躰道∞(無限) 

2006年01月22日
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 最高師範の写真が正面にあった。我々にしてみると正面自体が最高師範でもある。安土桃山時代に豊臣秀吉が隠れキリシタンをあぶりだすために『踏み絵』を実施した。この時代にもしもそのようなことを政府がするのであれば躰士は足を切り落として写真を血で染めようともなされぬであろう。

 範士等大会開会式で並んだ位置から最高師範の写真を見たのは少し斜めの位置だった。以前S範士から聞いた話「最高師範の目というのは相手を動かせなくする力を持っている」があった。今回はそのことを痛感するに至った。その角度から最高師範の視線を感じた。私は自分だけを見ているのかと自意識過剰に浸ったが、そうではなかった。今回出場の皆様方はすでに感じていることだったかもしれませんが、写真のなかの初代宗家は角度を選ばずに全体を見ている、ということを。演武を行ったときは整列した位置から九十度ほど西へ移動したのだが、やはりこっちに眼光を向けた初代宗家がいた。開会式であの目をみたときは心が萎縮してしまったが、自分の角度へも視界を広げているのだということに気づくと心にゆとりができた。私は心の伸縮が激しく、動揺し、脳の細胞までラップに巻いた状態になることがしばしばある。
 今日、整列で最高師範の目に萎縮した心は良いほうに傾いた。どのような心持ちで演武に望むべきか。失敗を恐れるあまり動作まで萎縮していては法形にならない。そのような気持ちが大きく動いた演武だったと思う。何も考えなかったのかもしれない。普段の稽古で基本技を行う勢いだったかもしれない。それはわからない。事実として記憶にあることは礼ををしてえ字をかまえるまでは「間違えないように」とかそういう消極的な考えを持っていたこと。実技を進めていくうえで少しずつではあるが捻体の法形を楽しんでいた気もある。記憶がない試合だった。今回は意識的にビデオカメラは持ってこなかった。そのときのリアリティーが損なわれる気がしたから、というのが理由だった。ただ、途中でやはり撮りたくなってデジカメをむけたらバッテリー切れだった。逆にラッキーだったかもしれない。

 私は練士の部で第三位という結果だった。とても光栄に思える結果で明日からは一つの経過となってゆき、一つの夢にもなると思う。
 私(わたくし)、天空の鯨の目には一つの道が見えます。それは、夢を食らう『獏』がより大きい夢を求めて道を歩いている後姿です。けして停まらない貪欲な獏は素直にその臭いを嗅ぎわける。
 夢というのは面白いもので、己の夢よりも、誰かの意思を夢として継いだことのほうが深くて漠然として様々な解釈があって楽しいものだ。

 いい夢は見るのじゃなく、体験し、それを伝えることができてはじめて獏の食道を通るのと思う。

 獏、麦、漠、縛、爆、莫、暴、駁、博、曝、幕、全部バクですが、このどれの漢字も次の瞬間には全く違う世界になる二面性がある。博打も時と場合によっては人生とも読める。博打を無難とも読める。それは別な意味で読めたときだ。先を読んで一見博打にみえることでもそれは周囲の常識であり、本人にとっては卵を茹でたらいつまでも雛は孵らないと同じ法則の決まりごとを辿っているだけだ。ということもある。





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最終更新日  2006年01月23日 01時07分47秒
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