タコ社長,オーストラリア・メルボルンのスローライフな日々

タコ社長,オーストラリア・メルボルンのスローライフな日々

PR

Profile

タコ社長1952

タコ社長1952

Comments

タコ社長@ Re:「国高1969」というサイトを作りました(07/19) 「国高1969」管理人さんへ ありがとうござ…
「国高1969」管理人@ 「国高1969」というサイトを作りました あれからもう50年ですね。 時間があればの…
Yuta Kashiwagi @ Re:母と一緒に働いたプラスチック加工工場(08/11) こんにちは 来年からプラスチックの成形販…
タコ社長@ Re:いろいろバランスを取りながら、、、(09/24) 移転しました。 <small> <a href="http:…
タコ社長@ Re[1]:まず、皆さんのご意見を伺いたい!(01/17) 田楽みそさん >社長さん、初めまして。 …

Favorite Blog

紅葉の紅葉 やすじ2004さん

バリの日本食レスト… JLmamoさん
From おおさか mayu0208さん
y'Odare cLub  To… y'Odare cLub. Tomochanさん
ようこそ我が家に ディジュさん
湘南のカモメ 湘南のカモメさん

Archives

2024年12月
2024年11月
2024年10月
2024年09月
2024年08月
2007年01月13日
XML
テーマ: 海外生活(7776)
カテゴリ: 移住模索期
らくてんCIMG1797.jpg



成金でない金持ちの多く住んでいるツーラックという町がある。ここから毎日30分歩いて職場の日本レストランに通っていた。レストランはサウスヤラという所にあった。1985年10月からのことだった。まだオーストラリア4ヶ月目で見るものがなんでも新鮮で興味がわく。サウスヤラ、ツーラックをメルボルンの青山・六本木なんて言って回っていた。

私は、一人でツーラックにあったフラットに住んでいた。一部屋セミ家具付で週79ドルだった。ワーホリなどは一部屋を3-4人でシェアーして金を使わないようにしていた。

この頃、私はバカの一つ覚えのように「永住権、永住権」と言っていた。多感で、自慢じゃないがものすごく多情な33歳から34歳をここで過ごす。

「タコさん、やっぱりあんた駄目だ。フロアーに出て!」日本ではブルドーザーを売っていた。そんな私がいきなり寿司を握ったり、天ぷら揚げたりはできない、なんて威張ってみても始まらない。しかし、皿洗いは最も得意になった。沸騰したお湯で鍋釜を洗うと油がきれいにとれて洗剤がいらないことも知った。因みにこのときの皿洗いの経験がオランダ系の連れ合いとの生活で大いに役立っている。

ということでフロアーマネージャーになって、手の皮がペロペロむける手荒れから開放され、東村山の母から送られてきたニベヤのクリームが使いきれなくなった。

このレストランでは、10代から60代のさまざまなウエートレスと一緒に仕事をした。

キムは、20代後半だったのだろか韓国系カナダ人でそのうちの一人だった。日本語はまったくできなかった。六本木あたりでも十分通用するような派手な女性だったが、気持ちはいたって純情で仕事がはねてから夜中に二人でよくカフェでお茶を飲んで帰った。

「タコさん、私も永住権が欲しいの。でも、日本食のウエートレスじゃ絶対に取れないわね。」そういいながらキムは甲高い声で笑いながらチョコレートムースを突っついた。



1987年に私は永住権を取得してメルボルンに戻ってきた。日本では半年過ごした。帰ってきてキムの消息を尋ねると誰も知らなかった。

オーストラリアに来て22年目、そして永住権取得してから20年になる。食べ物や乗り物などが安くなるシニアカードもあと5年もすれば使えるようになる。倍食ってもそれまでと同じ料金とは嬉しい。しかし、タコ社長気持ちはあの狭いキッチンで笑って夢を追いかけている頃とまったく変わっていない。






お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

Last updated  2007年01月13日 21時48分29秒
コメント(2) | コメントを書く


【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! -- / --
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
X

© Rakuten Group, Inc.
X
Design a Mobile Site
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: