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「カメハメハ1世のお話」



カメハメハの“カ”の後に続く“メハメハ”を強く発音するとソレらしく聞こえます。
“カ”は「男や戦士」“メハメハ”は「孤独や寂しさ」という意味があります。
カメハメハが生まれた頃のハワイの島々は山から海まで、幾つかの集落に分かれていて、海で魚を捕る村、野菜を育てる村、山の上では猪や山羊を捕る村など、それぞれが個々の酋長“アリイ”によって治められていました。まだハワイ全土を統一する大王はいなかったのです。

今回の主人公、のちにハワイ全土を統一して大王となるカメハメハの誕生は、1758年(違うという説もありますが・・・)。
とにかく18世紀の中ごろ、ハレー彗星が輝く中、ハワイ島の酋長 アラパイ王の姪 ケクイアポイワ(Keku’iapoiwa)を母に生まれました。
生まれて間もない頃の名前は“パイエア”(Pai’ea)といいました。

ところが、“パイエア”が生まれる数年前、アラパイ王の“カフナ”(預言者)が「空が光を放つ中、1人の戦士が生まれ、全ての島々を征服するであろう」と予言したことから、自身の身を案じたアラパイ王が、生まれたばかりの“パイエア”を殺害するよう迫ります。
そして、これを拒んだ母親のケクイアポイワが、ナエオレという人にこの子を託して、ひとり山奥で育てられた“パイエア”は「孤独な戦士」“カメハメハ”となります。

後年、その生存を許されることになったカメハメハは、アラパイ王が逝去した後、彼の息子が王位を継承することに反対した、叔父のカラニオプウ(Kalani’opu’u)に力を貸した功績によって、王に次ぐ権力を得ることになりました。
しかし、1782年にカラニオプウ王が亡くなると、カメハメハをこころよく思っていなかった息子のキワラオ(Kiwala’o)との間で王位争いが勃発。カメハメハは、この戦いに勝利してハワイ島の王になります。

その後のカメハメハは、ハワイを統一するために、戦闘カヌーに乗って、マウイ島、ラナイ島、カホオラベ島、モロカイ島と勢力を拡大して、オアフ島も制圧。1810年には、最後に残ったカウアイ島とニイハウ島も手中に収め、ついにハワイ全土を治める大王となりました。

カメハメハの勝利の裏には、有名なジェームズ・クック船長などから学んだ、ヨーロッパの兵法や武器のチカラも大きく影響したといわれています。
とにかく、これが1893年まで続くハワイ王朝の誕生というわけです。

ハワイの独立と繁栄に尽くしたカメハメハ大王の最期は1819年。彼の亡骸は近親者によって密かに埋葬され、未だにその場所は謎のまま。きっとこれからも探されることはないでしょうね。

そんなカメハメハ大王の偉業を讃えるイベントが、毎年6月に開催される「キング・カメハメハ・セレブレーション」です。巨大な大王像に幾千もの長いレイをかけ、ダウンタウンからカピオラニ公園までパレードをしたり、ワイキキでは、ホオラウレア(Ho’olaule’a)と呼ばれる大きなパーティも開かれます。この時期はハワイの各島でイベントが開催されます。

カメハメハ大王像にまつわる面白い話
皆さんもよくご存知のカメハメハ大王像はカラカウア大王の指示によって作られたイタリア製。
しかし、せっかく等身大で作ったのに、イタリア人をモデルに使ったため、顔が全然似てません!!(残念っ!)

しかも、この像を鋳造中、予言者がカラカウア大王に「カメハメハ大王像は彼の生まれた村に建つ」と進言したにもかかわらず、生まれた故郷のハワイ島の田舎では、人々が訪れることが出来ないからと大王はこの話を無視にして、イタリアからオアフ島に船を手配。
ところが、船が大嵐に遭って銅像とともに沈没。今、ダウンタウンにある銅像は、2体目なんです。
そしてなんと、数年前に最初の銅像を積んだ沈船が見つかって、カメハメハ大王の銅像も一緒に引き上げられました、しかし、今となっては置き場もなくて、結局、ハワイ島にある生まれ故郷 カムエラ村に置かれることに...まさに予言どおりになったといいます。ちなみに“カムエラ”って、英語では“サミュエル”と言う意味なのです。

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