アキハバラ的散財生活

リメイク版「終わりに見た街」



「細川版」は家の間引きを少年時代に体験した昭和の人間が再び家を失うお話でしたが、「中井版」は実際には戦争の体験のない平成の人間ですので、この辺りのニュアンスを出そうと柳沢に火を付けさせます。以後、戦争時代のお話はすべて伝聞として柳沢が雄弁に語り続けます。「細川版」のなべよりもクレバーな感じがするのはそのせいかもしれません。

例の不良少年も昔のようなパンクな感じではなく、いわゆる「ひきこもり」である、という点を前面に押し出した感じで、結構「理詰め」で親を問いただします。そして意外だったのは、中井の長女までもが柳沢長男にシンクロしていく部分でした。単なる「跳ね返り」の意見ではなく、同世代の一致した意見として、「国のため」とは何かを語り出すのです。

1980年代...まだ冷戦時代で核は陣営の報復攻撃として最後の切り札のような存在でしたが...最後のシーンはそうした漠然とした恐怖を反映した物のはずでした。例えばオーウェルの「1984年」などの作品などもありましたが...近未来に対する漠然とした不安はこの頃無言の共通認識でもありました。その意味で今回も「ラスト=原爆」というイメージにしたのはちょっと工夫がないような気がします。(まぁ原作通りなので仕方ないのですが...)

以前私が書いたレビューで
>この「やかん」が親の世代になったのが現在の21世紀の日本です。
と、書きましたが、「細川版」の不良少年が親としてタイムスリップしたのが「中井版」ですので、更にその子供達の世代で漠然とした不安は鮮明な形で「危機感」に変わったような気がします。まだイデオロギーに支配されていた80年代よりも、無差別に何が起きても不思議ではない現代の方が、ヒトとヒトのつながりをより強く求めているのですが、その手段がすっぽりと取り払われているために、今の大人からはそのように見られていない、というのが問題なのでしょう。その手段を無くしたのは「親の世代」なんですけどね。終戦60周年で次の60年を考えるときに、これは大事なことだと思います。

ちなみに「今度持つならゲームボーイ」と書いていましたが、これは奇しくも正解。ゲームボーイアドバンス持っていましたね。後、ドラえもんは「細川版」の時代から現代まで続く衆知のファンタジーと考えれば、テレ朝でなくても出したかったアイテムではなかったでしょうか?その意味で、奥深さを持った「中井版」だったと思います。

(2005年12月4日)


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