京阪・橋本駅の南、線路と並行している農道を歩いて行きました。久修園院を過ぎてさらに先へ行くと、民家のある場所にたどり着きます。ここに砲台跡の碑があります。橋本砲台とも楠葉砲台とも呼ばれているようです。
砲台の碑
同上
枚方市教育委員会の名が入った説明板には、「楠葉台場(砲台)跡」と書かれていました。その右にある石碑には「戊辰役橋本砲臺場跡」と書かれています。楠葉は枚方の地名、橋本は八幡市の地名ですから、枚方市としては「楠葉」と言いたいんでしょうね。
同上
淀川対岸には、対となる高浜砲台(大阪府三島郡島本町)が置かれました。いずれも慶応元年(1965年)ごろに幕府の手で築かれました。設計の総責任者は勝海舟だそうです。いずれも3万平方メートルほどの台場に、それぞれカノン砲3~4門が設置されたと考えられています。
両岸の砲台は、大坂湾から京都へ侵入する外国船を想定して築かれた、というのは表向きの理由で、長州藩士など尊王攘夷派の入京を阻止するという目的もあったようです。
慶応4年(1868年)の戊辰役(鳥羽伏見の戦い)で、小浜藩酒井家が橋本砲台を守備していました。ところが対岸の高浜砲台を守備する津藩藤堂家が寝返り、橋本砲台に向けて砲撃してきます。橋本砲台は混乱に陥ったもののこれに応戦、両砲台間でしばらく砲撃が続いたということです。しかしついに旧幕府軍は支えきれずに、砲台を破壊して大坂方面に敗走していきます。
明治43年、京阪が軌道を敷設したとき、台場の土塁はすべて運び去られたといいます。いまなら埋蔵文化財の調査が入りますが、当時はそんな調査はなかったのでしょうから、しかたがないですね。
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