弥治右衛門記念碑の前にやってきました。神社の境内のように、石柱で囲われていました。
弥治右衛門記念碑
「義民弥治右衛門碑」と書かれています。昭和7年に建立されました。
小泉弥治衛門(やじえもん)は、江戸時代初期の人です。守口市教育委員会が設置した説明文には、おおよそ次のように書かれています。
この辺りは水はけが悪く、毎年のように農作物に被害を及ぼしていました。慶安元年(1648年)7月、藤田村の小泉弥治右衛門は、村民の苦しみを取り除こうと、幕府の許可なしに古川筋に排水樋を設け水はけをよくしました。しかし、上下流地域から苦情が出て、幕府の命令を無視したとして、翌年、樋の存続と引き換えに家族ともども処刑され、家財・田畑は没収されました。
村民は、村のために犠牲になった弥治右衛門の名を後世に伝えるため、道標に名前を刻んで墓碑の代わりとしたということです。
名が刻まれた道標
上の写真がその道標なのでしょう。記念碑のある敷地の入口近くにありました。
「俗名 故 弥治右ヱ門」と書かれています。その上には「すぐ佐田京至」(すぐに佐田、京へ至る)とあります。佐田はおそらく佐太でしょう。ここから北に行ったところ、旧京街道筋に佐太という地名があります。
通常、道標というのはその文字の書かれた面に向いた状態で考えます。何も書かれていなければ「まっすぐに進んで」、右と書かれていれば「右に進んで」と考えます。
上の写真は南に向いて撮ったものです。佐太は北にありますから、向きが180度違っているように思えます。動かしたんでしょうね。

上の写真は、同じ道標の側面と裏面です。写真を撮ったのが夕方ですから、陰の方向が東です。
それぞれ「すぐならいせ至」(すぐ奈良(街道?)、伊勢に至る)、「すぐ徳あん大坂至」(すぐに徳庵、大坂へ至る)とあります。奈良は東。徳庵(とくあん)は、JR学研都市線の徳庵ですね。南の方向になります。やはり、180度違っています。もともとはどこに立っていたのでしょうね。
弥治右衛門の墓?
敷地の隅に、墓のようなものがありました。伝承の地から白骨が出たそうで、昭和7年にいっしょに建てられたそうです。
土地改良記念碑(戦後)
戦後、10年ほどかけて土地改良を行いました。それを記念した碑も同じ敷地内にありました。
「大蔵閘碑」
もうひとつ、西寄りに設置された碑があります。碑文が書かれていたのでしょうが、いまではほとんど読めません。タイトルだけははっきり「大蔵閘碑」と読めます。
「大蔵」というのは「大蔵新田」のことのようです。樋を設置した場所です。「閘」は「閘門」のことで、水を調節するための水門だと思います。
現在では、排水樋は残っていません。埋め立てられ、遊歩道になっています。
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