それでアメリカ世論の賛同を得るために、日本を絞めつけて日本からの攻撃を待っていたのです。 日本軍は30倍〜40倍とも言われたアメリカの戦力を絶つために真珠湾攻撃で開戦して講和に運ぶ狙いがありました。●ハルノート案のハリー・ホワイトは、ソ連コミンテルンのスパイでベノナ文書により確認済みです。●日本が相手にした連合国側は、コチラを参照。(以上のこれらが大東亜戦争のあらすじです。)大東亜戦争は連合国側のABCD包囲網に対しての国際法が認める自存・自衛戦争であり、大東亜共栄圏(欧米列強から植民地開放)を目的とした戦争でした。【昭和天皇の御聖断/ポツダム宣言受諾】(1945年8月14日に宣言を受諾、1945年9月2日に調印)ここから先は皆さんがご存知の通りで広島も長崎も現在では国際法で禁止されている原爆を投下されました。 昭和天皇は御前会議で自分のことなら構わないからと、ポツダム宣言を受諾する事を御聖断されました。【極東国際軍事裁判】(別名:東京裁判)(1946年5月3日〜1948年11月12日)日本側の合法な自衛戦争のままでは「通例の戦争犯罪」(捕虜への虐待とか戦争法規に反する行為のこと)までしか裁けないので中立国が裁かず、『事後法』で平和に対する罪と人道に対する罪が追加されて戦勝国側の判事同士が談合して判決を1本化した、リンチ裁判を行ったのです。この極東国際軍事裁判=東京裁判で事後法により裁かれ、国家指導者は、東条英機以下7名が絞首刑、16名が終身禁固という判決でした。 東条英機大将は裁判で最後まで自衛戦争を訴えて、死刑判決後には深々と一礼して判決を潔く受けました。インドのパール判事だけが事後法で裁くのには反対して、被告人全員の無罪を主張したのです。しかし、結果ありきのままのリンチ裁判での判決でした。■■■(大切な部分のお話は以下に続きます。)■■■【補足】 ラダ・ビノード・パールは、インドの法学者、裁判官、コルカタ大学教授、国際連合国際法委員長を歴任。 ベンガル人。 ヒンドゥー法を専攻。 東京裁判(極東国際軍事裁判)の11人の判事の中で唯一国際法に通じていたのはインド代表のパール判事だけでパールは「裁判の方向性が予め決定づけられており、判決ありきの茶番劇である」との主旨でこの裁判そのものを批判し、被告の全員無罪を主張した。 これは裁判憲章の平和に対する罪、人道に対する罪は事後法であり、罪刑法定主義の立場から被告人を有罪であるとする根拠自体が成立しないという判断によるものであり、日本の戦争責任が存在しないという立場ではないことも加えた。■■■しかし、大切な部分のお話はココからです。■■■●マッカーサー「日本は自衛戦争」と証言昭和26年5月3日、米上院軍事外交合同委員会の公式の場で行われた質疑応答で、連合国側の経済封鎖で追い詰められた日本が、「主に自衛(安全保障)上の理由から、戦争に走った」と述べた。 マッカーサーは「太平洋において米国が過去百年間に犯した最大の政治的過ちは共産主義者を中国において強大にさせたことだと私は考える」とも発言。 マッカーサーは、日本が間違っていたのではなく、自分たちが間違っていたことを語った。【お話のまとめ】■連合国側のABCD包囲網に対しての合法な自存・自衛の戦争であり、大東亜共栄圏(欧米列強から植民地開放)を目的とした戦争でした。■東京裁判(極東国際軍事裁判)が結果ありきのインチキ談合リンチ裁判だったのです。インドネシア共和国 初代大統領スカルノ【動画】インドネシア独立戦争と日本軍大東亜戦争(第二次世界大戦の太平洋戦争)で日本が敗戦後も日本兵がインドネシアに、千数百名~残って、上官の命によって兵器の集積庫を開放、独立軍に武器、兵器を横流し(※本来は禁止行為)。 インドネシア人の指揮官がみずから率いる「民族軍」である郷土防衛義勇軍(ペタ)を組織するなど、日本兵が戦術を指導、植民地支配で味をしめたオランダ、イギリスを相手に、4年5ヶ月にわたる戦争で、80万人が犠牲になったが、結果的に、インドネシアは武力闘争と外交交渉によって独立を達成し、1949年12月にインドネシア連邦共和国が成立し、さらに連邦構成国がインドネシア共和国に合流して、1950年8月15日に単一のインドネシア共和国が誕生した。 戦死した日本兵達はインドネシア独立の英雄としてカリバタ英雄墓地に祀られている。●大東亜戦争を世界はいかに評価しているか------- 内容を簡略化したので、まだまだ詳細不足の箇所があります。 -------
2017/09/30

希望の党には、当時、政権運営ができなかった売国政党(当時は民主党)民進党から取り敢えず、議員バッジを欲しさに小池新党(希望の党)に合流の形ですが、、断言します、 このような政党は、いくら入党には選別するとしても議員バッジ欲しさの寄せ集めの政党で細かなクズは混入します。 このようなUFO(未確認飛行物体)が騒がせ、そちらに世論の眼が向くのは致し方ないですが興味本位で騙されてはいけないのです。 以前、維新の党が民進党(当時は民主党)からのスパイ議員に食われたように、希望の党は食われるか分裂の道があるだけで安定はしません。 それからテレビとタッグ、“小池劇場”での印象操作には騙されませんように。■安倍首相の衆院解散の判断が正しかったか否かは、コチラのリンクの動画を参考に。■https://www.youtube.com/watch?time_continue=5&v=mEsq7ZpLj6kテレビとタッグ、“小池劇場”でダマされる有権者 「悪い既得権者→そのしがらみを壊すため闘う私」【記事】2017.9.28 小池百合子都知事は、国政新党「希望の党」(小池新党)を立ち上げ、自ら代表に就任した。この1年間、小池都政を冷静にウオッチしてきた、ジャーナリストの有本香氏が緊急寄稿した。・・・続きを記事元で詳しく読む【小池百合子】 外運 ▲12画(分裂・孤立・意志薄弱)人運 ◎13画(小才に長けた人気運)【日本赤十字社 平成29年7月5日からの大雨災害義援金】 受付開始しています。【日本赤十字社 平成28年熊本地震災害義援金】 受付開始しています。終戦の詔勅(玉音放送)※左に現代訳が表示昭和天皇「日本と共にアジアの開放に協力した国々に申し訳なく・・・・・」【大東亜戦争とは】--- 文字数制限で内容を簡略化してあります。 ---【日本が国際連盟の規約に人種差別撤廃条項を提案】時は第一次世界大戦終結後のお話です。 肌の色が濃いものほど欧米諸国では猿扱いしていた時代です。 欧米列強が植民地支配で搾取していた事は今更説明するまでもありませんが、第一次世界大戦後に初めて発足された国際連盟の規約に日本からは牧野伸顕が人種差別撤廃条項を提案、何とか票決にこぎつけて、賛成11 反対5で多数決で勝ったのですが、何と、アメリカのウッドロウ・ウィルソン議長に、この時ばかりは全会一致でないことを理由に否決されました。 植民地支配で欧米列強が搾取していたので日本の人種差別撤廃条項は邪魔でした。 とくに人種差別撤廃に強く反対していたのが英国とアメリカでした。【三国同盟/ABCD包囲網/大東亜共栄圏を含む自存・自衛の大東亜戦争へ】日本は国際連盟から抜けて三国同盟(日独伊)を結びます。しかし、それを脅威としたアメリカは日本に対して、ABCD包囲網で石油や鉄屑など(日本が必要な資源)を入らなくしてしまいました。 働くことが幸せで美徳とする日本人には大変な死活問題です。 そこでやむなく、国際法が認める、自存・自衛の戦争に突入していきました。欧米列強が支配している植民地を攻めて開放していきました。 同時に支那(中国)とも戦争をしていました。 蒋介石の国民党軍を背後からアメリカが支援して泥沼化させました。 日本側へ最後通牒とも受け取れるハルノートで無理難題を突き付けました。 当時のアメリカ大統領は、フランクリン・ルーズベルトで彼は徹底した反日主義者で、中国に甘い幻想を抱き、しかもその側近にはソ連のスパイがうごめいていました。 フランクリン・ルーズベルト(アメリカ合衆国の第32代大統領)は戦争をしないことを公約に掲げて大統領になりました。 それでアメリカ世論の賛同を得るために、日本を絞めつけて日本からの攻撃を待っていたのです。 日本軍は30倍〜40倍とも言われたアメリカの戦力を絶つために真珠湾攻撃で開戦して講和に運ぶ狙いがありました。●ハルノート案のハリー・ホワイトは、ソ連コミンテルンのスパイでベノナ文書により確認済みです。●日本が相手にした連合国側は、コチラを参照。(以上のこれらが大東亜戦争のあらすじです。)大東亜戦争は連合国側のABCD包囲網に対しての国際法が認める自存・自衛戦争であり、大東亜共栄圏(欧米列強から植民地開放)を目的とした戦争でした。【昭和天皇の御聖断/ポツダム宣言受諾】(1945年8月14日に宣言を受諾、1945年9月2日に調印)ここから先は皆さんがご存知の通りで広島も長崎も現在では国際法で禁止されている原爆を投下されました。 昭和天皇は御前会議で自分のことなら構わないからと、ポツダム宣言を受諾する事を御聖断されました。【極東国際軍事裁判】(別名:東京裁判)(1946年5月3日〜1948年11月12日)日本側の合法な自衛戦争のままでは「通例の戦争犯罪」(捕虜への虐待とか戦争法規に反する行為のこと)までしか裁けないので中立国が裁かず、『事後法』で平和に対する罪と人道に対する罪が追加されて戦勝国側の判事同士が談合して判決を1本化した、リンチ裁判を行ったのです。この極東国際軍事裁判=東京裁判で事後法により裁かれ、国家指導者は、東条英機以下7名が絞首刑、16名が終身禁固という判決でした。 東条英機大将は裁判で最後まで自衛戦争を訴えて、死刑判決後には深々と一礼して判決を潔く受けました。インドのパール判事だけが事後法で裁くのには反対して、被告人全員の無罪を主張したのです。しかし、結果ありきのままのリンチ裁判での判決でした。■■■(大切な部分のお話は以下に続きます。)■■■【補足】 ラダ・ビノード・パールは、インドの法学者、裁判官、コルカタ大学教授、国際連合国際法委員長を歴任。 ベンガル人。 ヒンドゥー法を専攻。 東京裁判(極東国際軍事裁判)の11人の判事の中で唯一国際法に通じていたのはインド代表のパール判事だけでパールは「裁判の方向性が予め決定づけられており、判決ありきの茶番劇である」との主旨でこの裁判そのものを批判し、被告の全員無罪を主張した。 これは裁判憲章の平和に対する罪、人道に対する罪は事後法であり、罪刑法定主義の立場から被告人を有罪であるとする根拠自体が成立しないという判断によるものであり、日本の戦争責任が存在しないという立場ではないことも加えた。■■■しかし、大切な部分のお話はココからです。■■■●マッカーサー「日本は自衛戦争」と証言昭和26年5月3日、米上院軍事外交合同委員会の公式の場で行われた質疑応答で、連合国側の経済封鎖で追い詰められた日本が、「主に自衛(安全保障)上の理由から、戦争に走った」と述べた。 マッカーサーは「太平洋において米国が過去百年間に犯した最大の政治的過ちは共産主義者を中国において強大にさせたことだと私は考える」とも発言。 マッカーサーは、日本が間違っていたのではなく、自分たちが間違っていたことを語った。【お話のまとめ】■連合国側のABCD包囲網に対しての合法な自存・自衛の戦争であり、大東亜共栄圏(欧米列強から植民地開放)を目的とした戦争でした。■東京裁判(極東国際軍事裁判)が結果ありきのインチキ談合リンチ裁判だったのです。インドネシア共和国 初代大統領スカルノ【動画】インドネシア独立戦争と日本軍大東亜戦争(第二次世界大戦の太平洋戦争)で日本が敗戦後も日本兵がインドネシアに、千数百名~残って、上官の命によって兵器の集積庫を開放、独立軍に武器、兵器を横流し(※本来は禁止行為)。 インドネシア人の指揮官がみずから率いる「民族軍」である郷土防衛義勇軍(ペタ)を組織するなど、日本兵が戦術を指導、植民地支配で味をしめたオランダ、イギリスを相手に、4年5ヶ月にわたる戦争で、80万人が犠牲になったが、結果的に、インドネシアは武力闘争と外交交渉によって独立を達成し、1949年12月にインドネシア連邦共和国が成立し、さらに連邦構成国がインドネシア共和国に合流して、1950年8月15日に単一のインドネシア共和国が誕生した。 戦死した日本兵達はインドネシア独立の英雄としてカリバタ英雄墓地に祀られている。●大東亜戦争を世界はいかに評価しているか------- 内容を簡略化したので、まだまだ詳細不足の箇所があります。 -------
2017/09/28

民進党は事実上の解党か? 小池百合子代表の希望の党へ民進党から希望者が合流したら、後に食われるか? 分裂が相場だ。 小池百合子の外運(副運)が、「分裂・孤立・意志薄弱」で、霊力でそのように動かされるだろう。 代表を投げ出すかもしれん。 取り敢えず議員バッジが欲しいだけの合流だ。 予想がつくわ、、。【記事】2017.9.27 01:15 衆院は28日午後の本会議で解散される。 衆院選は10月10日公示-同22日投開票の日程で行われる。 選挙を前に民進党の前原誠司代表は27日、同党の希望者が小池百合子東京都知事が代表を務める国政新党「希望の党」に合流する案を28日の両院議員総会で示す方針を固めた。 民進党を衆院選の届け出政党とせず、公認候補も擁立しない意向で、民進党は事実上の「解党」となる。・・・続きを記事元で詳しく読む【小池百合子】 外運 ▲12画(分裂・孤立・意志薄弱)人運 ◎13画(小才に長けた人気運)【日本赤十字社 平成29年7月5日からの大雨災害義援金】 受付開始しています。【日本赤十字社 平成28年熊本地震災害義援金】 受付開始しています。終戦の詔勅(玉音放送)※左に現代訳が表示昭和天皇「日本と共にアジアの開放に協力した国々に申し訳なく・・・・・」【大東亜戦争とは】--- 文字数制限で内容を簡略化してあります。 ---【日本が国際連盟の規約に人種差別撤廃条項を提案】時は第一次世界大戦終結後のお話です。 肌の色が濃いものほど欧米諸国では猿扱いしていた時代です。 欧米列強が植民地支配で搾取していた事は今更説明するまでもありませんが、第一次世界大戦後に初めて発足された国際連盟の規約に日本からは牧野伸顕が人種差別撤廃条項を提案、何とか票決にこぎつけて、賛成11 反対5で多数決で勝ったのですが、何と、アメリカのウッドロウ・ウィルソン議長に、この時ばかりは全会一致でないことを理由に否決されました。 植民地支配で欧米列強が搾取していたので日本の人種差別撤廃条項は邪魔でした。 とくに人種差別撤廃に強く反対していたのが英国とアメリカでした。【三国同盟/ABCD包囲網/大東亜共栄圏を含む自存・自衛の大東亜戦争へ】日本は国際連盟から抜けて三国同盟(日独伊)を結びます。しかし、それを脅威としたアメリカは日本に対して、ABCD包囲網で石油や鉄屑など(日本が必要な資源)を入らなくしてしまいました。 働くことが幸せで美徳とする日本人には大変な死活問題です。 そこでやむなく、国際法が認める、自存・自衛の戦争に突入していきました。欧米列強が支配している植民地を攻めて開放していきました。 同時に支那(中国)とも戦争をしていました。 蒋介石の国民党軍を背後からアメリカが支援して泥沼化させました。 日本側へ最後通牒とも受け取れるハルノートで無理難題を突き付けました。 当時のアメリカ大統領は、フランクリン・ルーズベルトで彼は徹底した反日主義者で、中国に甘い幻想を抱き、しかもその側近にはソ連のスパイがうごめいていました。 フランクリン・ルーズベルト(アメリカ合衆国の第32代大統領)は戦争をしないことを公約に掲げて大統領になりました。 それでアメリカ世論の賛同を得るために、日本を絞めつけて日本からの攻撃を待っていたのです。 日本軍は30倍〜40倍とも言われたアメリカの戦力を絶つために真珠湾攻撃で開戦して講和に運ぶ狙いがありました。●ハルノート案のハリー・ホワイトは、ソ連コミンテルンのスパイでベノナ文書により確認済みです。●日本が相手にした連合国側は、コチラを参照。(以上のこれらが大東亜戦争のあらすじです。)大東亜戦争は連合国側のABCD包囲網に対しての国際法が認める自存・自衛戦争であり、大東亜共栄圏(欧米列強から植民地開放)を目的とした戦争でした。【昭和天皇の御聖断/ポツダム宣言受諾】(1945年8月14日に宣言を受諾、1945年9月2日に調印)ここから先は皆さんがご存知の通りで広島も長崎も現在では国際法で禁止されている原爆を投下されました。 昭和天皇は御前会議で自分のことなら構わないからと、ポツダム宣言を受諾する事を御聖断されました。【極東国際軍事裁判】(別名:東京裁判)(1946年5月3日〜1948年11月12日)日本側の合法な自衛戦争のままでは「通例の戦争犯罪」(捕虜への虐待とか戦争法規に反する行為のこと)までしか裁けないので中立国が裁かず、『事後法』で平和に対する罪と人道に対する罪が追加されて戦勝国側の判事同士が談合して判決を1本化した、リンチ裁判を行ったのです。この極東国際軍事裁判=東京裁判で事後法により裁かれ、国家指導者は、東条英機以下7名が絞首刑、16名が終身禁固という判決でした。 東条英機大将は裁判で最後まで自衛戦争を訴えて、死刑判決後には深々と一礼して判決を潔く受けました。インドのパール判事だけが事後法で裁くのには反対して、被告人全員の無罪を主張したのです。しかし、結果ありきのままのリンチ裁判での判決でした。■■■(大切な部分のお話は以下に続きます。)■■■【補足】 ラダ・ビノード・パールは、インドの法学者、裁判官、コルカタ大学教授、国際連合国際法委員長を歴任。 ベンガル人。 ヒンドゥー法を専攻。 東京裁判(極東国際軍事裁判)の11人の判事の中で唯一国際法に通じていたのはインド代表のパール判事だけでパールは「裁判の方向性が予め決定づけられており、判決ありきの茶番劇である」との主旨でこの裁判そのものを批判し、被告の全員無罪を主張した。 これは裁判憲章の平和に対する罪、人道に対する罪は事後法であり、罪刑法定主義の立場から被告人を有罪であるとする根拠自体が成立しないという判断によるものであり、日本の戦争責任が存在しないという立場ではないことも加えた。■■■しかし、大切な部分のお話はココからです。■■■●マッカーサー「日本は自衛戦争」と証言昭和26年5月3日、米上院軍事外交合同委員会の公式の場で行われた質疑応答で、連合国側の経済封鎖で追い詰められた日本が、「主に自衛(安全保障)上の理由から、戦争に走った」と述べた。 マッカーサーは「太平洋において米国が過去百年間に犯した最大の政治的過ちは共産主義者を中国において強大にさせたことだと私は考える」とも発言。 マッカーサーは、日本が間違っていたのではなく、自分たちが間違っていたことを語った。【お話のまとめ】■連合国側のABCD包囲網に対しての合法な自存・自衛の戦争であり、大東亜共栄圏(欧米列強から植民地開放)を目的とした戦争でした。■東京裁判(極東国際軍事裁判)が結果ありきのインチキ談合リンチ裁判だったのです。インドネシア共和国 初代大統領スカルノ【動画】インドネシア独立戦争と日本軍大東亜戦争(第二次世界大戦の太平洋戦争)で日本が敗戦後も日本兵がインドネシアに、千数百名~残って、上官の命によって兵器の集積庫を開放、独立軍に武器、兵器を横流し(※本来は禁止行為)。 インドネシア人の指揮官がみずから率いる「民族軍」である郷土防衛義勇軍(ペタ)を組織するなど、日本兵が戦術を指導、植民地支配で味をしめたオランダ、イギリスを相手に、4年5ヶ月にわたる戦争で、80万人が犠牲になったが、結果的に、インドネシアは武力闘争と外交交渉によって独立を達成し、1949年12月にインドネシア連邦共和国が成立し、さらに連邦構成国がインドネシア共和国に合流して、1950年8月15日に単一のインドネシア共和国が誕生した。 戦死した日本兵達はインドネシア独立の英雄としてカリバタ英雄墓地に祀られている。●大東亜戦争を世界はいかに評価しているか------- 内容を簡略化したので、まだまだ詳細不足の箇所があります。 -------
2017/09/28

小池百合子の策士ぶりが出た〜!! 軽い思わせぶりで自・公の分断を狙ったのだろうけど、策士 小池百合子の浅知恵に山口代表(公明党)が怒った。【記事】公明党が国政新党「希望の党」代表に就任した小池百合子東京都知事に強い不快感を示している。 小池氏が25日、次期衆院選後の特別国会での首相指名選挙の投票先について「(公明党代表の)山口那津男さんがいい。 連携していける」と発言したためだ。 小池氏の狙いは国政での自民、公明両党による選挙協力の分断とみられるが、露骨な秋波に公明党側は「冗談ではない」と怒り心頭だ。・・・・・続きを記事元で詳しく読む【小池百合子】 外運 ▲12画(分裂・孤立・意志薄弱)人運 ◎13画(小才に長けた人気運)【日本赤十字社 平成29年7月5日からの大雨災害義援金】 受付開始しています。【日本赤十字社 平成28年熊本地震災害義援金】 受付開始しています。終戦の詔勅(玉音放送)※左に現代訳が表示昭和天皇「日本と共にアジアの開放に協力した国々に申し訳なく・・・・・」【大東亜戦争とは】--- 文字数制限で内容を簡略化してあります。 ---【日本が国際連盟の規約に人種差別撤廃条項を提案】時は第一次世界大戦終結後のお話です。 肌の色が濃いものほど欧米諸国では猿扱いしていた時代です。 欧米列強が植民地支配で搾取していた事は今更説明するまでもありませんが、第一次世界大戦後に初めて発足された国際連盟の規約に日本からは牧野伸顕が人種差別撤廃条項を提案、何とか票決にこぎつけて、賛成11 反対5で多数決で勝ったのですが、何と、アメリカのウッドロウ・ウィルソン議長に、この時ばかりは全会一致でないことを理由に否決されました。 植民地支配で欧米列強が搾取していたので日本の人種差別撤廃条項は邪魔でした。 とくに人種差別撤廃に強く反対していたのが英国とアメリカでした。【三国同盟/ABCD包囲網/大東亜共栄圏を含む自存・自衛の大東亜戦争へ】日本は国際連盟から抜けて三国同盟(日独伊)を結びます。しかし、それを脅威としたアメリカは日本に対して、ABCD包囲網で石油や鉄屑など(日本が必要な資源)を入らなくしてしまいました。 働くことが幸せで美徳とする日本人には大変な死活問題です。 そこでやむなく、国際法が認める、自存・自衛の戦争に突入していきました。欧米列強が支配している植民地を攻めて開放していきました。 同時に支那(中国)とも戦争をしていました。 蒋介石の国民党軍を背後からアメリカが支援して泥沼化させました。 日本側へ最後通牒とも受け取れるハルノートで無理難題を突き付けました。 当時のアメリカ大統領は、フランクリン・ルーズベルトで彼は徹底した反日主義者で、中国に甘い幻想を抱き、しかもその側近にはソ連のスパイがうごめいていました。 フランクリン・ルーズベルト(アメリカ合衆国の第32代大統領)は戦争をしないことを公約に掲げて大統領になりました。 それでアメリカ世論の賛同を得るために、日本を絞めつけて日本からの攻撃を待っていたのです。 日本軍は30倍〜40倍とも言われたアメリカの戦力を絶つために真珠湾攻撃で開戦して講和に運ぶ狙いがありました。●ハルノート案のハリー・ホワイトは、ソ連コミンテルンのスパイでベノナ文書により確認済みです。●日本が相手にした連合国側は、コチラを参照。(以上のこれらが大東亜戦争のあらすじです。)大東亜戦争は連合国側のABCD包囲網に対しての国際法が認める自存・自衛戦争であり、大東亜共栄圏(欧米列強から植民地開放)を目的とした戦争でした。【昭和天皇の御聖断/ポツダム宣言受諾】(1945年8月14日に宣言を受諾、1945年9月2日に調印)ここから先は皆さんがご存知の通りで広島も長崎も現在では国際法で禁止されている原爆を投下されました。 昭和天皇は御前会議で自分のことなら構わないからと、ポツダム宣言を受諾する事を御聖断されました。【極東国際軍事裁判】(別名:東京裁判)(1946年5月3日〜1948年11月12日)日本側の合法な自衛戦争のままでは「通例の戦争犯罪」(捕虜への虐待とか戦争法規に反する行為のこと)までしか裁けないので中立国が裁かず、『事後法』で平和に対する罪と人道に対する罪が追加されて戦勝国側の判事同士が談合して判決を1本化した、リンチ裁判を行ったのです。この極東国際軍事裁判=東京裁判で事後法により裁かれ、国家指導者は、東条英機以下7名が絞首刑、16名が終身禁固という判決でした。 東条英機大将は裁判で最後まで自衛戦争を訴えて、死刑判決後には深々と一礼して判決を潔く受けました。インドのパール判事だけが事後法で裁くのには反対して、被告人全員の無罪を主張したのです。しかし、結果ありきのままのリンチ裁判での判決でした。■■■(大切な部分のお話は以下に続きます。)■■■【補足】 ラダ・ビノード・パールは、インドの法学者、裁判官、コルカタ大学教授、国際連合国際法委員長を歴任。 ベンガル人。 ヒンドゥー法を専攻。 東京裁判(極東国際軍事裁判)の11人の判事の中で唯一国際法に通じていたのはインド代表のパール判事だけでパールは「裁判の方向性が予め決定づけられており、判決ありきの茶番劇である」との主旨でこの裁判そのものを批判し、被告の全員無罪を主張した。 これは裁判憲章の平和に対する罪、人道に対する罪は事後法であり、罪刑法定主義の立場から被告人を有罪であるとする根拠自体が成立しないという判断によるものであり、日本の戦争責任が存在しないという立場ではないことも加えた。■■■しかし、大切な部分のお話はココからです。■■■●マッカーサー「日本は自衛戦争」と証言昭和26年5月3日、米上院軍事外交合同委員会の公式の場で行われた質疑応答で、連合国側の経済封鎖で追い詰められた日本が、「主に自衛(安全保障)上の理由から、戦争に走った」と述べた。 マッカーサーは「太平洋において米国が過去百年間に犯した最大の政治的過ちは共産主義者を中国において強大にさせたことだと私は考える」とも発言。 マッカーサーは、日本が間違っていたのではなく、自分たちが間違っていたことを語った。【お話のまとめ】■連合国側のABCD包囲網に対しての合法な自存・自衛の戦争であり、大東亜共栄圏(欧米列強から植民地開放)を目的とした戦争でした。■東京裁判(極東国際軍事裁判)が結果ありきのインチキ談合リンチ裁判だったのです。インドネシア共和国 初代大統領スカルノ【動画】インドネシア独立戦争と日本軍大東亜戦争(第二次世界大戦の太平洋戦争)で日本が敗戦後も日本兵がインドネシアに、千数百名~残って、上官の命によって兵器の集積庫を開放、独立軍に武器、兵器を横流し(※本来は禁止行為)。 インドネシア人の指揮官がみずから率いる「民族軍」である郷土防衛義勇軍(ペタ)を組織するなど、日本兵が戦術を指導、植民地支配で味をしめたオランダ、イギリスを相手に、4年5ヶ月にわたる戦争で、80万人が犠牲になったが、結果的に、インドネシアは武力闘争と外交交渉によって独立を達成し、1949年12月にインドネシア連邦共和国が成立し、さらに連邦構成国がインドネシア共和国に合流して、1950年8月15日に単一のインドネシア共和国が誕生した。 戦死した日本兵達はインドネシア独立の英雄としてカリバタ英雄墓地に祀られている。●大東亜戦争を世界はいかに評価しているか------- 内容を簡略化したので、まだまだ詳細不足の箇所があります。 -------
2017/09/28

新党の場合は来年4月まで政党交付金は出ないようです。 一人辺りの供託金だけでも600万円程らしいです。 選挙をするには事務所やらポスター、チラシ等にも金が必要です。 小池百合子は150人の擁立を公言しましたが? 安倍首相の解散時期の判断ですが、【渡邉哲也】氏の説明をどうぞ♪【日本赤十字社 平成29年7月5日からの大雨災害義援金】 受付開始しています。【日本赤十字社 平成28年熊本地震災害義援金】 受付開始しています。終戦の詔勅(玉音放送)※左に現代訳が表示昭和天皇「日本と共にアジアの開放に協力した国々に申し訳なく・・・・・」【大東亜戦争とは】--- 文字数制限で内容を簡略化してあります。 ---【日本が国際連盟の規約に人種差別撤廃条項を提案】時は第一次世界大戦終結後のお話です。 肌の色が濃いものほど欧米諸国では猿扱いしていた時代です。 欧米列強が植民地支配で搾取していた事は今更説明するまでもありませんが、第一次世界大戦後に初めて発足された国際連盟の規約に日本からは牧野伸顕が人種差別撤廃条項を提案、何とか票決にこぎつけて、賛成11 反対5で多数決で勝ったのですが、何と、アメリカのウッドロウ・ウィルソン議長に、この時ばかりは全会一致でないことを理由に否決されました。 植民地支配で欧米列強が搾取していたので日本の人種差別撤廃条項は邪魔でした。 とくに人種差別撤廃に強く反対していたのが英国とアメリカでした。【三国同盟/ABCD包囲網/大東亜共栄圏を含む自存・自衛の大東亜戦争へ】日本は国際連盟から抜けて三国同盟(日独伊)を結びます。しかし、それを脅威としたアメリカは日本に対して、ABCD包囲網で石油や鉄屑など(日本が必要な資源)を入らなくしてしまいました。 働くことが幸せで美徳とする日本人には大変な死活問題です。 そこでやむなく、国際法が認める、自存・自衛の戦争に突入していきました。欧米列強が支配している植民地を攻めて開放していきました。 同時に支那(中国)とも戦争をしていました。 蒋介石の国民党軍を背後からアメリカが支援して泥沼化させました。 日本側へ最後通牒とも受け取れるハルノートで無理難題を突き付けました。 当時のアメリカ大統領は、フランクリン・ルーズベルトで彼は徹底した反日主義者で、中国に甘い幻想を抱き、しかもその側近にはソ連のスパイがうごめいていました。 フランクリン・ルーズベルト(アメリカ合衆国の第32代大統領)は戦争をしないことを公約に掲げて大統領になりました。 それでアメリカ世論の賛同を得るために、日本を絞めつけて日本からの攻撃を待っていたのです。 日本軍は30倍〜40倍とも言われたアメリカの戦力を絶つために真珠湾攻撃で開戦して講和に運ぶ狙いがありました。●ハルノート案のハリー・ホワイトは、ソ連コミンテルンのスパイでベノナ文書により確認済みです。●日本が相手にした連合国側は、コチラを参照。(以上のこれらが大東亜戦争のあらすじです。)大東亜戦争は連合国側のABCD包囲網に対しての国際法が認める自存・自衛戦争であり、大東亜共栄圏(欧米列強から植民地開放)を目的とした戦争でした。【昭和天皇の御聖断/ポツダム宣言受諾】(1945年8月14日に宣言を受諾、1945年9月2日に調印)ここから先は皆さんがご存知の通りで広島も長崎も現在では国際法で禁止されている原爆を投下されました。 昭和天皇は御前会議で自分のことなら構わないからと、ポツダム宣言を受諾する事を御聖断されました。【極東国際軍事裁判】(別名:東京裁判)(1946年5月3日〜1948年11月12日)日本側の合法な自衛戦争のままでは「通例の戦争犯罪」(捕虜への虐待とか戦争法規に反する行為のこと)までしか裁けないので中立国が裁かず、『事後法』で平和に対する罪と人道に対する罪が追加されて戦勝国側の判事同士が談合して判決を1本化した、リンチ裁判を行ったのです。この極東国際軍事裁判=東京裁判で事後法により裁かれ、国家指導者は、東条英機以下7名が絞首刑、16名が終身禁固という判決でした。 東条英機大将は裁判で最後まで自衛戦争を訴えて、死刑判決後には深々と一礼して判決を潔く受けました。インドのパール判事だけが事後法で裁くのには反対して、被告人全員の無罪を主張したのです。しかし、結果ありきのままのリンチ裁判での判決でした。■■■(大切な部分のお話は以下に続きます。)■■■【補足】 ラダ・ビノード・パールは、インドの法学者、裁判官、コルカタ大学教授、国際連合国際法委員長を歴任。 ベンガル人。 ヒンドゥー法を専攻。 東京裁判(極東国際軍事裁判)の11人の判事の中で唯一国際法に通じていたのはインド代表のパール判事だけでパールは「裁判の方向性が予め決定づけられており、判決ありきの茶番劇である」との主旨でこの裁判そのものを批判し、被告の全員無罪を主張した。 これは裁判憲章の平和に対する罪、人道に対する罪は事後法であり、罪刑法定主義の立場から被告人を有罪であるとする根拠自体が成立しないという判断によるものであり、日本の戦争責任が存在しないという立場ではないことも加えた。■■■しかし、大切な部分のお話はココからです。■■■●マッカーサー「日本は自衛戦争」と証言昭和26年5月3日、米上院軍事外交合同委員会の公式の場で行われた質疑応答で、連合国側の経済封鎖で追い詰められた日本が、「主に自衛(安全保障)上の理由から、戦争に走った」と述べた。 マッカーサーは「太平洋において米国が過去百年間に犯した最大の政治的過ちは共産主義者を中国において強大にさせたことだと私は考える」とも発言。 マッカーサーは、日本が間違っていたのではなく、自分たちが間違っていたことを語った。【お話のまとめ】■連合国側のABCD包囲網に対しての合法な自存・自衛の戦争であり、大東亜共栄圏(欧米列強から植民地開放)を目的とした戦争でした。■東京裁判(極東国際軍事裁判)が結果ありきのインチキ談合リンチ裁判だったのです。インドネシア共和国 初代大統領スカルノ【動画】インドネシア独立戦争と日本軍大東亜戦争(第二次世界大戦の太平洋戦争)で日本が敗戦後も日本兵がインドネシアに、千数百名~残って、上官の命によって兵器の集積庫を開放、独立軍に武器、兵器を横流し(※本来は禁止行為)。 インドネシア人の指揮官がみずから率いる「民族軍」である郷土防衛義勇軍(ペタ)を組織するなど、日本兵が戦術を指導、植民地支配で味をしめたオランダ、イギリスを相手に、4年5ヶ月にわたる戦争で、80万人が犠牲になったが、結果的に、インドネシアは武力闘争と外交交渉によって独立を達成し、1949年12月にインドネシア連邦共和国が成立し、さらに連邦構成国がインドネシア共和国に合流して、1950年8月15日に単一のインドネシア共和国が誕生した。 戦死した日本兵達はインドネシア独立の英雄としてカリバタ英雄墓地に祀られている。●大東亜戦争を世界はいかに評価しているか------- 内容を簡略化したので、まだまだ詳細不足の箇所があります。 -------
2017/09/27

策士やで〜!! 策士の小池百合子都知事が今回またまた策を企てています。 今回、新政党の代表になったのは単純に前回の都議選と同様に己の人気で票を集めたいだけ。 前回の都議選も代表になって票を集めて終ったら代表交代でスタコラサッサと逃げたしね。 根っからの策士です。 外運 ▲12画(分裂・孤立・意志薄弱)人運 ◎13画(小才に長けた人気運)小池百合子のコレまでのやり方を今一度振り返って考えても判ります〜。もっともらしく調子の良いことを言っていますがね〜 人気取りの為に、豊洲移転を加速させずに遅らせたのは誰だ〜( 選挙後にタイミングを計って、また代表交代で逃げるほうに、一票〜♪ )【記事】2017.9.26 東京都の小池知事は記者団に対し、都議会の代表質問で「希望の党」を設立し、党の代表に就任したことを踏まえた指摘が出されたことについて「都政を加速させていくことで今回、この動きになっている。 国と都にとっていちばんいい方法だ」と述べました。・・・・・続きを記事元で詳しく読む【日本赤十字社 平成29年7月5日からの大雨災害義援金】 受付開始しています。【日本赤十字社 平成28年熊本地震災害義援金】 受付開始しています。終戦の詔勅(玉音放送)※左に現代訳が表示昭和天皇「日本と共にアジアの開放に協力した国々に申し訳なく・・・・・」【大東亜戦争とは】--- 文字数制限で内容を簡略化してあります。 ---【日本が国際連盟の規約に人種差別撤廃条項を提案】時は第一次世界大戦終結後のお話です。 肌の色が濃いものほど欧米諸国では猿扱いしていた時代です。 欧米列強が植民地支配で搾取していた事は今更説明するまでもありませんが、第一次世界大戦後に初めて発足された国際連盟の規約に日本からは牧野伸顕が人種差別撤廃条項を提案、何とか票決にこぎつけて、賛成11 反対5で多数決で勝ったのですが、何と、アメリカのウッドロウ・ウィルソン議長に、この時ばかりは全会一致でないことを理由に否決されました。 植民地支配で欧米列強が搾取していたので日本の人種差別撤廃条項は邪魔でした。 とくに人種差別撤廃に強く反対していたのが英国とアメリカでした。【三国同盟/ABCD包囲網/大東亜共栄圏を含む自存・自衛の大東亜戦争へ】日本は国際連盟から抜けて三国同盟(日独伊)を結びます。しかし、それを脅威としたアメリカは日本に対して、ABCD包囲網で石油や鉄屑など(日本が必要な資源)を入らなくしてしまいました。 働くことが幸せで美徳とする日本人には大変な死活問題です。 そこでやむなく、国際法が認める、自存・自衛の戦争に突入していきました。欧米列強が支配している植民地を攻めて開放していきました。 同時に支那(中国)とも戦争をしていました。 蒋介石の国民党軍を背後からアメリカが支援して泥沼化させました。 日本側へ最後通牒とも受け取れるハルノートで無理難題を突き付けました。 当時のアメリカ大統領は、フランクリン・ルーズベルトで彼は徹底した反日主義者で、中国に甘い幻想を抱き、しかもその側近にはソ連のスパイがうごめいていました。 フランクリン・ルーズベルト(アメリカ合衆国の第32代大統領)は戦争をしないことを公約に掲げて大統領になりました。 それでアメリカ世論の賛同を得るために、日本を絞めつけて日本からの攻撃を待っていたのです。 日本軍は30倍〜40倍とも言われたアメリカの戦力を絶つために真珠湾攻撃で開戦して講和に運ぶ狙いがありました。●ハルノート案のハリー・ホワイトは、ソ連コミンテルンのスパイでベノナ文書により確認済みです。●日本が相手にした連合国側は、コチラを参照。(以上のこれらが大東亜戦争のあらすじです。)大東亜戦争は連合国側のABCD包囲網に対しての国際法が認める自存・自衛戦争であり、大東亜共栄圏(欧米列強から植民地開放)を目的とした戦争でした。この極東国際軍事裁判=東京裁判で事後法により裁かれ、国家指導者は、東条英機以下7名が絞首刑、16名が終身禁固という判決でした。 東条英機大将は裁判で最後まで自衛戦争を訴えて、死刑判決後には深々と一礼して判決を潔く受けました。インドのパール判事だけが事後法で裁くのには反対して、被告人全員の無罪を主張したのです。しかし、結果ありきのままのリンチ裁判での判決でした。■■■(大切な部分のお話は以下に続きます。)■■■【昭和天皇の御聖断/ポツダム宣言受諾】(1945年8月14日に宣言を受諾、1945年9月2日に調印)ここから先は皆さんがご存知の通りで広島も長崎も現在では国際法で禁止されている原爆を投下されました。 昭和天皇は御前会議で自分のことなら構わないからと、ポツダム宣言を受諾する事を御聖断されました。【極東国際軍事裁判】(別名:東京裁判)(1946年5月3日〜1948年11月12日)日本側の合法な自衛戦争のままでは「通例の戦争犯罪」(捕虜への虐待とか戦争法規に反する行為のこと)までしか裁けないので中立国が裁かず、『事後法』で平和に対する罪と人道に対する罪が追加されて戦勝国側の判事同士が談合して判決を1本化した、リンチ裁判を行ったのです。【補足】 ラダ・ビノード・パールは、インドの法学者、裁判官、コルカタ大学教授、国際連合国際法委員長を歴任。 ベンガル人。 ヒンドゥー法を専攻。 東京裁判(極東国際軍事裁判)の11人の判事の中で唯一国際法に通じていたのはインド代表のパール判事だけでパールは「裁判の方向性が予め決定づけられており、判決ありきの茶番劇である」との主旨でこの裁判そのものを批判し、被告の全員無罪を主張した。 これは裁判憲章の平和に対する罪、人道に対する罪は事後法であり、罪刑法定主義の立場から被告人を有罪であるとする根拠自体が成立しないという判断によるものであり、日本の戦争責任が存在しないという立場ではないことも加えた。■■■しかし、大切な部分のお話はココからです。■■■●マッカーサー「日本は自衛戦争」と証言昭和26年5月3日、米上院軍事外交合同委員会の公式の場で行われた質疑応答で、連合国側の経済封鎖で追い詰められた日本が、「主に自衛(安全保障)上の理由から、戦争に走った」と述べた。 マッカーサーは「太平洋において米国が過去百年間に犯した最大の政治的過ちは共産主義者を中国において強大にさせたことだと私は考える」とも発言。 マッカーサーは、日本が間違っていたのではなく、自分たちが間違っていたことを語った。【お話のまとめ】■連合国側のABCD包囲網に対しての合法な自存・自衛の戦争であり、大東亜共栄圏(欧米列強から植民地開放)を目的とした戦争でした。■東京裁判(極東国際軍事裁判)が結果ありきのインチキ談合リンチ裁判だったのです。インドネシア共和国 初代大統領スカルノ【動画】インドネシア独立戦争と日本軍大東亜戦争(第二次世界大戦の太平洋戦争)で日本が敗戦後も日本兵がインドネシアに、千数百名~残って、上官の命によって兵器の集積庫を開放、独立軍に武器、兵器を横流し(※本来は禁止行為)。 インドネシア人の指揮官がみずから率いる「民族軍」である郷土防衛義勇軍(ペタ)を組織するなど、日本兵が戦術を指導、植民地支配で味をしめたオランダ、イギリスを相手に、4年5ヶ月にわたる戦争で、80万人が犠牲になったが、結果的に、インドネシアは武力闘争と外交交渉によって独立を達成し、1949年12月にインドネシア連邦共和国が成立し、さらに連邦構成国がインドネシア共和国に合流して、1950年8月15日に単一のインドネシア共和国が誕生した。 戦死した日本兵達はインドネシア独立の英雄としてカリバタ英雄墓地に祀られている。●大東亜戦争を世界はいかに評価しているか------- 内容を簡略化したので、まだまだ詳細不足の箇所があります。 -------
2017/09/27

TBSは酷いね〜 罰則を与えるとかできないのかね、、。 TBS番組では、驚くべきシーンがあった。 安倍首相が解散の「大義」について説明していると、「2人でモリカケっ!」という不可解な音声が突然流れたのだ。 その直後、キャスター2人が安倍首相の発言を遮ろうとした。 しばらくして、女性キャスターは「こちらをまずご覧をいただきたい。 モリカケ隠しなのでしょうか」といい、森友・加計学園に関する疑惑をまとめたVTRを流した。【記事】2017.9.26安倍晋三首相は25日夜、TBS系「NEWS23」などに生出演し、学校法人「加計学園」の獣医学部新設計画をめぐる一連の報道に苦言を呈した。 加戸守行(かと・もりゆき)前愛媛県知事が、国会で「ゆがめられた行政が正された」と主張したにも関わらず、多くのメディアが取り上げなかった“偏向報道問題”を指摘したのだ。「ぜひ、(加戸氏らが指摘した手続きの正当性などの)そういう証言もしっかりと報道していただき、できるだけ材料を提供していただけなければ国民の皆さんも判断のしようがない」安倍首相は25日夜、TBS番組でこう訴えた。 これに先立ち、・・・・・続きを記事元で詳しく読む【日本赤十字社 平成29年7月5日からの大雨災害義援金】 受付開始しています。【日本赤十字社 平成28年熊本地震災害義援金】 受付開始しています。終戦の詔勅(玉音放送)※左に現代訳が表示昭和天皇「日本と共にアジアの開放に協力した国々に申し訳なく・・・・・」【大東亜戦争とは】--- 文字数制限で内容を簡略化してあります。 ---【日本が国際連盟の規約に人種差別撤廃条項を提案】時は第一次世界大戦終結後のお話です。 肌の色が濃いものほど欧米諸国では猿扱いしていた時代です。 欧米列強が植民地支配で搾取していた事は今更説明するまでもありませんが、第一次世界大戦後に初めて発足された国際連盟の規約に日本からは牧野伸顕が人種差別撤廃条項を提案、何とか票決にこぎつけて、賛成11 反対5で多数決で勝ったのですが、何と、アメリカのウッドロウ・ウィルソン議長に、この時ばかりは全会一致でないことを理由に否決されました。 植民地支配で欧米列強が搾取していたので日本の人種差別撤廃条項は邪魔でした。 とくに人種差別撤廃に強く反対していたのが英国とアメリカでした。【三国同盟/ABCD包囲網/大東亜共栄圏を含む自存・自衛の大東亜戦争へ】日本は国際連盟から抜けて三国同盟(日独伊)を結びます。しかし、それを脅威としたアメリカは日本に対して、ABCD包囲網で石油や鉄屑など(日本が必要な資源)を入らなくしてしまいました。 働くことが幸せで美徳とする日本人には大変な死活問題です。 そこでやむなく、国際法が認める、自存・自衛の戦争に突入していきました。欧米列強が支配している植民地を攻めて開放していきました。 同時に支那(中国)とも戦争をしていました。 蒋介石の国民党軍を背後からアメリカが支援して泥沼化させました。 日本側へ最後通牒とも受け取れるハルノートで無理難題を突き付けました。 当時のアメリカ大統領は、フランクリン・ルーズベルトで彼は徹底した反日主義者で、中国に甘い幻想を抱き、しかもその側近にはソ連のスパイがうごめいていました。 フランクリン・ルーズベルト(アメリカ合衆国の第32代大統領)は戦争をしないことを公約に掲げて大統領になりました。 それでアメリカ世論の賛同を得るために、日本を絞めつけて日本からの攻撃を待っていたのです。 日本軍は30倍〜40倍とも言われたアメリカの戦力を絶つために真珠湾攻撃で開戦して講和に運ぶ狙いがありました。●ハルノート案のハリー・ホワイトは、ソ連コミンテルンのスパイでベノナ文書により確認済みです。●日本が相手にした連合国側は、コチラを参照。(以上のこれらが大東亜戦争のあらすじです。)大東亜戦争は連合国側のABCD包囲網に対しての国際法が認める自存・自衛戦争であり、大東亜共栄圏(欧米列強から植民地開放)を目的とした戦争でした。【昭和天皇の御聖断/ポツダム宣言受諾】(1945年8月14日に宣言を受諾、1945年9月2日に調印)ここから先は皆さんがご存知の通りで広島も長崎も現在では国際法で禁止されている原爆を投下されました。 昭和天皇は御前会議で自分のことなら構わないからと、ポツダム宣言を受諾する事を御聖断されました。【極東国際軍事裁判】(別名:東京裁判)(1946年5月3日〜1948年11月12日)日本側の合法な自衛戦争のままでは「通例の戦争犯罪」(捕虜への虐待とか戦争法規に反する行為のこと)までしか裁けないので中立国が裁かず、『事後法』で平和に対する罪と人道に対する罪が追加されて戦勝国側の判事同士が談合して判決を1本化した、リンチ裁判を行ったのです。この極東国際軍事裁判=東京裁判で事後法により裁かれ、国家指導者は、東条英機以下7名が絞首刑、16名が終身禁固という判決でした。 東条英機大将は裁判で最後まで自衛戦争を訴えて、死刑判決後には深々と一礼して判決を潔く受けました。インドのパール判事だけが事後法で裁くのには反対して、被告人全員の無罪を主張したのです。しかし、結果ありきのままのリンチ裁判での判決でした。■■■(大切な部分のお話は以下に続きます。)■■■【補足】 ラダ・ビノード・パールは、インドの法学者、裁判官、コルカタ大学教授、国際連合国際法委員長を歴任。 ベンガル人。 ヒンドゥー法を専攻。 東京裁判(極東国際軍事裁判)の11人の判事の中で唯一国際法に通じていたのはインド代表のパール判事だけでパールは「裁判の方向性が予め決定づけられており、判決ありきの茶番劇である」との主旨でこの裁判そのものを批判し、被告の全員無罪を主張した。 これは裁判憲章の平和に対する罪、人道に対する罪は事後法であり、罪刑法定主義の立場から被告人を有罪であるとする根拠自体が成立しないという判断によるものであり、日本の戦争責任が存在しないという立場ではないことも加えた。■■■しかし、大切な部分のお話はココからです。■■■●マッカーサー「日本は自衛戦争」と証言昭和26年5月3日、米上院軍事外交合同委員会の公式の場で行われた質疑応答で、連合国側の経済封鎖で追い詰められた日本が、「主に自衛(安全保障)上の理由から、戦争に走った」と述べた。 マッカーサーは「太平洋において米国が過去百年間に犯した最大の政治的過ちは共産主義者を中国において強大にさせたことだと私は考える」とも発言。 マッカーサーは、日本が間違っていたのではなく、自分たちが間違っていたことを語った。【お話のまとめ】■連合国側のABCD包囲網に対しての合法な自存・自衛の戦争であり、大東亜共栄圏(欧米列強から植民地開放)を目的とした戦争でした。■東京裁判(極東国際軍事裁判)が結果ありきのインチキ談合リンチ裁判だったのです。インドネシア共和国 初代大統領スカルノ【動画】インドネシア独立戦争と日本軍大東亜戦争(第二次世界大戦の太平洋戦争)で日本が敗戦後も日本兵がインドネシアに、千数百名~残って、上官の命によって兵器の集積庫を開放、独立軍に武器、兵器を横流し(※本来は禁止行為)。 インドネシア人の指揮官がみずから率いる「民族軍」である郷土防衛義勇軍(ペタ)を組織するなど、日本兵が戦術を指導、植民地支配で味をしめたオランダ、イギリスを相手に、4年5ヶ月にわたる戦争で、80万人が犠牲になったが、結果的に、インドネシアは武力闘争と外交交渉によって独立を達成し、1949年12月にインドネシア連邦共和国が成立し、さらに連邦構成国がインドネシア共和国に合流して、1950年8月15日に単一のインドネシア共和国が誕生した。 戦死した日本兵達はインドネシア独立の英雄としてカリバタ英雄墓地に祀られている。●大東亜戦争を世界はいかに評価しているか------- 内容を簡略化したので、まだまだ詳細不足の箇所があります。 -------
2017/09/26

小池氏は、若狭勝衆院議員らとともに結成する新党について党名を「希望の党」とし、自ら代表に就任することを明らかにした。 都知事就任からわずか1年。2020年東京五輪も控えている中で国政新党にも関与することとなるが。 裏で各党の議員秘書の引き抜きに動いている。 生き抜くために甘い餌で頭数が集まっても時間の経過で先にあるのは分裂だ。 安定はしないだろう。 俺は何度も言っているが、小池百合子は策士だ。 過去、これまでに転々と踏み台にしては、ハイ、サヨウナラを繰り返している。 これは小池百合子が策士であるのと、外運(副運)が【分裂・孤立・意志薄弱】の暗示があり、そのように動かされているからだ。 目先(小才)は利くが重みが無く利用できるものは国民まで振り回して利用する。 臆病な一面があるから自分では決められないで他の責任にする方法を選ぶ。ラッキーカラーのグリーンに拘るのだ。信用すると小池ワールドで馬鹿をみることになる。・・・築地・豊洲移転騒動でもお判りだろう。部屋の模様替えをさせたらピカイチかもしれんが?・・・・・続きを記事元で詳しく読む【日本赤十字社 平成29年7月5日からの大雨災害義援金】 受付開始しています。【日本赤十字社 平成28年熊本地震災害義援金】 受付開始しています。終戦の詔勅(玉音放送)※左に現代訳が表示昭和天皇「日本と共にアジアの開放に協力した国々に申し訳なく・・・・・」【大東亜戦争とは】--- 文字数制限で内容を簡略化してあります。 ---【日本が国際連盟の規約に人種差別撤廃条項を提案】時は第一次世界大戦終結後のお話です。 肌の色が濃いものほど欧米諸国では猿扱いしていた時代です。 欧米列強が植民地支配で搾取していた事は今更説明するまでもありませんが、第一次世界大戦後に初めて発足された国際連盟の規約に日本からは牧野伸顕が人種差別撤廃条項を提案、何とか票決にこぎつけて、賛成11 反対5で多数決で勝ったのですが、何と、アメリカのウッドロウ・ウィルソン議長に、この時ばかりは全会一致でないことを理由に否決されました。 植民地支配で欧米列強が搾取していたので日本の人種差別撤廃条項は邪魔でした。 とくに人種差別撤廃に強く反対していたのが英国とアメリカでした。【三国同盟/ABCD包囲網/大東亜共栄圏を含む自存・自衛の大東亜戦争へ】日本は国際連盟から抜けて三国同盟(日独伊)を結びます。しかし、それを脅威としたアメリカは日本に対して、ABCD包囲網で石油や鉄屑など(日本が必要な資源)を入らなくしてしまいました。 働くことが幸せで美徳とする日本人には大変な死活問題です。 そこでやむなく、国際法が認める、自存・自衛の戦争に突入していきました。欧米列強が支配している植民地を攻めて開放していきました。 同時に支那(中国)とも戦争をしていました。 蒋介石の国民党軍を背後からアメリカが支援して泥沼化させました。 日本側へ最後通牒とも受け取れるハルノートで無理難題を突き付けました。 当時のアメリカ大統領は、フランクリン・ルーズベルトで彼は徹底した反日主義者で、中国に甘い幻想を抱き、しかもその側近にはソ連のスパイがうごめいていました。 フランクリン・ルーズベルト(アメリカ合衆国の第32代大統領)は戦争をしないことを公約に掲げて大統領になりました。 それでアメリカ世論の賛同を得るために、日本を絞めつけて日本からの攻撃を待っていたのです。 日本軍は30倍〜40倍とも言われたアメリカの戦力を絶つために真珠湾攻撃で開戦して講和に運ぶ狙いがありました。●ハルノート案のハリー・ホワイトは、ソ連コミンテルンのスパイでベノナ文書により確認済みです。●日本が相手にした連合国側は、コチラを参照。(以上のこれらが大東亜戦争のあらすじです。)大東亜戦争は連合国側のABCD包囲網に対しての国際法が認める自存・自衛戦争であり、大東亜共栄圏(欧米列強から植民地開放)を目的とした戦争でした。【昭和天皇の御聖断/ポツダム宣言受諾】(1945年8月14日に宣言を受諾、1945年9月2日に調印)ここから先は皆さんがご存知の通りで広島も長崎も現在では国際法で禁止されている原爆を投下されました。 昭和天皇は御前会議で自分のことなら構わないからと、ポツダム宣言を受諾する事を御聖断されました。【極東国際軍事裁判】(別名:東京裁判)(1946年5月3日〜1948年11月12日)日本側の合法な自衛戦争のままでは「通例の戦争犯罪」(捕虜への虐待とか戦争法規に反する行為のこと)までしか裁けないので中立国が裁かず、『事後法』で平和に対する罪と人道に対する罪が追加されて戦勝国側の判事同士が談合して判決を1本化した、リンチ裁判を行ったのです。この極東国際軍事裁判=東京裁判で事後法により裁かれ、国家指導者は、東条英機以下7名が絞首刑、16名が終身禁固という判決でした。 東条英機大将は裁判で最後まで自衛戦争を訴えて、死刑判決後には深々と一礼して判決を潔く受けました。インドのパール判事だけが事後法で裁くのには反対して、被告人全員の無罪を主張したのです。しかし、結果ありきのままのリンチ裁判での判決でした。■■■(大切な部分のお話は以下に続きます。)■■■【補足】 ラダ・ビノード・パールは、インドの法学者、裁判官、コルカタ大学教授、国際連合国際法委員長を歴任。 ベンガル人。 ヒンドゥー法を専攻。 東京裁判(極東国際軍事裁判)の11人の判事の中で唯一国際法に通じていたのはインド代表のパール判事だけでパールは「裁判の方向性が予め決定づけられており、判決ありきの茶番劇である」との主旨でこの裁判そのものを批判し、被告の全員無罪を主張した。 これは裁判憲章の平和に対する罪、人道に対する罪は事後法であり、罪刑法定主義の立場から被告人を有罪であるとする根拠自体が成立しないという判断によるものであり、日本の戦争責任が存在しないという立場ではないことも加えた。■■■しかし、大切な部分のお話はココからです。■■■●マッカーサー「日本は自衛戦争」と証言昭和26年5月3日、米上院軍事外交合同委員会の公式の場で行われた質疑応答で、連合国側の経済封鎖で追い詰められた日本が、「主に自衛(安全保障)上の理由から、戦争に走った」と述べた。 マッカーサーは「太平洋において米国が過去百年間に犯した最大の政治的過ちは共産主義者を中国において強大にさせたことだと私は考える」とも発言。 マッカーサーは、日本が間違っていたのではなく、自分たちが間違っていたことを語った。【お話のまとめ】■連合国側のABCD包囲網に対しての合法な自存・自衛の戦争であり、大東亜共栄圏(欧米列強から植民地開放)を目的とした戦争でした。■東京裁判(極東国際軍事裁判)が結果ありきのインチキ談合リンチ裁判だったのです。インドネシア共和国 初代大統領スカルノ【動画】インドネシア独立戦争と日本軍大東亜戦争(第二次世界大戦の太平洋戦争)で日本が敗戦後も日本兵がインドネシアに、千数百名~残って、上官の命によって兵器の集積庫を開放、独立軍に武器、兵器を横流し(※本来は禁止行為)。 インドネシア人の指揮官がみずから率いる「民族軍」である郷土防衛義勇軍(ペタ)を組織するなど、日本兵が戦術を指導、植民地支配で味をしめたオランダ、イギリスを相手に、4年5ヶ月にわたる戦争で、80万人が犠牲になったが、結果的に、インドネシアは武力闘争と外交交渉によって独立を達成し、1949年12月にインドネシア連邦共和国が成立し、さらに連邦構成国がインドネシア共和国に合流して、1950年8月15日に単一のインドネシア共和国が誕生した。 戦死した日本兵達はインドネシア独立の英雄としてカリバタ英雄墓地に祀られている。●大東亜戦争を世界はいかに評価しているか------- 内容を簡略化したので、まだまだ詳細不足の箇所があります。 -------
2017/09/25

小池氏は、若狭勝衆院議員らとともに結成する新党について党名を「希望の党」とし、自ら代表に就任することを明らかにした。 都知事就任からわずか1年。2020年東京五輪も控えている中で国政新党にも関与することとなるが。 裏で各党の議員秘書の引き抜きに動いている。 生き抜くために甘い餌で頭数が集まっても時間の経過で先にあるのは分裂だ。 安定はしないだろう。 俺は何度も言っているが、小池百合子は策士だ。 過去、これまでに転々と踏み台にしては、ハイ、サヨウナラを繰り返している。 これは小池百合子が策士であるのと、外運(副運)が【分裂・孤立・意志薄弱】の暗示があり、そのように動かされているからだ。 目先(小才)は利くが重みが無く利用できるものは国民まで振り回して利用する。 臆病な一面があるから自分では決められないで他の責任にする方法を選ぶ。ラッキーカラーのグリーンに拘るのだ。信用すると小池ワールドで馬鹿をみることになる。・・・築地・豊洲移転騒動でもお判りだろう。部屋の模様替えをさせたらピカイチかもしれんが?・・・続きを記事元で詳しく読む【日本赤十字社 平成29年7月5日からの大雨災害義援金】 受付開始しています。【日本赤十字社 平成28年熊本地震災害義援金】 受付開始しています。終戦の詔勅(玉音放送)※左に現代訳が表示昭和天皇「日本と共にアジアの開放に協力した国々に申し訳なく・・・・・」【大東亜戦争とは】--- 文字数制限で内容を簡略化してあります。 ---【日本が国際連盟の規約に人種差別撤廃条項を提案】時は第一次世界大戦終結後のお話です。 肌の色が濃いものほど欧米諸国では猿扱いしていた時代です。 欧米列強が植民地支配で搾取していた事は今更説明するまでもありませんが、第一次世界大戦後に初めて発足された国際連盟の規約に日本からは牧野伸顕が人種差別撤廃条項を提案、何とか票決にこぎつけて、賛成11 反対5で多数決で勝ったのですが、何と、アメリカのウッドロウ・ウィルソン議長に、この時ばかりは全会一致でないことを理由に否決されました。 植民地支配で欧米列強が搾取していたので日本の人種差別撤廃条項は邪魔でした。 とくに人種差別撤廃に強く反対していたのが英国とアメリカでした。【三国同盟/ABCD包囲網/大東亜共栄圏を含む自存・自衛の大東亜戦争へ】日本は国際連盟から抜けて三国同盟(日独伊)を結びます。しかし、それを脅威としたアメリカは日本に対して、ABCD包囲網で石油や鉄屑など(日本が必要な資源)を入らなくしてしまいました。 働くことが幸せで美徳とする日本人には大変な死活問題です。 そこでやむなく、国際法が認める、自存・自衛の戦争に突入していきました。欧米列強が支配している植民地を攻めて開放していきました。 同時に支那(中国)とも戦争をしていました。 蒋介石の国民党軍を背後からアメリカが支援して泥沼化させました。 日本側へ最後通牒とも受け取れるハルノートで無理難題を突き付けました。 当時のアメリカ大統領は、フランクリン・ルーズベルトで彼は徹底した反日主義者で、中国に甘い幻想を抱き、しかもその側近にはソ連のスパイがうごめいていました。 フランクリン・ルーズベルト(アメリカ合衆国の第32代大統領)は戦争をしないことを公約に掲げて大統領になりました。 それでアメリカ世論の賛同を得るために、日本を絞めつけて日本からの攻撃を待っていたのです。 日本軍は30倍〜40倍とも言われたアメリカの戦力を絶つために真珠湾攻撃で開戦して講和に運ぶ狙いがありました。●ハルノート案のハリー・ホワイトは、ソ連コミンテルンのスパイでベノナ文書により確認済みです。●日本が相手にした連合国側は、コチラを参照。(以上のこれらが大東亜戦争のあらすじです。)大東亜戦争は連合国側のABCD包囲網に対しての国際法が認める自存・自衛戦争であり、大東亜共栄圏(欧米列強から植民地開放)を目的とした戦争でした。【昭和天皇の御聖断/ポツダム宣言受諾】(1945年8月14日に宣言を受諾、1945年9月2日に調印)ここから先は皆さんがご存知の通りで広島も長崎も現在では国際法で禁止されている原爆を投下されました。 昭和天皇は御前会議で自分のことなら構わないからと、ポツダム宣言を受諾する事を御聖断されました。【極東国際軍事裁判】(別名:東京裁判)(1946年5月3日〜1948年11月12日)日本側の合法な自衛戦争のままでは「通例の戦争犯罪」(捕虜への虐待とか戦争法規に反する行為のこと)までしか裁けないので中立国が裁かず、『事後法』で平和に対する罪と人道に対する罪が追加されて戦勝国側の判事同士が談合して判決を1本化した、リンチ裁判を行ったのです。この極東国際軍事裁判=東京裁判で事後法により裁かれ、国家指導者は、東条英機以下7名が絞首刑、16名が終身禁固という判決でした。 東条英機大将は裁判で最後まで自衛戦争を訴えて、死刑判決後には深々と一礼して判決を潔く受けました。インドのパール判事だけが事後法で裁くのには反対して、被告人全員の無罪を主張したのです。しかし、結果ありきのままのリンチ裁判での判決でした。■■■(大切な部分のお話は以下に続きます。)■■■【補足】 ラダ・ビノード・パールは、インドの法学者、裁判官、コルカタ大学教授、国際連合国際法委員長を歴任。 ベンガル人。 ヒンドゥー法を専攻。 東京裁判(極東国際軍事裁判)の11人の判事の中で唯一国際法に通じていたのはインド代表のパール判事だけでパールは「裁判の方向性が予め決定づけられており、判決ありきの茶番劇である」との主旨でこの裁判そのものを批判し、被告の全員無罪を主張した。 これは裁判憲章の平和に対する罪、人道に対する罪は事後法であり、罪刑法定主義の立場から被告人を有罪であるとする根拠自体が成立しないという判断によるものであり、日本の戦争責任が存在しないという立場ではないことも加えた。■■■しかし、大切な部分のお話はココからです。■■■●マッカーサー「日本は自衛戦争」と証言昭和26年5月3日、米上院軍事外交合同委員会の公式の場で行われた質疑応答で、連合国側の経済封鎖で追い詰められた日本が、「主に自衛(安全保障)上の理由から、戦争に走った」と述べた。 マッカーサーは「太平洋において米国が過去百年間に犯した最大の政治的過ちは共産主義者を中国において強大にさせたことだと私は考える」とも発言。 マッカーサーは、日本が間違っていたのではなく、自分たちが間違っていたことを語った。【お話のまとめ】■連合国側のABCD包囲網に対しての合法な自存・自衛の戦争であり、大東亜共栄圏(欧米列強から植民地開放)を目的とした戦争でした。■東京裁判(極東国際軍事裁判)が結果ありきのインチキ談合リンチ裁判だったのです。インドネシア共和国 初代大統領スカルノ【動画】インドネシア独立戦争と日本軍大東亜戦争(第二次世界大戦の太平洋戦争)で日本が敗戦後も日本兵がインドネシアに、千数百名~残って、上官の命によって兵器の集積庫を開放、独立軍に武器、兵器を横流し(※本来は禁止行為)。 インドネシア人の指揮官がみずから率いる「民族軍」である郷土防衛義勇軍(ペタ)を組織するなど、日本兵が戦術を指導、植民地支配で味をしめたオランダ、イギリスを相手に、4年5ヶ月にわたる戦争で、80万人が犠牲になったが、結果的に、インドネシアは武力闘争と外交交渉によって独立を達成し、1949年12月にインドネシア連邦共和国が成立し、さらに連邦構成国がインドネシア共和国に合流して、1950年8月15日に単一のインドネシア共和国が誕生した。 戦死した日本兵達はインドネシア独立の英雄としてカリバタ英雄墓地に祀られている。●大東亜戦争を世界はいかに評価しているか------- 内容を簡略化したので、まだまだ詳細不足の箇所があります。 -------
2017/09/25

米朝で有事が起こったら韓国も壊滅の危機に晒されるだろう、、。 常日頃から韓国は反日ばかりだし、日本に飛び火しなければ韓国なんかは、どうでもいいこと。 反日のツケ程度にしか思えんから。 常日頃の行いが大切ってことだ。 ただし、朝鮮半島からの難民が日本にも、入り込んでくるだろうな、、それも厄介。 何処までも百害あって面倒で厄介なお隣りさんだ。日本は憲法改正を進め、備えだけでも早急に。【記事】2017.9.24 米国防総省は23日、米空軍のB1戦略爆撃機などが北朝鮮の東方沖合の国際空域を飛行したと発表した。 朝鮮半島沖合を今世紀に入って最も北側まで飛行したと強調し、北朝鮮を強くけん制した。 飛行したのは在グアム空軍基地を飛び立ったB1が2機、護衛に当たった在沖縄米軍基地のF15戦闘機6機の計8機。・・・・・続きを記事元で詳しく読む【日本赤十字社 平成29年7月5日からの大雨災害義援金】 受付開始しています。【日本赤十字社 平成28年熊本地震災害義援金】 受付開始しています。終戦の詔勅(玉音放送)※左に現代訳が表示昭和天皇「日本と共にアジアの開放に協力した国々に申し訳なく・・・・・」【大東亜戦争とは】--- 文字数制限で内容を簡略化してあります。 ---【日本が国際連盟の規約に人種差別撤廃条項を提案】時は第一次世界大戦終結後のお話です。 肌の色が濃いものほど欧米諸国では猿扱いしていた時代です。 欧米列強が植民地支配で搾取していた事は今更説明するまでもありませんが、第一次世界大戦後に初めて発足された国際連盟の規約に日本からは牧野伸顕が人種差別撤廃条項を提案、何とか票決にこぎつけて、賛成11 反対5で多数決で勝ったのですが、何と、アメリカのウッドロウ・ウィルソン議長に、この時ばかりは全会一致でないことを理由に否決されました。 植民地支配で欧米列強が搾取していたので日本の人種差別撤廃条項は邪魔でした。 とくに人種差別撤廃に強く反対していたのが英国とアメリカでした。【三国同盟/ABCD包囲網/大東亜共栄圏を含む自存・自衛の大東亜戦争へ】日本は国際連盟から抜けて三国同盟(日独伊)を結びます。しかし、それを脅威としたアメリカは日本に対して、ABCD包囲網で石油や鉄屑など(日本が必要な資源)を入らなくしてしまいました。 働くことが幸せで美徳とする日本人には大変な死活問題です。 そこでやむなく、国際法が認める、自存・自衛の戦争に突入していきました。欧米列強が支配している植民地を攻めて開放していきました。 同時に支那(中国)とも戦争をしていました。 蒋介石の国民党軍を背後からアメリカが支援して泥沼化させました。 日本側へ最後通牒とも受け取れるハルノートで無理難題を突き付けました。 当時のアメリカ大統領は、フランクリン・ルーズベルトで彼は徹底した反日主義者で、中国に甘い幻想を抱き、しかもその側近にはソ連のスパイがうごめいていました。 フランクリン・ルーズベルト(アメリカ合衆国の第32代大統領)は戦争をしないことを公約に掲げて大統領になりました。 それでアメリカ世論の賛同を得るために、日本を絞めつけて日本からの攻撃を待っていたのです。 日本軍は30倍〜40倍とも言われたアメリカの戦力を絶つために真珠湾攻撃で開戦して講和に運ぶ狙いがありました。●ハルノート案のハリー・ホワイトは、ソ連コミンテルンのスパイでベノナ文書により確認済みです。●日本が相手にした連合国側は、コチラを参照。(以上のこれらが大東亜戦争のあらすじです。)大東亜戦争は連合国側のABCD包囲網に対しての国際法が認める自存・自衛戦争であり、大東亜共栄圏(欧米列強から植民地開放)を目的とした戦争でした。【昭和天皇の御聖断/ポツダム宣言受諾】(1945年8月14日に宣言を受諾、1945年9月2日に調印)ここから先は皆さんがご存知の通りで広島も長崎も現在では国際法で禁止されている原爆を投下されました。 昭和天皇は御前会議で自分のことなら構わないからと、ポツダム宣言を受諾する事を御聖断されました。【極東国際軍事裁判】(別名:東京裁判)(1946年5月3日〜1948年11月12日)日本側の合法な自衛戦争のままでは「通例の戦争犯罪」(捕虜への虐待とか戦争法規に反する行為のこと)までしか裁けないので中立国が裁かず、『事後法』で平和に対する罪と人道に対する罪が追加されて戦勝国側の判事同士が談合して判決を1本化した、リンチ裁判を行ったのです。この極東国際軍事裁判=東京裁判で事後法により裁かれ、国家指導者は、東条英機以下7名が絞首刑、16名が終身禁固という判決でした。 東条英機大将は裁判で最後まで自衛戦争を訴えて、死刑判決後には深々と一礼して判決を潔く受けました。インドのパール判事だけが事後法で裁くのには反対して、被告人全員の無罪を主張したのです。しかし、結果ありきのままのリンチ裁判での判決でした。■■■(大切な部分のお話は以下に続きます。)■■■【補足】 ラダ・ビノード・パールは、インドの法学者、裁判官、コルカタ大学教授、国際連合国際法委員長を歴任。 ベンガル人。 ヒンドゥー法を専攻。 東京裁判(極東国際軍事裁判)の11人の判事の中で唯一国際法に通じていたのはインド代表のパール判事だけでパールは「裁判の方向性が予め決定づけられており、判決ありきの茶番劇である」との主旨でこの裁判そのものを批判し、被告の全員無罪を主張した。 これは裁判憲章の平和に対する罪、人道に対する罪は事後法であり、罪刑法定主義の立場から被告人を有罪であるとする根拠自体が成立しないという判断によるものであり、日本の戦争責任が存在しないという立場ではないことも加えた。■■■しかし、大切な部分のお話はココからです。■■■●マッカーサー「日本は自衛戦争」と証言昭和26年5月3日、米上院軍事外交合同委員会の公式の場で行われた質疑応答で、連合国側の経済封鎖で追い詰められた日本が、「主に自衛(安全保障)上の理由から、戦争に走った」と述べた。 マッカーサーは「太平洋において米国が過去百年間に犯した最大の政治的過ちは共産主義者を中国において強大にさせたことだと私は考える」とも発言。 マッカーサーは、日本が間違っていたのではなく、自分たちが間違っていたことを語った。【お話のまとめ】■連合国側のABCD包囲網に対しての合法な自存・自衛の戦争であり、大東亜共栄圏(欧米列強から植民地開放)を目的とした戦争でした。■東京裁判(極東国際軍事裁判)が結果ありきのインチキ談合リンチ裁判だったのです。インドネシア共和国 初代大統領スカルノ【動画】インドネシア独立戦争と日本軍大東亜戦争(第二次世界大戦の太平洋戦争)で日本が敗戦後も日本兵がインドネシアに、千数百名~残って、上官の命によって兵器の集積庫を開放、独立軍に武器、兵器を横流し(※本来は禁止行為)。 インドネシア人の指揮官がみずから率いる「民族軍」である郷土防衛義勇軍(ペタ)を組織するなど、日本兵が戦術を指導、植民地支配で味をしめたオランダ、イギリスを相手に、4年5ヶ月にわたる戦争で、80万人が犠牲になったが、結果的に、インドネシアは武力闘争と外交交渉によって独立を達成し、1949年12月にインドネシア連邦共和国が成立し、さらに連邦構成国がインドネシア共和国に合流して、1950年8月15日に単一のインドネシア共和国が誕生した。 戦死した日本兵達はインドネシア独立の英雄としてカリバタ英雄墓地に祀られている。●大東亜戦争を世界はいかに評価しているか------- 内容を簡略化したので、まだまだ詳細不足の箇所があります。 -------
2017/09/25

韓国の優柔不断な所・・。 「ウリ達だけは助けてほしいニダ〜」ってか、、。 今から北朝鮮にゴマスリで命乞いの算段か?【記事】2017.9.23 安倍晋三首相は21日午後(日本時間22日未明)、ドナルド・トランプ米大統領と、文在寅(ムン・ジェイン)韓国大統領との3カ国首脳会談を米ニューヨークで開催した。「核・ミサイル開発」を強行する金正恩(キム・ジョンウン)朝鮮労働党委員長率いる北朝鮮に最大限の圧力をかける方針で一致した。ただ、日米両首脳は、韓国が直前に決めた800万ドル(約8億9000万円)相当の対北朝鮮人道支援に対し、「今がその時なのか」などと強い口調で詰め寄ったという。「従北」文氏率いる韓国の孤立化が際立った。 日米韓首脳会談の目的は、北朝鮮の暴走を阻止することだ。これまで、北朝鮮の核開発凍結や放棄をめぐり、1994年の「米朝枠組み合意」や、2005年の「6カ国協議による合意」が交わされてきたが、北朝鮮は合意を破って、裏で核開発を続けてきた。・・・・・続きを記事元で詳しく読む【日本赤十字社 平成29年7月5日からの大雨災害義援金】 受付開始しています。【日本赤十字社 平成28年熊本地震災害義援金】 受付開始しています。終戦の詔勅(玉音放送)※左に現代訳が表示昭和天皇「日本と共にアジアの開放に協力した国々に申し訳なく・・・・・」【大東亜戦争とは】--- 文字数制限で内容を簡略化してあります。 ---【日本が国際連盟の規約に人種差別撤廃条項を提案】時は第一次世界大戦終結後のお話です。 肌の色が濃いものほど欧米諸国では猿扱いしていた時代です。 欧米列強が植民地支配で搾取していた事は今更説明するまでもありませんが、第一次世界大戦後に初めて発足された国際連盟の規約に日本からは牧野伸顕が人種差別撤廃条項を提案、何とか票決にこぎつけて、賛成11 反対5で多数決で勝ったのですが、何と、アメリカのウッドロウ・ウィルソン議長に、この時ばかりは全会一致でないことを理由に否決されました。 植民地支配で欧米列強が搾取していたので日本の人種差別撤廃条項は邪魔でした。 とくに人種差別撤廃に強く反対していたのが英国とアメリカでした。【三国同盟/ABCD包囲網/大東亜共栄圏を含む自存・自衛の大東亜戦争へ】日本は国際連盟から抜けて三国同盟(日独伊)を結びます。しかし、それを脅威としたアメリカは日本に対して、ABCD包囲網で石油や鉄屑など(日本が必要な資源)を入らなくしてしまいました。 働くことが幸せで美徳とする日本人には大変な死活問題です。 そこでやむなく、国際法が認める、自存・自衛の戦争に突入していきました。欧米列強が支配している植民地を攻めて開放していきました。 同時に支那(中国)とも戦争をしていました。 蒋介石の国民党軍を背後からアメリカが支援して泥沼化させました。 日本側へ最後通牒とも受け取れるハルノートで無理難題を突き付けました。 当時のアメリカ大統領は、フランクリン・ルーズベルトで彼は徹底した反日主義者で、中国に甘い幻想を抱き、しかもその側近にはソ連のスパイがうごめいていました。 フランクリン・ルーズベルト(アメリカ合衆国の第32代大統領)は戦争をしないことを公約に掲げて大統領になりました。 それでアメリカ世論の賛同を得るために、日本を絞めつけて日本からの攻撃を待っていたのです。 日本軍は30倍〜40倍とも言われたアメリカの戦力を絶つために真珠湾攻撃で開戦して講和に運ぶ狙いがありました。●ハルノート案のハリー・ホワイトは、ソ連コミンテルンのスパイでベノナ文書により確認済みです。●日本が相手にした連合国側は、コチラを参照。(以上のこれらが大東亜戦争のあらすじです。)大東亜戦争は連合国側のABCD包囲網に対しての国際法が認める自存・自衛戦争であり、大東亜共栄圏(欧米列強から植民地開放)を目的とした戦争でした。【昭和天皇の御聖断/ポツダム宣言受諾】(1945年8月14日に宣言を受諾、1945年9月2日に調印)ここから先は皆さんがご存知の通りで広島も長崎も現在では国際法で禁止されている原爆を投下されました。 昭和天皇は御前会議で自分のことなら構わないからと、ポツダム宣言を受諾する事を御聖断されました。【極東国際軍事裁判】(別名:東京裁判)(1946年5月3日〜1948年11月12日)日本側の合法な自衛戦争のままでは「通例の戦争犯罪」(捕虜への虐待とか戦争法規に反する行為のこと)までしか裁けないので中立国が裁かず、『事後法』で平和に対する罪と人道に対する罪が追加されて戦勝国側の判事同士が談合して判決を1本化した、リンチ裁判を行ったのです。この極東国際軍事裁判=東京裁判で事後法により裁かれ、国家指導者は、東条英機以下7名が絞首刑、16名が終身禁固という判決でした。 東条英機大将は裁判で最後まで自衛戦争を訴えて、死刑判決後には深々と一礼して判決を潔く受けました。インドのパール判事だけが事後法で裁くのには反対して、被告人全員の無罪を主張したのです。しかし、結果ありきのままのリンチ裁判での判決でした。■■■(大切な部分のお話は以下に続きます。)■■■【補足】 ラダ・ビノード・パールは、インドの法学者、裁判官、コルカタ大学教授、国際連合国際法委員長を歴任。 ベンガル人。 ヒンドゥー法を専攻。 東京裁判(極東国際軍事裁判)の11人の判事の中で唯一国際法に通じていたのはインド代表のパール判事だけでパールは「裁判の方向性が予め決定づけられており、判決ありきの茶番劇である」との主旨でこの裁判そのものを批判し、被告の全員無罪を主張した。 これは裁判憲章の平和に対する罪、人道に対する罪は事後法であり、罪刑法定主義の立場から被告人を有罪であるとする根拠自体が成立しないという判断によるものであり、日本の戦争責任が存在しないという立場ではないことも加えた。■■■しかし、大切な部分のお話はココからです。■■■●マッカーサー「日本は自衛戦争」と証言昭和26年5月3日、米上院軍事外交合同委員会の公式の場で行われた質疑応答で、連合国側の経済封鎖で追い詰められた日本が、「主に自衛(安全保障)上の理由から、戦争に走った」と述べた。 マッカーサーは「太平洋において米国が過去百年間に犯した最大の政治的過ちは共産主義者を中国において強大にさせたことだと私は考える」とも発言。 マッカーサーは、日本が間違っていたのではなく、自分たちが間違っていたことを語った。【お話のまとめ】■連合国側のABCD包囲網に対しての合法な自存・自衛の戦争であり、大東亜共栄圏(欧米列強から植民地開放)を目的とした戦争でした。■東京裁判(極東国際軍事裁判)が結果ありきのインチキ談合リンチ裁判だったのです。インドネシア共和国 初代大統領スカルノ【動画】インドネシア独立戦争と日本軍大東亜戦争(第二次世界大戦の太平洋戦争)で日本が敗戦後も日本兵がインドネシアに、千数百名~残って、上官の命によって兵器の集積庫を開放、独立軍に武器、兵器を横流し(※本来は禁止行為)。 インドネシア人の指揮官がみずから率いる「民族軍」である郷土防衛義勇軍(ペタ)を組織するなど、日本兵が戦術を指導、植民地支配で味をしめたオランダ、イギリスを相手に、4年5ヶ月にわたる戦争で、80万人が犠牲になったが、結果的に、インドネシアは武力闘争と外交交渉によって独立を達成し、1949年12月にインドネシア連邦共和国が成立し、さらに連邦構成国がインドネシア共和国に合流して、1950年8月15日に単一のインドネシア共和国が誕生した。 戦死した日本兵達はインドネシア独立の英雄としてカリバタ英雄墓地に祀られている。●大東亜戦争を世界はいかに評価しているか------- 内容を簡略化したので、まだまだ詳細不足の箇所があります。 -------
2017/09/23

通州事件の写真を南京大虐殺と捏造する中国。 特徴は眼球をえぐり抜く。 内臓をえぐり出す。 陰部を剣でえぐる。 支那人(漢民族)は残虐な殺害の方法に特徴がある。 【通州事件とは】 『アメリカ人記者の証言』当時中国を取材していたアメリカ人ジャーナリストフレデリック・ヴィンセント・ウィリアムズは1938年11月にBehind the News in China を刊行し以下のように報道している。日本人は友人であるかのように警護者のフリをしていた支那兵による通州の日本人男女、子供等の虐殺は、古代から現代までを見渡して最悪の集団屠殺として歴史に記録されるだろう。それは1937年7月29日の明け方から始まった。そして一日中続いた。日本人の男性、女性、子供たちは野獣のような支那兵によって追い詰められていった。家から連れ出され、女子供はこの兵隊の暴漢どもに暴行を受けた。それから男たちと共にゆっくりと拷問にかけられた。ひどいことには手足を切断され、彼等の同国人が彼等を発見したときには、ほとんどの場合、男女の区別もつかなかった。多くの場合、死んだ犠牲者は池の中に投げ込まれていた。水は彼等の血で赤く染まっていた。何時間も女子供の悲鳴が家々から聞こえた。支那兵が強●し、拷問をかけていたのだ。・・・・・さらに詳細は下記リンクから飛んでください。■学校では教えない!中国人が日本人を虐殺!恐ろしい”通州事件”とは? ■通州事件【日本赤十字社 平成29年7月5日からの大雨災害義援金】 受付開始しています。【日本赤十字社 平成28年熊本地震災害義援金】 受付開始しています。終戦の詔勅(玉音放送)※左に現代訳が表示昭和天皇「日本と共にアジアの開放に協力した国々に申し訳なく・・・・・」【大東亜戦争とは】--- 文字数制限で内容を簡略化してあります。 ---【日本が国際連盟の規約に人種差別撤廃条項を提案】時は第一次世界大戦終結後のお話です。 肌の色が濃いものほど欧米諸国では猿扱いしていた時代です。 欧米列強が植民地支配で搾取していた事は今更説明するまでもありませんが、第一次世界大戦後に初めて発足された国際連盟の規約に日本からは牧野伸顕が人種差別撤廃条項を提案、何とか票決にこぎつけて、賛成11 反対5で多数決で勝ったのですが、何と、アメリカのウッドロウ・ウィルソン議長に、この時ばかりは全会一致でないことを理由に否決されました。 植民地支配で欧米列強が搾取していたので日本の人種差別撤廃条項は邪魔でした。 とくに人種差別撤廃に強く反対していたのが英国とアメリカでした。【三国同盟/ABCD包囲網/大東亜共栄圏を含む自存・自衛の大東亜戦争へ】日本は国際連盟から抜けて三国同盟(日独伊)を結びます。しかし、それを脅威としたアメリカは日本に対して、ABCD包囲網で石油や鉄屑など(日本が必要な資源)を入らなくしてしまいました。 働くことが幸せで美徳とする日本人には大変な死活問題です。 そこでやむなく、国際法が認める、自存・自衛の戦争に突入していきました。欧米列強が支配している植民地を攻めて開放していきました。 同時に支那(中国)とも戦争をしていました。 蒋介石の国民党軍を背後からアメリカが支援して泥沼化させました。 日本側へ最後通牒とも受け取れるハルノートで無理難題を突き付けました。 当時のアメリカ大統領は、フランクリン・ルーズベルトで彼は徹底した反日主義者で、中国に甘い幻想を抱き、しかもその側近にはソ連のスパイがうごめいていました。 フランクリン・ルーズベルト(アメリカ合衆国の第32代大統領)は戦争をしないことを公約に掲げて大統領になりました。 それでアメリカ世論の賛同を得るために、日本を絞めつけて日本からの攻撃を待っていたのです。 日本軍は30倍〜40倍とも言われたアメリカの戦力を絶つために真珠湾攻撃で開戦して講和に運ぶ狙いがありました。●ハルノート案のハリー・ホワイトは、ソ連コミンテルンのスパイでベノナ文書により確認済みです。●日本が相手にした連合国側は、コチラを参照。(以上のこれらが大東亜戦争のあらすじです。)大東亜戦争は連合国側のABCD包囲網に対しての国際法が認める自存・自衛戦争であり、大東亜共栄圏(欧米列強から植民地開放)を目的とした戦争でした。【昭和天皇の御聖断/ポツダム宣言受諾】(1945年8月14日に宣言を受諾、1945年9月2日に調印)ここから先は皆さんがご存知の通りで広島も長崎も現在では国際法で禁止されている原爆を投下されました。 昭和天皇は御前会議で自分のことなら構わないからと、ポツダム宣言を受諾する事を御聖断されました。【極東国際軍事裁判】(別名:東京裁判)(1946年5月3日〜1948年11月12日)日本側の合法な自衛戦争のままでは「通例の戦争犯罪」(捕虜への虐待とか戦争法規に反する行為のこと)までしか裁けないので中立国が裁かず、『事後法』で平和に対する罪と人道に対する罪が追加されて戦勝国側の判事同士が談合して判決を1本化した、リンチ裁判を行ったのです。この極東国際軍事裁判=東京裁判で事後法により裁かれ、国家指導者は、東条英機以下7名が絞首刑、16名が終身禁固という判決でした。 東条英機大将は裁判で最後まで自衛戦争を訴えて、死刑判決後には深々と一礼して判決を潔く受けました。インドのパール判事だけが事後法で裁くのには反対して、被告人全員の無罪を主張したのです。しかし、結果ありきのままのリンチ裁判での判決でした。■■■(大切な部分のお話は以下に続きます。)■■■【補足】 ラダ・ビノード・パールは、インドの法学者、裁判官、コルカタ大学教授、国際連合国際法委員長を歴任。 ベンガル人。 ヒンドゥー法を専攻。 東京裁判(極東国際軍事裁判)の11人の判事の中で唯一国際法に通じていたのはインド代表のパール判事だけでパールは「裁判の方向性が予め決定づけられており、判決ありきの茶番劇である」との主旨でこの裁判そのものを批判し、被告の全員無罪を主張した。 これは裁判憲章の平和に対する罪、人道に対する罪は事後法であり、罪刑法定主義の立場から被告人を有罪であるとする根拠自体が成立しないという判断によるものであり、日本の戦争責任が存在しないという立場ではないことも加えた。■■■しかし、大切な部分のお話はココからです。■■■●マッカーサー「日本は自衛戦争」と証言昭和26年5月3日、米上院軍事外交合同委員会の公式の場で行われた質疑応答で、連合国側の経済封鎖で追い詰められた日本が、「主に自衛(安全保障)上の理由から、戦争に走った」と述べた。 マッカーサーは「太平洋において米国が過去百年間に犯した最大の政治的過ちは共産主義者を中国において強大にさせたことだと私は考える」とも発言。 マッカーサーは、日本が間違っていたのではなく、自分たちが間違っていたことを語った。【お話のまとめ】■連合国側のABCD包囲網に対しての合法な自存・自衛の戦争であり、大東亜共栄圏(欧米列強から植民地開放)を目的とした戦争でした。■東京裁判(極東国際軍事裁判)が結果ありきのインチキ談合リンチ裁判だったのです。インドネシア共和国 初代大統領スカルノ【動画】インドネシア独立戦争と日本軍大東亜戦争(第二次世界大戦の太平洋戦争)で日本が敗戦後も日本兵がインドネシアに、千数百名~残って、上官の命によって兵器の集積庫を開放、独立軍に武器、兵器を横流し(※本来は禁止行為)。 インドネシア人の指揮官がみずから率いる「民族軍」である郷土防衛義勇軍(ペタ)を組織するなど、日本兵が戦術を指導、植民地支配で味をしめたオランダ、イギリスを相手に、4年5ヶ月にわたる戦争で、80万人が犠牲になったが、結果的に、インドネシアは武力闘争と外交交渉によって独立を達成し、1949年12月にインドネシア連邦共和国が成立し、さらに連邦構成国がインドネシア共和国に合流して、1950年8月15日に単一のインドネシア共和国が誕生した。 戦死した日本兵達はインドネシア独立の英雄としてカリバタ英雄墓地に祀られている。●大東亜戦争を世界はいかに評価しているか------- 内容を簡略化したので、まだまだ詳細不足の箇所があります。 -------
2017/09/22

若狭勝衆院議員が小池百合子東京都知事に新党代表就任を打診していることに対して・・・・・俺的にはまたか? やはりって処。小池百合子はペーパー上で人気取りの戦略を企て、励むだけのお人。仮に引き受けても選挙が終ったら、また逃げる?前回の都議選後に即、代表交代で東京都民はコケにされました(笑この辺も信を問われる選挙になりますから。小池百合子を簡潔に姓名判断すると。 外運(副運)▲12画 (分裂・孤立・意志薄弱 の暗示)人運(主な性格と運)◎13画 (小才に長け人気運 の暗示)----------------------------------【記事】2017.9.21 15:59 公明党の山口那津男代表は21日の記者会見で、国政新党の結成を目指す若狭勝衆院議員が小池百合子東京都知事に新党代表就任を打診していることに対し、都知事の職務に専念するよう求めた。・・・・・続きを記事元で詳しく読む【日本赤十字社 平成29年7月5日からの大雨災害義援金】 受付開始しています。【日本赤十字社 平成28年熊本地震災害義援金】 受付開始しています。終戦の詔勅(玉音放送)※左に現代訳が表示昭和天皇「日本と共にアジアの開放に協力した国々に申し訳なく・・・・・」【大東亜戦争とは】--- 文字数制限で内容を簡略化してあります。 ---【日本が国際連盟の規約に人種差別撤廃条項を提案】時は第一次世界大戦終結後のお話です。 肌の色が濃いものほど欧米諸国では猿扱いしていた時代です。 欧米列強が植民地支配で搾取していた事は今更説明するまでもありませんが、第一次世界大戦後に初めて発足された国際連盟の規約に日本からは牧野伸顕が人種差別撤廃条項を提案、何とか票決にこぎつけて、賛成11 反対5で多数決で勝ったのですが、何と、アメリカのウッドロウ・ウィルソン議長に、この時ばかりは全会一致でないことを理由に否決されました。 植民地支配で欧米列強が搾取していたので日本の人種差別撤廃条項は邪魔でした。 とくに人種差別撤廃に強く反対していたのが英国とアメリカでした。【三国同盟/ABCD包囲網/大東亜共栄圏を含む自存・自衛の大東亜戦争へ】日本は国際連盟から抜けて三国同盟(日独伊)を結びます。しかし、それを脅威としたアメリカは日本に対して、ABCD包囲網で石油や鉄屑など(日本が必要な資源)を入らなくしてしまいました。 働くことが幸せで美徳とする日本人には大変な死活問題です。 そこでやむなく、国際法が認める、自存・自衛の戦争に突入していきました。欧米列強が支配している植民地を攻めて開放していきました。 同時に支那(中国)とも戦争をしていました。 蒋介石の国民党軍を背後からアメリカが支援して泥沼化させました。 日本側へ最後通牒とも受け取れるハルノートで無理難題を突き付けました。 当時のアメリカ大統領は、フランクリン・ルーズベルトで彼は徹底した反日主義者で、中国に甘い幻想を抱き、しかもその側近にはソ連のスパイがうごめいていました。 フランクリン・ルーズベルト(アメリカ合衆国の第32代大統領)は戦争をしないことを公約に掲げて大統領になりました。 それでアメリカ世論の賛同を得るために、日本を絞めつけて日本からの攻撃を待っていたのです。 日本軍は30倍〜40倍とも言われたアメリカの戦力を絶つために真珠湾攻撃で開戦して講和に運ぶ狙いがありました。●ハルノート案のハリー・ホワイトは、ソ連コミンテルンのスパイでベノナ文書により確認済みです。●日本が相手にした連合国側は、コチラを参照。(以上のこれらが大東亜戦争のあらすじです。)大東亜戦争は連合国側のABCD包囲網に対しての国際法が認める自存・自衛戦争であり、大東亜共栄圏(欧米列強から植民地開放)を目的とした戦争でした。【昭和天皇の御聖断/ポツダム宣言受諾】(1945年8月14日に宣言を受諾、1945年9月2日に調印)ここから先は皆さんがご存知の通りで広島も長崎も現在では国際法で禁止されている原爆を投下されました。 昭和天皇は御前会議で自分のことなら構わないからと、ポツダム宣言を受諾する事を御聖断されました。【極東国際軍事裁判】(別名:東京裁判)(1946年5月3日〜1948年11月12日)日本側の合法な自衛戦争のままでは「通例の戦争犯罪」(捕虜への虐待とか戦争法規に反する行為のこと)までしか裁けないので中立国が裁かず、『事後法』で平和に対する罪と人道に対する罪が追加されて戦勝国側の判事同士が談合して判決を1本化した、リンチ裁判を行ったのです。この極東国際軍事裁判=東京裁判で事後法により裁かれ、国家指導者は、東条英機以下7名が絞首刑、16名が終身禁固という判決でした。 東条英機大将は裁判で最後まで自衛戦争を訴えて、死刑判決後には深々と一礼して判決を潔く受けました。インドのパール判事だけが事後法で裁くのには反対して、被告人全員の無罪を主張したのです。しかし、結果ありきのままのリンチ裁判での判決でした。■■■(大切な部分のお話は以下に続きます。)■■■【補足】 ラダ・ビノード・パールは、インドの法学者、裁判官、コルカタ大学教授、国際連合国際法委員長を歴任。 ベンガル人。 ヒンドゥー法を専攻。 東京裁判(極東国際軍事裁判)の11人の判事の中で唯一国際法に通じていたのはインド代表のパール判事だけでパールは「裁判の方向性が予め決定づけられており、判決ありきの茶番劇である」との主旨でこの裁判そのものを批判し、被告の全員無罪を主張した。 これは裁判憲章の平和に対する罪、人道に対する罪は事後法であり、罪刑法定主義の立場から被告人を有罪であるとする根拠自体が成立しないという判断によるものであり、日本の戦争責任が存在しないという立場ではないことも加えた。■■■しかし、大切な部分のお話はココからです。■■■●マッカーサー「日本は自衛戦争」と証言昭和26年5月3日、米上院軍事外交合同委員会の公式の場で行われた質疑応答で、連合国側の経済封鎖で追い詰められた日本が、「主に自衛(安全保障)上の理由から、戦争に走った」と述べた。 マッカーサーは「太平洋において米国が過去百年間に犯した最大の政治的過ちは共産主義者を中国において強大にさせたことだと私は考える」とも発言。 マッカーサーは、日本が間違っていたのではなく、自分たちが間違っていたことを語った。【お話のまとめ】■連合国側のABCD包囲網に対しての合法な自存・自衛の戦争であり、大東亜共栄圏(欧米列強から植民地開放)を目的とした戦争でした。■東京裁判(極東国際軍事裁判)が結果ありきのインチキ談合リンチ裁判だったのです。インドネシア共和国 初代大統領スカルノ【動画】インドネシア独立戦争と日本軍大東亜戦争(第二次世界大戦の太平洋戦争)で日本が敗戦後も日本兵がインドネシアに、千数百名~残って、上官の命によって兵器の集積庫を開放、独立軍に武器、兵器を横流し(※本来は禁止行為)。 インドネシア人の指揮官がみずから率いる「民族軍」である郷土防衛義勇軍(ペタ)を組織するなど、日本兵が戦術を指導、植民地支配で味をしめたオランダ、イギリスを相手に、4年5ヶ月にわたる戦争で、80万人が犠牲になったが、結果的に、インドネシアは武力闘争と外交交渉によって独立を達成し、1949年12月にインドネシア連邦共和国が成立し、さらに連邦構成国がインドネシア共和国に合流して、1950年8月15日に単一のインドネシア共和国が誕生した。 戦死した日本兵達はインドネシア独立の英雄としてカリバタ英雄墓地に祀られている。●大東亜戦争を世界はいかに評価しているか------- 内容を簡略化したので、まだまだ詳細不足の箇所があります。 -------
2017/09/21

菅義偉官房長官だけでない・・・拉致被害者家族も同じ気持ちでいたと思うわ。【記事】2017.9.20 22:05 政府はトランプ米大統領が国連総会の一般討論演説で北朝鮮の「完全破壊」に言及したことを受け、圧力強化で歩調を合わせる方針だ。米ニューヨークを訪問中の安倍晋三首相は20日午後(日本時間21日未明)の一般討論演説で、トランプ氏と同様に国際社会による北朝鮮包囲網の形成を訴える。トランプ氏が拉致問題を取り上げたことも、膠着(こうちゃく)状態の打開に向けた後押しにしたい考えだ。菅義偉官房長官は20日、自民党のインターネット番組で、トランプ氏が拉致問題に言及したことについて「安倍首相が電話会談の際に『日本には拉致問題もある』と極力言っていた。大統領の発言は涙が出るほどうれしかった」と述べた。安倍首相は一般討論演説に向け、・・・・・続きを記事元で詳しく読む【日本赤十字社 平成29年7月5日からの大雨災害義援金】 受付開始しています。【日本赤十字社 平成28年熊本地震災害義援金】 受付開始しています。終戦の詔勅(玉音放送)※左に現代訳が表示昭和天皇「日本と共にアジアの開放に協力した国々に申し訳なく・・・・・」【大東亜戦争とは】--- 文字数制限で内容を簡略化してあります。 ---【日本が国際連盟の規約に人種差別撤廃条項を提案】時は第一次世界大戦終結後のお話です。 肌の色が濃いものほど欧米諸国では猿扱いしていた時代です。 欧米列強が植民地支配で搾取していた事は今更説明するまでもありませんが、第一次世界大戦後に初めて発足された国際連盟の規約に日本からは牧野伸顕が人種差別撤廃条項を提案、何とか票決にこぎつけて、賛成11 反対5で多数決で勝ったのですが、何と、アメリカのウッドロウ・ウィルソン議長に、この時ばかりは全会一致でないことを理由に否決されました。 植民地支配で欧米列強が搾取していたので日本の人種差別撤廃条項は邪魔でした。 とくに人種差別撤廃に強く反対していたのが英国とアメリカでした。【三国同盟/ABCD包囲網/大東亜共栄圏を含む自存・自衛の大東亜戦争へ】日本は国際連盟から抜けて三国同盟(日独伊)を結びます。しかし、それを脅威としたアメリカは日本に対して、ABCD包囲網で石油や鉄屑など(日本が必要な資源)を入らなくしてしまいました。 働くことが幸せで美徳とする日本人には大変な死活問題です。 そこでやむなく、国際法が認める、自存・自衛の戦争に突入していきました。欧米列強が支配している植民地を攻めて開放していきました。 同時に支那(中国)とも戦争をしていました。 蒋介石の国民党軍を背後からアメリカが支援して泥沼化させました。 日本側へ最後通牒とも受け取れるハルノートで無理難題を突き付けました。 当時のアメリカ大統領は、フランクリン・ルーズベルトで彼は徹底した反日主義者で、中国に甘い幻想を抱き、しかもその側近にはソ連のスパイがうごめいていました。 フランクリン・ルーズベルト(アメリカ合衆国の第32代大統領)は戦争をしないことを公約に掲げて大統領になりました。 それでアメリカ世論の賛同を得るために、日本を絞めつけて日本からの攻撃を待っていたのです。 日本軍は30倍〜40倍とも言われたアメリカの戦力を絶つために真珠湾攻撃で開戦して講和に運ぶ狙いがありました。●ハルノート案のハリー・ホワイトは、ソ連コミンテルンのスパイでベノナ文書により確認済みです。●日本が相手にした連合国側は、コチラを参照。(以上のこれらが大東亜戦争のあらすじです。)大東亜戦争は連合国側のABCD包囲網に対しての国際法が認める自存・自衛戦争であり、大東亜共栄圏(欧米列強から植民地開放)を目的とした戦争でした。【昭和天皇の御聖断/ポツダム宣言受諾】(1945年8月14日に宣言を受諾、1945年9月2日に調印)ここから先は皆さんがご存知の通りで広島も長崎も現在では国際法で禁止されている原爆を投下されました。 昭和天皇は御前会議で自分のことなら構わないからと、ポツダム宣言を受諾する事を御聖断されました。【極東国際軍事裁判】(別名:東京裁判)(1946年5月3日〜1948年11月12日)日本側の合法な自衛戦争のままでは「通例の戦争犯罪」(捕虜への虐待とか戦争法規に反する行為のこと)までしか裁けないので中立国が裁かず、『事後法』で平和に対する罪と人道に対する罪が追加されて戦勝国側の判事同士が談合して判決を1本化した、リンチ裁判を行ったのです。この極東国際軍事裁判=東京裁判で事後法により裁かれ、国家指導者は、東条英機以下7名が絞首刑、16名が終身禁固という判決でした。 東条英機大将は裁判で最後まで自衛戦争を訴えて、死刑判決後には深々と一礼して判決を潔く受けました。インドのパール判事だけが事後法で裁くのには反対して、被告人全員の無罪を主張したのです。しかし、結果ありきのままのリンチ裁判での判決でした。■■■(大切な部分のお話は以下に続きます。)■■■【補足】 ラダ・ビノード・パールは、インドの法学者、裁判官、コルカタ大学教授、国際連合国際法委員長を歴任。 ベンガル人。 ヒンドゥー法を専攻。 東京裁判(極東国際軍事裁判)の11人の判事の中で唯一国際法に通じていたのはインド代表のパール判事だけでパールは「裁判の方向性が予め決定づけられており、判決ありきの茶番劇である」との主旨でこの裁判そのものを批判し、被告の全員無罪を主張した。 これは裁判憲章の平和に対する罪、人道に対する罪は事後法であり、罪刑法定主義の立場から被告人を有罪であるとする根拠自体が成立しないという判断によるものであり、日本の戦争責任が存在しないという立場ではないことも加えた。■■■しかし、大切な部分のお話はココからです。■■■●マッカーサー「日本は自衛戦争」と証言昭和26年5月3日、米上院軍事外交合同委員会の公式の場で行われた質疑応答で、連合国側の経済封鎖で追い詰められた日本が、「主に自衛(安全保障)上の理由から、戦争に走った」と述べた。 マッカーサーは「太平洋において米国が過去百年間に犯した最大の政治的過ちは共産主義者を中国において強大にさせたことだと私は考える」とも発言。 マッカーサーは、日本が間違っていたのではなく、自分たちが間違っていたことを語った。【お話のまとめ】■連合国側のABCD包囲網に対しての合法な自存・自衛の戦争であり、大東亜共栄圏(欧米列強から植民地開放)を目的とした戦争でした。■東京裁判(極東国際軍事裁判)が結果ありきのインチキ談合リンチ裁判だったのです。インドネシア共和国 初代大統領スカルノ【動画】インドネシア独立戦争と日本軍大東亜戦争(第二次世界大戦の太平洋戦争)で日本が敗戦後も日本兵がインドネシアに、千数百名~残って、上官の命によって兵器の集積庫を開放、独立軍に武器、兵器を横流し(※本来は禁止行為)。 インドネシア人の指揮官がみずから率いる「民族軍」である郷土防衛義勇軍(ペタ)を組織するなど、日本兵が戦術を指導、植民地支配で味をしめたオランダ、イギリスを相手に、4年5ヶ月にわたる戦争で、80万人が犠牲になったが、結果的に、インドネシアは武力闘争と外交交渉によって独立を達成し、1949年12月にインドネシア連邦共和国が成立し、さらに連邦構成国がインドネシア共和国に合流して、1950年8月15日に単一のインドネシア共和国が誕生した。 戦死した日本兵達はインドネシア独立の英雄としてカリバタ英雄墓地に祀られている。●大東亜戦争を世界はいかに評価しているか------- 内容を簡略化したので、まだまだ詳細不足の箇所があります。 -------
2017/09/21

山尾氏の不倫疑惑など眼中にない。(爆 今回の解散は王道! 国民の信を問う選挙だ。【記事】2017.9.20 安倍晋三首相が28日召集の臨時国会冒頭で、衆院を解散する方針を固めた。金正恩(キム・ジョンウン)朝鮮労働党委員長率いる北朝鮮の「核・ミサイル開発」が、日本や世界の深刻な脅威になるなか、「異次元の危機」もあり得る年末前に、自国の外交・安全保障政策や憲法改正、経済・社会保障政策などについて、国民の信を問う。実は、安倍首相は内閣支持率が下落していた「8月中旬」には覚悟を決めていたという。安倍首相の「解散の大義」と「覚悟の背景」とは・・・・・続きを記事元で詳しく読む【日本赤十字社 平成29年7月5日からの大雨災害義援金】 受付開始しています。【日本赤十字社 平成28年熊本地震災害義援金】 受付開始しています。終戦の詔勅(玉音放送)※左に現代訳が表示昭和天皇「日本と共にアジアの開放に協力した国々に申し訳なく・・・・・」【大東亜戦争とは】--- 文字数制限で内容を簡略化してあります。 ---【日本が国際連盟の規約に人種差別撤廃条項を提案】時は第一次世界大戦終結後のお話です。 肌の色が濃いものほど欧米諸国では猿扱いしていた時代です。 欧米列強が植民地支配で搾取していた事は今更説明するまでもありませんが、第一次世界大戦後に初めて発足された国際連盟の規約に日本からは牧野伸顕が人種差別撤廃条項を提案、何とか票決にこぎつけて、賛成11 反対5で多数決で勝ったのですが、何と、アメリカのウッドロウ・ウィルソン議長に、この時ばかりは全会一致でないことを理由に否決されました。 植民地支配で欧米列強が搾取していたので日本の人種差別撤廃条項は邪魔でした。 とくに人種差別撤廃に強く反対していたのが英国とアメリカでした。【三国同盟/ABCD包囲網/大東亜共栄圏を含む自存・自衛の大東亜戦争へ】日本は国際連盟から抜けて三国同盟(日独伊)を結びます。しかし、それを脅威としたアメリカは日本に対して、ABCD包囲網で石油や鉄屑など(日本が必要な資源)を入らなくしてしまいました。 働くことが幸せで美徳とする日本人には大変な死活問題です。 そこでやむなく、国際法が認める、自存・自衛の戦争に突入していきました。欧米列強が支配している植民地を攻めて開放していきました。 同時に支那(中国)とも戦争をしていました。 蒋介石の国民党軍を背後からアメリカが支援して泥沼化させました。 日本側へ最後通牒とも受け取れるハルノートで無理難題を突き付けました。 当時のアメリカ大統領は、フランクリン・ルーズベルトで彼は徹底した反日主義者で、中国に甘い幻想を抱き、しかもその側近にはソ連のスパイがうごめいていました。 フランクリン・ルーズベルト(アメリカ合衆国の第32代大統領)は戦争をしないことを公約に掲げて大統領になりました。 それでアメリカ世論の賛同を得るために、日本を絞めつけて日本からの攻撃を待っていたのです。 日本軍は30倍〜40倍とも言われたアメリカの戦力を絶つために真珠湾攻撃で開戦して講和に運ぶ狙いがありました。●ハルノート案のハリー・ホワイトは、ソ連コミンテルンのスパイでベノナ文書により確認済みです。●日本が相手にした連合国側は、コチラを参照。(以上のこれらが大東亜戦争のあらすじです。)大東亜戦争は連合国側のABCD包囲網に対しての国際法が認める自存・自衛戦争であり、大東亜共栄圏(欧米列強から植民地開放)を目的とした戦争でした。【昭和天皇の御聖断/ポツダム宣言受諾】(1945年8月14日に宣言を受諾、1945年9月2日に調印)ここから先は皆さんがご存知の通りで広島も長崎も現在では国際法で禁止されている原爆を投下されました。 昭和天皇は御前会議で自分のことなら構わないからと、ポツダム宣言を受諾する事を御聖断されました。【極東国際軍事裁判】(別名:東京裁判)(1946年5月3日〜1948年11月12日)日本側の合法な自衛戦争のままでは「通例の戦争犯罪」(捕虜への虐待とか戦争法規に反する行為のこと)までしか裁けないので中立国が裁かず、『事後法』で平和に対する罪と人道に対する罪が追加されて戦勝国側の判事同士が談合して判決を1本化した、リンチ裁判を行ったのです。この極東国際軍事裁判=東京裁判で事後法により裁かれ、国家指導者は、東条英機以下7名が絞首刑、16名が終身禁固という判決でした。 東条英機大将は裁判で最後まで自衛戦争を訴えて、死刑判決後には深々と一礼して判決を潔く受けました。インドのパール判事だけが事後法で裁くのには反対して、被告人全員の無罪を主張したのです。しかし、結果ありきのままのリンチ裁判での判決でした。■■■(大切な部分のお話は以下に続きます。)■■■【補足】 ラダ・ビノード・パールは、インドの法学者、裁判官、コルカタ大学教授、国際連合国際法委員長を歴任。 ベンガル人。 ヒンドゥー法を専攻。 東京裁判(極東国際軍事裁判)の11人の判事の中で唯一国際法に通じていたのはインド代表のパール判事だけでパールは「裁判の方向性が予め決定づけられており、判決ありきの茶番劇である」との主旨でこの裁判そのものを批判し、被告の全員無罪を主張した。 これは裁判憲章の平和に対する罪、人道に対する罪は事後法であり、罪刑法定主義の立場から被告人を有罪であるとする根拠自体が成立しないという判断によるものであり、日本の戦争責任が存在しないという立場ではないことも加えた。■■■しかし、大切な部分のお話はココからです。■■■●マッカーサー「日本は自衛戦争」と証言昭和26年5月3日、米上院軍事外交合同委員会の公式の場で行われた質疑応答で、連合国側の経済封鎖で追い詰められた日本が、「主に自衛(安全保障)上の理由から、戦争に走った」と述べた。 マッカーサーは「太平洋において米国が過去百年間に犯した最大の政治的過ちは共産主義者を中国において強大にさせたことだと私は考える」とも発言。 マッカーサーは、日本が間違っていたのではなく、自分たちが間違っていたことを語った。【お話のまとめ】■連合国側のABCD包囲網に対しての合法な自存・自衛の戦争であり、大東亜共栄圏(欧米列強から植民地開放)を目的とした戦争でした。■東京裁判(極東国際軍事裁判)が結果ありきのインチキ談合リンチ裁判だったのです。インドネシア共和国 初代大統領スカルノ【動画】インドネシア独立戦争と日本軍大東亜戦争(第二次世界大戦の太平洋戦争)で日本が敗戦後も日本兵がインドネシアに、千数百名~残って、上官の命によって兵器の集積庫を開放、独立軍に武器、兵器を横流し(※本来は禁止行為)。 インドネシア人の指揮官がみずから率いる「民族軍」である郷土防衛義勇軍(ペタ)を組織するなど、日本兵が戦術を指導、植民地支配で味をしめたオランダ、イギリスを相手に、4年5ヶ月にわたる戦争で、80万人が犠牲になったが、結果的に、インドネシアは武力闘争と外交交渉によって独立を達成し、1949年12月にインドネシア連邦共和国が成立し、さらに連邦構成国がインドネシア共和国に合流して、1950年8月15日に単一のインドネシア共和国が誕生した。 戦死した日本兵達はインドネシア独立の英雄としてカリバタ英雄墓地に祀られている。●大東亜戦争を世界はいかに評価しているか------- 内容を簡略化したので、まだまだ詳細不足の箇所があります。 -------
2017/09/20

遂にキター!!!ライダイハンで韓国政府に謝罪要求! 【記事】2017.9.19 07:00 ベトナム戦争に派兵された韓国軍兵士がベトナム女性を性的暴行するなどして「ライダイハン」と呼ばれる混血児が生まれた問題で「暴行の犠牲者になった人たちを救おう」と、英国の民間団体「ライダイハンのための正義」が12日、正式に設立された。団体の設立を呼びかけたのは、英国の市民活動家、ピーター・キャロル氏。同氏は「ベトナムで韓国軍兵士の性的暴行に遭った女性たちが苛酷な人生を送っていることを多くの人たちに知ってほしい」と訴えた。ロンドン市内で開かれた設立イベントにはブレア、ブラウン両政権下で司法相や外相などを務めた労働党の重鎮、ジャック・ストロー氏も参加。同氏は基調講演の中で、「ベトナムで韓国兵が行った性的暴行は重大な人権問題だ。被害女性が求めているのは・・・・・続きを記事元で詳しく読む【日本赤十字社 平成29年7月5日からの大雨災害義援金】 受付開始しています。【日本赤十字社 平成28年熊本地震災害義援金】 受付開始しています。終戦の詔勅(玉音放送)※左に現代訳が表示昭和天皇「日本と共にアジアの開放に協力した国々に申し訳なく・・・・・」【大東亜戦争とは】--- 文字数制限で内容を簡略化してあります。 ---【日本が国際連盟の規約に人種差別撤廃条項を提案】時は第一次世界大戦終結後のお話です。 肌の色が濃いものほど欧米諸国では猿扱いしていた時代です。 欧米列強が植民地支配で搾取していた事は今更説明するまでもありませんが、第一次世界大戦後に初めて発足された国際連盟の規約に日本からは牧野伸顕が人種差別撤廃条項を提案、何とか票決にこぎつけて、賛成11 反対5で多数決で勝ったのですが、何と、アメリカのウッドロウ・ウィルソン議長に、この時ばかりは全会一致でないことを理由に否決されました。 植民地支配で欧米列強が搾取していたので日本の人種差別撤廃条項は邪魔でした。 とくに人種差別撤廃に強く反対していたのが英国とアメリカでした。【三国同盟/ABCD包囲網/大東亜共栄圏を含む自存・自衛の大東亜戦争へ】日本は国際連盟から抜けて三国同盟(日独伊)を結びます。しかし、それを脅威としたアメリカは日本に対して、ABCD包囲網で石油や鉄屑など(日本が必要な資源)を入らなくしてしまいました。 働くことが幸せで美徳とする日本人には大変な死活問題です。 そこでやむなく、国際法が認める、自存・自衛の戦争に突入していきました。欧米列強が支配している植民地を攻めて開放していきました。 同時に支那(中国)とも戦争をしていました。 蒋介石の国民党軍を背後からアメリカが支援して泥沼化させました。 日本側へ最後通牒とも受け取れるハルノートで無理難題を突き付けました。 当時のアメリカ大統領は、フランクリン・ルーズベルトで彼は徹底した反日主義者で、中国に甘い幻想を抱き、しかもその側近にはソ連のスパイがうごめいていました。 フランクリン・ルーズベルト(アメリカ合衆国の第32代大統領)は戦争をしないことを公約に掲げて大統領になりました。 それでアメリカ世論の賛同を得るために、日本を絞めつけて日本からの攻撃を待っていたのです。 日本軍は30倍〜40倍とも言われたアメリカの戦力を絶つために真珠湾攻撃で開戦して講和に運ぶ狙いがありました。●ハルノート案のハリー・ホワイトは、ソ連コミンテルンのスパイでベノナ文書により確認済みです。●日本が相手にした連合国側は、コチラを参照。(以上のこれらが大東亜戦争のあらすじです。)大東亜戦争は連合国側のABCD包囲網に対しての国際法が認める自存・自衛戦争であり、大東亜共栄圏(欧米列強から植民地開放)を目的とした戦争でした。【昭和天皇の御聖断/ポツダム宣言受諾】(1945年8月14日に宣言を受諾、1945年9月2日に調印)ここから先は皆さんがご存知の通りで広島も長崎も現在では国際法で禁止されている原爆を投下されました。 昭和天皇は御前会議で自分のことなら構わないからと、ポツダム宣言を受諾する事を御聖断されました。【極東国際軍事裁判】(別名:東京裁判)(1946年5月3日〜1948年11月12日)日本側の合法な自衛戦争のままでは「通例の戦争犯罪」(捕虜への虐待とか戦争法規に反する行為のこと)までしか裁けないので中立国が裁かず、『事後法』で平和に対する罪と人道に対する罪が追加されて戦勝国側の判事同士が談合して判決を1本化した、リンチ裁判を行ったのです。この極東国際軍事裁判=東京裁判で事後法により裁かれ、国家指導者は、東条英機以下7名が絞首刑、16名が終身禁固という判決でした。 東条英機大将は裁判で最後まで自衛戦争を訴えて、死刑判決後には深々と一礼して判決を潔く受けました。インドのパール判事だけが事後法で裁くのには反対して、被告人全員の無罪を主張したのです。しかし、結果ありきのままのリンチ裁判での判決でした。■■■(大切な部分のお話は以下に続きます。)■■■【補足】 ラダ・ビノード・パールは、インドの法学者、裁判官、コルカタ大学教授、国際連合国際法委員長を歴任。 ベンガル人。 ヒンドゥー法を専攻。 東京裁判(極東国際軍事裁判)の11人の判事の中で唯一国際法に通じていたのはインド代表のパール判事だけでパールは「裁判の方向性が予め決定づけられており、判決ありきの茶番劇である」との主旨でこの裁判そのものを批判し、被告の全員無罪を主張した。 これは裁判憲章の平和に対する罪、人道に対する罪は事後法であり、罪刑法定主義の立場から被告人を有罪であるとする根拠自体が成立しないという判断によるものであり、日本の戦争責任が存在しないという立場ではないことも加えた。■■■しかし、大切な部分のお話はココからです。■■■●マッカーサー「日本は自衛戦争」と証言昭和26年5月3日、米上院軍事外交合同委員会の公式の場で行われた質疑応答で、連合国側の経済封鎖で追い詰められた日本が、「主に自衛(安全保障)上の理由から、戦争に走った」と述べた。 マッカーサーは「太平洋において米国が過去百年間に犯した最大の政治的過ちは共産主義者を中国において強大にさせたことだと私は考える」とも発言。 マッカーサーは、日本が間違っていたのではなく、自分たちが間違っていたことを語った。【お話のまとめ】■連合国側のABCD包囲網に対しての合法な自存・自衛の戦争であり、大東亜共栄圏(欧米列強から植民地開放)を目的とした戦争でした。■東京裁判(極東国際軍事裁判)が結果ありきのインチキ談合リンチ裁判だったのです。インドネシア共和国 初代大統領スカルノ【動画】インドネシア独立戦争と日本軍大東亜戦争(第二次世界大戦の太平洋戦争)で日本が敗戦後も日本兵がインドネシアに、千数百名~残って、上官の命によって兵器の集積庫を開放、独立軍に武器、兵器を横流し(※本来は禁止行為)。 インドネシア人の指揮官がみずから率いる「民族軍」である郷土防衛義勇軍(ペタ)を組織するなど、日本兵が戦術を指導、植民地支配で味をしめたオランダ、イギリスを相手に、4年5ヶ月にわたる戦争で、80万人が犠牲になったが、結果的に、インドネシアは武力闘争と外交交渉によって独立を達成し、1949年12月にインドネシア連邦共和国が成立し、さらに連邦構成国がインドネシア共和国に合流して、1950年8月15日に単一のインドネシア共和国が誕生した。 戦死した日本兵達はインドネシア独立の英雄としてカリバタ英雄墓地に祀られている。●大東亜戦争を世界はいかに評価しているか------- 内容を簡略化したので、まだまだ詳細不足の箇所があります。 -------
2017/09/19

豊田真由子■外格(副運)【この箇所は外部からの有形無形による影響の暗示です。】▲21画(新字式の場合)女性には強すぎる凶数。▲26画(旧字式の場合)破滅の危機・不安定。------------■人運 田+真=◎15画【主となる性格と運です。】(晩年期の判断は総画でも補助的に判断します。)[◎ 15画] 吉数"この数を人格に持っている本人はもちろん運が良いのですが、そればかりか不思議とまわりの人達までも幸福にしてしまうものを持っています。温厚で包容力があり心の広い人なので上司、同僚、部下全てに慕われて信頼を得ることができます。一歩一歩着実に築き上げていくという堅実な人で管理能力があり経理などの仕事に向いています。""良い家庭環境のなかで育てられ、恵まれた幼少期を過ごします。そのおかげで素直な性質が備わり、人間関係で悩むようなことはほとんどないでしょう。通訳や国際的な仕事に向いているようです。身体は健康ですが、消化器系が少々弱いようです。""仕事運、金運ともに良く、良い環境に恵まれて広い交際範囲を持ち、良い人脈を得ることができます。世の中の動向に敏感なので、情報文化、貿易関係の仕事が向いています。また、配偶者は社会的地位や生活レベルが自分より低い人を選んだ方が円満にいくようです。""どこにいても中心人物となる支配者の吉数で周りの人たちの引き立てなどにより名誉と財を手に入れることができる、きわめて恵まれた境遇にある強運の持ち主です。すぐれた事業家となる素質を十分に持っており、女性は結婚しても仕事を続け、その分野で大きな成果をあげるでしょう。家庭運、金運ともに良です。"-----【まとめ】---------------以上のように性格も運も良い人です。※ただし、気をつけなくてはいけないことがあります。 問題があるのは外格(副運)です、新字式なら女性には強すぎる統領運21画で凶数になります。 旧字式でも26画は良くありません。「この! ハゲ〜!!」・・これは余程のストレスからか? 常日頃から自分を省みる気持ちが足りなかったのか・・調子に乗りすぎたのでしょうかね、、。終戦の詔勅(玉音放送)※左に現代訳が表示昭和天皇「日本と共にアジアの開放に協力した国々に申し訳なく・・・・・」【大東亜戦争とは】--- 文字数制限で内容を簡略化してあります。 ---【日本が国際連盟の規約に人種差別撤廃条項を提案】時は第一次世界大戦終結後のお話です。 肌の色が濃いものほど欧米諸国では猿扱いしていた時代です。 欧米列強が植民地支配で搾取していた事は今更説明するまでもありませんが、第一次世界大戦後に初めて発足された国際連盟の規約に日本からは牧野伸顕が人種差別撤廃条項を提案、何とか票決にこぎつけて、賛成11 反対5で多数決で勝ったのですが、何と、アメリカのウッドロウ・ウィルソン議長に、この時ばかりは全会一致でないことを理由に否決されました。 植民地支配で欧米列強が搾取していたので日本の人種差別撤廃条項は邪魔でした。 とくに人種差別撤廃に強く反対していたのが英国とアメリカでした。【三国同盟/ABCD包囲網/大東亜共栄圏を含む自存・自衛の大東亜戦争へ】日本は国際連盟から抜けて三国同盟(日独伊)を結びます。しかし、それを脅威としたアメリカは日本に対して、ABCD包囲網で石油や鉄屑など(日本が必要な資源)を入らなくしてしまいました。 働くことが幸せで美徳とする日本人には大変な死活問題です。 そこでやむなく、国際法が認める、自存・自衛の戦争に突入していきました。欧米列強が支配している植民地を攻めて開放していきました。 同時に支那(中国)とも戦争をしていました。 蒋介石の国民党軍を背後からアメリカが支援して泥沼化させました。 日本側へ最後通牒とも受け取れるハルノートで無理難題を突き付けました。 当時のアメリカ大統領は、フランクリン・ルーズベルトで彼は徹底した反日主義者で、中国に甘い幻想を抱き、しかもその側近にはソ連のスパイがうごめいていました。 フランクリン・ルーズベルト(アメリカ合衆国の第32代大統領)は戦争をしないことを公約に掲げて大統領になりました。 それでアメリカ世論の賛同を得るために、日本を絞めつけて日本からの攻撃を待っていたのです。 日本軍は30倍〜40倍とも言われたアメリカの戦力を絶つために真珠湾攻撃で開戦して講和に運ぶ狙いがありました。●ハルノート案のハリー・ホワイトは、ソ連コミンテルンのスパイでベノナ文書により確認済みです。●日本が相手にした連合国側は、コチラを参照。(以上のこれらが大東亜戦争のあらすじです。)大東亜戦争は連合国側のABCD包囲網に対しての国際法が認める自存・自衛戦争であり、大東亜共栄圏(欧米列強から植民地開放)を目的とした戦争でした。【昭和天皇の御聖断/ポツダム宣言受諾】(1945年8月14日に宣言を受諾、1945年9月2日に調印)ここから先は皆さんがご存知の通りで広島も長崎も現在では国際法で禁止されている原爆を投下されました。 昭和天皇は御前会議で自分のことなら構わないからと、ポツダム宣言を受諾する事を御聖断されました。【極東国際軍事裁判】(別名:東京裁判)(1946年5月3日〜1948年11月12日)日本側の合法な自衛戦争のままでは「通例の戦争犯罪」(捕虜への虐待とか戦争法規に反する行為のこと)までしか裁けないので中立国が裁かず、『事後法』で平和に対する罪と人道に対する罪が追加されて戦勝国側の判事同士が談合して判決を1本化した、リンチ裁判を行ったのです。この極東国際軍事裁判=東京裁判で事後法により裁かれ、国家指導者は、東条英機以下7名が絞首刑、16名が終身禁固という判決でした。 東条英機大将は裁判で最後まで自衛戦争を訴えて、死刑判決後には深々と一礼して判決を潔く受けました。インドのパール判事だけが事後法で裁くのには反対して、被告人全員の無罪を主張したのです。しかし、結果ありきのままのリンチ裁判での判決でした。■■■(大切な部分のお話は以下に続きます。)■■■【補足】 ラダ・ビノード・パールは、インドの法学者、裁判官、コルカタ大学教授、国際連合国際法委員長を歴任。 ベンガル人。 ヒンドゥー法を専攻。 東京裁判(極東国際軍事裁判)の11人の判事の中で唯一国際法に通じていたのはインド代表のパール判事だけでパールは「裁判の方向性が予め決定づけられており、判決ありきの茶番劇である」との主旨でこの裁判そのものを批判し、被告の全員無罪を主張した。 これは裁判憲章の平和に対する罪、人道に対する罪は事後法であり、罪刑法定主義の立場から被告人を有罪であるとする根拠自体が成立しないという判断によるものであり、日本の戦争責任が存在しないという立場ではないことも加えた。■■■しかし、大切な部分のお話はココからです。■■■●マッカーサー「日本は自衛戦争」と証言昭和26年5月3日、米上院軍事外交合同委員会の公式の場で行われた質疑応答で、連合国側の経済封鎖で追い詰められた日本が、「主に自衛(安全保障)上の理由から、戦争に走った」と述べた。 マッカーサーは「太平洋において米国が過去百年間に犯した最大の政治的過ちは共産主義者を中国において強大にさせたことだと私は考える」とも発言。 マッカーサーは、日本が間違っていたのではなく、自分たちが間違っていたことを語った。【お話のまとめ】■連合国側のABCD包囲網に対しての合法な自存・自衛の戦争であり、大東亜共栄圏(欧米列強から植民地開放)を目的とした戦争でした。■東京裁判(極東国際軍事裁判)が結果ありきのインチキ談合リンチ裁判だったのです。インドネシア共和国 初代大統領スカルノ【動画】インドネシア独立戦争と日本軍大東亜戦争(第二次世界大戦の太平洋戦争)で日本が敗戦後も日本兵がインドネシアに、千数百名~残って、上官の命によって兵器の集積庫を開放、独立軍に武器、兵器を横流し(※本来は禁止行為)。 インドネシア人の指揮官がみずから率いる「民族軍」である郷土防衛義勇軍(ペタ)を組織するなど、日本兵が戦術を指導、植民地支配で味をしめたオランダ、イギリスを相手に、4年5ヶ月にわたる戦争で、80万人が犠牲になったが、結果的に、インドネシアは武力闘争と外交交渉によって独立を達成し、1949年12月にインドネシア連邦共和国が成立し、さらに連邦構成国がインドネシア共和国に合流して、1950年8月15日に単一のインドネシア共和国が誕生した。 戦死した日本兵達はインドネシア独立の英雄としてカリバタ英雄墓地に祀られている。●大東亜戦争を世界はいかに評価しているか------- 内容を簡略化したので、まだまだ詳細不足の箇所があります。 -------
2017/09/19

安倍首相はいいね〜♪ 頑張っているの一言に尽きるかな? 自分がやるべきことを御存知です。 「一燈照隅 万燈照国」 常日頃から平和ボケの売国左翼の野党とは雲泥の差ですわ。 【記事】2017.9.18 11:36 産経新聞社とFNN(フジニュースネットワーク)は16、17両日に合同世論調査を行った。安倍晋三内閣の支持率は50・3%となり、5月以来4カ月ぶりに5割を回復した。支持率は前回調査(8月19、20両日)から6・5ポイント上昇、不支持率は40・0%と前回から9・0ポイント下がった。学校法人「加計(かけ)学園」(岡山市)問題などの影響で7月の調査時(7月22、23両日)に平成24年12月の第2次内閣発足以来、最悪を記録した内閣支持率は、2カ月連続で上昇し、支持が不支持を上回った。政党支持率でも自民党は38・0%で前回から5・0ポイント上昇しており、近く衆院解散に踏み切る意向を固めた安倍首相にとっては“追い風”となりそうだ。・・・・・続きを記事元で詳しく読む【日本赤十字社 平成29年7月5日からの大雨災害義援金】 受付開始しています。【日本赤十字社 平成28年熊本地震災害義援金】 受付開始しています。終戦の詔勅(玉音放送)※左に現代訳が表示昭和天皇「日本と共にアジアの開放に協力した国々に申し訳なく・・・・・」【大東亜戦争とは】--- 文字数制限で内容を簡略化してあります。 ---【日本が国際連盟の規約に人種差別撤廃条項を提案】時は第一次世界大戦終結後のお話です。 肌の色が濃いものほど欧米諸国では猿扱いしていた時代です。 欧米列強が植民地支配で搾取していた事は今更説明するまでもありませんが、第一次世界大戦後に初めて発足された国際連盟の規約に日本からは牧野伸顕が人種差別撤廃条項を提案、何とか票決にこぎつけて、賛成11 反対5で多数決で勝ったのですが、何と、アメリカのウッドロウ・ウィルソン議長に、この時ばかりは全会一致でないことを理由に否決されました。 植民地支配で欧米列強が搾取していたので日本の人種差別撤廃条項は邪魔でした。 とくに人種差別撤廃に強く反対していたのが英国とアメリカでした。【三国同盟/ABCD包囲網/大東亜共栄圏を含む自存・自衛の大東亜戦争へ】日本は国際連盟から抜けて三国同盟(日独伊)を結びます。しかし、それを脅威としたアメリカは日本に対して、ABCD包囲網で石油や鉄屑など(日本が必要な資源)を入らなくしてしまいました。 働くことが幸せで美徳とする日本人には大変な死活問題です。 そこでやむなく、国際法が認める、自存・自衛の戦争に突入していきました。欧米列強が支配している植民地を攻めて開放していきました。 同時に支那(中国)とも戦争をしていました。 蒋介石の国民党軍を背後からアメリカが支援して泥沼化させました。 日本側へ最後通牒とも受け取れるハルノートで無理難題を突き付けました。 当時のアメリカ大統領は、フランクリン・ルーズベルトで彼は徹底した反日主義者で、中国に甘い幻想を抱き、しかもその側近にはソ連のスパイがうごめいていました。 フランクリン・ルーズベルト(アメリカ合衆国の第32代大統領)は戦争をしないことを公約に掲げて大統領になりました。 それでアメリカ世論の賛同を得るために、日本を絞めつけて日本からの攻撃を待っていたのです。 日本軍は30倍〜40倍とも言われたアメリカの戦力を絶つために真珠湾攻撃で開戦して講和に運ぶ狙いがありました。●ハルノート案のハリー・ホワイトは、ソ連コミンテルンのスパイでベノナ文書により確認済みです。●日本が相手にした連合国側は、コチラを参照。(以上のこれらが大東亜戦争のあらすじです。)大東亜戦争は連合国側のABCD包囲網に対しての国際法が認める自存・自衛戦争であり、大東亜共栄圏(欧米列強から植民地開放)を目的とした戦争でした。【昭和天皇の御聖断/ポツダム宣言受諾】(1945年8月14日に宣言を受諾、1945年9月2日に調印)ここから先は皆さんがご存知の通りで広島も長崎も現在では国際法で禁止されている原爆を投下されました。 昭和天皇は御前会議で自分のことなら構わないからと、ポツダム宣言を受諾する事を御聖断されました。【極東国際軍事裁判】(別名:東京裁判)(1946年5月3日〜1948年11月12日)日本側の合法な自衛戦争のままでは「通例の戦争犯罪」(捕虜への虐待とか戦争法規に反する行為のこと)までしか裁けないので中立国が裁かず、『事後法』で平和に対する罪と人道に対する罪が追加されて戦勝国側の判事同士が談合して判決を1本化した、リンチ裁判を行ったのです。この極東国際軍事裁判=東京裁判で事後法により裁かれ、国家指導者は、東条英機以下7名が絞首刑、16名が終身禁固という判決でした。 東条英機大将は裁判で最後まで自衛戦争を訴えて、死刑判決後には深々と一礼して判決を潔く受けました。インドのパール判事だけが事後法で裁くのには反対して、被告人全員の無罪を主張したのです。しかし、結果ありきのままのリンチ裁判での判決でした。■■■(大切な部分のお話は以下に続きます。)■■■【補足】 ラダ・ビノード・パールは、インドの法学者、裁判官、コルカタ大学教授、国際連合国際法委員長を歴任。 ベンガル人。 ヒンドゥー法を専攻。 東京裁判(極東国際軍事裁判)の11人の判事の中で唯一国際法に通じていたのはインド代表のパール判事だけでパールは「裁判の方向性が予め決定づけられており、判決ありきの茶番劇である」との主旨でこの裁判そのものを批判し、被告の全員無罪を主張した。 これは裁判憲章の平和に対する罪、人道に対する罪は事後法であり、罪刑法定主義の立場から被告人を有罪であるとする根拠自体が成立しないという判断によるものであり、日本の戦争責任が存在しないという立場ではないことも加えた。■■■しかし、大切な部分のお話はココからです。■■■●マッカーサー「日本は自衛戦争」と証言昭和26年5月3日、米上院軍事外交合同委員会の公式の場で行われた質疑応答で、連合国側の経済封鎖で追い詰められた日本が、「主に自衛(安全保障)上の理由から、戦争に走った」と述べた。 マッカーサーは「太平洋において米国が過去百年間に犯した最大の政治的過ちは共産主義者を中国において強大にさせたことだと私は考える」とも発言。 マッカーサーは、日本が間違っていたのではなく、自分たちが間違っていたことを語った。【お話のまとめ】■連合国側のABCD包囲網に対しての合法な自存・自衛の戦争であり、大東亜共栄圏(欧米列強から植民地開放)を目的とした戦争でした。■東京裁判(極東国際軍事裁判)が結果ありきのインチキ談合リンチ裁判だったのです。インドネシア共和国 初代大統領スカルノ【動画】インドネシア独立戦争と日本軍大東亜戦争(第二次世界大戦の太平洋戦争)で日本が敗戦後も日本兵がインドネシアに、千数百名~残って、上官の命によって兵器の集積庫を開放、独立軍に武器、兵器を横流し(※本来は禁止行為)。 インドネシア人の指揮官がみずから率いる「民族軍」である郷土防衛義勇軍(ペタ)を組織するなど、日本兵が戦術を指導、植民地支配で味をしめたオランダ、イギリスを相手に、4年5ヶ月にわたる戦争で、80万人が犠牲になったが、結果的に、インドネシアは武力闘争と外交交渉によって独立を達成し、1949年12月にインドネシア連邦共和国が成立し、さらに連邦構成国がインドネシア共和国に合流して、1950年8月15日に単一のインドネシア共和国が誕生した。 戦死した日本兵達はインドネシア独立の英雄としてカリバタ英雄墓地に祀られている。●大東亜戦争を世界はいかに評価しているか------- 内容を簡略化したので、まだまだ詳細不足の箇所があります。 -------
2017/09/18

自衛隊がミサイルを迎撃しなかったのではなく、 これは迎撃できなかった、、という内容の記事。【記事】北朝鮮が15日に発射した弾道ミサイルは8月29日に続き日本の領土上空を通過したが、自衛隊は今回もミサイルを迎撃しなかった。自衛隊が行うミサイルの破壊措置は法的に日本領空を通過するミサイルの迎撃を想定しておらず、高度約800キロに達した今回のミサイルはそもそも迎撃できないという制約がある。ミサイル防衛(MD)システムの運用は米国に依存している面もあり、自衛隊関係者の間では見直しを求める声がある。・・・・・続きを記事元で詳しく読む【日本赤十字社 平成29年7月5日からの大雨災害義援金】 受付開始しています。【日本赤十字社 平成28年熊本地震災害義援金】 受付開始しています。終戦の詔勅(玉音放送)※左に現代訳が表示昭和天皇「日本と共にアジアの開放に協力した国々に申し訳なく・・・・・」【大東亜戦争とは】--- 文字数制限で内容を簡略化してあります。 ---【日本が国際連盟の規約に人種差別撤廃条項を提案】時は第一次世界大戦終結後のお話です。 肌の色が濃いものほど欧米諸国では猿扱いしていた時代です。 欧米列強が植民地支配で搾取していた事は今更説明するまでもありませんが、第一次世界大戦後に初めて発足された国際連盟の規約に日本からは牧野伸顕が人種差別撤廃条項を提案、何とか票決にこぎつけて、賛成11 反対5で多数決で勝ったのですが、何と、アメリカのウッドロウ・ウィルソン議長に、この時ばかりは全会一致でないことを理由に否決されました。 植民地支配で欧米列強が搾取していたので日本の人種差別撤廃条項は邪魔でした。 とくに人種差別撤廃に強く反対していたのが英国とアメリカでした。【三国同盟/ABCD包囲網/大東亜共栄圏を含む自存・自衛の大東亜戦争へ】日本は国際連盟から抜けて三国同盟(日独伊)を結びます。しかし、それを脅威としたアメリカは日本に対して、ABCD包囲網で石油や鉄屑など(日本が必要な資源)を入らなくしてしまいました。 働くことが幸せで美徳とする日本人には大変な死活問題です。 そこでやむなく、国際法が認める、自存・自衛の戦争に突入していきました。欧米列強が支配している植民地を攻めて開放していきました。 同時に支那(中国)とも戦争をしていました。 蒋介石の国民党軍を背後からアメリカが支援して泥沼化させました。 日本側へ最後通牒とも受け取れるハルノートで無理難題を突き付けました。 当時のアメリカ大統領は、フランクリン・ルーズベルトで彼は徹底した反日主義者で、中国に甘い幻想を抱き、しかもその側近にはソ連のスパイがうごめいていました。 フランクリン・ルーズベルト(アメリカ合衆国の第32代大統領)は戦争をしないことを公約に掲げて大統領になりました。 それでアメリカ世論の賛同を得るために、日本を絞めつけて日本からの攻撃を待っていたのです。 日本軍は30倍〜40倍とも言われたアメリカの戦力を絶つために真珠湾攻撃で開戦して講和に運ぶ狙いがありました。●ハルノート案のハリー・ホワイトは、ソ連コミンテルンのスパイでベノナ文書により確認済みです。●日本が相手にした連合国側は、コチラを参照。(以上のこれらが大東亜戦争のあらすじです。)大東亜戦争は連合国側のABCD包囲網に対しての国際法が認める自存・自衛戦争であり、大東亜共栄圏(欧米列強から植民地開放)を目的とした戦争でした。【昭和天皇の御聖断/ポツダム宣言受諾】(1945年8月14日に宣言を受諾、1945年9月2日に調印)ここから先は皆さんがご存知の通りで広島も長崎も現在では国際法で禁止されている原爆を投下されました。 昭和天皇は御前会議で自分のことなら構わないからと、ポツダム宣言を受諾する事を御聖断されました。【極東国際軍事裁判】(別名:東京裁判)(1946年5月3日〜1948年11月12日)日本側の合法な自衛戦争のままでは「通例の戦争犯罪」(捕虜への虐待とか戦争法規に反する行為のこと)までしか裁けないので中立国が裁かず、『事後法』で平和に対する罪と人道に対する罪が追加されて戦勝国側の判事同士が談合して判決を1本化した、リンチ裁判を行ったのです。この極東国際軍事裁判=東京裁判で事後法により裁かれ、国家指導者は、東条英機以下7名が絞首刑、16名が終身禁固という判決でした。 東条英機大将は裁判で最後まで自衛戦争を訴えて、死刑判決後には深々と一礼して判決を潔く受けました。インドのパール判事だけが事後法で裁くのには反対して、被告人全員の無罪を主張したのです。しかし、結果ありきのままのリンチ裁判での判決でした。■■■(大切な部分のお話は以下に続きます。)■■■【補足】 ラダ・ビノード・パールは、インドの法学者、裁判官、コルカタ大学教授、国際連合国際法委員長を歴任。 ベンガル人。 ヒンドゥー法を専攻。 東京裁判(極東国際軍事裁判)の11人の判事の中で唯一国際法に通じていたのはインド代表のパール判事だけでパールは「裁判の方向性が予め決定づけられており、判決ありきの茶番劇である」との主旨でこの裁判そのものを批判し、被告の全員無罪を主張した。 これは裁判憲章の平和に対する罪、人道に対する罪は事後法であり、罪刑法定主義の立場から被告人を有罪であるとする根拠自体が成立しないという判断によるものであり、日本の戦争責任が存在しないという立場ではないことも加えた。■■■しかし、大切な部分のお話はココからです。■■■●マッカーサー「日本は自衛戦争」と証言昭和26年5月3日、米上院軍事外交合同委員会の公式の場で行われた質疑応答で、連合国側の経済封鎖で追い詰められた日本が、「主に自衛(安全保障)上の理由から、戦争に走った」と述べた。 マッカーサーは「太平洋において米国が過去百年間に犯した最大の政治的過ちは共産主義者を中国において強大にさせたことだと私は考える」とも発言。 マッカーサーは、日本が間違っていたのではなく、自分たちが間違っていたことを語った。【お話のまとめ】■連合国側のABCD包囲網に対しての合法な自存・自衛の戦争であり、大東亜共栄圏(欧米列強から植民地開放)を目的とした戦争でした。■東京裁判(極東国際軍事裁判)が結果ありきのインチキ談合リンチ裁判だったのです。インドネシア共和国 初代大統領スカルノ【動画】インドネシア独立戦争と日本軍大東亜戦争(第二次世界大戦の太平洋戦争)で日本が敗戦後も日本兵がインドネシアに、千数百名~残って、上官の命によって兵器の集積庫を開放、独立軍に武器、兵器を横流し(※本来は禁止行為)。 インドネシア人の指揮官がみずから率いる「民族軍」である郷土防衛義勇軍(ペタ)を組織するなど、日本兵が戦術を指導、植民地支配で味をしめたオランダ、イギリスを相手に、4年5ヶ月にわたる戦争で、80万人が犠牲になったが、結果的に、インドネシアは武力闘争と外交交渉によって独立を達成し、1949年12月にインドネシア連邦共和国が成立し、さらに連邦構成国がインドネシア共和国に合流して、1950年8月15日に単一のインドネシア共和国が誕生した。 戦死した日本兵達はインドネシア独立の英雄としてカリバタ英雄墓地に祀られている。●大東亜戦争を世界はいかに評価しているか------- 内容を簡略化したので、まだまだ詳細不足の箇所があります。 -------
2017/09/17

2017.9.15【記事】 9歳下の妻子ある弁護士との「禁断愛」が週刊文春に報じられ、民進党を離党した山尾志桜里衆院議員(43)に新たな打撃となるのは確実だ。「ホテルには1人で宿泊」「男女関係はなく、政策立案などの打ち合わせや作業」という釈明に、14日発売の同誌で詳細な反論記事が掲載されたのだ。発言の信憑(しんぴょう)性に疑問が生じる事態で、法曹関係者は「政治家としても資質を問われることになる」と指摘する。 同誌の先週号では、山尾氏と倉持麟太郎弁護士(34)が9月2日夜、東京都品川区のホテルに時間差で入る様子を写真付きで掲載。お互いに配偶者も子供もいる立場ながら、週に4回密会を重ねていたとも報じられた。「保育園落ちた日本死ね」というブログを国会で取り上げて注目され、自民党議員の不倫についても鋭く批判していた山尾氏だけに、「W不倫」を疑われる報道のショックは大きかった。ただ、山尾氏は離党した一方、「ホテルには私1人で宿泊した」と明言、「男女関係はなく、政策立案などの打ち合わせと作業だった」と釈明した。 報道を否定された形の文春は今週号で第2弾を投じた。品川のホテル36階のエレベーターホールに姿を見せた倉持氏が、ある部屋の前に立ち、《内側から静かにドアが開かれると、倉持氏は中へと静かに足を踏み入れた》として、その瞬間の写真も掲載。そして、《この20分前には山尾志桜里衆院議員がチェックインを済ませ、一足早く入室していた》としたのだ。・・・・・続きを記事元で詳しく読む【日本赤十字社 平成29年7月5日からの大雨災害義援金】 受付開始しています。【日本赤十字社 平成28年熊本地震災害義援金】 受付開始しています。終戦の詔勅(玉音放送)※左に現代訳が表示昭和天皇「日本と共にアジアの開放に協力した国々に申し訳なく・・・・・」【大東亜戦争とは】--- 文字数制限で内容を簡略化してあります。 ---【日本が国際連盟の規約に人種差別撤廃条項を提案】時は第一次世界大戦終結後のお話です。 肌の色が濃いものほど欧米諸国では猿扱いしていた時代です。 欧米列強が植民地支配で搾取していた事は今更説明するまでもありませんが、第一次世界大戦後に初めて発足された国際連盟の規約に日本からは牧野伸顕が人種差別撤廃条項を提案、何とか票決にこぎつけて、賛成11 反対5で多数決で勝ったのですが、何と、アメリカのウッドロウ・ウィルソン議長に、この時ばかりは全会一致でないことを理由に否決されました。 植民地支配で欧米列強が搾取していたので日本の人種差別撤廃条項は邪魔でした。 とくに人種差別撤廃に強く反対していたのが英国とアメリカでした。【三国同盟/ABCD包囲網/大東亜共栄圏を含む自存・自衛の大東亜戦争へ】日本は国際連盟から抜けて三国同盟(日独伊)を結びます。しかし、それを脅威としたアメリカは日本に対して、ABCD包囲網で石油や鉄屑など(日本が必要な資源)を入らなくしてしまいました。 働くことが幸せで美徳とする日本人には大変な死活問題です。 そこでやむなく、国際法が認める、自存・自衛の戦争に突入していきました。欧米列強が支配している植民地を攻めて開放していきました。 同時に支那(中国)とも戦争をしていました。 蒋介石の国民党軍を背後からアメリカが支援して泥沼化させました。 日本側へ最後通牒とも受け取れるハルノートで無理難題を突き付けました。 当時のアメリカ大統領は、フランクリン・ルーズベルトで彼は徹底した反日主義者で、中国に甘い幻想を抱き、しかもその側近にはソ連のスパイがうごめいていました。 フランクリン・ルーズベルト(アメリカ合衆国の第32代大統領)は戦争をしないことを公約に掲げて大統領になりました。 それでアメリカ世論の賛同を得るために、日本を絞めつけて日本からの攻撃を待っていたのです。 日本軍は30倍〜40倍とも言われたアメリカの戦力を絶つために真珠湾攻撃で開戦して講和に運ぶ狙いがありました。●ハルノート案のハリー・ホワイトは、ソ連コミンテルンのスパイでベノナ文書により確認済みです。●日本が相手にした連合国側は、コチラを参照。(以上のこれらが大東亜戦争のあらすじです。)大東亜戦争は連合国側のABCD包囲網に対しての国際法が認める自存・自衛戦争であり、大東亜共栄圏(欧米列強から植民地開放)を目的とした戦争でした。【昭和天皇の御聖断/ポツダム宣言受諾】(1945年8月14日に宣言を受諾、1945年9月2日に調印)ここから先は皆さんがご存知の通りで広島も長崎も現在では国際法で禁止されている原爆を投下されました。 昭和天皇は御前会議で自分のことなら構わないからと、ポツダム宣言を受諾する事を御聖断されました。【極東国際軍事裁判】(別名:東京裁判)(1946年5月3日〜1948年11月12日)日本側の合法な自衛戦争のままでは「通例の戦争犯罪」(捕虜への虐待とか戦争法規に反する行為のこと)までしか裁けないので中立国が裁かず、『事後法』で平和に対する罪と人道に対する罪が追加されて戦勝国側の判事同士が談合して判決を1本化した、リンチ裁判を行ったのです。この極東国際軍事裁判=東京裁判で事後法により裁かれ、国家指導者は、東条英機以下7名が絞首刑、16名が終身禁固という判決でした。 東条英機大将は裁判で最後まで自衛戦争を訴えて、死刑判決後には深々と一礼して判決を潔く受けました。インドのパール判事だけが事後法で裁くのには反対して、被告人全員の無罪を主張したのです。しかし、結果ありきのままのリンチ裁判での判決でした。■■■(大切な部分のお話は以下に続きます。)■■■【補足】 ラダ・ビノード・パールは、インドの法学者、裁判官、コルカタ大学教授、国際連合国際法委員長を歴任。 ベンガル人。 ヒンドゥー法を専攻。 東京裁判(極東国際軍事裁判)の11人の判事の中で唯一国際法に通じていたのはインド代表のパール判事だけでパールは「裁判の方向性が予め決定づけられており、判決ありきの茶番劇である」との主旨でこの裁判そのものを批判し、被告の全員無罪を主張した。 これは裁判憲章の平和に対する罪、人道に対する罪は事後法であり、罪刑法定主義の立場から被告人を有罪であるとする根拠自体が成立しないという判断によるものであり、日本の戦争責任が存在しないという立場ではないことも加えた。■■■しかし、大切な部分のお話はココからです。■■■●マッカーサー「日本は自衛戦争」と証言昭和26年5月3日、米上院軍事外交合同委員会の公式の場で行われた質疑応答で、連合国側の経済封鎖で追い詰められた日本が、「主に自衛(安全保障)上の理由から、戦争に走った」と述べた。 マッカーサーは「太平洋において米国が過去百年間に犯した最大の政治的過ちは共産主義者を中国において強大にさせたことだと私は考える」とも発言。 マッカーサーは、日本が間違っていたのではなく、自分たちが間違っていたことを語った。【お話のまとめ】■連合国側のABCD包囲網に対しての合法な自存・自衛の戦争であり、大東亜共栄圏(欧米列強から植民地開放)を目的とした戦争でした。■東京裁判(極東国際軍事裁判)が結果ありきのインチキ談合リンチ裁判だったのです。インドネシア共和国 初代大統領スカルノ【動画】インドネシア独立戦争と日本軍大東亜戦争(第二次世界大戦の太平洋戦争)で日本が敗戦後も日本兵がインドネシアに、千数百名~残って、上官の命によって兵器の集積庫を開放、独立軍に武器、兵器を横流し(※本来は禁止行為)。 インドネシア人の指揮官がみずから率いる「民族軍」である郷土防衛義勇軍(ペタ)を組織するなど、日本兵が戦術を指導、植民地支配で味をしめたオランダ、イギリスを相手に、4年5ヶ月にわたる戦争で、80万人が犠牲になったが、結果的に、インドネシアは武力闘争と外交交渉によって独立を達成し、1949年12月にインドネシア連邦共和国が成立し、さらに連邦構成国がインドネシア共和国に合流して、1950年8月15日に単一のインドネシア共和国が誕生した。 戦死した日本兵達はインドネシア独立の英雄としてカリバタ英雄墓地に祀られている。●大東亜戦争を世界はいかに評価しているか------- 内容を簡略化したので、まだまだ詳細不足の箇所があります。 -------
2017/09/16

北朝鮮が、またまたミサイルを発射!・・・現実に核を搭載されたらたまったもんじゃない。 左翼ってのは馬鹿じゃないか? 日本も備えだけは必要です。 憲法改正に反対する理由はないだろうに・・何事も備えだけは必須。【記事】2017.9.15 韓国軍合同参謀本部によると、15朝、北朝鮮の平壌近郊の順(ス)安(ナン)付近から東方に向けミサイル1発が発射された。菅義偉官房長官は記者会見で、弾道ミサイル1発が日本時間の同日午前6時57分ごろ発射され、7時4~6分ごろに北海道上空を通過、7時16分ごろ襟裳岬東約2200キロの太平洋上に落下したと発表した。菅氏は、日本の領域で落下物は確認されておらず、航空機や船舶への被害情報はないと明らかにした上で、「北朝鮮に厳重に抗議し、最も強い言葉で非難する」と述べた。ミサイル発射を受けて、12道県で全国瞬時警報システム(Jアラート)が作動した。自衛隊法に基づくミサイルへの破壊措置はとられなかった。・・・続きを記事元で詳しく読む【日本赤十字社 平成29年7月5日からの大雨災害義援金】 受付開始しています。【日本赤十字社 平成28年熊本地震災害義援金】 受付開始しています。終戦の詔勅(玉音放送)※左に現代訳が表示昭和天皇「日本と共にアジアの開放に協力した国々に申し訳なく・・・・・」【大東亜戦争とは】--- 文字数制限で内容を簡略化してあります。 ---【日本が国際連盟の規約に人種差別撤廃条項を提案】時は第一次世界大戦終結後のお話です。 肌の色が濃いものほど欧米諸国では猿扱いしていた時代です。 欧米列強が植民地支配で搾取していた事は今更説明するまでもありませんが、第一次世界大戦後に初めて発足された国際連盟の規約に日本からは牧野伸顕が人種差別撤廃条項を提案、何とか票決にこぎつけて、賛成11 反対5で多数決で勝ったのですが、何と、アメリカのウッドロウ・ウィルソン議長に、この時ばかりは全会一致でないことを理由に否決されました。 植民地支配で欧米列強が搾取していたので日本の人種差別撤廃条項は邪魔でした。 とくに人種差別撤廃に強く反対していたのが英国とアメリカでした。【三国同盟/ABCD包囲網/大東亜共栄圏を含む自存・自衛の大東亜戦争へ】日本は国際連盟から抜けて三国同盟(日独伊)を結びます。しかし、それを脅威としたアメリカは日本に対して、ABCD包囲網で石油や鉄屑など(日本が必要な資源)を入らなくしてしまいました。 働くことが幸せで美徳とする日本人には大変な死活問題です。 そこでやむなく、国際法が認める、自存・自衛の戦争に突入していきました。欧米列強が支配している植民地を攻めて開放していきました。 同時に支那(中国)とも戦争をしていました。 蒋介石の国民党軍を背後からアメリカが支援して泥沼化させました。 日本側へ最後通牒とも受け取れるハルノートで無理難題を突き付けました。 当時のアメリカ大統領は、フランクリン・ルーズベルトで彼は徹底した反日主義者で、中国に甘い幻想を抱き、しかもその側近にはソ連のスパイがうごめいていました。 フランクリン・ルーズベルト(アメリカ合衆国の第32代大統領)は戦争をしないことを公約に掲げて大統領になりました。 それでアメリカ世論の賛同を得るために、日本を絞めつけて日本からの攻撃を待っていたのです。 日本軍は30倍〜40倍とも言われたアメリカの戦力を絶つために真珠湾攻撃で開戦して講和に運ぶ狙いがありました。●ハルノート案のハリー・ホワイトは、ソ連コミンテルンのスパイでベノナ文書により確認済みです。●日本が相手にした連合国側は、コチラを参照。(以上のこれらが大東亜戦争のあらすじです。)大東亜戦争は連合国側のABCD包囲網に対しての国際法が認める自存・自衛戦争であり、大東亜共栄圏(欧米列強から植民地開放)を目的とした戦争でした。【昭和天皇の御聖断/ポツダム宣言受諾】(1945年8月14日に宣言を受諾、1945年9月2日に調印)ここから先は皆さんがご存知の通りで広島も長崎も現在では国際法で禁止されている原爆を投下されました。 昭和天皇は御前会議で自分のことなら構わないからと、ポツダム宣言を受諾する事を御聖断されました。【極東国際軍事裁判】(別名:東京裁判)(1946年5月3日〜1948年11月12日)日本側の合法な自衛戦争のままでは「通例の戦争犯罪」(捕虜への虐待とか戦争法規に反する行為のこと)までしか裁けないので中立国が裁かず、『事後法』で平和に対する罪と人道に対する罪が追加されて戦勝国側の判事同士が談合して判決を1本化した、リンチ裁判を行ったのです。この極東国際軍事裁判=東京裁判で事後法により裁かれ、国家指導者は、東条英機以下7名が絞首刑、16名が終身禁固という判決でした。 東条英機大将は裁判で最後まで自衛戦争を訴えて、死刑判決後には深々と一礼して判決を潔く受けました。インドのパール判事だけが事後法で裁くのには反対して、被告人全員の無罪を主張したのです。しかし、結果ありきのままのリンチ裁判での判決でした。■■■(大切な部分のお話は以下に続きます。)■■■【補足】 ラダ・ビノード・パールは、インドの法学者、裁判官、コルカタ大学教授、国際連合国際法委員長を歴任。 ベンガル人。 ヒンドゥー法を専攻。 東京裁判(極東国際軍事裁判)の11人の判事の中で唯一国際法に通じていたのはインド代表のパール判事だけでパールは「裁判の方向性が予め決定づけられており、判決ありきの茶番劇である」との主旨でこの裁判そのものを批判し、被告の全員無罪を主張した。 これは裁判憲章の平和に対する罪、人道に対する罪は事後法であり、罪刑法定主義の立場から被告人を有罪であるとする根拠自体が成立しないという判断によるものであり、日本の戦争責任が存在しないという立場ではないことも加えた。■■■しかし、大切な部分のお話はココからです。■■■●マッカーサー「日本は自衛戦争」と証言昭和26年5月3日、米上院軍事外交合同委員会の公式の場で行われた質疑応答で、連合国側の経済封鎖で追い詰められた日本が、「主に自衛(安全保障)上の理由から、戦争に走った」と述べた。 マッカーサーは「太平洋において米国が過去百年間に犯した最大の政治的過ちは共産主義者を中国において強大にさせたことだと私は考える」とも発言。 マッカーサーは、日本が間違っていたのではなく、自分たちが間違っていたことを語った。【お話のまとめ】■連合国側のABCD包囲網に対しての合法な自存・自衛の戦争であり、大東亜共栄圏(欧米列強から植民地開放)を目的とした戦争でした。■東京裁判(極東国際軍事裁判)が結果ありきのインチキ談合リンチ裁判だったのです。インドネシア共和国 初代大統領スカルノ【動画】インドネシア独立戦争と日本軍大東亜戦争(第二次世界大戦の太平洋戦争)で日本が敗戦後も日本兵がインドネシアに、千数百名~残って、上官の命によって兵器の集積庫を開放、独立軍に武器、兵器を横流し(※本来は禁止行為)。 インドネシア人の指揮官がみずから率いる「民族軍」である郷土防衛義勇軍(ペタ)を組織するなど、日本兵が戦術を指導、植民地支配で味をしめたオランダ、イギリスを相手に、4年5ヶ月にわたる戦争で、80万人が犠牲になったが、結果的に、インドネシアは武力闘争と外交交渉によって独立を達成し、1949年12月にインドネシア連邦共和国が成立し、さらに連邦構成国がインドネシア共和国に合流して、1950年8月15日に単一のインドネシア共和国が誕生した。 戦死した日本兵達はインドネシア独立の英雄としてカリバタ英雄墓地に祀られている。●大東亜戦争を世界はいかに評価しているか------- 内容を簡略化したので、まだまだ詳細不足の箇所があります。 -------
2017/09/15

訂正欄で判明した朝日の酷い記事の一つ・・なんて馬鹿な記事を書いていたんだ・・。【記事】2017.9.14 朝日新聞の社会面の右下隅には、「訂正して、おわびします」欄があって、しばしば掲載されている。その中には些末な誤りもあって、こんな間違いならもっとたくさんあるのではないかと思えてくる。しかし、8月1日のそれは、極めて重大なものであった。重要であるから全文を以下に引用する。《▼6月19日付オピニオン面「語りつぐ戦争」の投稿「引き揚げの女性に中絶手術」で、「旧友に聞くと、『今おめでたの方はいませんか。ご主人であろうと、またソ連兵、朝鮮人に犯されての子でも、今から育てるのは苦労です。思い切って見殺しにすることです』と女性たちに呼びかけたのだそう」の「ご主人であろうと」を削除し、「見殺しにすることです」は「身を軽くすることです」に訂正します。・・・記事元で詳しく読む【日本赤十字社 平成29年7月5日からの大雨災害義援金】 受付開始しています。【日本赤十字社 平成28年熊本地震災害義援金】 受付開始しています。終戦の詔勅(玉音放送)※左に現代訳が表示昭和天皇「日本と共にアジアの開放に協力した国々に申し訳なく・・・・・」【大東亜戦争とは】--- 文字数制限で内容を簡略化してあります。 ---【日本が国際連盟の規約に人種差別撤廃条項を提案】時は第一次世界大戦終結後のお話です。 肌の色が濃いものほど欧米諸国では猿扱いしていた時代です。 欧米列強が植民地支配で搾取していた事は今更説明するまでもありませんが、第一次世界大戦後に初めて発足された国際連盟の規約に日本からは牧野伸顕が人種差別撤廃条項を提案、何とか票決にこぎつけて、賛成11 反対5で多数決で勝ったのですが、何と、アメリカのウッドロウ・ウィルソン議長に、この時ばかりは全会一致でないことを理由に否決されました。 植民地支配で欧米列強が搾取していたので日本の人種差別撤廃条項は邪魔でした。 とくに人種差別撤廃に強く反対していたのが英国とアメリカでした。【三国同盟/ABCD包囲網/大東亜共栄圏を含む自存・自衛の大東亜戦争へ】日本は国際連盟から抜けて三国同盟(日独伊)を結びます。しかし、それを脅威としたアメリカは日本に対して、ABCD包囲網で石油や鉄屑など(日本が必要な資源)を入らなくしてしまいました。 働くことが幸せで美徳とする日本人には大変な死活問題です。 そこでやむなく、国際法が認める、自存・自衛の戦争に突入していきました。欧米列強が支配している植民地を攻めて開放していきました。 同時に支那(中国)とも戦争をしていました。 蒋介石の国民党軍を背後からアメリカが支援して泥沼化させました。 日本側へ最後通牒とも受け取れるハルノートで無理難題を突き付けました。 当時のアメリカ大統領は、フランクリン・ルーズベルトで彼は徹底した反日主義者で、中国に甘い幻想を抱き、しかもその側近にはソ連のスパイがうごめいていました。 フランクリン・ルーズベルト(アメリカ合衆国の第32代大統領)は戦争をしないことを公約に掲げて大統領になりました。 それでアメリカ世論の賛同を得るために、日本を絞めつけて日本からの攻撃を待っていたのです。 日本軍は30倍〜40倍とも言われたアメリカの戦力を絶つために真珠湾攻撃で開戦して講和に運ぶ狙いがありました。●ハルノート案のハリー・ホワイトは、ソ連コミンテルンのスパイでベノナ文書により確認済みです。●日本が相手にした連合国側は、コチラを参照。(以上のこれらが大東亜戦争のあらすじです。)大東亜戦争は連合国側のABCD包囲網に対しての国際法が認める自存・自衛戦争であり、大東亜共栄圏(欧米列強から植民地開放)を目的とした戦争でした。【昭和天皇の御聖断/ポツダム宣言受諾】(1945年8月14日に宣言を受諾、1945年9月2日に調印)ここから先は皆さんがご存知の通りで広島も長崎も現在では国際法で禁止されている原爆を投下されました。 昭和天皇は御前会議で自分のことなら構わないからと、ポツダム宣言を受諾する事を御聖断されました。【極東国際軍事裁判】(別名:東京裁判)(1946年5月3日〜1948年11月12日)日本側の合法な自衛戦争のままでは「通例の戦争犯罪」(捕虜への虐待とか戦争法規に反する行為のこと)までしか裁けないので中立国が裁かず、『事後法』で平和に対する罪と人道に対する罪が追加されて戦勝国側の判事同士が談合して判決を1本化した、リンチ裁判を行ったのです。この極東国際軍事裁判=東京裁判で事後法により裁かれ、国家指導者は、東条英機以下7名が絞首刑、16名が終身禁固という判決でした。 東条英機大将は裁判で最後まで自衛戦争を訴えて、死刑判決後には深々と一礼して判決を潔く受けました。インドのパール判事だけが事後法で裁くのには反対して、被告人全員の無罪を主張したのです。しかし、結果ありきのままのリンチ裁判での判決でした。■■■(大切な部分のお話は以下に続きます。)■■■【補足】 ラダ・ビノード・パールは、インドの法学者、裁判官、コルカタ大学教授、国際連合国際法委員長を歴任。 ベンガル人。 ヒンドゥー法を専攻。 東京裁判(極東国際軍事裁判)の11人の判事の中で唯一国際法に通じていたのはインド代表のパール判事だけでパールは「裁判の方向性が予め決定づけられており、判決ありきの茶番劇である」との主旨でこの裁判そのものを批判し、被告の全員無罪を主張した。 これは裁判憲章の平和に対する罪、人道に対する罪は事後法であり、罪刑法定主義の立場から被告人を有罪であるとする根拠自体が成立しないという判断によるものであり、日本の戦争責任が存在しないという立場ではないことも加えた。■■■しかし、大切な部分のお話はココからです。■■■●マッカーサー「日本は自衛戦争」と証言昭和26年5月3日、米上院軍事外交合同委員会の公式の場で行われた質疑応答で、連合国側の経済封鎖で追い詰められた日本が、「主に自衛(安全保障)上の理由から、戦争に走った」と述べた。 マッカーサーは「太平洋において米国が過去百年間に犯した最大の政治的過ちは共産主義者を中国において強大にさせたことだと私は考える」とも発言。 マッカーサーは、日本が間違っていたのではなく、自分たちが間違っていたことを語った。【お話のまとめ】■連合国側のABCD包囲網に対しての合法な自存・自衛の戦争であり、大東亜共栄圏(欧米列強から植民地開放)を目的とした戦争でした。■東京裁判(極東国際軍事裁判)が結果ありきのインチキ談合リンチ裁判だったのです。インドネシア共和国 初代大統領スカルノ【動画】インドネシア独立戦争と日本軍大東亜戦争(第二次世界大戦の太平洋戦争)で日本が敗戦後も日本兵がインドネシアに、千数百名~残って、上官の命によって兵器の集積庫を開放、独立軍に武器、兵器を横流し(※本来は禁止行為)。 インドネシア人の指揮官がみずから率いる「民族軍」である郷土防衛義勇軍(ペタ)を組織するなど、日本兵が戦術を指導、植民地支配で味をしめたオランダ、イギリスを相手に、4年5ヶ月にわたる戦争で、80万人が犠牲になったが、結果的に、インドネシアは武力闘争と外交交渉によって独立を達成し、1949年12月にインドネシア連邦共和国が成立し、さらに連邦構成国がインドネシア共和国に合流して、1950年8月15日に単一のインドネシア共和国が誕生した。 戦死した日本兵達はインドネシア独立の英雄としてカリバタ英雄墓地に祀られている。●大東亜戦争を世界はいかに評価しているか------- 内容を簡略化したので、まだまだ詳細不足の箇所があります。 -------
2017/09/15

日本人の素養の高さは世界でもトップクラスで古来から神道の一環である行事を通して知らずのうちに育まれています。 韓国系中国人から日本に帰化した広島市在住の比較文化学者、金文学氏は、中韓両国と比べて日本が優れている点を指摘し、「自国に誇りを持てる歴史を教えるべきだ」と訴えた。 講演の詳報は次の通り。■民度の高さ、日本は世界でもトップクラス。 中国は150番目、韓国は・・・記事元で詳しく読む【日本赤十字社 平成29年7月5日からの大雨災害義援金】 受付開始しています。【日本赤十字社 平成28年熊本地震災害義援金】 受付開始しています。終戦の詔勅(玉音放送)※左に現代訳が表示昭和天皇「日本と共にアジアの開放に協力した国々に申し訳なく・・・・・」【大東亜戦争とは】--- 文字数制限で内容を簡略化してあります。 ---【日本が国際連盟の規約に人種差別撤廃条項を提案】時は第一次世界大戦終結後のお話です。 肌の色が濃いものほど欧米諸国では猿扱いしていた時代です。 欧米列強が植民地支配で搾取していた事は今更説明するまでもありませんが、第一次世界大戦後に初めて発足された国際連盟の規約に日本からは牧野伸顕が人種差別撤廃条項を提案、何とか票決にこぎつけて、賛成11 反対5で多数決で勝ったのですが、何と、アメリカのウッドロウ・ウィルソン議長に、この時ばかりは全会一致でないことを理由に否決されました。 植民地支配で欧米列強が搾取していたので日本の人種差別撤廃条項は邪魔でした。 とくに人種差別撤廃に強く反対していたのが英国とアメリカでした。【三国同盟/ABCD包囲網/大東亜共栄圏を含む自存・自衛の大東亜戦争へ】日本は国際連盟から抜けて三国同盟(日独伊)を結びます。しかし、それを脅威としたアメリカは日本に対して、ABCD包囲網で石油や鉄屑など(日本が必要な資源)を入らなくしてしまいました。 働くことが幸せで美徳とする日本人には大変な死活問題です。 そこでやむなく、国際法が認める、自存・自衛の戦争に突入していきました。欧米列強が支配している植民地を攻めて開放していきました。 同時に支那(中国)とも戦争をしていました。 蒋介石の国民党軍を背後からアメリカが支援して泥沼化させました。 日本側へ最後通牒とも受け取れるハルノートで無理難題を突き付けました。 当時のアメリカ大統領は、フランクリン・ルーズベルトで彼は徹底した反日主義者で、中国に甘い幻想を抱き、しかもその側近にはソ連のスパイがうごめいていました。 フランクリン・ルーズベルト(アメリカ合衆国の第32代大統領)は戦争をしないことを公約に掲げて大統領になりました。 それでアメリカ世論の賛同を得るために、日本を絞めつけて日本からの攻撃を待っていたのです。 日本軍は30倍〜40倍とも言われたアメリカの戦力を絶つために真珠湾攻撃で開戦して講和に運ぶ狙いがありました。●ハルノート案のハリー・ホワイトは、ソ連コミンテルンのスパイでベノナ文書により確認済みです。●日本が相手にした連合国側は、コチラを参照。(以上のこれらが大東亜戦争のあらすじです。)大東亜戦争は連合国側のABCD包囲網に対しての国際法が認める自存・自衛戦争であり、大東亜共栄圏(欧米列強から植民地開放)を目的とした戦争でした。【ポツダム宣言受諾】(1945年8月14日に宣言を受諾、1945年9月2日に調印)ここからお話は一気に省略で飛んで、皆さんがご存知の通りで広島も長崎も現在では国際法で禁止されている原爆を投下されてしまいました。 昭和天皇は御前会議で自分のことなら構わないからと、ポツダム宣言を受諾する事を御聖断されました。【極東国際軍事裁判】(別名:東京裁判)(1946年5月3日〜1948年11月12日)日本側の合法な自衛戦争のままでは「通例の戦争犯罪」(捕虜への虐待とか戦争法規に反する行為のこと)までしか裁けないので中立国が裁かず、『事後法』で平和に対する罪と人道に対する罪が追加されて戦勝国側の判事同士が談合して判決を1本化した、リンチ裁判を行ったのです。この極東国際軍事裁判=東京裁判で事後法により裁かれ、国家指導者は、東条英機以下7名が絞首刑、16名が終身禁固という判決でした。 東条英機大将は裁判で最後まで自衛戦争を訴えて、死刑判決後には深々と一礼して判決を潔く受けました。インドのパール判事だけが事後法で裁くのには反対して、被告人全員の無罪を主張したのです。しかし、結果ありきのままのリンチ裁判での判決でした。■■■(大切な部分のお話は以下に続きます。)■■■【補足】 ラダ・ビノード・パールは、インドの法学者、裁判官、コルカタ大学教授、国際連合国際法委員長を歴任。 ベンガル人。 ヒンドゥー法を専攻。 東京裁判(極東国際軍事裁判)の11人の判事の中で唯一国際法に通じていたのはインド代表のパール判事だけでパールは「裁判の方向性が予め決定づけられており、判決ありきの茶番劇である」との主旨でこの裁判そのものを批判し、被告の全員無罪を主張した。 これは裁判憲章の平和に対する罪、人道に対する罪は事後法であり、罪刑法定主義の立場から被告人を有罪であるとする根拠自体が成立しないという判断によるものであり、日本の戦争責任が存在しないという立場ではないことも加えた。■■■しかし、大切な部分のお話はココからです。■■■●マッカーサー「日本は自衛戦争」と証言昭和26年5月3日、米上院軍事外交合同委員会の公式の場で行われた質疑応答で、連合国側の経済封鎖で追い詰められた日本が、「主に自衛(安全保障)上の理由から、戦争に走った」と述べた。 マッカーサーは「太平洋において米国が過去百年間に犯した最大の政治的過ちは共産主義者を中国において強大にさせたことだと私は考える」とも発言。 マッカーサーは、日本が間違っていたのではなく、自分たちが間違っていたことを語った。【お話のまとめ】■連合国側のABCD包囲網に対しての合法な自存・自衛の戦争であり、大東亜共栄圏(欧米列強から植民地開放)を目的とした戦争でした。■東京裁判(極東国際軍事裁判)が結果ありきのインチキ談合リンチ裁判だったのです。インドネシア共和国 初代大統領スカルノ【動画】インドネシア独立戦争と日本軍大東亜戦争(第二次世界大戦の太平洋戦争)で日本が敗戦後も日本兵がインドネシアに、千数百名~残って、上官の命によって兵器の集積庫を開放、独立軍に武器、兵器を横流し(※本来は禁止行為)。 インドネシア人の指揮官がみずから率いる「民族軍」である郷土防衛義勇軍(ペタ)を組織するなど、日本兵が戦術を指導、植民地支配で味をしめたオランダ、イギリスを相手に、4年5ヶ月にわたる戦争で、80万人が犠牲になったが、結果的に、インドネシアは武力闘争と外交交渉によって独立を達成し、1949年12月にインドネシア連邦共和国が成立し、さらに連邦構成国がインドネシア共和国に合流して、1950年8月15日に単一のインドネシア共和国が誕生した。 戦死した日本兵達はインドネシア独立の英雄としてカリバタ英雄墓地に祀られている。●大東亜戦争を世界はいかに評価しているか------- 内容を簡略化したので、まだまだ詳細不足の箇所があります。 -------
2017/09/14

日本人の素養の高さは世界でもトップクラスで古来から神道の一環である行事を通して知らずのうちに育まれています。 韓国系中国人から日本に帰化した広島市在住の比較文化学者、金文学氏は、中韓両国と比べて日本が優れている点を指摘し、「自国に誇りを持てる歴史を教えるべきだ」と訴えた。 講演の詳報は次の通り。■民度の高さ、日本は世界でもトップクラス。 中国は150番目、韓国は・・・・・記事元で詳しく読む【日本赤十字社 平成29年7月5日からの大雨災害義援金】 受付開始しています。【日本赤十字社 平成28年熊本地震災害義援金】 受付開始しています。終戦の詔勅(玉音放送)※左に現代訳が表示昭和天皇「日本と共にアジアの開放に協力した国々に申し訳なく・・・・・」【大東亜戦争とは】--- 文字数制限で内容を簡略化してあります。 ---【日本が国際連盟の規約に人種差別撤廃条項を提案】時は第一次世界大戦終結後のお話です。 肌の色が濃いものほど欧米諸国では猿扱いしていた時代です。 欧米列強が植民地支配で搾取していた事は今更説明するまでもありませんが、第一次世界大戦後に初めて発足された国際連盟の規約に日本からは牧野伸顕が人種差別撤廃条項を提案、何とか票決にこぎつけて、賛成11 反対5で多数決で勝ったのですが、何と、アメリカのウッドロウ・ウィルソン議長に、この時ばかりは全会一致でないことを理由に否決されました。 植民地支配で欧米列強が搾取していたので日本の人種差別撤廃条項は邪魔でした。 とくに人種差別撤廃に強く反対していたのが英国とアメリカでした。【三国同盟/ABCD包囲網/大東亜共栄圏を含む自存・自衛の大東亜戦争へ】日本は国際連盟から抜けて三国同盟(日独伊)を結びます。しかし、それを脅威としたアメリカは日本に対して、ABCD包囲網で石油や鉄屑など(日本が必要な資源)を入らなくしてしまいました。 働くことが幸せで美徳とする日本人には大変な死活問題です。 そこでやむなく、国際法が認める、自存・自衛の戦争に突入していきました。欧米列強が支配している植民地を攻めて開放していきました。 同時に支那(中国)とも戦争をしていました。 蒋介石の国民党軍を背後からアメリカが支援して泥沼化させました。 日本側へ最後通牒とも受け取れるハルノートで無理難題を突き付けました。 当時のアメリカ大統領は、フランクリン・ルーズベルトで彼は徹底した反日主義者で、中国に甘い幻想を抱き、しかもその側近にはソ連のスパイがうごめいていました。 フランクリン・ルーズベルト(アメリカ合衆国の第32代大統領)は戦争をしないことを公約に掲げて大統領になりました。 それでアメリカ世論の賛同を得るために、日本を絞めつけて日本からの攻撃を待っていたのです。 日本軍は30倍〜40倍とも言われたアメリカの戦力を絶つために真珠湾攻撃で開戦して講和に運ぶ狙いがありました。●ハルノート案のハリー・ホワイトは、ソ連コミンテルンのスパイでベノナ文書により確認済みです。●日本が相手にした連合国側は、コチラを参照。(以上のこれらが大東亜戦争のあらすじです。)大東亜戦争は連合国側のABCD包囲網に対しての国際法が認める自存・自衛戦争であり、大東亜共栄圏(欧米列強から植民地開放)を目的とした戦争でした。【ポツダム宣言受諾】(1945年8月14日に宣言を受諾、1945年9月2日に調印)ここからお話は一気に省略で飛んで、皆さんがご存知の通りで広島も長崎も現在では国際法で禁止されている原爆を投下されてしまいました。 昭和天皇は御前会議で自分のことなら構わないからと、ポツダム宣言を受諾する事を御聖断されました。【極東国際軍事裁判】(別名:東京裁判)(1946年5月3日〜1948年11月12日)日本側の合法な自衛戦争のままでは「通例の戦争犯罪」(捕虜への虐待とか戦争法規に反する行為のこと)までしか裁けないので中立国が裁かず、『事後法』で平和に対する罪と人道に対する罪が追加されて戦勝国側の判事同士が談合して判決を1本化した、リンチ裁判を行ったのです。この極東国際軍事裁判=東京裁判で事後法により裁かれ、国家指導者は、東条英機以下7名が絞首刑、16名が終身禁固という判決でした。 東条英機大将は裁判で最後まで自衛戦争を訴えて、死刑判決後には深々と一礼して判決を潔く受けました。インドのパール判事だけが事後法で裁くのには反対して、被告人全員の無罪を主張したのです。しかし、結果ありきのままのリンチ裁判での判決でした。■■■(大切な部分のお話は以下に続きます。)■■■【補足】 ラダ・ビノード・パールは、インドの法学者、裁判官、コルカタ大学教授、国際連合国際法委員長を歴任。 ベンガル人。 ヒンドゥー法を専攻。 東京裁判(極東国際軍事裁判)の11人の判事の中で唯一国際法に通じていたのはインド代表のパール判事だけでパールは「裁判の方向性が予め決定づけられており、判決ありきの茶番劇である」との主旨でこの裁判そのものを批判し、被告の全員無罪を主張した。 これは裁判憲章の平和に対する罪、人道に対する罪は事後法であり、罪刑法定主義の立場から被告人を有罪であるとする根拠自体が成立しないという判断によるものであり、日本の戦争責任が存在しないという立場ではないことも加えた。■■■しかし、大切な部分のお話はココからです。■■■●マッカーサー「日本は自衛戦争」と証言昭和26年5月3日、米上院軍事外交合同委員会の公式の場で行われた質疑応答で、連合国側の経済封鎖で追い詰められた日本が、「主に自衛(安全保障)上の理由から、戦争に走った」と述べた。 マッカーサーは「太平洋において米国が過去百年間に犯した最大の政治的過ちは共産主義者を中国において強大にさせたことだと私は考える」とも発言。 マッカーサーは、日本が間違っていたのではなく、自分たちが間違っていたことを語った。【お話のまとめ】■連合国側のABCD包囲網に対しての合法な自存・自衛の戦争であり、大東亜共栄圏(欧米列強から植民地開放)を目的とした戦争でした。■東京裁判(極東国際軍事裁判)が結果ありきのインチキ談合リンチ裁判だったのです。インドネシア共和国 初代大統領スカルノ【動画】インドネシア独立戦争と日本軍大東亜戦争(第二次世界大戦の太平洋戦争)で日本が敗戦後も日本兵がインドネシアに、千数百名~残って、上官の命によって兵器の集積庫を開放、独立軍に武器、兵器を横流し(※本来は禁止行為)。 インドネシア人の指揮官がみずから率いる「民族軍」である郷土防衛義勇軍(ペタ)を組織するなど、日本兵が戦術を指導、植民地支配で味をしめたオランダ、イギリスを相手に、4年5ヶ月にわたる戦争で、80万人が犠牲になったが、結果的に、インドネシアは武力闘争と外交交渉によって独立を達成し、1949年12月にインドネシア連邦共和国が成立し、さらに連邦構成国がインドネシア共和国に合流して、1950年8月15日に単一のインドネシア共和国が誕生した。 戦死した日本兵達はインドネシア独立の英雄としてカリバタ英雄墓地に祀られている。●大東亜戦争を世界はいかに評価しているか------- 内容を簡略化したので、まだまだ詳細不足の箇所があります。 -------
2017/09/13

韓国は犯罪大国と認定。 とくに韓国では詐欺が日本の16倍・・。 あいつらに騙せるのは同じ韓国人くらいだろうけど(笑【記事】2017.9.12 韓国は、世界各国で日本の悪口を吹聴しているが、それほど自国は誇れるものなのか。近現代史研究家の細谷清氏が、韓国の最高検察庁年報(2016年)を分析したところ、わが国と比較にならないほどの犯罪大国で、特に「詐欺」が突出していることが分かった。人口10万人あたりの件数を比べると、日本の何と16倍という。細谷氏が寄稿した。韓国・最高検察庁年報によると、15年の犯罪件数は、詐欺が25万7620件でトップ、以下、窃盗(24万6424件)、暴行(16万1636件)と続いた。日本の同年の詐欺件数は3万9432件である。日本の人口は約1億2711万人、韓国は約5059万人なので、その多さが理解できるはずだ。人口10万人比では日本の16倍になる。・・・・・記事元で詳しく読む【日本赤十字社 平成29年7月5日からの大雨災害義援金】 受付開始しています。【日本赤十字社 平成28年熊本地震災害義援金】 受付開始しています。終戦の詔勅(玉音放送)※左に現代訳が表示昭和天皇「日本と共にアジアの開放に協力した国々に申し訳なく・・・・・」【大東亜戦争とは】--- 文字数制限で内容を簡略化してあります。 ---【日本が国際連盟の規約に人種差別撤廃条項を提案】時は第一次世界大戦終結後のお話です。 肌の色が濃いものほど欧米諸国では猿扱いしていた時代です。 欧米列強が植民地支配で搾取していた事は今更説明するまでもありませんが、第一次世界大戦後に初めて発足された国際連盟の規約に日本からは牧野伸顕が人種差別撤廃条項を提案、何とか票決にこぎつけて、賛成11 反対5で多数決で勝ったのですが、何と、アメリカのウッドロウ・ウィルソン議長に、この時ばかりは全会一致でないことを理由に否決されました。 植民地支配で欧米列強が搾取していたので日本の人種差別撤廃条項は邪魔でした。 とくに人種差別撤廃に強く反対していたのが英国とアメリカでした。【三国同盟/ABCD包囲網/大東亜共栄圏を含む自存・自衛の大東亜戦争へ】日本は国際連盟から抜けて三国同盟(日独伊)を結びます。しかし、それを脅威としたアメリカは日本に対して、ABCD包囲網で石油や鉄屑など(日本が必要な資源)を入らなくしてしまいました。 働くことが幸せで美徳とする日本人には大変な死活問題です。 そこでやむなく、国際法が認める、自存・自衛の戦争に突入していきました。欧米列強が支配している植民地を攻めて開放していきました。 同時に支那(中国)とも戦争をしていました。 蒋介石の国民党軍を背後からアメリカが支援して泥沼化させました。 日本側へ最後通牒とも受け取れるハルノートで無理難題を突き付けました。 当時のアメリカ大統領は、フランクリン・ルーズベルトで彼は徹底した反日主義者で、中国に甘い幻想を抱き、しかもその側近にはソ連のスパイがうごめいていました。 フランクリン・ルーズベルト(アメリカ合衆国の第32代大統領)は戦争をしないことを公約に掲げて大統領になりました。 それでアメリカ世論の賛同を得るために、日本を絞めつけて日本からの攻撃を待っていたのです。 日本軍は30倍〜40倍とも言われたアメリカの戦力を絶つために真珠湾攻撃で開戦して講和に運ぶ狙いがありました。●ハルノート案のハリー・ホワイトは、ソ連コミンテルンのスパイでベノナ文書により確認済みです。●日本が相手にした連合国側は、コチラを参照。(以上のこれらが大東亜戦争のあらすじです。)大東亜戦争は連合国側のABCD包囲網に対しての国際法が認める自存・自衛戦争であり、大東亜共栄圏(欧米列強から植民地開放)を目的とした戦争でした。【ポツダム宣言受諾】(1945年8月14日に宣言を受諾、1945年9月2日に調印)ここからお話は一気に省略で飛んで、皆さんがご存知の通りで広島も長崎も現在では国際法で禁止されている原爆を投下されてしまいました。 昭和天皇は御前会議で自分のことなら構わないからと、ポツダム宣言を受諾する事を御聖断されました。【極東国際軍事裁判】(別名:東京裁判)(1946年5月3日〜1948年11月12日)日本側の合法な自衛戦争のままでは「通例の戦争犯罪」(捕虜への虐待とか戦争法規に反する行為のこと)までしか裁けないので中立国が裁かず、『事後法』で平和に対する罪と人道に対する罪が追加されて戦勝国側の判事同士が談合して判決を1本化した、リンチ裁判を行ったのです。この極東国際軍事裁判=東京裁判で事後法により裁かれ、国家指導者は、東条英機以下7名が絞首刑、16名が終身禁固という判決でした。 東条英機大将は裁判で最後まで自衛戦争を訴えて、死刑判決後には深々と一礼して判決を潔く受けました。インドのパール判事だけが事後法で裁くのには反対して、被告人全員の無罪を主張したのです。しかし、結果ありきのままのリンチ裁判での判決でした。■■■(大切な部分のお話は以下に続きます。)■■■【補足】 ラダ・ビノード・パールは、インドの法学者、裁判官、コルカタ大学教授、国際連合国際法委員長を歴任。 ベンガル人。 ヒンドゥー法を専攻。 東京裁判(極東国際軍事裁判)の11人の判事の中で唯一国際法に通じていたのはインド代表のパール判事だけでパールは「裁判の方向性が予め決定づけられており、判決ありきの茶番劇である」との主旨でこの裁判そのものを批判し、被告の全員無罪を主張した。 これは裁判憲章の平和に対する罪、人道に対する罪は事後法であり、罪刑法定主義の立場から被告人を有罪であるとする根拠自体が成立しないという判断によるものであり、日本の戦争責任が存在しないという立場ではないことも加えた。■■■しかし、大切な部分のお話はココからです。■■■●マッカーサー「日本は自衛戦争」と証言昭和26年5月3日、米上院軍事外交合同委員会の公式の場で行われた質疑応答で、連合国側の経済封鎖で追い詰められた日本が、「主に自衛(安全保障)上の理由から、戦争に走った」と述べた。 マッカーサーは「太平洋において米国が過去百年間に犯した最大の政治的過ちは共産主義者を中国において強大にさせたことだと私は考える」とも発言。 マッカーサーは、日本が間違っていたのではなく、自分たちが間違っていたことを語った。【お話のまとめ】■連合国側のABCD包囲網に対しての合法な自存・自衛の戦争であり、大東亜共栄圏(欧米列強から植民地開放)を目的とした戦争でした。■東京裁判(極東国際軍事裁判)が結果ありきのインチキ談合リンチ裁判だったのです。インドネシア共和国 初代大統領スカルノ【動画】インドネシア独立戦争と日本軍大東亜戦争(第二次世界大戦の太平洋戦争)で日本が敗戦後も日本兵がインドネシアに、千数百名~残って、上官の命によって兵器の集積庫を開放、独立軍に武器、兵器を横流し(※本来は禁止行為)。 インドネシア人の指揮官がみずから率いる「民族軍」である郷土防衛義勇軍(ペタ)を組織するなど、日本兵が戦術を指導、植民地支配で味をしめたオランダ、イギリスを相手に、4年5ヶ月にわたる戦争で、80万人が犠牲になったが、結果的に、インドネシアは武力闘争と外交交渉によって独立を達成し、1949年12月にインドネシア連邦共和国が成立し、さらに連邦構成国がインドネシア共和国に合流して、1950年8月15日に単一のインドネシア共和国が誕生した。 戦死した日本兵達はインドネシア独立の英雄としてカリバタ英雄墓地に祀られている。●大東亜戦争を世界はいかに評価しているか------- 内容を簡略化したので、まだまだ詳細不足の箇所があります。 -------
2017/09/13

IS家族に日本人っことは参加していたってことか? 志からなのか、暇で金でも貰えるからとか、テロという手段が賛同を得られるとでも? どんな奴だか顔を見てみたい・・。 【記事】2017.9.12 20:31 イラク北部で保護されたイスラム教スンニ派過激組織「イスラム国」(IS)メンバーの家族らに、日本人女性が含まれている可能性が浮上した。AP通信などが12日までに伝えた。APがイラク軍当局者の話として伝えたところでは、保護されたのは女性や子供1300人以上で、出身国は14カ国に及ぶ。多くは中央アジアやロシア、トルコ出身だが、日本や韓国から来た者も含まれるとしている。女性らは8月末、北部タルアファルのIS掃討作戦の際、少数民族クルド人の部隊に投降。消息筋によると、・・・・・記事元で詳しく読む【日本赤十字社 平成29年7月5日からの大雨災害義援金】 受付開始しています。【日本赤十字社 平成28年熊本地震災害義援金】 受付開始しています。終戦の詔勅(玉音放送)※左に現代訳が表示昭和天皇「日本と共にアジアの開放に協力した国々に申し訳なく・・・・・」【大東亜戦争とは】--- 文字数制限で内容を簡略化してあります。 ---【日本が国際連盟の規約に人種差別撤廃条項を提案】時は第一次世界大戦終結後のお話です。 肌の色が濃いものほど欧米諸国では猿扱いしていた時代です。 欧米列強が植民地支配で搾取していた事は今更説明するまでもありませんが、第一次世界大戦後に初めて発足された国際連盟の規約に日本からは牧野伸顕が人種差別撤廃条項を提案、何とか票決にこぎつけて、賛成11 反対5で多数決で勝ったのですが、何と、アメリカのウッドロウ・ウィルソン議長に、この時ばかりは全会一致でないことを理由に否決されました。 植民地支配で欧米列強が搾取していたので日本の人種差別撤廃条項は邪魔でした。 とくに人種差別撤廃に強く反対していたのが英国とアメリカでした。【三国同盟/ABCD包囲網/大東亜共栄圏を含む自存・自衛の大東亜戦争へ】日本は国際連盟から抜けて三国同盟(日独伊)を結びます。しかし、それを脅威としたアメリカは日本に対して、ABCD包囲網で石油や鉄屑など(日本が必要な資源)を入らなくしてしまいました。 働くことが幸せで美徳とする日本人には大変な死活問題です。 そこでやむなく、国際法が認める、自存・自衛の戦争に突入していきました。欧米列強が支配している植民地を攻めて開放していきました。 同時に支那(中国)とも戦争をしていました。 蒋介石の国民党軍を背後からアメリカが支援して泥沼化させました。 日本側へ最後通牒とも受け取れるハルノートで無理難題を突き付けました。 当時のアメリカ大統領は、フランクリン・ルーズベルトで彼は徹底した反日主義者で、中国に甘い幻想を抱き、しかもその側近にはソ連のスパイがうごめいていました。 フランクリン・ルーズベルト(アメリカ合衆国の第32代大統領)は戦争をしないことを公約に掲げて大統領になりました。 それでアメリカ世論の賛同を得るために、日本を絞めつけて日本からの攻撃を待っていたのです。 日本軍は30倍〜40倍とも言われたアメリカの戦力を絶つために真珠湾攻撃で開戦して講和に運ぶ狙いがありました。●ハルノート案のハリー・ホワイトは、ソ連コミンテルンのスパイでベノナ文書により確認済みです。●日本が相手にした連合国側は、コチラを参照。(以上のこれらが大東亜戦争のあらすじです。)大東亜戦争は連合国側のABCD包囲網に対しての国際法が認める自存・自衛戦争であり、大東亜共栄圏(欧米列強から植民地開放)を目的とした戦争でした。【ポツダム宣言受諾】(1945年8月14日に宣言を受諾、1945年9月2日に調印)ここからお話は一気に省略で飛んで、皆さんがご存知の通りで広島も長崎も現在では国際法で禁止されている原爆を投下されてしまいました。 昭和天皇は御前会議で自分のことなら構わないからと、ポツダム宣言を受諾する事を御聖断されました。【極東国際軍事裁判】(別名:東京裁判)(1946年5月3日〜1948年11月12日)日本側の合法な自衛戦争のままでは「通例の戦争犯罪」(捕虜への虐待とか戦争法規に反する行為のこと)までしか裁けないので中立国が裁かず、『事後法』で平和に対する罪と人道に対する罪が追加されて戦勝国側の判事同士が談合して判決を1本化した、リンチ裁判を行ったのです。この極東国際軍事裁判=東京裁判で事後法により裁かれ、国家指導者は、東条英機以下7名が絞首刑、16名が終身禁固という判決でした。 東条英機大将は裁判で最後まで自衛戦争を訴えて、死刑判決後には深々と一礼して判決を潔く受けました。インドのパール判事だけが事後法で裁くのには反対して、被告人全員の無罪を主張したのです。しかし、結果ありきのままのリンチ裁判での判決でした。■■■(大切な部分のお話は以下に続きます。)■■■【補足】 ラダ・ビノード・パールは、インドの法学者、裁判官、コルカタ大学教授、国際連合国際法委員長を歴任。 ベンガル人。 ヒンドゥー法を専攻。 東京裁判(極東国際軍事裁判)の11人の判事の中で唯一国際法に通じていたのはインド代表のパール判事だけでパールは「裁判の方向性が予め決定づけられており、判決ありきの茶番劇である」との主旨でこの裁判そのものを批判し、被告の全員無罪を主張した。 これは裁判憲章の平和に対する罪、人道に対する罪は事後法であり、罪刑法定主義の立場から被告人を有罪であるとする根拠自体が成立しないという判断によるものであり、日本の戦争責任が存在しないという立場ではないことも加えた。■■■しかし、大切な部分のお話はココからです。■■■●マッカーサー「日本は自衛戦争」と証言昭和26年5月3日、米上院軍事外交合同委員会の公式の場で行われた質疑応答で、連合国側の経済封鎖で追い詰められた日本が、「主に自衛(安全保障)上の理由から、戦争に走った」と述べた。 マッカーサーは「太平洋において米国が過去百年間に犯した最大の政治的過ちは共産主義者を中国において強大にさせたことだと私は考える」とも発言。 マッカーサーは、日本が間違っていたのではなく、自分たちが間違っていたことを語った。【お話のまとめ】■連合国側のABCD包囲網に対しての合法な自存・自衛の戦争であり、大東亜共栄圏(欧米列強から植民地開放)を目的とした戦争でした。■東京裁判(極東国際軍事裁判)が結果ありきのインチキ談合リンチ裁判だったのです。インドネシア共和国 初代大統領スカルノ【動画】インドネシア独立戦争と日本軍大東亜戦争(第二次世界大戦の太平洋戦争)で日本が敗戦後も日本兵がインドネシアに、千数百名~残って、上官の命によって兵器の集積庫を開放、独立軍に武器、兵器を横流し(※本来は禁止行為)。 インドネシア人の指揮官がみずから率いる「民族軍」である郷土防衛義勇軍(ペタ)を組織するなど、日本兵が戦術を指導、植民地支配で味をしめたオランダ、イギリスを相手に、4年5ヶ月にわたる戦争で、80万人が犠牲になったが、結果的に、インドネシアは武力闘争と外交交渉によって独立を達成し、1949年12月にインドネシア連邦共和国が成立し、さらに連邦構成国がインドネシア共和国に合流して、1950年8月15日に単一のインドネシア共和国が誕生した。 戦死した日本兵達はインドネシア独立の英雄としてカリバタ英雄墓地に祀られている。●大東亜戦争を世界はいかに評価しているか------- 内容を簡略化したので、まだまだ詳細不足の箇所があります。 -------
2017/09/12

TBSでは連日反日報道が繰り返されています。それは何故か、TBSの番組を作ってるのは在日朝鮮人だからです。 「以下、一部抜粋引用」発端は1960年代。テレビ放送が始まってまもなくの頃、放送中のちょっとした言葉づかいの問題(例えば「朝鮮民主主義人民共和国」を“北朝鮮”と呼んでしまった、など)に対して、朝鮮総連から会社及び経営幹部の自宅に対して脅迫に近い抗議行動が繰り返される。抗議行動に対する「手打ち」として、採用枠に“在日枠”が密かに設けられる。総連幹部の子弟を中心に入社試験無し(カタチだけの面接)での採用が毎年続く。在日枠の密約を所轄官庁に対して内密にしてもらうよう局側から総連に「お願い」をしてさらに弱みを握られ身動きがとれなくなっていく。 (つまり、在日テレビ局と言っても過言でない。)【記事】2017.9.11 週末の赤坂が騒然となった。TBS(東京放送)の報道が偏向しているとして、約500人が9日、東京都港区赤坂のTBS本社付近で抗議デモを行ったのだ。「TBS偏向報道糾弾大会実行委員会」が主催した。千代田区永田町の星陵会館前を出発した一行は「国民をだますな」「偏向報道・歪曲報道・印象操作」などと書かれたプラカードや日章旗を手に行進し、シュプレヒコールを上げた。同実行委は、TBSの偏向報道の一例として、加計学園問題をめぐり、安倍晋三首相に「行政を歪められた」と主張した前川喜平前文科事務次官の発言を大々的に取り上げながら、疑惑を否定した加戸守行前愛媛県知事や原英史・国家戦略特区ワーキンググループ委員らの発言はほとんど取り上げなかったことなどを指摘している。・・・・・記事元で詳しく読む【日本赤十字社 平成29年7月5日からの大雨災害義援金】 受付開始しています。【日本赤十字社 平成28年熊本地震災害義援金】 受付開始しています。終戦の詔勅(玉音放送)※左に現代訳が表示昭和天皇「日本と共にアジアの開放に協力した国々に申し訳なく・・・・・」【大東亜戦争とは】--- 文字数制限で内容を簡略化してあります。 ---【日本が国際連盟の規約に人種差別撤廃条項を提案】時は第一次世界大戦終結後のお話です。 肌の色が濃いものほど欧米諸国では猿扱いしていた時代です。 欧米列強が植民地支配で搾取していた事は今更説明するまでもありませんが、第一次世界大戦後に初めて発足された国際連盟の規約に日本からは牧野伸顕が人種差別撤廃条項を提案、何とか票決にこぎつけて、賛成11 反対5で多数決で勝ったのですが、何と、アメリカのウッドロウ・ウィルソン議長に、この時ばかりは全会一致でないことを理由に否決されました。 植民地支配で欧米列強が搾取していたので日本の人種差別撤廃条項は邪魔でした。 とくに人種差別撤廃に強く反対していたのが英国とアメリカでした。【三国同盟/ABCD包囲網/大東亜共栄圏を含む自存・自衛の大東亜戦争へ】日本は国際連盟から抜けて三国同盟(日独伊)を結びます。しかし、それを脅威としたアメリカは日本に対して、ABCD包囲網で石油や鉄屑など(日本が必要な資源)を入らなくしてしまいました。 働くことが幸せで美徳とする日本人には大変な死活問題です。 そこでやむなく、国際法が認める、自存・自衛の戦争に突入していきました。欧米列強が支配している植民地を攻めて開放していきました。 同時に支那(中国)とも戦争をしていました。 蒋介石の国民党軍を背後からアメリカが支援して泥沼化させました。 日本側へ最後通牒とも受け取れるハルノートで無理難題を突き付けました。 当時のアメリカ大統領は、フランクリン・ルーズベルトで彼は徹底した反日主義者で、中国に甘い幻想を抱き、しかもその側近にはソ連のスパイがうごめいていました。 フランクリン・ルーズベルト(アメリカ合衆国の第32代大統領)は戦争をしないことを公約に掲げて大統領になりました。 それでアメリカ世論の賛同を得るために、日本を絞めつけて日本からの攻撃を待っていたのです。 日本軍は30倍〜40倍とも言われたアメリカの戦力を絶つために真珠湾攻撃で開戦して講和に運ぶ狙いがありました。●ハルノート案のハリー・ホワイトは、ソ連コミンテルンのスパイでベノナ文書により確認済みです。●日本が相手にした連合国側は、コチラを参照。(以上のこれらが大東亜戦争のあらすじです。)大東亜戦争は連合国側のABCD包囲網に対しての国際法が認める自存・自衛戦争であり、大東亜共栄圏(欧米列強から植民地開放)を目的とした戦争でした。【ポツダム宣言受諾】(1945年8月14日に宣言を受諾、1945年9月2日に調印)ここからお話は一気に省略で飛んで、皆さんがご存知の通りで広島も長崎も現在では国際法で禁止されている原爆を投下されてしまいました。 昭和天皇は御前会議で自分のことなら構わないからと、ポツダム宣言を受諾する事を御聖断されました。【極東国際軍事裁判】(別名:東京裁判)(1946年5月3日〜1948年11月12日)日本側の合法な自衛戦争のままでは「通例の戦争犯罪」(捕虜への虐待とか戦争法規に反する行為のこと)までしか裁けないので中立国が裁かず、『事後法』で平和に対する罪と人道に対する罪が追加されて戦勝国側の判事同士が談合して判決を1本化した、リンチ裁判を行ったのです。この極東国際軍事裁判=東京裁判で事後法により裁かれ、国家指導者は、東条英機以下7名が絞首刑、16名が終身禁固という判決でした。 東条英機大将は裁判で最後まで自衛戦争を訴えて、死刑判決後には深々と一礼して判決を潔く受けました。インドのパール判事だけが事後法で裁くのには反対して、被告人全員の無罪を主張したのです。しかし、結果ありきのままのリンチ裁判での判決でした。■■■(大切な部分のお話は以下に続きます。)■■■【補足】 ラダ・ビノード・パールは、インドの法学者、裁判官、コルカタ大学教授、国際連合国際法委員長を歴任。 ベンガル人。 ヒンドゥー法を専攻。 東京裁判(極東国際軍事裁判)の11人の判事の中で唯一国際法に通じていたのはインド代表のパール判事だけでパールは「裁判の方向性が予め決定づけられており、判決ありきの茶番劇である」との主旨でこの裁判そのものを批判し、被告の全員無罪を主張した。 これは裁判憲章の平和に対する罪、人道に対する罪は事後法であり、罪刑法定主義の立場から被告人を有罪であるとする根拠自体が成立しないという判断によるものであり、日本の戦争責任が存在しないという立場ではないことも加えた。■■■しかし、大切な部分のお話はココからです。■■■●マッカーサー「日本は自衛戦争」と証言昭和26年5月3日、米上院軍事外交合同委員会の公式の場で行われた質疑応答で、連合国側の経済封鎖で追い詰められた日本が、「主に自衛(安全保障)上の理由から、戦争に走った」と述べた。 マッカーサーは「太平洋において米国が過去百年間に犯した最大の政治的過ちは共産主義者を中国において強大にさせたことだと私は考える」とも発言。 マッカーサーは、日本が間違っていたのではなく、自分たちが間違っていたことを語った。【お話のまとめ】■連合国側のABCD包囲網に対しての合法な自存・自衛の戦争であり、大東亜共栄圏(欧米列強から植民地開放)を目的とした戦争でした。■東京裁判(極東国際軍事裁判)が結果ありきのインチキ談合リンチ裁判だったのです。インドネシア共和国 初代大統領スカルノ【動画】インドネシア独立戦争と日本軍大東亜戦争(第二次世界大戦の太平洋戦争)で日本が敗戦後も日本兵がインドネシアに、千数百名~残って、上官の命によって兵器の集積庫を開放、独立軍に武器、兵器を横流し(※本来は禁止行為)。 インドネシア人の指揮官がみずから率いる「民族軍」である郷土防衛義勇軍(ペタ)を組織するなど、日本兵が戦術を指導、植民地支配で味をしめたオランダ、イギリスを相手に、4年5ヶ月にわたる戦争で、80万人が犠牲になったが、結果的に、インドネシアは武力闘争と外交交渉によって独立を達成し、1949年12月にインドネシア連邦共和国が成立し、さらに連邦構成国がインドネシア共和国に合流して、1950年8月15日に単一のインドネシア共和国が誕生した。 戦死した日本兵達はインドネシア独立の英雄としてカリバタ英雄墓地に祀られている。●大東亜戦争を世界はいかに評価しているか------- 内容を簡略化したので、まだまだ詳細不足の箇所があります。 -------
2017/09/11

ご無沙汰の翁長雄志(沖縄県知事)のニュース。 うっかりかどうか知らんけど勝手に動いた費用まで公費で支出していたか〜。【記事】2017.9.11 01:00 沖縄県の翁長雄志(おなが・たけし)知事が、平成27年9月にスイス・ジュネーブの国連人権理事会で、参加資格が認められていない「県知事」の立場で演説し、交通費や宿泊費などの費用計約227万円を公費で支出していたことが分かった。県の公文書公開請求で判明した。翁長氏は協議資格を有するNGOから演説枠を提供されたため、費用は本来、このNGOなどに用立ててもらうか個人で賄うべきだった。米軍基地反対を叫ぶ民間団体の国際世論工作に血税で加担した形だ。・・・・・記事元で詳しく読む【日本赤十字社 平成29年7月5日からの大雨災害義援金】 受付開始しています。【日本赤十字社 平成28年熊本地震災害義援金】 受付開始しています。終戦の詔勅(玉音放送)※左に現代訳が表示昭和天皇「日本と共にアジアの開放に協力した国々に申し訳なく・・・・・」【大東亜戦争とは】--- 文字数制限で内容を簡略化してあります。 ---【日本が国際連盟の規約に人種差別撤廃条項を提案】時は第一次世界大戦終結後のお話です。 肌の色が濃いものほど欧米諸国では猿扱いしていた時代です。 欧米列強が植民地支配で搾取していた事は今更説明するまでもありませんが、第一次世界大戦後に初めて発足された国際連盟の規約に日本からは牧野伸顕が人種差別撤廃条項を提案、何とか票決にこぎつけて、賛成11 反対5で多数決で勝ったのですが、何と、アメリカのウッドロウ・ウィルソン議長に、この時ばかりは全会一致でないことを理由に否決されました。 植民地支配で欧米列強が搾取していたので日本の人種差別撤廃条項は邪魔でした。 とくに人種差別撤廃に強く反対していたのが英国とアメリカでした。【三国同盟/ABCD包囲網/大東亜共栄圏を含む自存・自衛の大東亜戦争へ】日本は国際連盟から抜けて三国同盟(日独伊)を結びます。しかし、それを脅威としたアメリカは日本に対して、ABCD包囲網で石油や鉄屑など(日本が必要な資源)を入らなくしてしまいました。 働くことが幸せで美徳とする日本人には大変な死活問題です。 そこでやむなく、国際法が認める、自存・自衛の戦争に突入していきました。欧米列強が支配している植民地を攻めて開放していきました。 同時に支那(中国)とも戦争をしていました。 蒋介石の国民党軍を背後からアメリカが支援して泥沼化させました。 日本側へ最後通牒とも受け取れるハルノートで無理難題を突き付けました。 当時のアメリカ大統領は、フランクリン・ルーズベルトで彼は徹底した反日主義者で、中国に甘い幻想を抱き、しかもその側近にはソ連のスパイがうごめいていました。 フランクリン・ルーズベルト(アメリカ合衆国の第32代大統領)は戦争をしないことを公約に掲げて大統領になりました。 それでアメリカ世論の賛同を得るために、日本を絞めつけて日本からの攻撃を待っていたのです。 日本軍は30倍〜40倍とも言われたアメリカの戦力を絶つために真珠湾攻撃で開戦して講和に運ぶ狙いがありました。●ハルノート案のハリー・ホワイトは、ソ連コミンテルンのスパイでベノナ文書により確認済みです。●日本が相手にした連合国側は、コチラを参照。(以上のこれらが大東亜戦争のあらすじです。)大東亜戦争は連合国側のABCD包囲網に対しての国際法が認める自存・自衛戦争であり、大東亜共栄圏(欧米列強から植民地開放)を目的とした戦争でした。【ポツダム宣言受諾】(1945年8月14日に宣言を受諾、1945年9月2日に調印)ここからお話は一気に省略で飛んで、皆さんがご存知の通りで広島も長崎も現在では国際法で禁止されている原爆を投下されてしまいました。 昭和天皇は御前会議で自分のことなら構わないからと、ポツダム宣言を受諾する事を御聖断されました。【極東国際軍事裁判】(別名:東京裁判)(1946年5月3日〜1948年11月12日)日本側の合法な自衛戦争のままでは「通例の戦争犯罪」(捕虜への虐待とか戦争法規に反する行為のこと)までしか裁けないので中立国が裁かず、『事後法』で平和に対する罪と人道に対する罪が追加されて戦勝国側の判事同士が談合して判決を1本化した、リンチ裁判を行ったのです。この極東国際軍事裁判=東京裁判で事後法により裁かれ、国家指導者は、東条英機以下7名が絞首刑、16名が終身禁固という判決でした。 東条英機大将は裁判で最後まで自衛戦争を訴えて、死刑判決後には深々と一礼して判決を潔く受けました。インドのパール判事だけが事後法で裁くのには反対して、被告人全員の無罪を主張したのです。しかし、結果ありきのままのリンチ裁判での判決でした。■■■(大切な部分のお話は以下に続きます。)■■■【補足】 ラダ・ビノード・パールは、インドの法学者、裁判官、コルカタ大学教授、国際連合国際法委員長を歴任。 ベンガル人。 ヒンドゥー法を専攻。 東京裁判(極東国際軍事裁判)の11人の判事の中で唯一国際法に通じていたのはインド代表のパール判事だけでパールは「裁判の方向性が予め決定づけられており、判決ありきの茶番劇である」との主旨でこの裁判そのものを批判し、被告の全員無罪を主張した。 これは裁判憲章の平和に対する罪、人道に対する罪は事後法であり、罪刑法定主義の立場から被告人を有罪であるとする根拠自体が成立しないという判断によるものであり、日本の戦争責任が存在しないという立場ではないことも加えた。■■■しかし、大切な部分のお話はココからです。■■■●マッカーサー「日本は自衛戦争」と証言昭和26年5月3日、米上院軍事外交合同委員会の公式の場で行われた質疑応答で、連合国側の経済封鎖で追い詰められた日本が、「主に自衛(安全保障)上の理由から、戦争に走った」と述べた。 マッカーサーは「太平洋において米国が過去百年間に犯した最大の政治的過ちは共産主義者を中国において強大にさせたことだと私は考える」とも発言。 マッカーサーは、日本が間違っていたのではなく、自分たちが間違っていたことを語った。【お話のまとめ】■連合国側のABCD包囲網に対しての合法な自存・自衛の戦争であり、大東亜共栄圏(欧米列強から植民地開放)を目的とした戦争でした。■東京裁判(極東国際軍事裁判)が結果ありきのインチキ談合リンチ裁判だったのです。インドネシア共和国 初代大統領スカルノ【動画】インドネシア独立戦争と日本軍大東亜戦争(第二次世界大戦の太平洋戦争)で日本が敗戦後も日本兵がインドネシアに、千数百名~残って、上官の命によって兵器の集積庫を開放、独立軍に武器、兵器を横流し(※本来は禁止行為)。 インドネシア人の指揮官がみずから率いる「民族軍」である郷土防衛義勇軍(ペタ)を組織するなど、日本兵が戦術を指導、植民地支配で味をしめたオランダ、イギリスを相手に、4年5ヶ月にわたる戦争で、80万人が犠牲になったが、結果的に、インドネシアは武力闘争と外交交渉によって独立を達成し、1949年12月にインドネシア連邦共和国が成立し、さらに連邦構成国がインドネシア共和国に合流して、1950年8月15日に単一のインドネシア共和国が誕生した。 戦死した日本兵達はインドネシア独立の英雄としてカリバタ英雄墓地に祀られている。●大東亜戦争を世界はいかに評価しているか------- 内容を簡略化したので、まだまだ詳細不足の箇所があります。 -------
2017/09/11

トランプ大統領 大当たり! 韓国の歴史って物乞いなんです(爆【記事】2017.9.9 ドナルド・トランプ米大統領が、北朝鮮との対話にこだわる韓国を「物乞いのようだ」と批判したとするフジテレビの報道が、韓国内で大きな波紋を呼んでいる。フジテレビが、驚くべきトランプ発言を報じたのは7日のニュース。北朝鮮の中距離弾道ミサイルが日本上空を通過した8月29日の日米電話首脳会談で、トランプ氏が安倍晋三首相に語ったと伝えた。この報道に対し、韓国政府は猛烈に反発した。聯合ニュースの取材に対し、青瓦台(大統領府)の報道官は7日・・・・・記事元で詳しく読む 【日本赤十字社 平成29年7月5日からの大雨災害義援金】 受付開始しています。【日本赤十字社 平成28年熊本地震災害義援金】 受付開始しています。終戦の詔勅(玉音放送)※左に現代訳が表示昭和天皇「日本と共にアジアの開放に協力した国々に申し訳なく・・・・・」【大東亜戦争とは】--- 文字数制限で内容を簡略化してあります。 ---【日本が国際連盟の規約に人種差別撤廃条項を提案】時は第一次世界大戦終結後のお話です。 肌の色が濃いものほど欧米諸国では猿扱いしていた時代です。 欧米列強が植民地支配で搾取していた事は今更説明するまでもありませんが、第一次世界大戦後に初めて発足された国際連盟の規約に日本からは牧野伸顕が人種差別撤廃条項を提案、何とか票決にこぎつけて、賛成11 反対5で多数決で勝ったのですが、何と、アメリカのウッドロウ・ウィルソン議長に、この時ばかりは全会一致でないことを理由に否決されました。 植民地支配で欧米列強が搾取していたので日本の人種差別撤廃条項は邪魔でした。 とくに人種差別撤廃に強く反対していたのが英国とアメリカでした。【三国同盟/ABCD包囲網/大東亜共栄圏を含む自存・自衛の大東亜戦争へ】日本は国際連盟から抜けて三国同盟(日独伊)を結びます。しかし、それを脅威としたアメリカは日本に対して、ABCD包囲網で石油や鉄屑など(日本が必要な資源)を入らなくしてしまいました。 働くことが幸せで美徳とする日本人には大変な死活問題です。 そこでやむなく、国際法が認める、自存・自衛の戦争に突入していきました。欧米列強が支配している植民地を攻めて開放していきました。 同時に支那(中国)とも戦争をしていました。 蒋介石の国民党軍を背後からアメリカが支援して泥沼化させました。 日本側へ最後通牒とも受け取れるハルノートで無理難題を突き付けました。 当時のアメリカ大統領は、フランクリン・ルーズベルトで彼は徹底した反日主義者で、中国に甘い幻想を抱き、しかもその側近にはソ連のスパイがうごめいていました。 フランクリン・ルーズベルト(アメリカ合衆国の第32代大統領)は戦争をしないことを公約に掲げて大統領になりました。 それでアメリカ世論の賛同を得るために、日本を絞めつけて日本からの攻撃を待っていたのです。 日本軍は30倍〜40倍とも言われたアメリカの戦力を絶つために真珠湾攻撃で開戦して講和に運ぶ狙いがありました。●ハルノート案のハリー・ホワイトは、ソ連コミンテルンのスパイでベノナ文書により確認済みです。●日本が相手にした連合国側は、コチラを参照。(以上のこれらが大東亜戦争のあらすじです。)大東亜戦争は連合国側のABCD包囲網に対しての国際法が認める自存・自衛戦争であり、大東亜共栄圏(欧米列強から植民地開放)を目的とした戦争でした。【ポツダム宣言受諾】(1945年8月14日に宣言を受諾、1945年9月2日に調印)ここからお話は一気に省略で飛んで、皆さんがご存知の通りで広島も長崎も現在では国際法で禁止されている原爆を投下されてしまいました。 昭和天皇は御前会議で自分のことなら構わないからと、ポツダム宣言を受諾する事を御聖断されました。【極東国際軍事裁判】(別名:東京裁判)(1946年5月3日〜1948年11月12日)日本側の合法な自衛戦争のままでは「通例の戦争犯罪」(捕虜への虐待とか戦争法規に反する行為のこと)までしか裁けないので中立国が裁かず、『事後法』で平和に対する罪と人道に対する罪が追加されて戦勝国側の判事同士が談合して判決を1本化した、リンチ裁判を行ったのです。この極東国際軍事裁判=東京裁判で事後法により裁かれ、国家指導者は、東条英機以下7名が絞首刑、16名が終身禁固という判決でした。 東条英機大将は裁判で最後まで自衛戦争を訴えて、死刑判決後には深々と一礼して判決を潔く受けました。インドのパール判事だけが事後法で裁くのには反対して、被告人全員の無罪を主張したのです。しかし、結果ありきのままのリンチ裁判での判決でした。■■■(大切な部分のお話は以下に続きます。)■■■【補足】 ラダ・ビノード・パールは、インドの法学者、裁判官、コルカタ大学教授、国際連合国際法委員長を歴任。 ベンガル人。 ヒンドゥー法を専攻。 東京裁判(極東国際軍事裁判)の11人の判事の中で唯一国際法に通じていたのはインド代表のパール判事だけでパールは「裁判の方向性が予め決定づけられており、判決ありきの茶番劇である」との主旨でこの裁判そのものを批判し、被告の全員無罪を主張した。 これは裁判憲章の平和に対する罪、人道に対する罪は事後法であり、罪刑法定主義の立場から被告人を有罪であるとする根拠自体が成立しないという判断によるものであり、日本の戦争責任が存在しないという立場ではないことも加えた。■■■しかし、大切な部分のお話はココからです。■■■●マッカーサー「日本は自衛戦争」と証言昭和26年5月3日、米上院軍事外交合同委員会の公式の場で行われた質疑応答で、連合国側の経済封鎖で追い詰められた日本が、「主に自衛(安全保障)上の理由から、戦争に走った」と述べた。 マッカーサーは「太平洋において米国が過去百年間に犯した最大の政治的過ちは共産主義者を中国において強大にさせたことだと私は考える」とも発言。 マッカーサーは、日本が間違っていたのではなく、自分たちが間違っていたことを語った。【お話のまとめ】■連合国側のABCD包囲網に対しての合法な自存・自衛の戦争であり、大東亜共栄圏(欧米列強から植民地開放)を目的とした戦争でした。■東京裁判(極東国際軍事裁判)が結果ありきのインチキ談合リンチ裁判だったのです。インドネシア共和国 初代大統領スカルノ【動画】インドネシア独立戦争と日本軍大東亜戦争(第二次世界大戦の太平洋戦争)で日本が敗戦後も日本兵がインドネシアに、千数百名~残って、上官の命によって兵器の集積庫を開放、独立軍に武器、兵器を横流し(※本来は禁止行為)。 インドネシア人の指揮官がみずから率いる「民族軍」である郷土防衛義勇軍(ペタ)を組織するなど、日本兵が戦術を指導、植民地支配で味をしめたオランダ、イギリスを相手に、4年5ヶ月にわたる戦争で、80万人が犠牲になったが、結果的に、インドネシアは武力闘争と外交交渉によって独立を達成し、1949年12月にインドネシア連邦共和国が成立し、さらに連邦構成国がインドネシア共和国に合流して、1950年8月15日に単一のインドネシア共和国が誕生した。 戦死した日本兵達はインドネシア独立の英雄としてカリバタ英雄墓地に祀られている。●大東亜戦争を世界はいかに評価しているか------- 内容を簡略化したので、まだまだ詳細不足の箇所があります。 -------
2017/09/10

山尾志桜里 尾+志=人運格 14画 ▲[14画 ▲]"この数を人格に持つ人は権力や名誉への欲望が強く、リーダーシップをとろうと躍起になるのですが他人から信頼を得られません。労多くして功の少ない人なのでいじけた性格になりやすく、常に心の中に不平不満を持つようになります。それが原因で犯罪に走ることもあるので注意する必要があります。""わがままで気分屋なところがあり、理想と現実が伴わず常に不満をつのらせて周りとの争いが絶えず、自分を苦しめることになります。家庭環境も冷たい家庭になりがちです。身体も病気がちで呼吸器系の疾患や心臓病に注意が必要です。""異性関係に平穏な関係を保つことができない傾向が見られます。人当たりは悪くないのですが、広く浅い関係しかできず腹を割った友人ができにくいようです。社会的になかなか認めてもらえない暗示があり苦労が絶えないようです。""孤独の暗示があり特に晩年は寂しい境遇になります。また気が弱いので不利な状況に置かれるとすぐに逃げ出してしまいます。その場では何も言わないのですが、後になって愚痴をこぼすような人です。精神的にも経済的にも不安定で、性格もひがみっぽいところがあり凶運を招くこととなります。"----------------------------------------------------------------------------※(他人に厳しく自分に甘い人です。 今回は性格のみの占いです。)
2017/09/08

ガソリーヌこと民進党の山尾志桜里が、ガソリン疑惑の説明責任も果たさないでW不倫騒動で離党しよった。 週4回の密会もあったってことだから、H中毒だったんやな〜(爆 お盛んだこと♪【記事】2017.9.7 民進党の山尾志桜里元政調会長(43)=衆院愛知7区=は7日夜、同日発売の週刊文春で既婚男性との不倫疑惑が報じられたことを受け、大島敦幹事長に離党届を提出した。山尾氏は議員辞職する意向を漏らしていたが、前原誠司代表が大島敦幹事長らと対応を協議し、10月の衆院補欠選挙が同区を加えた4選挙区になることを警戒、離党にとどめるべきだと判断した。山尾氏を説得したとみられる・・・・・記事元で詳しく読む【日本赤十字社 平成29年7月5日からの大雨災害義援金】 受付開始しています。【日本赤十字社 平成28年熊本地震災害義援金】 受付開始しています。終戦の詔勅(玉音放送)※左に現代訳が表示昭和天皇「日本と共にアジアの開放に協力した国々に申し訳なく・・・・・」【大東亜戦争とは】--- 文字数制限で内容を簡略化してあります。 ---【日本が国際連盟の規約に人種差別撤廃条項を提案】時は第一次世界大戦終結後のお話です。 肌の色が濃いものほど欧米諸国では猿扱いしていた時代です。 欧米列強が植民地支配で搾取していた事は今更説明するまでもありませんが、第一次世界大戦後に初めて発足された国際連盟の規約に日本からは牧野伸顕が人種差別撤廃条項を提案、何とか票決にこぎつけて、賛成11 反対5で多数決で勝ったのですが、何と、アメリカのウッドロウ・ウィルソン議長に、この時ばかりは全会一致でないことを理由に否決されました。 植民地支配で欧米列強が搾取していたので日本の人種差別撤廃条項は邪魔でした。 とくに人種差別撤廃に強く反対していたのが英国とアメリカでした。【三国同盟/ABCD包囲網/大東亜共栄圏を含む自存・自衛の大東亜戦争へ】日本は国際連盟から抜けて三国同盟(日独伊)を結びます。しかし、それを脅威としたアメリカは日本に対して、ABCD包囲網で石油や鉄屑など(日本が必要な資源)を入らなくしてしまいました。 働くことが幸せで美徳とする日本人には大変な死活問題です。 そこでやむなく、国際法が認める、自存・自衛の戦争に突入していきました。欧米列強が支配している植民地を攻めて開放していきました。 同時に支那(中国)とも戦争をしていました。 蒋介石の国民党軍を背後からアメリカが支援して泥沼化させました。 日本側へ最後通牒とも受け取れるハルノートで無理難題を突き付けました。 当時のアメリカ大統領は、フランクリン・ルーズベルトで彼は徹底した反日主義者で、中国に甘い幻想を抱き、しかもその側近にはソ連のスパイがうごめいていました。 フランクリン・ルーズベルト(アメリカ合衆国の第32代大統領)は戦争をしないことを公約に掲げて大統領になりました。 それでアメリカ世論の賛同を得るために、日本を絞めつけて日本からの攻撃を待っていたのです。 日本軍は30倍〜40倍とも言われたアメリカの戦力を絶つために真珠湾攻撃で開戦して講和に運ぶ狙いがありました。●ハルノート案のハリー・ホワイトは、ソ連コミンテルンのスパイでベノナ文書により確認済みです。●日本が相手にした連合国側は、コチラを参照。(以上のこれらが大東亜戦争のあらすじです。)大東亜戦争は連合国側のABCD包囲網に対しての国際法が認める自存・自衛戦争であり、大東亜共栄圏(欧米列強から植民地開放)を目的とした戦争でした。【ポツダム宣言受諾】(1945年8月14日に宣言を受諾、1945年9月2日に調印)ここからお話は一気に省略で飛んで、皆さんがご存知の通りで広島も長崎も現在では国際法で禁止されている原爆を投下されてしまいました。 昭和天皇は御前会議で自分のことなら構わないからと、ポツダム宣言を受諾する事を御聖断されました。【極東国際軍事裁判】(別名:東京裁判)(1946年5月3日〜1948年11月12日)日本側の合法な自衛戦争のままでは「通例の戦争犯罪」(捕虜への虐待とか戦争法規に反する行為のこと)までしか裁けないので中立国が裁かず、『事後法』で平和に対する罪と人道に対する罪が追加されて戦勝国側の判事同士が談合して判決を1本化した、リンチ裁判を行ったのです。この極東国際軍事裁判=東京裁判で事後法により裁かれ、国家指導者は、東条英機以下7名が絞首刑、16名が終身禁固という判決でした。 東条英機大将は裁判で最後まで自衛戦争を訴えて、死刑判決後には深々と一礼して判決を潔く受けました。インドのパール判事だけが事後法で裁くのには反対して、被告人全員の無罪を主張したのです。しかし、結果ありきのままのリンチ裁判での判決でした。■■■(大切な部分のお話は以下に続きます。)■■■【補足】 ラダ・ビノード・パールは、インドの法学者、裁判官、コルカタ大学教授、国際連合国際法委員長を歴任。 ベンガル人。 ヒンドゥー法を専攻。 東京裁判(極東国際軍事裁判)の11人の判事の中で唯一国際法に通じていたのはインド代表のパール判事だけでパールは「裁判の方向性が予め決定づけられており、判決ありきの茶番劇である」との主旨でこの裁判そのものを批判し、被告の全員無罪を主張した。 これは裁判憲章の平和に対する罪、人道に対する罪は事後法であり、罪刑法定主義の立場から被告人を有罪であるとする根拠自体が成立しないという判断によるものであり、日本の戦争責任が存在しないという立場ではないことも加えた。■■■しかし、大切な部分のお話はココからです。■■■●マッカーサー「日本は自衛戦争」と証言昭和26年5月3日、米上院軍事外交合同委員会の公式の場で行われた質疑応答で、連合国側の経済封鎖で追い詰められた日本が、「主に自衛(安全保障)上の理由から、戦争に走った」と述べた。 マッカーサーは「太平洋において米国が過去百年間に犯した最大の政治的過ちは共産主義者を中国において強大にさせたことだと私は考える」とも発言。 マッカーサーは、日本が間違っていたのではなく、自分たちが間違っていたことを語った。【お話のまとめ】■連合国側のABCD包囲網に対しての合法な自存・自衛の戦争であり、大東亜共栄圏(欧米列強から植民地開放)を目的とした戦争でした。■東京裁判(極東国際軍事裁判)が結果ありきのインチキ談合リンチ裁判だったのです。インドネシア共和国 初代大統領スカルノ【動画】インドネシア独立戦争と日本軍大東亜戦争(第二次世界大戦の太平洋戦争)で日本が敗戦後も日本兵がインドネシアに、千数百名~残って、上官の命によって兵器の集積庫を開放、独立軍に武器、兵器を横流し(※本来は禁止行為)。 インドネシア人の指揮官がみずから率いる「民族軍」である郷土防衛義勇軍(ペタ)を組織するなど、日本兵が戦術を指導、植民地支配で味をしめたオランダ、イギリスを相手に、4年5ヶ月にわたる戦争で、80万人が犠牲になったが、結果的に、インドネシアは武力闘争と外交交渉によって独立を達成し、1949年12月にインドネシア連邦共和国が成立し、さらに連邦構成国がインドネシア共和国に合流して、1950年8月15日に単一のインドネシア共和国が誕生した。 戦死した日本兵達はインドネシア独立の英雄としてカリバタ英雄墓地に祀られている。●大東亜戦争を世界はいかに評価しているか------- 内容を簡略化したので、まだまだ詳細不足の箇所があります。 -------
2017/09/07

2017.9.7 既婚男性との交際疑惑を週刊文春に報じられた民進党の山尾志桜里元政調会長(43)が同党関係者から議員辞職を促され、対応を検討していることが分かった。民進党筋が7日明らかにした。・・・・・記事元で詳しく読むほ〜れっ! 言わんこっちゃない♪ 今年は女性議員に足を引っ張る奴が目立つこと・・。 女性の大半は感情流入から決断・行動する事が多いし、とくに色事は女性は子宮で考えるらしいから・・。 好きになったら盲目♪ 同じように女性宮家を認めたら 男系男子継承が困難になったら女系(一般人との子)を天皇に認めようってことになりかねない。 結婚に反対しようものなら「人権侵害・恋愛の尊厳」あ〜だ、こうだと騒いで認めざるえなくなる。 仮にそれが外国人なら・・考えるだけでも、お〜怖い。 種は天皇家でないと認められんわ。 今回の眞子様のお相手は大丈夫かえ〜。 巷の噂では、小室圭氏の父は自殺らしい、父方の祖父も自殺らしい。 父方と母方で何かあったのかね〜。 【日本赤十字社 平成29年7月5日からの大雨災害義援金】 受付開始しています。【日本赤十字社 平成28年熊本地震災害義援金】 受付開始しています。終戦の詔勅(玉音放送)※左に現代訳が表示昭和天皇「日本と共にアジアの開放に協力した国々に申し訳なく・・・・・」【大東亜戦争とは】--- 文字数制限で内容を簡略化してあります。 ---【日本が国際連盟の規約に人種差別撤廃条項を提案】時は第一次世界大戦終結後のお話です。 肌の色が濃いものほど欧米諸国では猿扱いしていた時代です。 欧米列強が植民地支配で搾取していた事は今更説明するまでもありませんが、第一次世界大戦後に初めて発足された国際連盟の規約に日本からは牧野伸顕が人種差別撤廃条項を提案、何とか票決にこぎつけて、賛成11 反対5で多数決で勝ったのですが、何と、アメリカのウッドロウ・ウィルソン議長に、この時ばかりは全会一致でないことを理由に否決されました。 植民地支配で欧米列強が搾取していたので日本の人種差別撤廃条項は邪魔でした。 とくに人種差別撤廃に強く反対していたのが英国とアメリカでした。【三国同盟/ABCD包囲網/大東亜共栄圏を含む自存・自衛の大東亜戦争へ】日本は国際連盟から抜けて三国同盟(日独伊)を結びます。しかし、それを脅威としたアメリカは日本に対して、ABCD包囲網で石油や鉄屑など(日本が必要な資源)を入らなくしてしまいました。 働くことが幸せで美徳とする日本人には大変な死活問題です。 そこでやむなく、国際法が認める、自存・自衛の戦争に突入していきました。欧米列強が支配している植民地を攻めて開放していきました。 同時に支那(中国)とも戦争をしていました。 蒋介石の国民党軍を背後からアメリカが支援して泥沼化させました。 日本側へ最後通牒とも受け取れるハルノートで無理難題を突き付けました。 当時のアメリカ大統領は、フランクリン・ルーズベルトで彼は徹底した反日主義者で、中国に甘い幻想を抱き、しかもその側近にはソ連のスパイがうごめいていました。 フランクリン・ルーズベルト(アメリカ合衆国の第32代大統領)は戦争をしないことを公約に掲げて大統領になりました。 それでアメリカ世論の賛同を得るために、日本を絞めつけて日本からの攻撃を待っていたのです。 日本軍は30倍〜40倍とも言われたアメリカの戦力を絶つために真珠湾攻撃で開戦して講和に運ぶ狙いがありました。●ハルノート案のハリー・ホワイトは、ソ連コミンテルンのスパイでベノナ文書により確認済みです。●日本が相手にした連合国側は、コチラを参照。(以上のこれらが大東亜戦争のあらすじです。)大東亜戦争は連合国側のABCD包囲網に対しての国際法が認める自存・自衛戦争であり、大東亜共栄圏(欧米列強から植民地開放)を目的とした戦争でした。【ポツダム宣言受諾】(1945年8月14日に宣言を受諾、1945年9月2日に調印)ここからお話は一気に省略で飛んで、皆さんがご存知の通りで広島も長崎も現在では国際法で禁止されている原爆を投下されてしまいました。 昭和天皇は御前会議で自分のことなら構わないからと、ポツダム宣言を受諾する事を御聖断されました。【極東国際軍事裁判】(別名:東京裁判)(1946年5月3日〜1948年11月12日)日本側の合法な自衛戦争のままでは「通例の戦争犯罪」(捕虜への虐待とか戦争法規に反する行為のこと)までしか裁けないので中立国が裁かず、『事後法』で平和に対する罪と人道に対する罪が追加されて戦勝国側の判事同士が談合して判決を1本化した、リンチ裁判を行ったのです。この極東国際軍事裁判=東京裁判で事後法により裁かれ、国家指導者は、東条英機以下7名が絞首刑、16名が終身禁固という判決でした。 東条英機大将は裁判で最後まで自衛戦争を訴えて、死刑判決後には深々と一礼して判決を潔く受けました。インドのパール判事だけが事後法で裁くのには反対して、被告人全員の無罪を主張したのです。しかし、結果ありきのままのリンチ裁判での判決でした。■■■(大切な部分のお話は以下に続きます。)■■■【補足】 ラダ・ビノード・パールは、インドの法学者、裁判官、コルカタ大学教授、国際連合国際法委員長を歴任。 ベンガル人。 ヒンドゥー法を専攻。 東京裁判(極東国際軍事裁判)の11人の判事の中で唯一国際法に通じていたのはインド代表のパール判事だけでパールは「裁判の方向性が予め決定づけられており、判決ありきの茶番劇である」との主旨でこの裁判そのものを批判し、被告の全員無罪を主張した。 これは裁判憲章の平和に対する罪、人道に対する罪は事後法であり、罪刑法定主義の立場から被告人を有罪であるとする根拠自体が成立しないという判断によるものであり、日本の戦争責任が存在しないという立場ではないことも加えた。■■■しかし、大切な部分のお話はココからです。■■■●マッカーサー「日本は自衛戦争」と証言昭和26年5月3日、米上院軍事外交合同委員会の公式の場で行われた質疑応答で、連合国側の経済封鎖で追い詰められた日本が、「主に自衛(安全保障)上の理由から、戦争に走った」と述べた。 マッカーサーは「太平洋において米国が過去百年間に犯した最大の政治的過ちは共産主義者を中国において強大にさせたことだと私は考える」とも発言。 マッカーサーは、日本が間違っていたのではなく、自分たちが間違っていたことを語った。【お話のまとめ】■連合国側のABCD包囲網に対しての合法な自存・自衛の戦争であり、大東亜共栄圏(欧米列強から植民地開放)を目的とした戦争でした。■東京裁判(極東国際軍事裁判)が結果ありきのインチキ談合リンチ裁判だったのです。インドネシア共和国 初代大統領スカルノ【動画】インドネシア独立戦争と日本軍大東亜戦争(第二次世界大戦の太平洋戦争)で日本が敗戦後も日本兵がインドネシアに、千数百名~残って、上官の命によって兵器の集積庫を開放、独立軍に武器、兵器を横流し(※本来は禁止行為)。 インドネシア人の指揮官がみずから率いる「民族軍」である郷土防衛義勇軍(ペタ)を組織するなど、日本兵が戦術を指導、植民地支配で味をしめたオランダ、イギリスを相手に、4年5ヶ月にわたる戦争で、80万人が犠牲になったが、結果的に、インドネシアは武力闘争と外交交渉によって独立を達成し、1949年12月にインドネシア連邦共和国が成立し、さらに連邦構成国がインドネシア共和国に合流して、1950年8月15日に単一のインドネシア共和国が誕生した。 戦死した日本兵達はインドネシア独立の英雄としてカリバタ英雄墓地に祀られている。●大東亜戦争を世界はいかに評価しているか------- 内容を簡略化したので、まだまだ詳細不足の箇所があります。 -------
2017/09/07

ガソリーヌこと民進党の山尾志桜里が不倫か〜週4回か〜 好きだね〜 色っぽいよな〜♪ 遊びなら結構好みかも(爆【記事】2017.9.6 21:20 民進党の山尾志桜里元政調会長(43)と既婚の男性弁護士(34)との不倫疑惑を、7日発売の週刊文春が報じることが分かった。前原誠司代表は新執行部で山尾氏の幹事長就任を内定していたが、不倫疑惑が報じられることが明らかになり、起用を断念した一因になったとみられる。文春によると、山尾氏は2日夜、男性と都内のホテルに宿泊した。8月28日夜も男性が管理する都内のマンションに泊まり、翌朝帰宅してから永田町に向かった。文春は「週4回密会」とし・・・・・記事元で詳しく読む【日本赤十字社 平成29年7月5日からの大雨災害義援金】 受付開始しています。【日本赤十字社 平成28年熊本地震災害義援金】 受付開始しています。終戦の詔勅(玉音放送)※左に現代訳が表示昭和天皇「日本と共にアジアの開放に協力した国々に申し訳なく・・・・・」【大東亜戦争とは】--- 文字数制限で内容を簡略化してあります。 ---【日本が国際連盟の規約に人種差別撤廃条項を提案】時は第一次世界大戦終結後のお話です。 肌の色が濃いものほど欧米諸国では猿扱いしていた時代です。 欧米列強が植民地支配で搾取していた事は今更説明するまでもありませんが、第一次世界大戦後に初めて発足された国際連盟の規約に日本からは牧野伸顕が人種差別撤廃条項を提案、何とか票決にこぎつけて、賛成11 反対5で多数決で勝ったのですが、何と、アメリカのウッドロウ・ウィルソン議長に、この時ばかりは全会一致でないことを理由に否決されました。 植民地支配で欧米列強が搾取していたので日本の人種差別撤廃条項は邪魔でした。 とくに人種差別撤廃に強く反対していたのが英国とアメリカでした。【三国同盟/ABCD包囲網/大東亜共栄圏を含む自存・自衛の大東亜戦争へ】日本は国際連盟から抜けて三国同盟(日独伊)を結びます。しかし、それを脅威としたアメリカは日本に対して、ABCD包囲網で石油や鉄屑など(日本が必要な資源)を入らなくしてしまいました。 働くことが幸せで美徳とする日本人には大変な死活問題です。 そこでやむなく、国際法が認める、自存・自衛の戦争に突入していきました。欧米列強が支配している植民地を攻めて開放していきました。 同時に支那(中国)とも戦争をしていました。 蒋介石の国民党軍を背後からアメリカが支援して泥沼化させました。 日本側へ最後通牒とも受け取れるハルノートで無理難題を突き付けました。 当時のアメリカ大統領は、フランクリン・ルーズベルトで彼は徹底した反日主義者で、中国に甘い幻想を抱き、しかもその側近にはソ連のスパイがうごめいていました。 フランクリン・ルーズベルト(アメリカ合衆国の第32代大統領)は戦争をしないことを公約に掲げて大統領になりました。 それでアメリカ世論の賛同を得るために、日本を絞めつけて日本からの攻撃を待っていたのです。 日本軍は30倍〜40倍とも言われたアメリカの戦力を絶つために真珠湾攻撃で開戦して講和に運ぶ狙いがありました。●ハルノート案のハリー・ホワイトは、ソ連コミンテルンのスパイでベノナ文書により確認済みです。●日本が相手にした連合国側は、コチラを参照。(以上のこれらが大東亜戦争のあらすじです。)大東亜戦争は連合国側のABCD包囲網に対しての国際法が認める自存・自衛戦争であり、大東亜共栄圏(欧米列強から植民地開放)を目的とした戦争でした。【ポツダム宣言受諾】(1945年8月14日に宣言を受諾、1945年9月2日に調印)ここからお話は一気に省略で飛んで、皆さんがご存知の通りで広島も長崎も現在では国際法で禁止されている原爆を投下されてしまいました。 昭和天皇は御前会議で自分のことなら構わないからと、ポツダム宣言を受諾する事を御聖断されました。【極東国際軍事裁判】(別名:東京裁判)(1946年5月3日〜1948年11月12日)日本側の合法な自衛戦争のままでは「通例の戦争犯罪」(捕虜への虐待とか戦争法規に反する行為のこと)までしか裁けないので中立国が裁かず、『事後法』で平和に対する罪と人道に対する罪が追加されて戦勝国側の判事同士が談合して判決を1本化した、リンチ裁判を行ったのです。この極東国際軍事裁判=東京裁判で事後法により裁かれ、国家指導者は、東条英機以下7名が絞首刑、16名が終身禁固という判決でした。 東条英機大将は裁判で最後まで自衛戦争を訴えて、死刑判決後には深々と一礼して判決を潔く受けました。インドのパール判事だけが事後法で裁くのには反対して、被告人全員の無罪を主張したのです。しかし、結果ありきのままのリンチ裁判での判決でした。■■■(大切な部分のお話は以下に続きます。)■■■【補足】 ラダ・ビノード・パールは、インドの法学者、裁判官、コルカタ大学教授、国際連合国際法委員長を歴任。 ベンガル人。 ヒンドゥー法を専攻。 東京裁判(極東国際軍事裁判)の11人の判事の中で唯一国際法に通じていたのはインド代表のパール判事だけでパールは「裁判の方向性が予め決定づけられており、判決ありきの茶番劇である」との主旨でこの裁判そのものを批判し、被告の全員無罪を主張した。 これは裁判憲章の平和に対する罪、人道に対する罪は事後法であり、罪刑法定主義の立場から被告人を有罪であるとする根拠自体が成立しないという判断によるものであり、日本の戦争責任が存在しないという立場ではないことも加えた。■■■しかし、大切な部分のお話はココからです。■■■●マッカーサー「日本は自衛戦争」と証言昭和26年5月3日、米上院軍事外交合同委員会の公式の場で行われた質疑応答で、連合国側の経済封鎖で追い詰められた日本が、「主に自衛(安全保障)上の理由から、戦争に走った」と述べた。 マッカーサーは「太平洋において米国が過去百年間に犯した最大の政治的過ちは共産主義者を中国において強大にさせたことだと私は考える」とも発言。 マッカーサーは、日本が間違っていたのではなく、自分たちが間違っていたことを語った。【お話のまとめ】■連合国側のABCD包囲網に対しての合法な自存・自衛の戦争であり、大東亜共栄圏(欧米列強から植民地開放)を目的とした戦争でした。■東京裁判(極東国際軍事裁判)が結果ありきのインチキ談合リンチ裁判だったのです。インドネシア共和国 初代大統領スカルノ【動画】インドネシア独立戦争と日本軍大東亜戦争(第二次世界大戦の太平洋戦争)で日本が敗戦後も日本兵がインドネシアに、千数百名~残って、上官の命によって兵器の集積庫を開放、独立軍に武器、兵器を横流し(※本来は禁止行為)。 インドネシア人の指揮官がみずから率いる「民族軍」である郷土防衛義勇軍(ペタ)を組織するなど、日本兵が戦術を指導、植民地支配で味をしめたオランダ、イギリスを相手に、4年5ヶ月にわたる戦争で、80万人が犠牲になったが、結果的に、インドネシアは武力闘争と外交交渉によって独立を達成し、1949年12月にインドネシア連邦共和国が成立し、さらに連邦構成国がインドネシア共和国に合流して、1950年8月15日に単一のインドネシア共和国が誕生した。 戦死した日本兵達はインドネシア独立の英雄としてカリバタ英雄墓地に祀られている。●大東亜戦争を世界はいかに評価しているか------- 内容を簡略化したので、まだまだ詳細不足の箇所があります。 -------
2017/09/07

米朝開戦になったら地形的に日本への被害は韓国の実力次第ってこともあるし、朝鮮半島からの避難民に混じって日本国内でテロが起こるかもしれん。 お隣の韓国には是非キムチを食って、いつものクレイジー的根性を示してもらわんと。(期待薄)【記事】2017.9.6 ドナルド・トランプ米政権が、「6回目の核実験」という臨界点を越えた北朝鮮への軍事行動を踏みとどまっている。放置すれば、狂気の独裁者、金正恩(キム・ジョンウン)朝鮮労働党委員長の恫喝(どうかつ)は増長し、テロリストなどに「核・ミサイル」が拡散する危険性があるのにだ。 背景には、多大な被害と犠牲者が予想される軍事衝突を前に、在韓米国人の避難や、北朝鮮統治の青写真などの「開戦条件」が整わず、軍人であるジェームズ・マティス国防長官らが慎重姿勢を崩さないことが理由とされる。 トランプ大統領は決断できるのか。・・・記事元で詳しく読む【日本赤十字社 平成29年7月5日からの大雨災害義援金】 受付開始しています。【日本赤十字社 平成28年熊本地震災害義援金】 受付開始しています。終戦の詔勅(玉音放送)※左に現代訳が表示昭和天皇「日本と共にアジアの開放に協力した国々に申し訳なく・・・・・」【大東亜戦争とは】--- 文字数制限で内容を簡略化してあります。 ---【日本が国際連盟の規約に人種差別撤廃条項を提案】時は第一次世界大戦終結後のお話です。 肌の色が濃いものほど欧米諸国では猿扱いしていた時代です。 欧米列強が植民地支配で搾取していた事は今更説明するまでもありませんが、第一次世界大戦後に初めて発足された国際連盟の規約に日本からは牧野伸顕が人種差別撤廃条項を提案、何とか票決にこぎつけて、賛成11 反対5で多数決で勝ったのですが、何と、アメリカのウッドロウ・ウィルソン議長に、この時ばかりは全会一致でないことを理由に否決されました。 植民地支配で欧米列強が搾取していたので日本の人種差別撤廃条項は邪魔でした。 とくに人種差別撤廃に強く反対していたのが英国とアメリカでした。【三国同盟/ABCD包囲網/大東亜共栄圏を含む自存・自衛の大東亜戦争へ】日本は国際連盟から抜けて三国同盟(日独伊)を結びます。しかし、それを脅威としたアメリカは日本に対して、ABCD包囲網で石油や鉄屑など(日本が必要な資源)を入らなくしてしまいました。 働くことが幸せで美徳とする日本人には大変な死活問題です。 そこでやむなく、国際法が認める、自存・自衛の戦争に突入していきました。欧米列強が支配している植民地を攻めて開放していきました。 同時に支那(中国)とも戦争をしていました。 蒋介石の国民党軍を背後からアメリカが支援して泥沼化させました。 日本側へ最後通牒とも受け取れるハルノートで無理難題を突き付けました。 当時のアメリカ大統領は、フランクリン・ルーズベルトで彼は徹底した反日主義者で、中国に甘い幻想を抱き、しかもその側近にはソ連のスパイがうごめいていました。 フランクリン・ルーズベルト(アメリカ合衆国の第32代大統領)は戦争をしないことを公約に掲げて大統領になりました。 それでアメリカ世論の賛同を得るために、日本を絞めつけて日本からの攻撃を待っていたのです。 日本軍は30倍〜40倍とも言われたアメリカの戦力を絶つために真珠湾攻撃で開戦して講和に運ぶ狙いがありました。●ハルノート案のハリー・ホワイトは、ソ連コミンテルンのスパイでベノナ文書により確認済みです。●日本が相手にした連合国側は、コチラを参照。(以上のこれらが大東亜戦争のあらすじです。)大東亜戦争は連合国側のABCD包囲網に対しての国際法が認める自存・自衛戦争であり、大東亜共栄圏(欧米列強から植民地開放)を目的とした戦争でした。【ポツダム宣言受諾】(1945年8月14日に宣言を受諾、1945年9月2日に調印)ここからお話は一気に省略で飛んで、皆さんがご存知の通りで広島も長崎も現在では国際法で禁止されている原爆を投下されてしまいました。 昭和天皇は御前会議で自分のことなら構わないからと、ポツダム宣言を受諾する事を御聖断されました。【極東国際軍事裁判】(別名:東京裁判)(1946年5月3日〜1948年11月12日)日本側の合法な自衛戦争のままでは「通例の戦争犯罪」(捕虜への虐待とか戦争法規に反する行為のこと)までしか裁けないので中立国が裁かず、『事後法』で平和に対する罪と人道に対する罪が追加されて戦勝国側の判事同士が談合して判決を1本化した、リンチ裁判を行ったのです。この極東国際軍事裁判=東京裁判で事後法により裁かれ、国家指導者は、東条英機以下7名が絞首刑、16名が終身禁固という判決でした。 東条英機大将は裁判で最後まで自衛戦争を訴えて、死刑判決後には深々と一礼して判決を潔く受けました。インドのパール判事だけが事後法で裁くのには反対して、被告人全員の無罪を主張したのです。しかし、結果ありきのままのリンチ裁判での判決でした。■■■(大切な部分のお話は以下に続きます。)■■■【補足】 ラダ・ビノード・パールは、インドの法学者、裁判官、コルカタ大学教授、国際連合国際法委員長を歴任。 ベンガル人。 ヒンドゥー法を専攻。 東京裁判(極東国際軍事裁判)の11人の判事の中で唯一国際法に通じていたのはインド代表のパール判事だけでパールは「裁判の方向性が予め決定づけられており、判決ありきの茶番劇である」との主旨でこの裁判そのものを批判し、被告の全員無罪を主張した。 これは裁判憲章の平和に対する罪、人道に対する罪は事後法であり、罪刑法定主義の立場から被告人を有罪であるとする根拠自体が成立しないという判断によるものであり、日本の戦争責任が存在しないという立場ではないことも加えた。■■■しかし、大切な部分のお話はココからです。■■■●マッカーサー「日本は自衛戦争」と証言昭和26年5月3日、米上院軍事外交合同委員会の公式の場で行われた質疑応答で、連合国側の経済封鎖で追い詰められた日本が、「主に自衛(安全保障)上の理由から、戦争に走った」と述べた。 マッカーサーは「太平洋において米国が過去百年間に犯した最大の政治的過ちは共産主義者を中国において強大にさせたことだと私は考える」とも発言。 マッカーサーは、日本が間違っていたのではなく、自分たちが間違っていたことを語った。【お話のまとめ】■連合国側のABCD包囲網に対しての合法な自存・自衛の戦争であり、大東亜共栄圏(欧米列強から植民地開放)を目的とした戦争でした。■東京裁判(極東国際軍事裁判)が結果ありきのインチキ談合リンチ裁判だったのです。インドネシア共和国 初代大統領スカルノ【動画】インドネシア独立戦争と日本軍大東亜戦争(第二次世界大戦の太平洋戦争)で日本が敗戦後も日本兵がインドネシアに、千数百名~残って、上官の命によって兵器の集積庫を開放、独立軍に武器、兵器を横流し(※本来は禁止行為)。 インドネシア人の指揮官がみずから率いる「民族軍」である郷土防衛義勇軍(ペタ)を組織するなど、日本兵が戦術を指導、植民地支配で味をしめたオランダ、イギリスを相手に、4年5ヶ月にわたる戦争で、80万人が犠牲になったが、結果的に、インドネシアは武力闘争と外交交渉によって独立を達成し、1949年12月にインドネシア連邦共和国が成立し、さらに連邦構成国がインドネシア共和国に合流して、1950年8月15日に単一のインドネシア共和国が誕生した。 戦死した日本兵達はインドネシア独立の英雄としてカリバタ英雄墓地に祀られている。●大東亜戦争を世界はいかに評価しているか------- 内容を簡略化したので、まだまだ詳細不足の箇所があります。 -------
2017/09/06

アメリカも黙ってはいまい・・Xデーは早ければ今週中にもあると囁かれているが、、このまま北朝鮮を野放しにしている訳にもいかないか、、。 米朝開戦になったら朝鮮半島からの避難民に混じって日本でもテロが起こるかもしれん・・。 【記事】2017.9.5 北朝鮮の金正恩(キム・ジョンウン)朝鮮労働党委員長が、世界の平和と安定を根底から覆そうとしている。「6回目の核実験」を強行し、ICBM(大陸間弾道ミサイル)用の水爆実験に「完全成功した」と発表したのだ。常軌を逸した暴挙に、ドナルド・トランプ米大統領は、北朝鮮と取引を続ける「すべての国との貿易停止」を検討していると表明し、中国とロシアを強く牽制(けんせい)した。軍事オプションも検討中で、他国への軍事展開能力で突出する超大型強襲揚陸艦「ワスプ」を佐世保基地(長崎県)に急派させている・・・記事元で詳しく読む【日本赤十字社 平成29年7月5日からの大雨災害義援金】 受付開始しています。【日本赤十字社 平成28年熊本地震災害義援金】 受付開始しています。終戦の詔勅(玉音放送)※左に現代訳が表示昭和天皇「日本と共にアジアの開放に協力した国々に申し訳なく・・・・・」【大東亜戦争とは】--- 文字数制限で内容を簡略化してあります。 ---【日本が国際連盟の規約に人種差別撤廃条項を提案】時は第一次世界大戦終結後のお話です。 肌の色が濃いものほど欧米諸国では猿扱いしていた時代です。 欧米列強が植民地支配で搾取していた事は今更説明するまでもありませんが、第一次世界大戦後に初めて発足された国際連盟の規約に日本からは牧野伸顕が人種差別撤廃条項を提案、何とか票決にこぎつけて、賛成11 反対5で多数決で勝ったのですが、何と、アメリカのウッドロウ・ウィルソン議長に、この時ばかりは全会一致でないことを理由に否決されました。 植民地支配で欧米列強が搾取していたので日本の人種差別撤廃条項は邪魔でした。 とくに人種差別撤廃に強く反対していたのが英国とアメリカでした。【三国同盟/ABCD包囲網/大東亜共栄圏を含む自存・自衛の大東亜戦争へ】日本は国際連盟から抜けて三国同盟(日独伊)を結びます。しかし、それを脅威としたアメリカは日本に対して、ABCD包囲網で石油や鉄屑など(日本が必要な資源)を入らなくしてしまいました。 働くことが幸せで美徳とする日本人には大変な死活問題です。 そこでやむなく、国際法が認める、自存・自衛の戦争に突入していきました。欧米列強が支配している植民地を攻めて開放していきました。 同時に支那(中国)とも戦争をしていました。 蒋介石の国民党軍を背後からアメリカが支援して泥沼化させました。 日本側へ最後通牒とも受け取れるハルノートで無理難題を突き付けました。 当時のアメリカ大統領は、フランクリン・ルーズベルトで彼は徹底した反日主義者で、中国に甘い幻想を抱き、しかもその側近にはソ連のスパイがうごめいていました。 フランクリン・ルーズベルト(アメリカ合衆国の第32代大統領)は戦争をしないことを公約に掲げて大統領になりました。 それでアメリカ世論の賛同を得るために、日本を絞めつけて日本からの攻撃を待っていたのです。 日本軍は30倍〜40倍とも言われたアメリカの戦力を絶つために真珠湾攻撃で開戦して講和に運ぶ狙いがありました。●ハルノート案のハリー・ホワイトは、ソ連コミンテルンのスパイでベノナ文書により確認済みです。●日本が相手にした連合国側は、コチラを参照。(以上のこれらが大東亜戦争のあらすじです。)大東亜戦争は連合国側のABCD包囲網に対しての国際法が認める自存・自衛戦争であり、大東亜共栄圏(欧米列強から植民地開放)を目的とした戦争でした。【ポツダム宣言受諾】(1945年8月14日に宣言を受諾、1945年9月2日に調印)ここからお話は一気に省略で飛んで、皆さんがご存知の通りで広島も長崎も現在では国際法で禁止されている原爆を投下されてしまいました。 昭和天皇は御前会議で自分のことなら構わないからと、ポツダム宣言を受諾する事を御聖断されました。【極東国際軍事裁判】(別名:東京裁判)(1946年5月3日〜1948年11月12日)日本側の合法な自衛戦争のままでは「通例の戦争犯罪」(捕虜への虐待とか戦争法規に反する行為のこと)までしか裁けないので中立国が裁かず、『事後法』で平和に対する罪と人道に対する罪が追加されて戦勝国側の判事同士が談合して判決を1本化した、リンチ裁判を行ったのです。この極東国際軍事裁判=東京裁判で事後法により裁かれ、国家指導者は、東条英機以下7名が絞首刑、16名が終身禁固という判決でした。 東条英機大将は裁判で最後まで自衛戦争を訴えて、死刑判決後には深々と一礼して判決を潔く受けました。インドのパール判事だけが事後法で裁くのには反対して、被告人全員の無罪を主張したのです。しかし、結果ありきのままのリンチ裁判での判決でした。■■■(大切な部分のお話は以下に続きます。)■■■【補足】 ラダ・ビノード・パールは、インドの法学者、裁判官、コルカタ大学教授、国際連合国際法委員長を歴任。 ベンガル人。 ヒンドゥー法を専攻。 東京裁判(極東国際軍事裁判)の11人の判事の中で唯一国際法に通じていたのはインド代表のパール判事だけでパールは「裁判の方向性が予め決定づけられており、判決ありきの茶番劇である」との主旨でこの裁判そのものを批判し、被告の全員無罪を主張した。 これは裁判憲章の平和に対する罪、人道に対する罪は事後法であり、罪刑法定主義の立場から被告人を有罪であるとする根拠自体が成立しないという判断によるものであり、日本の戦争責任が存在しないという立場ではないことも加えた。■■■しかし、大切な部分のお話はココからです。■■■●マッカーサー「日本は自衛戦争」と証言昭和26年5月3日、米上院軍事外交合同委員会の公式の場で行われた質疑応答で、連合国側の経済封鎖で追い詰められた日本が、「主に自衛(安全保障)上の理由から、戦争に走った」と述べた。 マッカーサーは「太平洋において米国が過去百年間に犯した最大の政治的過ちは共産主義者を中国において強大にさせたことだと私は考える」とも発言。 マッカーサーは、日本が間違っていたのではなく、自分たちが間違っていたことを語った。【お話のまとめ】■連合国側のABCD包囲網に対しての合法な自存・自衛の戦争であり、大東亜共栄圏(欧米列強から植民地開放)を目的とした戦争でした。■東京裁判(極東国際軍事裁判)が結果ありきのインチキ談合リンチ裁判だったのです。インドネシア共和国 初代大統領スカルノ【動画】インドネシア独立戦争と日本軍大東亜戦争(第二次世界大戦の太平洋戦争)で日本が敗戦後も日本兵がインドネシアに、千数百名~残って、上官の命によって兵器の集積庫を開放、独立軍に武器、兵器を横流し(※本来は禁止行為)。 インドネシア人の指揮官がみずから率いる「民族軍」である郷土防衛義勇軍(ペタ)を組織するなど、日本兵が戦術を指導、植民地支配で味をしめたオランダ、イギリスを相手に、4年5ヶ月にわたる戦争で、80万人が犠牲になったが、結果的に、インドネシアは武力闘争と外交交渉によって独立を達成し、1949年12月にインドネシア連邦共和国が成立し、さらに連邦構成国がインドネシア共和国に合流して、1950年8月15日に単一のインドネシア共和国が誕生した。 戦死した日本兵達はインドネシア独立の英雄としてカリバタ英雄墓地に祀られている。●大東亜戦争を世界はいかに評価しているか------- 内容を簡略化したので、まだまだ詳細不足の箇所があります。 -------
2017/09/05

大東亜戦争が敗戦後の極東国際軍事裁判(別名:東京裁判)で日本側の証拠としてまともに採用されなかった「通州事件」があったのだが御存知でしょうか。 日本人居留民などが●裸にされ、、撲殺、強●、眼球えぐり取り、内臓引き出しなど集団虐殺された事件で、この残虐な殺害方法は漢民族特有の殺害方法で後の台湾であった国民党軍による228事件などでもありました。 他にも南京大虐殺の捏造写真にもありました。【記事】2017.9.4 昭和12(1937)年、盧溝橋事件から3週間後の7月29日未明、中国・北京郊外の通州(現・北京市通州区)に在住していた400人の日本人同胞は、本来、居留民を守る任務を帯びていた地方政府の中国人部隊に、突如襲撃された。「日本人は皆殺せ!」と呼号する3000人の反乱部隊は城門を閉鎖したうえで、日本人家屋から罪のない老若男女を次々と引きずり出した。群衆の面前で●裸にし、撲殺、強●、眼球えぐり取り、内臓引き出しなど、天人ともに赦さざる猟奇の蛮行を繰り広げた。処刑場では集団銃殺があり、女性多数が惨殺された日本旅館は血の海となった。民間邦人の犠牲者は225人にのぼった・・・記事元で詳しく読む【日本赤十字社 平成29年7月5日からの大雨災害義援金】 受付開始しています。【日本赤十字社 平成28年熊本地震災害義援金】 受付開始しています。終戦の詔勅(玉音放送)※左に現代訳が表示昭和天皇「日本と共にアジアの開放に協力した国々に申し訳なく・・・・・」【大東亜戦争とは】--- 文字数制限で内容を簡略化してあります。 ---【日本が国際連盟の規約に人種差別撤廃条項を提案】時は第一次世界大戦終結後のお話です。 肌の色が濃いものほど欧米諸国では猿扱いしていた時代です。 欧米列強が植民地支配で搾取していた事は今更説明するまでもありませんが、第一次世界大戦後に初めて発足された国際連盟の規約に日本からは牧野伸顕が人種差別撤廃条項を提案、何とか票決にこぎつけて、賛成11 反対5で多数決で勝ったのですが、何と、アメリカのウッドロウ・ウィルソン議長に、この時ばかりは全会一致でないことを理由に否決されました。 植民地支配で欧米列強が搾取していたので日本の人種差別撤廃条項は邪魔でした。 とくに人種差別撤廃に強く反対していたのが英国とアメリカでした。【三国同盟/ABCD包囲網/大東亜共栄圏を含む自存・自衛の大東亜戦争へ】日本は国際連盟から抜けて三国同盟(日独伊)を結びます。しかし、それを脅威としたアメリカは日本に対して、ABCD包囲網で石油や鉄屑など(日本が必要な資源)を入らなくしてしまいました。 働くことが幸せで美徳とする日本人には大変な死活問題です。 そこでやむなく、国際法が認める、自存・自衛の戦争に突入していきました。欧米列強が支配している植民地を攻めて開放していきました。 同時に支那(中国)とも戦争をしていました。 蒋介石の国民党軍を背後からアメリカが支援して泥沼化させました。 日本側へ最後通牒とも受け取れるハルノートで無理難題を突き付けました。 当時のアメリカ大統領は、フランクリン・ルーズベルトで彼は徹底した反日主義者で、中国に甘い幻想を抱き、しかもその側近にはソ連のスパイがうごめいていました。 フランクリン・ルーズベルト(アメリカ合衆国の第32代大統領)は戦争をしないことを公約に掲げて大統領になりました。 それでアメリカ世論の賛同を得るために、日本を絞めつけて日本からの攻撃を待っていたのです。 日本軍は30倍〜40倍とも言われたアメリカの戦力を絶つために真珠湾攻撃で開戦して講和に運ぶ狙いがありました。●ハルノート案のハリー・ホワイトは、ソ連コミンテルンのスパイでベノナ文書により確認済みです。●日本が相手にした連合国側は、コチラを参照。(以上のこれらが大東亜戦争のあらすじです。)大東亜戦争は連合国側のABCD包囲網に対しての国際法が認める自存・自衛戦争であり、大東亜共栄圏(欧米列強から植民地開放)を目的とした戦争でした。【ポツダム宣言受諾】(1945年8月14日に宣言を受諾、1945年9月2日に調印)ここからお話は一気に省略で飛んで、皆さんがご存知の通りで広島も長崎も現在では国際法で禁止されている原爆を投下されてしまいました。 昭和天皇は御前会議で自分のことなら構わないからと、ポツダム宣言を受諾する事を御聖断されました。【極東国際軍事裁判】(別名:東京裁判)(1946年5月3日〜1948年11月12日)日本側の合法な自衛戦争のままでは「通例の戦争犯罪」(捕虜への虐待とか戦争法規に反する行為のこと)までしか裁けないので中立国が裁かず、『事後法』で平和に対する罪と人道に対する罪が追加されて戦勝国側の判事同士が談合して判決を1本化した、リンチ裁判を行ったのです。この極東国際軍事裁判=東京裁判で事後法により裁かれ、国家指導者は、東条英機以下7名が絞首刑、16名が終身禁固という判決でした。 東条英機大将は裁判で最後まで自衛戦争を訴えて、死刑判決後には深々と一礼して判決を潔く受けました。インドのパール判事だけが事後法で裁くのには反対して、被告人全員の無罪を主張したのです。しかし、結果ありきのままのリンチ裁判での判決でした。■■■(大切な部分のお話は以下に続きます。)■■■【補足】 ラダ・ビノード・パールは、インドの法学者、裁判官、コルカタ大学教授、国際連合国際法委員長を歴任。 ベンガル人。 ヒンドゥー法を専攻。 東京裁判(極東国際軍事裁判)の11人の判事の中で唯一国際法に通じていたのはインド代表のパール判事だけでパールは「裁判の方向性が予め決定づけられており、判決ありきの茶番劇である」との主旨でこの裁判そのものを批判し、被告の全員無罪を主張した。 これは裁判憲章の平和に対する罪、人道に対する罪は事後法であり、罪刑法定主義の立場から被告人を有罪であるとする根拠自体が成立しないという判断によるものであり、日本の戦争責任が存在しないという立場ではないことも加えた。■■■しかし、大切な部分のお話はココからです。■■■●マッカーサー「日本は自衛戦争」と証言昭和26年5月3日、米上院軍事外交合同委員会の公式の場で行われた質疑応答で、連合国側の経済封鎖で追い詰められた日本が、「主に自衛(安全保障)上の理由から、戦争に走った」と述べた。 マッカーサーは「太平洋において米国が過去百年間に犯した最大の政治的過ちは共産主義者を中国において強大にさせたことだと私は考える」とも発言。 マッカーサーは、日本が間違っていたのではなく、自分たちが間違っていたことを語った。【お話のまとめ】■連合国側のABCD包囲網に対しての合法な自存・自衛の戦争であり、大東亜共栄圏(欧米列強から植民地開放)を目的とした戦争でした。■東京裁判(極東国際軍事裁判)が結果ありきのインチキ談合リンチ裁判だったのです。インドネシア共和国 初代大統領スカルノ【動画】インドネシア独立戦争と日本軍大東亜戦争(第二次世界大戦の太平洋戦争)で日本が敗戦後も日本兵がインドネシアに、千数百名~残って、上官の命によって兵器の集積庫を開放、独立軍に武器、兵器を横流し(※本来は禁止行為)。 インドネシア人の指揮官がみずから率いる「民族軍」である郷土防衛義勇軍(ペタ)を組織するなど、日本兵が戦術を指導、植民地支配で味をしめたオランダ、イギリスを相手に、4年5ヶ月にわたる戦争で、80万人が犠牲になったが、結果的に、インドネシアは武力闘争と外交交渉によって独立を達成し、1949年12月にインドネシア連邦共和国が成立し、さらに連邦構成国がインドネシア共和国に合流して、1950年8月15日に単一のインドネシア共和国が誕生した。 戦死した日本兵達はインドネシア独立の英雄としてカリバタ英雄墓地に祀られている。●大東亜戦争を世界はいかに評価しているか------- 内容を簡略化したので、まだまだ詳細不足の箇所があります。 -------
2017/09/04

大東亜戦争が敗戦後の極東国際軍事裁判(別名:東京裁判)で日本側の証拠としてまともに採用されなかった「通州事件」があったのだが御存知でしょうか。 日本人居留民などが●裸にされ、、撲殺、強●、眼球えぐり取り、内臓引き出しなど集団虐殺された事件です。 この残虐な殺害方法は漢民族特有の殺害方法で後の台湾であった国民党軍による228事件などでもありました。 他にも南京大虐殺の捏造写真にもありました。【記事】2017.9.4 昭和12(1937)年、盧溝橋事件から3週間後の7月29日未明、中国・北京郊外の通州(現・北京市通州区)に在住していた400人の日本人同胞は、本来、居留民を守る任務を帯びていた地方政府の中国人部隊に、突如襲撃された。「日本人は皆殺せ!」と呼号する3000人の反乱部隊は城門を閉鎖したうえで、日本人家屋から罪のない老若男女を次々と引きずり出した。群衆の面前で●裸にし、撲殺、強●、眼球えぐり取り、内臓引き出しなど、天人ともに赦さざる猟奇の蛮行を繰り広げた。処刑場では集団銃殺があり、女性多数が惨殺された日本旅館は血の海となった。民間邦人の犠牲者は225人にのぼった・・・記事元で詳しく読む【日本赤十字社 平成29年7月5日からの大雨災害義援金】 受付開始しています。【日本赤十字社 平成28年熊本地震災害義援金】 受付開始しています。終戦の詔勅(玉音放送)※左に現代訳が表示昭和天皇「日本と共にアジアの開放に協力した国々に申し訳なく・・・・・」【大東亜戦争とは】--- 文字数制限で内容を簡略化してあります。 ---【日本が国際連盟の規約に人種差別撤廃条項を提案】時は第一次世界大戦終結後のお話です。 肌の色が濃いものほど欧米諸国では猿扱いしていた時代です。 欧米列強が植民地支配で搾取していた事は今更説明するまでもありませんが、第一次世界大戦後に初めて発足された国際連盟の規約に日本からは牧野伸顕が人種差別撤廃条項を提案、何とか票決にこぎつけて、賛成11 反対5で多数決で勝ったのですが、何と、アメリカのウッドロウ・ウィルソン議長に、この時ばかりは全会一致でないことを理由に否決されました。 植民地支配で欧米列強が搾取していたので日本の人種差別撤廃条項は邪魔でした。 とくに人種差別撤廃に強く反対していたのが英国とアメリカでした。【三国同盟/ABCD包囲網/大東亜共栄圏を含む自存・自衛の大東亜戦争へ】日本は国際連盟から抜けて三国同盟(日独伊)を結びます。しかし、それを脅威としたアメリカは日本に対して、ABCD包囲網で石油や鉄屑など(日本が必要な資源)を入らなくしてしまいました。 働くことが幸せで美徳とする日本人には大変な死活問題です。 そこでやむなく、国際法が認める、自存・自衛の戦争に突入していきました。欧米列強が支配している植民地を攻めて開放していきました。 同時に支那(中国)とも戦争をしていました。 蒋介石の国民党軍を背後からアメリカが支援して泥沼化させました。 日本側へ最後通牒とも受け取れるハルノートで無理難題を突き付けました。 当時のアメリカ大統領は、フランクリン・ルーズベルトで彼は徹底した反日主義者で、中国に甘い幻想を抱き、しかもその側近にはソ連のスパイがうごめいていました。 フランクリン・ルーズベルト(アメリカ合衆国の第32代大統領)は戦争をしないことを公約に掲げて大統領になりました。 それでアメリカ世論の賛同を得るために、日本を絞めつけて日本からの攻撃を待っていたのです。 日本軍は30倍〜40倍とも言われたアメリカの戦力を絶つために真珠湾攻撃で開戦して講和に運ぶ狙いがありました。●ハルノート案のハリー・ホワイトは、ソ連コミンテルンのスパイでベノナ文書により確認済みです。●日本が相手にした連合国側は、コチラを参照。(以上のこれらが大東亜戦争のあらすじです。)大東亜戦争は連合国側のABCD包囲網に対しての国際法が認める自存・自衛戦争であり、大東亜共栄圏(欧米列強から植民地開放)を目的とした戦争でした。【ポツダム宣言受諾】(1945年8月14日に宣言を受諾、1945年9月2日に調印)ここからお話は一気に省略で飛んで、皆さんがご存知の通りで広島も長崎も現在では国際法で禁止されている原爆を投下されてしまいました。 昭和天皇は御前会議で自分のことなら構わないからと、ポツダム宣言を受諾する事を御聖断されました。【極東国際軍事裁判】(別名:東京裁判)(1946年5月3日〜1948年11月12日)日本側の合法な自衛戦争のままでは「通例の戦争犯罪」(捕虜への虐待とか戦争法規に反する行為のこと)までしか裁けないので中立国が裁かず、『事後法』で平和に対する罪と人道に対する罪が追加されて戦勝国側の判事同士が談合して判決を1本化した、リンチ裁判を行ったのです。この極東国際軍事裁判=東京裁判で事後法により裁かれ、国家指導者は、東条英機以下7名が絞首刑、16名が終身禁固という判決でした。 東条英機大将は裁判で最後まで自衛戦争を訴えて、死刑判決後には深々と一礼して判決を潔く受けました。インドのパール判事だけが事後法で裁くのには反対して、被告人全員の無罪を主張したのです。しかし、結果ありきのままのリンチ裁判での判決でした。■■■(大切な部分のお話は以下に続きます。)■■■【補足】 ラダ・ビノード・パールは、インドの法学者、裁判官、コルカタ大学教授、国際連合国際法委員長を歴任。 ベンガル人。 ヒンドゥー法を専攻。 東京裁判(極東国際軍事裁判)の11人の判事の中で唯一国際法に通じていたのはインド代表のパール判事だけでパールは「裁判の方向性が予め決定づけられており、判決ありきの茶番劇である」との主旨でこの裁判そのものを批判し、被告の全員無罪を主張した。 これは裁判憲章の平和に対する罪、人道に対する罪は事後法であり、罪刑法定主義の立場から被告人を有罪であるとする根拠自体が成立しないという判断によるものであり、日本の戦争責任が存在しないという立場ではないことも加えた。■■■しかし、大切な部分のお話はココからです。■■■●マッカーサー「日本は自衛戦争」と証言昭和26年5月3日、米上院軍事外交合同委員会の公式の場で行われた質疑応答で、連合国側の経済封鎖で追い詰められた日本が、「主に自衛(安全保障)上の理由から、戦争に走った」と述べた。 マッカーサーは「太平洋において米国が過去百年間に犯した最大の政治的過ちは共産主義者を中国において強大にさせたことだと私は考える」とも発言。 マッカーサーは、日本が間違っていたのではなく、自分たちが間違っていたことを語った。【お話のまとめ】■連合国側のABCD包囲網に対しての合法な自存・自衛の戦争であり、大東亜共栄圏(欧米列強から植民地開放)を目的とした戦争でした。■東京裁判(極東国際軍事裁判)が結果ありきのインチキ談合リンチ裁判だったのです。インドネシア共和国 初代大統領スカルノ【動画】インドネシア独立戦争と日本軍大東亜戦争(第二次世界大戦の太平洋戦争)で日本が敗戦後も日本兵がインドネシアに、千数百名~残って、上官の命によって兵器の集積庫を開放、独立軍に武器、兵器を横流し(※本来は禁止行為)。 インドネシア人の指揮官がみずから率いる「民族軍」である郷土防衛義勇軍(ペタ)を組織するなど、日本兵が戦術を指導、植民地支配で味をしめたオランダ、イギリスを相手に、4年5ヶ月にわたる戦争で、80万人が犠牲になったが、結果的に、インドネシアは武力闘争と外交交渉によって独立を達成し、1949年12月にインドネシア連邦共和国が成立し、さらに連邦構成国がインドネシア共和国に合流して、1950年8月15日に単一のインドネシア共和国が誕生した。 戦死した日本兵達はインドネシア独立の英雄としてカリバタ英雄墓地に祀られている。●大東亜戦争を世界はいかに評価しているか------- 内容を簡略化したので、まだまだ詳細不足の箇所があります。 -------
2017/09/04

おめでとうございます。、、とは言ってもやはり、心配で占わずにはいられませんでした。 今回は、自殺された小室圭さんのお父さまの敏勝さん。 母親の佳代さん。 小室圭さん。 眞子様を占いました。御結婚をされるなら是非お幸せになって・・。小室敏勝(自殺した父親)外格 ○15画人運格▲20画【人運格】[▲20画]我慢強いのですが、常に不平不満が絶えない陰湿な性格です。勤勉さはあっても不運をはね飛ばすようなバイタリティーに欠け、あまり活動しないためより不運を呼び込んでしまいます。辛抱強く努力を続けてもなかなか効果をあげることができず、挙げ句の果てに予期しない災難にあうという悪い暗示があります。周りの環境に流されやすく、社会的な成功は望めません。家庭運も悪く、人間関係も良いところがありません。他人からは信頼されず、嫌われて救いようがありません。持病にも悩まされ、不慮の事故や突発的な事故も続出したり、ギャンブルで大金を失う暗示があります。良い友人を得ても大切にしないでみすみす幸運を逃してしまう傾向があります。人間関係に困難が多く、社会的にも認められずに発展することもできないでしょう。誘惑に弱く、人にだまされて転落していく暗示があるので注意が必要です。配偶者や子供とも縁が薄く家族や親しい人との生、死別を余儀なくされるという悲惨な運勢です。もともとこの数は分離、分裂という意味合いを持っているので夫婦が別居したり離婚したり一家が離散したりと何かと別れの傾向が強く出てしまいます。他の格との組み合わせ次第では、まれに時代の英雄とか一代で巨万の富を築いた大富豪などが出現することがありますがほとんどの場合、不幸のかたまりみたいな人生を送る結果に終わります。短命、病弱、災難、の暗示が強く、ついには破滅してしまうことも多々あるのでこの数はできることなら避けることが賢明でしょう。------------------------------------------------------小室佳代(母親)外格 ○8画人運格○17画【人運格】[○17画]人当たりはソフトですが意志力と実行力にすぐれおり、あくまでも自分の意志を貫き通す意志の強い面を持っています。経営能力に長けており、いかなる困難も乗り越えて大成功を納めますが少々強引なところがあるので人の意見に耳を傾けるだけの余裕が必要です。女性の場合は特に強い性格の持ち主が多いので意識的に柔軟な考え方を心がけてください。すぐれた直感力、観察力、洞察力でものごとに取り組みます。思いこみの激しいところがあり、頑固さや無益な意地を張らずに適度に妥協することが肝要です。身体は丈夫ですが口腔疾患などに注意してください。強い性格のために対人関係では少々とっつきにくい面があるようです。嫌いな人に対する態度がはっきりしており、いたって冷淡ですが少数の心の通じた友人とは長くつきあう傾向があります。謙虚な姿勢を心がければ対人関係はうまくいくようです。苦労はしても、その苦労分だけの栄光を得られます。年月を重ねていくにつれて人生の基盤が築かれていき、発展していきます。ただ意志が強すぎてわがままな言動が目立ち、他人から反感を買うことがありますが、実力は十分にあるので人間関係の和に気をつければさらなる飛躍も夢ではないでしょう。---------------------------------------小室圭(眞子様のお相手)外格 ▲4画 (小+霊数1)不吉な暗示です。人運格○15画 ※自殺した父親の外格15(副運)に小室圭さんの人運格15が廻っている。 つまり、父親を助ける?、、ような意味合いと思われる暗示【人運格】[○15画]この数を人格に持っている本人はもちろん運が良いのですが、そればかりか不思議とまわりの人達までも幸福にしてしまうものを持っています。温厚で包容力があり心の広い人なので上司、同僚、部下全てに慕われて信頼を得ることができます。一歩一歩着実に築き上げていくという堅実な人で管理能力があり経理などの仕事に向いています。良い家庭環境のなかで育てられ、恵まれた幼少期を過ごします。そのおかげで素直な性質が備わり、人間関係で悩むようなことはほとんどないでしょう。通訳や国際的な仕事に向いているようです。身体は健康ですが、消化器系が少々弱いようです。仕事運、金運ともに良く、良い環境に恵まれて広い交際範囲を持ち、良い人脈を得ることができます。世の中の動向に敏感なので、情報文化、貿易関係の仕事が向いています。また、配偶者は社会的地位や生活レベルが自分より低い人を選んだ方が円満にいくようです。どこにいても中心人物となる支配者の吉数で周りの人たちの引き立てなどにより名誉と財を手に入れることができる、きわめて恵まれた境遇にある強運の持ち主です。すぐれた事業家となる素質を十分に持っており、女性は結婚しても仕事を続け、その分野で大きな成果をあげるでしょう。家庭運、金運ともに良です。--------------------------------------小室眞子(御結婚された場合)外格 ○6画人運格▲19画(自己の世界観を持ち、衝突・摩擦・重苦の暗示)【人運格】[▲19画]集団生活が苦手な人です。理知的で繊細な神経と鋭い直感を備えていますが移り気なところもあります。つまり先見の明があり物事に執着しすぎないという長所がありながら一カ所に落ち着くことができないという短所をも持ち合わせているようです。この数は凶数なのですが、芸術、宗教、政治など各界で活躍する人がまれに出現する特殊数でもあります。一風変わったキャラクターの持ち主で独自の世界のある人です。家庭運に恵まれず、家族や友人との別離や孤独という暗示があります。身体は生涯を通して怪我や故障に悩まされる傾向が強いようです。豊かな感受性と鋭い直感力を持っており、芸術家として成功する人も多いでしょう。しかし、行き過ぎの感もあり同僚や友人とも衝突しがちです。異性関係も恵まれないようです。優れた才能を持ち、大業を果たす実力を備えているので、他の格との組み合わせ次第では成功することも可能です。しかし意外な障害や困難が多く、実力がありながらあと一歩のところで崩壊する暗示があります。家族との別離や離婚などに遭遇する暗示があります。波乱に富み、不安定な運勢ですが本人の努力と心がけ次第で凶運を跳ね返すことができるので決して悲観することはありません。--------------------------------------(心配な箇所)小室さんのお母様が強情な性格なので、眞子様がその辺の折り合いと、圭さんの外運が4画なので致命的な病気、事故に注意して戴きたい。 ご結婚後の眞子様には自己の世界観から重なる苦労が予想されます。 金で解決できる苦労ならよいですが、金で解決できない苦労もあるので・・。参考: 人運格に19画の人は、自民党の石破茂氏 安倍首相の奥さんの安倍昭恵さん。 自己の世界観を持っていて周囲との衝突・摩擦は避けられません。
2017/09/04

【記事】2017.9.2 17:00 長年の苦悩を背負い続けた元米兵は、約束を果たした安堵(あんど)からか、慈愛に満ちた表情に変わっていた。米西部モンタナ州に住む元海兵隊員、マービン・ストロンボさん(93)。「必ず家族の元に返す」。先の大戦の戦地サイパン島で、日本兵の遺体から日章旗(寄せ書き日の丸)を持ち帰り、73年の時を経て初来日し、願いをかなえた。遺骨や遺灰もなかった遺族は、帰ってきた日章旗を「宝」と呼び、むせび泣いた。「73年後の奇跡」のニュースへの反響も大きい。・・・・・記事元で詳しく読む【日本赤十字社 平成29年7月5日からの大雨災害義援金】 受付開始しています。【日本赤十字社 平成28年熊本地震災害義援金】 受付開始しています。終戦の詔勅(玉音放送)※左に現代訳が表示昭和天皇「日本と共にアジアの開放に協力した国々に申し訳なく・・・・・」【大東亜戦争とは】--- 文字数制限で内容を簡略化してあります。 ---【日本が国際連盟の規約に人種差別撤廃条項を提案】時は第一次世界大戦終結後のお話です。 肌の色が濃いものほど欧米諸国では猿扱いしていた時代です。 欧米列強が植民地支配で搾取していた事は今更説明するまでもありませんが、第一次世界大戦後に初めて発足された国際連盟の規約に日本からは牧野伸顕が人種差別撤廃条項を提案、何とか票決にこぎつけて、賛成11 反対5で多数決で勝ったのですが、何と、アメリカのウッドロウ・ウィルソン議長に、この時ばかりは全会一致でないことを理由に否決されました。 植民地支配で欧米列強が搾取していたので日本の人種差別撤廃条項は邪魔でした。 とくに人種差別撤廃に強く反対していたのが英国とアメリカでした。【三国同盟/ABCD包囲網/大東亜共栄圏を含む自存・自衛の大東亜戦争へ】日本は国際連盟から抜けて三国同盟(日独伊)を結びます。しかし、それを脅威としたアメリカは日本に対して、ABCD包囲網で石油や鉄屑など(日本が必要な資源)を入らなくしてしまいました。 働くことが幸せで美徳とする日本人には大変な死活問題です。 そこでやむなく、国際法が認める、自存・自衛の戦争に突入していきました。欧米列強が支配している植民地を攻めて開放していきました。 同時に支那(中国)とも戦争をしていました。 蒋介石の国民党軍を背後からアメリカが支援して泥沼化させました。 日本側へ最後通牒とも受け取れるハルノートで無理難題を突き付けました。 当時のアメリカ大統領は、フランクリン・ルーズベルトで彼は徹底した反日主義者で、中国に甘い幻想を抱き、しかもその側近にはソ連のスパイがうごめいていました。 フランクリン・ルーズベルト(アメリカ合衆国の第32代大統領)は戦争をしないことを公約に掲げて大統領になりました。 それでアメリカ世論の賛同を得るために、日本を絞めつけて日本からの攻撃を待っていたのです。 日本軍は30倍〜40倍とも言われたアメリカの戦力を絶つために真珠湾攻撃で開戦して講和に運ぶ狙いがありました。●ハルノート案のハリー・ホワイトは、ソ連コミンテルンのスパイでベノナ文書により確認済みです。●日本が相手にした連合国側は、コチラを参照。(以上のこれらが大東亜戦争のあらすじです。)大東亜戦争は連合国側のABCD包囲網に対しての国際法が認める自存・自衛戦争であり、大東亜共栄圏(欧米列強から植民地開放)を目的とした戦争でした。【ポツダム宣言受諾】(1945年8月14日に宣言を受諾、1945年9月2日に調印)ここからお話は一気に省略で飛んで、皆さんがご存知の通りで広島も長崎も現在では国際法で禁止されている原爆を投下されてしまいました。 昭和天皇は御前会議で自分のことなら構わないからと、ポツダム宣言を受諾する事を御聖断されました。【極東国際軍事裁判】(別名:東京裁判)(1946年5月3日〜1948年11月12日)日本側の合法な自衛戦争のままでは「通例の戦争犯罪」(捕虜への虐待とか戦争法規に反する行為のこと)までしか裁けないので中立国が裁かず、『事後法』で平和に対する罪と人道に対する罪が追加されて戦勝国側の判事同士が談合して判決を1本化した、リンチ裁判を行ったのです。この極東国際軍事裁判=東京裁判で事後法により裁かれ、国家指導者は、東条英機以下7名が絞首刑、16名が終身禁固という判決でした。 東条英機大将は裁判で最後まで自衛戦争を訴えて、死刑判決後には深々と一礼して判決を潔く受けました。インドのパール判事だけが事後法で裁くのには反対して、被告人全員の無罪を主張したのです。しかし、結果ありきのままのリンチ裁判での判決でした。■■■(大切な部分のお話は以下に続きます。)■■■【補足】 ラダ・ビノード・パールは、インドの法学者、裁判官、コルカタ大学教授、国際連合国際法委員長を歴任。 ベンガル人。 ヒンドゥー法を専攻。 東京裁判(極東国際軍事裁判)の11人の判事の中で唯一国際法に通じていたのはインド代表のパール判事だけでパールは「裁判の方向性が予め決定づけられており、判決ありきの茶番劇である」との主旨でこの裁判そのものを批判し、被告の全員無罪を主張した。 これは裁判憲章の平和に対する罪、人道に対する罪は事後法であり、罪刑法定主義の立場から被告人を有罪であるとする根拠自体が成立しないという判断によるものであり、日本の戦争責任が存在しないという立場ではないことも加えた。■■■しかし、大切な部分のお話はココからです。■■■●マッカーサー「日本は自衛戦争」と証言昭和26年5月3日、米上院軍事外交合同委員会の公式の場で行われた質疑応答で、連合国側の経済封鎖で追い詰められた日本が、「主に自衛(安全保障)上の理由から、戦争に走った」と述べた。 マッカーサーは「太平洋において米国が過去百年間に犯した最大の政治的過ちは共産主義者を中国において強大にさせたことだと私は考える」とも発言。 マッカーサーは、日本が間違っていたのではなく、自分たちが間違っていたことを語った。【お話のまとめ】■連合国側のABCD包囲網に対しての合法な自存・自衛の戦争であり、大東亜共栄圏(欧米列強から植民地開放)を目的とした戦争でした。■東京裁判(極東国際軍事裁判)が結果ありきのインチキ談合リンチ裁判だったのです。インドネシア共和国 初代大統領スカルノ【動画】インドネシア独立戦争と日本軍大東亜戦争(第二次世界大戦の太平洋戦争)で日本が敗戦後も日本兵がインドネシアに、千数百名~残って、上官の命によって兵器の集積庫を開放、独立軍に武器、兵器を横流し(※本来は禁止行為)。 インドネシア人の指揮官がみずから率いる「民族軍」である郷土防衛義勇軍(ペタ)を組織するなど、日本兵が戦術を指導、植民地支配で味をしめたオランダ、イギリスを相手に、4年5ヶ月にわたる戦争で、80万人が犠牲になったが、結果的に、インドネシアは武力闘争と外交交渉によって独立を達成し、1949年12月にインドネシア連邦共和国が成立し、さらに連邦構成国がインドネシア共和国に合流して、1950年8月15日に単一のインドネシア共和国が誕生した。 戦死した日本兵達はインドネシア独立の英雄としてカリバタ英雄墓地に祀られている。●大東亜戦争を世界はいかに評価しているか------- 内容を簡略化したので、まだまだ詳細不足の箇所があります。 -------
2017/09/02

【記事】2017.9.2 17:00 長年の苦悩を背負い続けた元米兵は、約束を果たした安堵(あんど)からか、慈愛に満ちた表情に変わっていた。米西部モンタナ州に住む元海兵隊員、マービン・ストロンボさん(93)。「必ず家族の元に返す」。先の大戦の戦地サイパン島で、日本兵の遺体から日章旗(寄せ書き日の丸)を持ち帰り、73年の時を経て初来日し、願いをかなえた。遺骨や遺灰もなかった遺族は、帰ってきた日章旗を「宝」と呼び、むせび泣いた。「73年後の奇跡」のニュースへの反響も大きい。・・・記事元で詳しく読む【日本赤十字社 平成29年7月5日からの大雨災害義援金】 受付開始しています。【日本赤十字社 平成28年熊本地震災害義援金】 受付開始しています。終戦の詔勅(玉音放送)※左に現代訳が表示昭和天皇「日本と共にアジアの開放に協力した国々に申し訳なく・・・・・」【大東亜戦争とは】--- 文字数制限で内容を簡略化してあります。 ---【日本が国際連盟の規約に人種差別撤廃条項を提案】時は第一次世界大戦終結後のお話です。 肌の色が濃いものほど欧米諸国では猿扱いしていた時代です。 欧米列強が植民地支配で搾取していた事は今更説明するまでもありませんが、第一次世界大戦後に初めて発足された国際連盟の規約に日本からは牧野伸顕が人種差別撤廃条項を提案、何とか票決にこぎつけて、賛成11 反対5で多数決で勝ったのですが、何と、アメリカのウッドロウ・ウィルソン議長に、この時ばかりは全会一致でないことを理由に否決されました。 植民地支配で欧米列強が搾取していたので日本の人種差別撤廃条項は邪魔でした。 とくに人種差別撤廃に強く反対していたのが英国とアメリカでした。【三国同盟/ABCD包囲網/大東亜共栄圏を含む自存・自衛の大東亜戦争へ】日本は国際連盟から抜けて三国同盟(日独伊)を結びます。しかし、それを脅威としたアメリカは日本に対して、ABCD包囲網で石油や鉄屑など(日本が必要な資源)を入らなくしてしまいました。 働くことが幸せで美徳とする日本人には大変な死活問題です。 そこでやむなく、国際法が認める、自存・自衛の戦争に突入していきました。欧米列強が支配している植民地を攻めて開放していきました。 同時に支那(中国)とも戦争をしていました。 蒋介石の国民党軍を背後からアメリカが支援して泥沼化させました。 日本側へ最後通牒とも受け取れるハルノートで無理難題を突き付けました。 当時のアメリカ大統領は、フランクリン・ルーズベルトで彼は徹底した反日主義者で、中国に甘い幻想を抱き、しかもその側近にはソ連のスパイがうごめいていました。 フランクリン・ルーズベルト(アメリカ合衆国の第32代大統領)は戦争をしないことを公約に掲げて大統領になりました。 それでアメリカ世論の賛同を得るために、日本を絞めつけて日本からの攻撃を待っていたのです。 日本軍は30倍〜40倍とも言われたアメリカの戦力を絶つために真珠湾攻撃で開戦して講和に運ぶ狙いがありました。●ハルノート案のハリー・ホワイトは、ソ連コミンテルンのスパイでベノナ文書により確認済みです。●日本が相手にした連合国側は、コチラを参照。(以上のこれらが大東亜戦争のあらすじです。)大東亜戦争は連合国側のABCD包囲網に対しての国際法が認める自存・自衛戦争であり、大東亜共栄圏(欧米列強から植民地開放)を目的とした戦争でした。【ポツダム宣言受諾】(1945年8月14日に宣言を受諾、1945年9月2日に調印)ここからお話は一気に省略で飛んで、皆さんがご存知の通りで広島も長崎も現在では国際法で禁止されている原爆を投下されてしまいました。 昭和天皇は御前会議で自分のことなら構わないからと、ポツダム宣言を受諾する事を御聖断されました。【極東国際軍事裁判】(別名:東京裁判)(1946年5月3日〜1948年11月12日)日本側の合法な自衛戦争のままでは「通例の戦争犯罪」(捕虜への虐待とか戦争法規に反する行為のこと)までしか裁けないので中立国が裁かず、『事後法』で平和に対する罪と人道に対する罪が追加されて戦勝国側の判事同士が談合して判決を1本化した、リンチ裁判を行ったのです。この極東国際軍事裁判=東京裁判で事後法により裁かれ、国家指導者は、東条英機以下7名が絞首刑、16名が終身禁固という判決でした。 東条英機大将は裁判で最後まで自衛戦争を訴えて、死刑判決後には深々と一礼して判決を潔く受けました。インドのパール判事だけが事後法で裁くのには反対して、被告人全員の無罪を主張したのです。しかし、結果ありきのままのリンチ裁判での判決でした。■■■(大切な部分のお話は以下に続きます。)■■■【補足】 ラダ・ビノード・パールは、インドの法学者、裁判官、コルカタ大学教授、国際連合国際法委員長を歴任。 ベンガル人。 ヒンドゥー法を専攻。 東京裁判(極東国際軍事裁判)の11人の判事の中で唯一国際法に通じていたのはインド代表のパール判事だけでパールは「裁判の方向性が予め決定づけられており、判決ありきの茶番劇である」との主旨でこの裁判そのものを批判し、被告の全員無罪を主張した。 これは裁判憲章の平和に対する罪、人道に対する罪は事後法であり、罪刑法定主義の立場から被告人を有罪であるとする根拠自体が成立しないという判断によるものであり、日本の戦争責任が存在しないという立場ではないことも加えた。■■■しかし、大切な部分のお話はココからです。■■■●マッカーサー「日本は自衛戦争」と証言昭和26年5月3日、米上院軍事外交合同委員会の公式の場で行われた質疑応答で、連合国側の経済封鎖で追い詰められた日本が、「主に自衛(安全保障)上の理由から、戦争に走った」と述べた。 マッカーサーは「太平洋において米国が過去百年間に犯した最大の政治的過ちは共産主義者を中国において強大にさせたことだと私は考える」とも発言。 マッカーサーは、日本が間違っていたのではなく、自分たちが間違っていたことを語った。【お話のまとめ】■連合国側のABCD包囲網に対しての合法な自存・自衛の戦争であり、大東亜共栄圏(欧米列強から植民地開放)を目的とした戦争でした。■東京裁判(極東国際軍事裁判)が結果ありきのインチキ談合リンチ裁判だったのです。インドネシア共和国 初代大統領スカルノ【動画】インドネシア独立戦争と日本軍大東亜戦争(第二次世界大戦の太平洋戦争)で日本が敗戦後も日本兵がインドネシアに、千数百名~残って、上官の命によって兵器の集積庫を開放、独立軍に武器、兵器を横流し(※本来は禁止行為)。 インドネシア人の指揮官がみずから率いる「民族軍」である郷土防衛義勇軍(ペタ)を組織するなど、日本兵が戦術を指導、植民地支配で味をしめたオランダ、イギリスを相手に、4年5ヶ月にわたる戦争で、80万人が犠牲になったが、結果的に、インドネシアは武力闘争と外交交渉によって独立を達成し、1949年12月にインドネシア連邦共和国が成立し、さらに連邦構成国がインドネシア共和国に合流して、1950年8月15日に単一のインドネシア共和国が誕生した。 戦死した日本兵達はインドネシア独立の英雄としてカリバタ英雄墓地に祀られている。●大東亜戦争を世界はいかに評価しているか------- 内容を簡略化したので、まだまだ詳細不足の箇所があります。 -------
2017/09/02
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