行雲流水~托鉢日記~

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2007年02月08日
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カテゴリ: カテゴリ未分類

大した事ではないが、気になる事がある。

誕生日を祝うという習慣は、いつから、何の為に行われたのだろう。

理容店は『床屋』というが、なぜ『床』という言葉を使っているのだろう。


今はこのぐらいしか思いうかばないが、日常生活の中にこういった疑問点は多々ある。

その答えを知った時は、腫れ物がとれたかのようにスッキリして気持ちがいい。


だが、それだけである。
由来や理由を知っても、ただスッキリするだけなのだ。

よく『自分は何の為に産まれてきたのか』とか『自分に課せられた運命とは何か』を考える人もいる。
もしその答えを知ったならば、まずは間違いなくスッキリするだろう。

だが、その後は?
そう。日常はなんら変わり無くやってくる。


これはかなりの極論になるかもしれないが…
もしかすると、『知る』という行為はそれ程大切な物では無いのかもしれない。

例えば、富士山をある場所から見たとしよう。そしてこれが富士山かと『知る』訳だが、当然、その場所からは見えない裏側の富士山の姿もあるはずだ。


本当に大切な物は体が勝手に『覚えている』ものだ。
例えば、呼吸はすごく大切だろう。だが、呼吸の仕方を知っているから呼吸をしている人はいないのではないか。呼吸の仕方は体が勝手に覚えているのだ。

動物の狩りの仕方もそう。
植物の花の咲かせ方もそう。


『知る』という行為は、一見大切なようだが、実に危ない物なのかもしれない。





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最終更新日  2012年04月19日 09時17分44秒 コメントを書く


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