パクス・ジャポニカ Vol.2

パクス・ジャポニカ Vol.2

PR

×

プロフィール

たけB777

たけB777

コメント新着

清酒東京大阪出張Gleezy:top7340@ Re:秋山翔吾がカープに来る(06/27) 清酒東京大阪出張Gleezy:top7340 Gleezy…
たけB777 @ Re:お初天神(露天神社)(大阪・大阪市)(02/20) 掛川城の記事、興味深く拝見しました。 棋…
ヴェルデ0205 @ Re:お初天神(露天神社)(大阪・大阪市)(02/20) お久しぶりです。 コメントありがとうござ…
たけB777 @ Re[1]:烏山城(下野国)~その1(02/04) araiguma321さんへ 与一温泉ってあるので…
araiguma321 @ Re:烏山城(下野国)~その1(02/04) 参考にさせて頂いてます。 ありがとうござ…
背番号のないエース0829 @ Re:首里城(琉球王国)~その2(12/10) 「沖縄summitから20年」に、上記の内容に…

お気に入りブログ

川西ダリヤ園 3 New! よっけ3さん

川崎☆彡工場夜景+み… New! Belgische_Pralinesさん

静岡駅直結「珈琲館… ヴェルデ0205さん

こまちに乗って大曲… Traveler Kazuさん

延命十句観音経 8.8… マキ816さん

iPad mini 第5世代の… araiguma321さん

日々の出来事など しなの1707さん
京都観光をご案内し… スマイルフェイス8971さん
swang blog swangさん
ナンのこれしき観戦記 ナン65さん
2017/11/06
XML
テーマ: 城跡めぐり(1313)
大阪府千早赤阪村にある二つの赤坂城、すなわち下赤坂城と上赤坂城のうち、どちらが古典「太平記」に出て来る「赤坂城」なのでしょうか。

そんなことを考えつつも、下赤坂城から上赤坂城にやってきました。
上赤坂城遠景.JPG
上赤坂城登城口
ここで車を降り、登山装備で歩き始めました。

上赤坂城城郭図.JPG
現地にある上赤坂城縄張図
本丸直下までは一本道が続き、途中には木戸が設けられていたようです。

上赤坂城一の木戸.JPG
一の木戸跡

稜線上にある登城道では、一の木戸からずっと切通が続いていました。
上赤坂城登城道 (1).JPG
「城阪」と呼ばれる登城道


上赤坂城二の木戸 (2).JPG
二の木戸跡

切り立った尾根上の登城道から西側の斜面を見ると、竪堀のような跡も見られました。
上赤坂城竪堀.JPG
竪堀かどうかはわかりませんが、西側の谷に続いているのがポイントだと思います。

さらには横矢が掛かった場所もあり、石を切り出したような跡も残っていました。
上赤坂城登城道 (3).JPG
古典太平記にある鎌倉幕府軍との籠城戦の中で、上から石を落として戦った記述と符合するように思うのですが、それは考えすぎでしょうか。

上赤坂城三の木戸 (1).JPG
三の木戸跡

三の木戸から先は斜面もなだらかになり、曲輪や堀切の跡が見られるようになりました。
上赤坂城そろばん橋.JPG
堀切上の「そろばん橋」

上赤坂城茶碗原.JPG
「茶碗原」の曲輪跡

そろばん橋からは南へと向きを変え、いよいよ本丸のピークへと続いていました。
上赤坂城四の木戸.JPG
四の木戸跡


上赤坂城堀切.JPG
本丸手前の堀切跡

本丸直下では、本丸ピークをトラバースしながら道が続いており、金剛山方面との分岐点にもなっています。
上赤坂城本丸直下 (2).JPG

ハイキングコースの道標みたいな感じですが、ここまでもあまり人が通った跡はなく、実は楠木正成の時代からこの道はあったのではないかと思います。
(現代においては、わざわざここを抜けて金剛山に行く理由がわかりません)

金剛山の先は大和の吉野であり、護良親王(後醍醐天皇の皇子)が挙兵した場所でした。


もはや推理ゲームでしかないのですが、この道を楠木正成も歩いたと思うと、一歩一歩確かめるように本丸へと歩いていきました。
上赤坂城本丸直下 (1).JPG
本丸直下



本丸から眺めると、南西側に河内平野を望むことができます。
上赤坂城本丸より河内平野 (2).JPG

さらに眼下には腰曲輪の跡も見られました。
上赤坂城本丸腰曲輪.JPG
この辺りは戦国時代になって改変された遺構だと思います。


本丸には「楠木城址(上赤坂城)」と書かれた城址碑が建っています。
上赤坂城本丸城址碑 (2).JPG
城址碑
下赤坂城の城址碑は単に「赤坂城」となっていたので、もしかしたら古典太平記の「赤坂城」とは違うのでしょうか。

上赤坂城に限ったことではありませんが、遺構はなくとも地名が歴史を物語っているケースは多々あります。
例えば戦国城跡を探している時、地元の人に「城山」や「館山」の地名を聞くと、すぐ教えてくれたこともありました。

上赤坂城について言えば、「糞谷」の地名が残っているそうです。
すなわち、楠木正成が鎌倉幕府軍と戦った時の、ゲリラ戦とも符合します。

さらには、下赤坂城の南端から上赤坂城の南西側にかけて、不自然な帯状で「東阪(あずまざか)」の字があります。
これは鎌倉幕府軍、すなわち東国武士が赤坂城を包囲した名残ではないでしょうか。

下赤坂城と上赤坂城に限らず、千早赤阪村にはいくつもの城跡ネットワークがあったようで、赤坂城塞群と呼ばれています。
上赤坂城赤阪城塞群解説.JPG
しかもこの城塞群の配置が、東阪の地名と一致します。
おそらくこの城塞群が古典太平記の「赤坂城」で、上赤坂城がその本城だったのかも知れません。


封建制度の鎌倉幕府軍に対し、楠木正成の頼みは河内の民衆でした。
民衆にも識字率の高まる中において、河内はその文字によって情報が伝わっていたでしょうか。

この城跡ネットワークはすなわち情報ネットワークであり、ネット社会の先駆けだったかも知れません。





お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

最終更新日  2017/11/15 08:14:40 PM
コメントを書く
[城跡と史跡(大阪・兵庫編)] カテゴリの最新記事


■コメント

お名前
タイトル
メッセージ

利用規約 に同意してコメントを
※コメントに関するよくある質問は、 こちら をご確認ください。


【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! -- / --
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
X

© Rakuten Group, Inc.
Design a Mobile Site
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: