このごろ思うこと

このごろ思うこと

宗教について 2004・11



 話は変わりますが、最近のご相談で、ある宗教に入っていた方が、とてもお金がかかるので、そこから離れようと思っていた矢先に、津留の本に接し「自分自身だけを信じてください」という言葉を受け入れ、一人でやっていこうと本やテープで学んでいるのですが、つい不安になって折りあるごとにお電話がかかってきます。もう10回くらいお話したでしょうか。でもだんだん電話がかからなくなってきましたのでもう大丈夫だと安心しています。

 そういう時に、娘が「子供の学校の保護者のバイブルクラスに何度か行ったけど、自分のカソリックに対する思い込みがぶち壊されたと」と話してくれたので、その事を書いてもらいました。

 宗教に関するうさんくささは、子供の頃からなんとなく感じていました。仏陀やキリストといったマスターたちの覚醒した言動はパワフルで、純粋に心震えるのに、なぜそれが今のこの仏教やキリスト教になってしまっているのか? 

 始まりは尊い教えでも、歴史が物語っている通り、それが組織化され、権力となり、拡大・維持していこうとする人間のエゴにより、ゆがめられ似て非なるものになってきてしまったのでしょう。実際、宗教や神の名を語って行われる支配、対立、暴力、戦争の連鎖は、今でも世界に絶える事がありません。(そんな、これまでの社会システムを解き明かし、未来へのビジョンを語っている名著が「神との対話」です。サンマーク出版より3巻出ている本ですが、未読の方は是非オススメします。)

 こういった嫌悪感から、私は宗教にノータッチで過ごしてきました。しかし娘が縁あってカソリックの小学校へ入学することになり、これを機会に今現在のカソリックの世界観、聖書の解釈について勉強してみようと、司祭でもある校長先生が開かれている保護者バイブルクラスに毎月参加していました。最初は少し距離を置いて、注意深く観察するようにお話を伺っていたのですが、極めて保守的という私の先入観がどんどん覆されました。

 先ず聖書について、(プロテスタントとは立場が違うでしょうし、また同じカソリックでも○○会などによって多少解釈が異なるかもしれませんが)「聖書は長い年月をかけて、あちらこちらの部族によって記された物語を無理やり一つにくっつけてまとめた本であるから、同じ章であっても神の捕らえ方が宇宙的視野の壮大で崇高なもの(臨在し一なるものとしての神)から、えらく擬人的な怒り嫉妬するものまで多様である。それは当時の人々の知識レベル、価値観、伝承に基づいて描かれているためで、聖書を理解するためにはそういった表面的な事象に囚われてはいけない。中に流れている真理、普遍的な愛のメッセージを読み取ることが大切である」というお話なのです。

 聖書には自分を信じない者、好ましくない者を裁き地獄へおとす荒々しい神の姿があります。私は「何でそんな了見の狭いモノが神なんだろう? その神を信じ、あがめるなんて不思議」と思っていましたが、なるほどそのようなきちんとした解釈がされているのか、と目からウロコでした。

 バイブルクラスでいただいたカソリックの月刊誌も、その内容は保守、保身とは無縁のグローバルな視点に立ったものでした。かって世界中で行われた宣教活動について、教義と西洋文化をセットで強要し、伝統的な各民族の言語や文化をいやしいものと抑圧し、民族としての誇りやアイデンティティーを奪ってしまったと反省し、現在では各地の文化を尊重した教会活動を行っているとありました。

 あらゆるいのちのつながりに気づき、愛と尊敬を持って接していこうと、環境問題について語り、現在アメリカを中心として世界を巻き込みつつある衝突に関して、善悪という二元論ではなく、多様性を認め融合して行く事が大切と訴えています。ニューエイジ的な考え方と何の隔たりもありません。

 また、仏教、キリスト教、イスラム教など諸宗教者が枠を越えた平和の祈りの集いを各地で行っているとのこと。加速する時代の流れと共に宗教も変化を遂げ、開かれたものになりつつあると実感しました。私の宗教に対する偏見もまたブロックだったと気づき、それを手放すことができました。「地球の未来がまた一つ明るくなったぞ!」と訳もなく嬉しくなりました。何を信じても、どういう道をたどっても、いつか戻るべき場所は一つです。

 自分の心に響く情報やメッセージを自分の意思で選択し、自分で行動に移していくことの大切さを改めて感じた今日このごろでした。

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