躰道∞(無限) 

2005年10月18日
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 昨夜NHKのBSハイビジョンで「棋士、藤沢秀行」の特集を見た。私が習う躰道で先生、先輩から教わることと似た内容をその番組で聞けた。
「碁は人間が打つものなんだから人間を高めなければダメなんだ。ただ勝ちゃぁいい、なんて考えなんて」この「」のセリフは自分の先生から聞いたことがあるし、自分の通う道場の子供にも常々言っている。
 藤沢秀行は棋士を育てる。その育てた弟子にタイトルを奪われる。そのことに苦を感じていない。中国、韓国の棋士も育ててきた。大陸にすむ彼ら彼女らに日本人棋士はやられっぱなしだそうだ。【敵に塩を送った】という解釈とはまた違う。「抜かれたら抜き返せばいいじゃないか」というただ、それだけの考えの藤沢秀行だ。私もまったく同じ考えであり、実行している。ただ、実行する前に自分自身が先輩、先生にされたからだ。結果として試合でその先輩に勝つこともできた。だったら自分も同じようにしようと思った。自然に身についていた。結果として道場全体の底上げにもつながり、目標とされる道場になれば私たちが正義を示すだけで周囲も浄化されてくるに違いないと思っている。自分より弱いやつをチョイスして対戦するのではなく、負けなくなった自分がもしそこにいたのなら、そこで勝負は終わりじゃない。登山家がすべての山を制覇したらもう登山家ではなくなるのではない事と同じで、その山の良さや厳しさを伝える喜びを持つのも一つのものを極めんとする考えに結びつくのではなかろうかと思う。制覇の仕方で達成感はまるで違う。登る山がなくなれば作ればいい。いったん海底におりて、水を空気として考え手探りで地下の山を登っていけばいい。
 対戦相手も同じである。

「碁は一つの作品だ」
 私は碁のルールを知らないが、作品になる、という意味はわかる。その一手をみた者達の歓声であったり相手の動きを読んだ、つまり「流れ」が見えたとき筆を使わずに自分が置く石の影響によって相手の石は水のように行く手を阻まれ、そして海に出た後まで、あのときのあの石の存在を残す。あの石があったからこそ生まれる命もあったのだ、と考えることができる。

「芸ではまけない」
 勝負の最中、芸では負けないという心持で向き合っていた藤沢秀行。長島監督とも似た雰囲気のある言葉だ。躰道は武道だが、武芸でもある。そうすると上の「碁は一つの作品だ」という一行もつながりを感じるというもの。

「戦闘力をつけなきゃだめ」


「本当の輝きを持った打ち手と、ただ強いのとはちがう」
 これは、ある先輩が私に言っていることと同じ内容だ。プロの野球選手もそう。ボクシングも同じ。躰道でもそうだ。ただ、目先の小さなことしか見えないのでは大きなものは見えてこない。大きなものを見えるからこそ小さな美しさも目に入るというもの。この「」の意味はこの文の最初に戻る。というよりサイクルする。
 【藤沢秀行】を検索していただいて、ぜひ読んでもらいたい。躰道の教えと似ている部分が多様にある。藤沢に興味を抱けるということは躰道にも同じく考えられ、日々の生活が大波津波の面白いものになる。そして、だからこそ凪た日にじっくり考えられることもある。





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最終更新日  2005年10月18日 11時30分59秒
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