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昨日、大学病院に行き、受け付けを済ませ、自販機でお茶を買った後に婦人科に行くと、診察の順番を知らす電光掲示板には、すでに私の番号は中待合に入るように表示されていました。中待合の椅子に座って待っている間、入院中の出来事を思い出しました。 それは一昨年7月、治療も全て終わり、血液データの回復を待って、あとは退院するのみというある日のこと。その日は婦人科外来の受診でした。入院中、他の科を受診するときは、診察時間近くになると病棟に連絡が入り、外来に行くわけですが、外来はどこも混んでいるため、結局待合で待つことになります。その日も婦人科はたくさんの女性が待っていましたが、点滴を下げ、パジャマに帽子姿、眉もまつ毛もない私の姿はとても目立っていたと思います。私の隣の席は、皆避けているのかずっと空いたままで、他人の視線が痛く感じた私はずっと下を向いて待っていました。しばらくすると1人の女性が私の横に座ると、私に話しかけてきました。「ここの婦人科にいつも通っているんですか?」「いえ、私は他の科に入院していて、婦人科は2度目なんです。」私がそう言うと、彼女は「私も婦人科は初めて。他はいろいろあるんだけど。」と言いました。私の姿を見て、ガン患者と思ったのでしょう。私より少し年上に見えるその彼女は、その後、自分のことを話してくれました。「私ね、○年前に胃も取っちゃったし、そのあとに○○、その次は××も取っちゃったの。」(○○と××は、たしかすい臓と大腸?だったと思います。)小柄で痩せてはいるものの、花柄の上品なスカートを履いて、きちんとメークし、可愛い声で笑って話す彼女が、とてもそんな大病を何度も繰り返しているとは思えず、驚きました。「お元気そうに見えるのに・・・」と言うと「そうでしょ、みんなに言われるの。でも、私のお腹の中は空っぽなのよ。今度は卵巣も取っちゃうことになるのかな・・・」と、その時だけ少し寂しそうに言いました。なんと声を掛ければわからず「私は長い間、入院していたけれど、やっと退院できそうなんです。」と言うと、「そう、良かったわねー。」と笑顔で言ってくれました。彼女ともっと話がしたい!そう思ったとき、私の名前が呼ばれました。「じゃあ」とお互い軽く会釈し、私は診察室に入り、待合に戻った時には彼女の姿は見えませんでした。 たった数分の出来事だったけど、昨日、待合で、あの日座った椅子を見た時、彼女のことを鮮明に思い出しました。あの彼女、今、どうしているかな・・・どうか彼女が元気に幸せに過ごしていますように。。。
2006.06.17
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久々に過去の日記です。 前回はこちら敗血症になり、高熱は2週間近く下がりませんでした。あとでわかったのですが、緑色連鎖球菌が原因だったようです。(この菌は虫歯等の口中の菌で、白血球が100以下になったときに悪さをしたのです(>_
2006.04.18
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「タヌタヌさんはこの治療が終わったら退院できるんだから大丈夫。」私には、その意味がまったくわからなくなっていました。 自分が白血病で入院していて、今、熱が出ているということはわかるのだけど・・・ぶら下がっている点滴がなんの点滴なのか治療は今、何回目なのか自分が今どの部屋にいるのか昨日、誰が面会に来たのかそんなわかりきったことが、まったくわからなくっていました。一部の記憶がなくなっていました。看護師さんに「私、今、何の治療やってるの?この部屋は無菌室だっけ?いつから、ここにいるの?昨日は、主人は来たの?」と聞きました。当たり前のことを真剣に何度も聞く私に、看護士さんも驚いたようですが、優しく丁寧に説明してくれました。「今、タヌタヌさんは、キロサイドの3回目の治療。ここは無菌室の○号室で・・・・・」何十回も繰り返し同じ説明を聞いているうちに、なんとなく思いだしてきました。「どうしよう・・」高熱が出て、苦しい思いをしたことより、記憶を失ってしまったことにショックを受けました。気がつくと、もう窓の外は明るくなっていました。自分に起きたことがとても恐ろしくなり、夫の声が聞きたくなって、家に電話をしようとしたのですが、それも出来ませんでした。電話番号を忘れてしまっていたのです。それでも、2~3時間経った頃には、番号を思い出し、電話を掛けることができたのですが、番号を押している間も、この番号で本当に正しいのか自信はなく、夫の声を聞けた時は、本当に安心しました。あとで、主治医に聞いたのですが、この時、私は敗血症を起こしていたそうです。
2006.03.08
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その日の夜中、猛烈な寒気が起こりました。とにかく寒くて寒くて仕方ない。体全体がガタガタ震えるほど。看護師さんを呼んで、電気毛布をかけ、普通の毛布も2枚持ってきてもらっても、震えが止まらない。ブルブルガタガタ震えながらも、いつの間にか眠ってしまいました。そして、夜中3時。トイレに行きたくなって、目が覚めたのですが、体を動かそうにもまったく体を動かせず、目を開けたくても開けられない。夢なのか、現実なのかもわからない状態になりました。1~2時間前には寒くて寒くてガタガタ震えていたのに、今度は気が狂いそうになるくらい体が熱くて熱くて仕方ない。たまたま点滴の確認に来ていた看護師さんが、私の異常に気づき、氷枕を取りに行ってくれたのですが、それすらも待てませんでした。なんとか力を振り絞り、起き上がって、パジャマも綿の帽子も脱ぎ捨て、キャミソール1枚になり、冷蔵庫からペットボトル2本を取り出し、体に当て冷やしました。この時、体温は41度以上になっていたと思います。無菌室には、仕切りのないトイレがベッドのすぐそばにあります。10歩も歩けばトイレに行けるのに、そこに行くこともできない。点滴をつけながら、這いずるようになんとかトイレに行きましたが、すでに、失禁していました。続けざま、今度は猛烈な吐き気があり、トイレを抱え込みました。氷枕を持ってきた看護師さんが無菌室に入って来たとき、「どうしよう、私、死んじゃったらどうしよう。」何度もそう繰り返し、ずっと泣き叫んでいました。それまでの私は、夜中に布団をかぶって一人で泣くことはあっても、声を荒げたことも大泣きすることもありませんでした。だから、看護師さんは、あられもない格好で泣き叫んでいる私を見て、一瞬驚いた様子でしたが、「タヌタヌさん、大丈夫、大丈夫だから」と肩に手を掛けてくれました。それでも私は、「死んじゃうかもしれない。子どもたちがいるのにどうすればいいの」と床に座り込み、取り乱していました。このときの私は、自分に何が起こっているのか把握できずにいました。何がなんだかわからず、ただただ泣いていました。看護師さんは、私の傍についていてくれて、私が落ち着くと、パジャマや下着の着替えを手伝ってくれました。看護士さんは「タヌタヌさんはこの治療が終わったら退院できるんだから大丈夫。」と優しく言ってくれたのですが、その時、私はその意味がまったくわかりませんでした。
2006.03.07
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久しぶりに過去の日記です。最後の治療の様子を書いたものですが、まったく覚えてない期間があるので、少々おかしい箇所もあるかもしれませんが、ご了承ください。 ***********************************************大量療法2コース目を終え、1泊の外泊後、とうとう3コース目、最後の大量療法が始まりました。2コースとも、先生が思わず首をかしげてしまうほど順調に治療が進んだので、今回も絶対大丈夫だと思っていました。でも、この最後の治療は、それまでの治療とは比べ物にならないくらい、辛く大変なものになったのです。これまでの治療の副作用で、このころ肝臓は更に悪化していました。また、治療初日から、喉の痛みがあり、少々不安の感じるスタートとなりましたが、「これが本当に本当の最後の治療。治療が終われば、退院。絶対頑張るぞ」と気合いを入れて臨みました。5日間のキロサイド投与中は、むくみが出てきて、ほとんど食べられない状態なのに、体重は増加。白血球が100以下になってくると、目にもまた異常が出てきて、眩しくてカーテンを開けられず、ものは2重、3重にだぶって見えるようになりました。白血球の低い期間は、なにより感染に注意しなくてはいけないので、吐き気とだるさの中、うがいも手洗いも一日何度も行い、スポンジの歯ブラシで、念入りに歯磨きを行いました。でも、あんなに気をつけていたのに、白血球が100以下になって4日後、恐れていた感染が起こったのです。その日、看護師さんから借りたDVD「ギャングオブニューヨーク」を観ていたのですが、目もよく見えなかったこともあり、内容が全然頭に入りませんでした。体もだるく、熱を計ると38度台。「まいったなぁ、熱がでちゃった。まぁ、そのうち下がるでしょ」と思っていたのですが・・・
2006.03.07
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一昨年の入院中のある日のこと。朝起きて、テレビをつけると、有名な歌舞伎俳優さんが、白血病で入院したというニュースが飛び込んできました。彼の病気はFAB分類でいう「急性前骨髄球性白血病」、M3でした。タイプが違うので、治療法も予後も違うけど、同じ白血病患者として、「ぜったい元気になってほしい」と、テレビの前で祈りました。どの局も、ワイドショーでお馴染みのDr.が白血病の説明をしていました。白血病に関して不勉強な私でも知っている簡単な説明ばかりだったけど、ひとつ気になることがありました。それは「白血病は10万人に5~6人が発症」ということ。このことは、入院前に調べたので、知っていたのだけど、テレビで、Dr.の言葉と共に画面下にテロップで出てくるのを見ると、改めて「そんなに少ない病気なんだ」と思ったのです。その後、主治医の先生が診察に来たので、聞いてみることにしました。「先生、本当に10万人に6人しかいないの?」「うーん、僕は白血病の患者さんを何人も見てるから、そんな気はしないけど、大体そんなもんじゃないかな。どうして?」「だって、私、白血病の人、2人も知ってるんですよ。だから、そんなに少ないなんて、信じられなくて。ちなみに、2人ともこの病院で亡くなっているし・・」と一言余計なことも言っておきました。「えーっ!そうなのー!?」 主治医の先生も驚いていました。実は、夫のいとこのお姑さんと、私の知人のご主人が、随分前になりますが、偶然にもこの病院で白血病で亡くなられていたのです。お二人とも高齢の方でした。「そうかぁ・・・ あっ、でもね、タヌタヌさんのタイプは、100万人に1人位だから。」と先生。「えーーーーっ!100万人?うそーーーーっ!?」 今度は私がびっくり・・・「治療しても半年で半数が亡くなります」と言われた時以来の衝撃・・そんなに少ないんだ・・・外泊中、ネットで検索したけど、出てこないはずだ・・・なんだかショックでした。その夜、こっそり親友に携帯からメールしました。「100万人に1人なんだって」と。すると、親友から「タヌちゃん、すご~い!次は宝くじだよ~!!」とメチャクチャ明るい返信。それまで凹んでたのに、そのメールを見て、「ププッ」と噴き出してしまいました。そっかぁ、次は宝くじかぁ♪100万人に1人の病気だろうが、100人に1人の病気だろうが、そんなこと関係ない。5年生存率が10%でも、90%でも関係ない。生きられるなら、そんなこと全然関係ない。私にとって、生きるか死ぬかは100か0。絶対生きて帰る!そして、退院したら、宝くじを買ってみよう♪
2006.02.21
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キロサイド大量療法2コース目。今回も絶対大丈夫と信じ、治療に臨みました。1コース目と同様、吐き気やだるさはありましたが、我慢できる程度のものだったし、熱も一日だけ39.7度まで上がりましたが、それも次の日には下がりました。「今回も楽勝!」と思っていたのですが、眼に少し異常がでてしまいました。キロサイド大量療法に結膜炎の副作用があるのはわかっていたので、治療前に目薬も点け、眼に関しては準備万端のはずだったのですが、白血球が100以下になったある日突然、眼がまぶしくなり、飛蚊症も起こりました。その為に、ビーズや刺繍はもちろん、DVDやテレビを見ることも、読書することも、手紙を書くことも出来なくなってしまいました。無菌室の窓から空を見ることが大好きだったのに、明るい所を見ると、眩しくて頭痛が起こるので、カーテンを閉め、部屋の電気を消し、何もやることもなく、ただただボーっと数日間を過ごしました。このまま、眼が治らなかったら・・と、心配しましたが、白血球が立ち上がってくると、眼の異常は徐々になくなってきました。(でも、この頃から軽い老眼症状がでて、いまだに治りません(T_T))他には、自覚症状はなかったのですが、血液データ上、肝臓の数値が悪くなってきたので、肝臓の薬が増えました。眼と肝臓に少々異常は出たものの、今回も先生が驚くほど順調に治療が終わり、「余裕、余裕!」とまたもや胸のうちでピースサインをだしたのでした。
2006.02.09
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キロサイド大量療法1コース目が無事終わり、「余裕、余裕!」と心の中でピースサインをしていた私。主治医に「そんなに簡単なものでない。でもタヌタヌさんは喜んでいていいですよ。」と冷たく言われ、ちょっとムッとしましたが、先生の言うとおり、素直に喜びました。だって、治療が終われば、お楽しみの外泊が待っているのですから♪外泊時の様子は こちら に書いてあります。外泊もあっという間に過ぎ、いよいよ大量療法2コース目です。治療前日に、外泊で外していた鎖骨下のIVHを再び挿入する処置を行いました。(*IVHとは抗がん剤や高カロリー輸液投与のために、首や鎖骨下の静脈から細長いカテーテルを挿入して、皮膚に縫い付けるものです)初めてIVHを入れた時は、なかなか入らず、2時間位かかり、先生も私も汗だくで、それはもう大変だったので、覚悟していましたが、今回は30分程ですんなり入りました。なにしろIVH挿入時に、肺に穴があいて気胸になってしまうこともまれにあると聞いているので、毎回ドキドキものの処置です。カテーテルの入っている部分を縫う段階になり、やっと一安心。ホッ・・話は変わりますが、私の主治医は、とても厳しくて病棟でも有名です。治療前の説明では、先生は、大きな声で厳しい口調で話すので、もうそれだけでビビりまくりなのに、内容も怖いから、涙もの・・研修医の先生や看護師さんたちともよく「また○○先生怒っていたね」とか「今日は先生、機嫌良さそうで良かったね」などと話し、先生ネタで毎日無菌室で盛り上がってしまうほど。決して、患者に甘いことは言わない先生でしたが、IVHを縫っているこの時、とっても嬉しい一言を言ってくれたのです。「ジンクスがあるんだよね。僕の患者さんで、この大量療法をやって今まで再発した人はいないんだ。だから、今回も・・」なんの根拠もない言葉だけれど、信頼している先生のその一言は、私にとって大きな希望につながりました。「今まで再発した人はいない」先生のこのジンクスは、私にとって、お守り代わりの言葉であり、今でも忘れられない言葉です。先生のジンクスは絶対破らない!絶対再発させないぞー!!(^_^)v
2006.02.09
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無菌室に移動し、1回目のAra-C(キロサイド)大量療法が始まりました。大量療法とは、通常の何十倍もの量の抗がん剤キロサイドを、一日4時間、5日間投与する治療で、これを3クール行います。私のタイプは、白血病の中でも、通常、移植しかないと言われる予後の悪いものでしたが、いろいろ考えた末、移植を受けず、この治療にかけていました。これまでの2回の化学療法よりもはるかに強力な治療ですが、その分、副作用も強くでます。なかでも、強い骨髄抑制による感染症が一番怖いと言われていたので、無菌室にいる間も、手洗いとイソジンでのうがいを一日に何度も行い、何かちょっとでも食べ物を口にするたびに歯磨きをし、低刺激の洗口液も使いました。自分で予防出来ることといったらこの位しかありませんでした。投与中は、吐き気や猛烈なだるさがあり、横になっていることが多かったのですが、それが治まると、ビーズや読書をしたり、DVDを見たり、友達に手紙を書いて過ごしていました。窓から空を何時間も眺めていた日もありました。白血球が100以下(通常4000~9000)になってからは、ひどい下痢とお尻の痛みと39度近くの熱が一度出たきり。大きな感染症もなく、先生も驚くほど順調なうちに1クールが終わりました。「余裕、余裕!」と喜んでいた私の胸のうちを主治医の先生は見破り、「今回は順調に行ったけど、白血病というのはそんな簡単な病気ではありません。副作用も普通ならこんなもんじゃない。我々はこれからも気を引き締めて、細心の注意をして診ていきます。」と厳しく言いました。「タヌタヌさんは、喜んでいていいですよ。」と付け足して・・
2006.02.06
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久しぶりに過去の日記です。(カテゴリ『過去の日記』に、これまでのことが書いてあります。)大泣きした翌日。看護師さんから報告を受けたのでしょう、主治医の先生は、午前中早くから、私のところに来ました。先生「どう、落ち着いた?」きっと先生や看護士さんは、私が無菌室が嫌で泣いたと思ったんだろうなぁ・・私 「大丈夫です。 もう引越しの用意も終わりましたから。」もうこの時は「やるしかない」という気持ちしかなく、無菌室への引越し準備も一人で手早く済ませていました。こうして、血液内科病棟一番奥の無菌室に移動となりました。私は移植するわけでないので、無菌室の中でも、準無菌室と言われる部屋でした。ビニールのカーテンで覆われた空気清浄機付きのベッド。(のちに、このベッドを「お姫様ベッド」と命名)カーテンで仕切られたトイレはセンサーで流れるようになっていました。(最初は「扉もないトイレがあるなんて・・」と思ったけれど、治療中はこの近さでも、トイレが遠く感じたこともありました)洗面の水道も殺菌される装置がついていて、これもセンサーで水が出ます。テレビはお金もかからず、自由に見られたし、大部屋に比べれば、荷物を入れる棚も十分な大きさ。それにオプション?で、電話もつけてもらいました。(これがまたとても高かったのだけど、電話は絶対必要ということで、つけました)自宅にあるDVDも、趣味のビーズ用品も持ち込み、準備万端!(フリーページにも少し書いてあるので、良かったらのぞいてみてください)嬉しかったのは、眺めは悪いけれど、大きな窓があり、空が見えたことです。個室の中には、窓が小さくて、その日の天気すらよくわからず、息が詰まりそうな部屋もあったので、開けられなくても、大きな窓があることは本当に嬉しいことでした。入室する人は、先生も看護師さんも家族も、イソジンでうがいをして、手を洗い、更に消毒液をつけ、マスクと白衣着用です。シャワーの時だけ、マスクをつけて、扉の向こうのお風呂に行くことが出来ました。こうして書くと、ちょっとしたホテルのようで、快適そうですが、音もなく、外の世界から遮断されたその空間は、私にはとても寂しく怖く感じました。
2006.02.05
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その日、主治医に「5時過ぎから説明します。」と言われていたのですが、6時になっても、先生は来ませんでした。「どんな怖いことを言われるんだろう」と、ドキドキしていた私は、夫と話すことも、テレビを見る余裕もなく、ベッドに座って、ボーっとして待っていました。すると、私の斜め前のベッドのIさんのもとにお見舞いの方が見えました。お見舞いに来た女性は、私がこの部屋に入る前に入院していた患者さんで、外来の帰りにIさんを訪ねてきたのです。何もすることなく、ボーっとしていた私の耳にも、Iさんとの会話が聞こえてきました。「Iさん、Aさんのこと、もう知っているよね?」「うん。」「私、この間、Aさんのお通夜に行ってきたのよ。」この会話を聞いて、私は、2週間位前のことを思い出しました。Aさんは、私がこの部屋に入った当初、私の前のベッドにいた患者さんでした。Aさんとは3日程、同じ部屋だったでしょうか。体が辛そうでAさんとはあまりお話することはできませんでしたが、明るく、意思の強そうな方でした。Aさんは移植のため、無菌室に移っていきました。「お先に、移植行ってきま~す」と笑顔で言って・・「あとで移植のこといろいろ教えてくださいね」私はそう言ってAさんを送りました。無菌室は病棟の一番奥の、厚い扉の向こう側。Aさんは、元気になって、あの扉から戻ってくると信じていました。でも、それからしばらく経ったある日の夜中、トイレに起きたとき、待合室にAさんのご家族がいるのを見ました。そして、その翌日、トイレの蓄尿器のネームプレートからAさんの名前が取り外されていました。それが何を意味するのか、私たちはわかっていました。「Aさんの名前なくなっていたね。」私たちは、そう言ったきり、Aさんの名前をだすことは2度とありませんでした。もし、それ以上、誰かが何かを口にすれば、私たちはその場で皆で泣き出してしまったでしょう。悲しかったし、悔しかったし、怖かった・・それぞれが、Aさんのことを想い、祈りました。Iさんとお見舞いの方の会話を耳にして、このときのことを思い出していました。Aさん、やっぱりあの日に亡くなられたんだ・・わかっていたことなのですが、「お通夜に行った」という話は、現実を突きつけられたようで、私にはとてもショックでした。その数分後、説明のため、先生に呼ばれました。先生から無菌室の話を聞いている間は、平静でいられたのですが、ベッドに戻った途端、無菌室に行くAさんのことを思い出し、大泣きしてしまいました。明日、あの厚い扉を開けて、無菌室に行くんだと思うと、今朝までの強気な気持ちはなくなっていました。その晩は、たくさん泣きました。
2006.01.19
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大量化学療法前日のこと。主治医に呼ばれ、夫と私は説明を受けました。一時外泊の前にも、先生からいろいろ説明は受けています。「今度はどんな怖いこと言われるんだろう・・」説明を受ける度に、「生存率」やら「リスク」やら、耳をふさぎたくなるような言葉や数字にビビりまくりの私は、この日の朝、先生に「ご主人にもお話ししたいので・・」と言われたときから、ずっとドキドキしていました。先生は、明日からの大量キロサイドの説明、副作用や感染症のこと等を一通り話すと「そういう訳なので、無菌室に移ってもらいます。」と言いました。「えーっ?」と私。それまで私は、無菌室は移植を受ける患者さんだけが入る部屋だと思っていました。大量とは言え、化学療法を選択した私は、今回もナースステーションの隣の個室に入るものだとばかり思っていたので、驚きました。私 「いやだなぁ。いつから無菌室に移るんですか?」先生「明日。」私 「うそ・・」はぁ、先生が夫にも話したかった説明というのは、これだったのか・・大部屋生活を満喫していた私に、「無菌室に行くように」と言っても、「いやだー」と叫ぶと思ったのでしょう。それで、夫をわざわざ呼んだのか・・・私 「いやです。」先生「だめ。」ということで、無菌室行き決定!病室の自分のベッドに戻ると、涙が溢れてきました。さっきまでは、あんなに強気でいられたのに・・それまで、不安だったり、悲しかったりして泣くときは、消灯後、布団を頭からかぶって、誰にも気づかれないように泣いていました。でも、この時は、涙を抑えることができませんでした。看護師さんは、私が無菌室に行きたくなくて泣いたと思ったようでした。たしかに、無菌室は行きたくなかったけれど・・私が泣いたのは、先生の説明の10分前の出来事が原因でした。
2006.01.19
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一時外泊を終え、いよいよ大量化学療法。でも、その前に、歯科と大腸肛門科を受診しました。大量化学療法は、抗がん剤キロサイドを致死量ほどの量を投与する超強力な治療のため、その分、様々な副作用も強く出ます。白血球の低い時期も長くなるため、その時期に重篤な感染症を起こさせないために、感染を予測できるものは、投与前にすべてクリアさせたいとのことでした。歯科で、生えてない親知らずを抜歯。「生えてないのになんでー?」と訴えましたが、歯科の先生の「感染の原因になることもある」の一言で、抜歯決定!歯茎を切開して抜いたので、数日間、頬が腫れ、泣きたいほどひどい顔に・・そして、大腸肛門科も受診。これまで白血球が低い時期は必ず炎症を起こし、お尻が痛くなっていたため、念のため診察。大腸肛門科の先生は、明るい感じの先生で、主治医からの紹介状を見て、「僕の奥さんと同じ年じゃない!かわいそうに・・。お子さんのためにも頑張らないと。」と言いました。私は「大丈夫です。絶対頑張ります。」と答えました。「自分のため、家族のため、お寺のために絶対頑張って、一日も早く退院する」一時外泊をして、更にその思いは強くなっていました。
2006.01.18
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*久しぶりに過去の日記です。 地固めが終わり、今後の治療法も決まり、念願だった一時外泊の許可がでました。入院してからちょうど2ヶ月経っていました。 看護師さんたちに「楽しんできてくださいね」と見送られ、夫の運転する車で家に帰りました。車の中では、久しぶりに家に戻れることに少々緊張しながらも、ずっとウキウキしていました。 2ヶ月ぶりの我が家は、やはり居心地のいいものでした。 2泊の間に、ずっと食べたかったケーキもお寿司も食べ、春休み中の子どもたちとずっと一緒にいることができました。 義父母も一時外泊を喜んでくれましたが、やはりこの2ヶ月、義母は大変だったのでしょう。とてもやつれていました。 結婚当初から同居し、トイレと洗濯以外はすべて一緒。いつの頃からか、家事もお寺の仕事も、義母と私でうまい具合に分担するようになっていました。主婦の家事もそうですが、お寺の奥さんの仕事は、毎日、こまごまとした仕事がたくさんあります。私が入院してからは、ご法事で忙しい土日やお彼岸は、義姉が手伝いに来てくれたようですが、それでも義母の仕事は多く、大変だったことと思います。 実は私の入院した1週間後に、義母はお友達と海外旅行に行く予定だったのですが、それもキャンセルし、ずっと続けていたお稽古事もすべて止めてしまっていました。 義母のやつれた顔を見て、本当に申し訳ない気持ちでいっぱいでした。 家事を一切したことのなかった夫も、自分たちの部屋の掃除や洗濯、アイロン掛け、子どもの学校関係のことはすべてやってくれていました。 仕事に、ほぼ毎日の面会、慣れない家事・・ 夫はこの頃5キロも体重が減っていました。義姉の次男の高校生の甥っ子は、休みの日に来ては、息子たちの遊び相手になったり、お寺の手伝いをやってくれました。実家の両親も毎日のように面会に来て、パジャマや下着等必要なものを買い揃えてくれたり、洗濯をしてくれたり、少しでも食べられるようにと、アイスや果物を買ってきてくれました。 私の入院で、家族みんなに心配を掛け、迷惑も掛けていることが改めてわかり、「一日も早く元気になって、育児も家事も仕事も頑張らなくちゃ!」と強く思いました。 病院の長い一日と違い、2泊の外泊はあっと言う間・・ 家族6人で食べる食事は、とても美味しかったし、リビングの古いソファの座り心地は最高、2ヶ月振りのお風呂はとても気持ちの良いものでした。 病院に戻る夜、「ママ、病院に戻るけど、いい子にしててね。」と笑顔で言うと、子どもたちは私と目を合わさず、「うん」と言って、テレビを見続けていました。本当にテレビが見たかったのか、それとも私を玄関まで送るのが辛かったのかわかりませんでしたが・・義父も同じく「頑張ってな」と言ったきり、私と目を合わせようとはしませんでした。玄関で義母に「子どものことよろしくお願いします」と言うと、義母は「頑張ってね」と言って涙ぐんでいました。夫の車に乗り込むと、私は我慢していた涙が止まりませんでした。
2006.01.17
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地固め療法を終えたあとのマルク(骨髄穿刺)の結果は、寛解でした。その夜、主治医の先生から、今後の治療方針についての説明を夫と二人で聞きました。治療法としては、骨髄バンクを介しての骨髄移植か、大量化学療法があるが、そのどちらかを決めるのは私自身だということでした。白血病にとって、最強の治療の骨髄移植。やはり移植を受けた方がいいのではないか・・・でも、化学療法でいけるなら・・・当初から「移植は怖いから嫌」と言ってましたが、私の心はここ数日、ずっと揺れていました。先生から移植、大量療法の説明を受け、M0についても説明がされたのですが、そこでショックを受けました。「タヌタヌさんは、今までとても順調に治療が進んでいます。でもM0は、予後不良因子で、治療しても半年で半数の人が亡くなります。再発率も高いです。」「えっ、先生、治療しなかったら、死んじゃうんでしょ?」と聞くと、「治療しなかったら、1~2ヶ月、治療しても半年で半数が亡くなる。」と、はっきり言われたのです。寛解になっているとはいえ、自分のタイプが、そんなに性質の悪いものだとは知らなかったので、本当にショックでした。もしかしたら、あと半年もしないうちに死んじゃうかもしれない・・白血病を告知されたとき以来のショックでした。先生は、今後の治療法については、セカンドオピニオンを受けるのもいいと思うと言いました。でも、移植の得意な施設(適切な言葉でないかもしれませんが)で、セカンドオピニオンを受ければ、M0ならば移植を勧められる可能性が高いと思うと、その時はセカンドオピニオンは考えられませんでした。「もし先生が患者なら、どちらを選びますか」と聞きました。先生は「僕なら」と言うと、しばらく考えこみましたが、「ここまで化学療法が効いているなら、大量療法を選ぶかもしれない。」と答えました。結局、私は大量化学療法を選びました。リスクの高さを考えると、やはり移植には踏み切れないということもありますが、一番の理由は、主治医の先生のもとを離れることが不安だったからです。その当時、私のいた病院では、非血縁者間骨髄移植を行っていなかったため、移植をするとなると、転院しなくてはいけなかったのです。私の主治医は、看護師さんや研修医の先生からも「厳しくて怖い先生」と有名で、患者本人にも何事もズバッと言うので、私も当初は、先生がとても怖かったのですが、治療を重ねていくうちに先生を信頼するようになっていました。ある研修医の先生は「○○先生は、上司としては、厳しいし、毎日辛いけど、もし、私の家族が病気になったら、ぜったい○○先生に診てほしいと思う。そのくらい、患者さんのことをよく診ている先生です」と言っていたほどの先生でした。私もこれまでの治療から「この先生の言うことを守っていれば、絶対大丈夫」と思うようになっていました。「私は化学療法だけでいく」という当初からの自分の勘も信じました。夫も私の意見を尊重してくれました。多少なりとも知識をつけた今、この時のことを思うと、セカンドオピニオンも受けず、積極的に調べもせず、自分の命に関わることを、なかば勘で決めてしまったことは無謀とも思えます。でも、あの時は、私なりに悩み、考え、決めたことだったので、不安はありましたが、後悔はありませんでした。
2005.12.29
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「楽勝!」だった地固めの期間は、大部屋だったこともあり、精神的にもかなり落ち着いて治療を受けることができました。寛解導入のときは、訳もわからず治療を受けていましたが、地固めでは、抗がん剤2度目ということで、「そろそろ白血球が下がる頃かな」とか「CRPが上がってきたから、熱がでるかしら」等とわかるようになっていました。入院当初は、朝起きると「夢じゃなかったんだ」とため息をつく日が続きましたが、この頃は、少しでも免疫力UPできればと、いつも笑っていようと心掛けていました。とは言え、急に不安になったり、無性に子どもに会いたくなって、夜中に涙を流したり、万一のときのことを考えて、遺書めいた手紙を書く日もありました。そんな頃、私の38歳の誕生日がありました。(フリーページでもこのことは少し書いてありますが・・)白血球の低い時期で、カーテンは閉めっぱなし、お彼岸中で忙しい夫は面会に来れず、「今年は一人ぼっちの誕生日だったな」と思っていたとき、看護師さんたちが、突然来て、歌とカードでプチ誕生会をしてくれたのです。手作りカードには、先生と看護師さんたちのメッセージがびっしりと書かれていました。主治医の先生は『こんな所で申し訳ありませんが、まずはお誕生日おめでとうございます。治療は順調すぎるほどに進んでいますので、自信を持ってやり遂げましょう!!』看護師長さんは『お誕生日おめでとうございます。「病気になったのが私で良かった」とおっしゃっていましたね。本当に良いご家族に囲まれて優しいお母さんなんだろうなと思いました。一日も早く退院の日を迎えられるようスタッフ一同応援しています。一人で頑張りすぎないでくださいね』他にも担当の先生たち、看護師さんたちから、沢山のメッセージ。とっても嬉しくて涙が出ました。特に主治医の先生の言葉はとってもとっても嬉しかった!そう・・大変な思いはしてきたけれど、治療自体は、寛解も1度で入り、先生も「順調すぎる」と言うほど、とても順調にきていたのです。先生も看護師さんも・・ 私には皆がついている!そう思うと、とても心強かったです。その一方で、入院当初からずっと不安に思っていることがありました。
2005.12.27
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*久しぶりに闘病中の過去の日記です。寛解に入り、大部屋に移ってまもなく「地固め療法」が始まりました。前回の治療で感染源となった親知らずは抜歯し、生理も薬で止めることに。今度の治療はいったいどんなことが起こるんだろう・・不安はありましたが、覚悟を決め、「ぜったい元気になって家に帰る!」と自分に強く言い聞かせ、治療に臨みました。カクテルのブルーハワイを思わせる真っ青な抗がん剤(ミトキサントロン、キロサイド)は、やはり吐き気や倦怠感がでて、急速に脱毛も進みました。このとき、個室が空いていなかったのか、それとも私が個室を拒否していたからなのか理由はわかりませんが、全治療を大部屋で行い、白血球の低い時期は、一日中ベッドの周りのカーテンを閉め、マスクをして、感染を予防しました。下痢やお尻の痛みはあったものの、心配していた重篤な感染を起こすこともなく、前回の苦しみから比べれば、「楽勝!」のうちに治療は終わりました。
2005.12.26
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半年間で、大量療法を含め、抗がん剤治療を5クール受けました。1クールが大体1ヶ月です。治療開始から、白血球等の数値が低い間は、感染予防の為、個室に入り、白血球が立ち上がって、感染の危険がなくなると、大部屋に移る。というパターンの繰り返しでした。「大部屋はプライバシーがなくてイヤ」と言う人も多いけれど、私には個室の孤独感に比べたら、大部屋はパラダイスそのものでした。その期間(個室の期間と言うより、血液のデータが良い期間)は、体調も良いし、加熱食も解除になる、子どもともいっぱい会え、抱きしめることもできる、売店や食堂にも行ける、病室の窓も開けられる。とにかく解放感を味わえる!!大部屋に入ると、たくさんの看護師さんとおしゃべりできるし、何より、病気と闘っている仲間が身近にいるのは、とても心強く、大部屋は私の元気の素でした。大部屋でたくさんの人に出会い、その中にはとても悲しい別れもありましたが、皆素敵な人ばかりでした。白血病、悪性リンパ腫、膠原病、心臓や循環器系の病気まで、病気もいろいろ、年代も20代から70代までバラバラ。でも、みんな必死に病気と闘った仲間です。病気のこと、家族のことから、結婚や恋愛のこと、テレビや病院食、先生のことまで・・本当にたくさんのことを話しました。ときには、皆で売店に買出しに行って病室でアイスを食べたり、病院食を拒否して、食堂にパフェやラーメンを食べに行っちゃったり。入院するまで、血液内科病棟のイメージはとても暗いものでしたが、私のいた部屋は、いつもインスタントコーヒーの香りを漂わせ、笑い声が絶ませんでした。個室にいたとき、看護師さんに「タヌタヌさんが、大部屋にいると私たち助かるんですよ。部屋の皆の雰囲気がいいんですよ。」と言ってくれたことがありました。いつもカーテン全開にして、一人で嬉しそうにしていたからだと思います。それほど、私は大部屋が合っていたんですよね。(ただの寂しがり屋で貧乏症とも言えるけど・・(~_~;))大部屋で一緒だった何人かとは、いまだにランチやお茶をしたり、メールをしたりしています。「友達」というより「仲間」「同志」という言葉がぴったりくる!病気にならなかったら、決して出会うことのなかった人たち。この縁をずっと大切にしたいと思っています。みんな、ありがとう♪
2005.12.20
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続き・・この時期一番辛かったことは、生理でした。抗がん剤を投与すると、悪い細胞だけでなく、良いものまですべてやっつけられてしまいます。その為、大体2週間位すると、白血球や血小板の数値がとても低くなり、感染や出血等の重大な合併症が出やすくなるのですが、私はこの時期に、運悪く生理になってしまいました。その日明け方、目を覚ますと、出血でベッドは血の海。一瞬、自分でもわけがわかりませんでした。その頃、血液内科病棟にやっと空きができ、重症患者用個室に引越して間もなかったので、まだよく知らない看護師さんに、明け方の人の手薄な時間にシーツ交換を頼むのは気が引けましたが、自分ではなにもできないので、仕方なく呼びました。看護師さんに謝り、着替えようと起き上がった瞬間、ものすごい寒気が急に襲ってきました。感染が起きたのです。寒くて寒くて仕方ない。歯がガチガチとなるほど、体が震え、着替えようにも震えが止まらず着替えられない。なんとか着替えを終え、電気毛布をもらい、寝ることにしましたが、今度は熱が急激に上がりだし40度になり、息をするのも辛い状態で、そのときは「このまま死んじゃったらどうしよう」と本気で心配したほどでした。その日から、出血は止まらず、鶏卵大の血の塊が何個もでてくることもありました。そのため、連日の輸血。尿の量も正しく計るために、管も入れられました。トイレはポータブルだったし、精神面でも最悪でした。そんな状態がしばらく続きましたが、白血球が立ち上がってくると、次第に体が楽になってきました。2月25日、マルクの結果、念願の寛解!!なにより嬉しかったのは、大部屋に移れたことでした。
2005.12.16
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寛解に向けて、抗がん剤による治療が始まりました。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・*「寛解」とは、抗がん剤によって、顕微鏡上で、骨髄から白血病細胞がなくなり、正常な血液細胞の造血が回復した状態をいいます。白血病では、まずこの寛解になることを第1目標とします。そして、寛解後もまだ目に見えない悪い細胞が体のなかに残っているので、これを更に抗がん剤で叩く「地固め」を行います。その患者さんのタイプや病状によって、回数やその後の維持療法のやり方は変わってきます。また、化学療法だけでは難しい場合は、白血病を根絶する為の最も有効な治療、造血幹細胞(骨髄や抹消血幹細胞やさいたい血等による移植)を行うことになります。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・実はこの頃のことは、記憶が前後していて、確かでないのですが、覚えていることを記したいと思います。抗がん剤は毒々しいオレンジ色をしていました。(イダマイシン、キロサイド)抗がん剤の副作用は聞いていましたが、やはりとても辛いものでした。吐き気、倦怠感、下痢、痔、高熱、歯茎の腫れ、口内炎、味覚障害・・どれも強烈なものでした。抗生剤のアレルギーで、全身がかゆくなり、体中に紫斑と紅斑もできました。またカリウム低下により、腕に激痛が走ったことも。カリウム低下は心臓等にも影響するので、カリウムの原液も飲みました。他にも原因不明の腹痛、肺に水がたまる・・等、よくもこんなにいろいろなことが起こるものだと思うほど、次から次へと異常がでて、検査も続きましたが、ただただ耐えるしかありませんでした。夜、9階の病室の窓から下を見て、家族皆に迷惑を掛けている自分を責め、一瞬ではありますが「病気を苦にして、こういうところから飛び降りる人の気持ちがわかるなぁ」と馬鹿なことを思ったこともありました。その頃は、子どもにも会えず、精神的にも参っていたのです。その一方で、「病気になったのが、家族の誰でもなく、私で良かった。私が我慢すればいいだけなのだから」とも思っていました。 続く・・
2005.12.16
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入院2日目、私は、夫、私の両親、弟とともに、主治医の先生から、病気のこと、今後の治療方針についての説明を受けました。当初私は急性リンパ性白血病の疑いだったのだそうですが、マルクの結果、急性骨髄性白血病のなかのM0(最未分化型急性骨髄性白血病)ということがわかりました。*白血病には「急性骨髄性白血病」「急性リンパ性白血病」「慢性骨髄性白血病」「慢性リンパ性白血病」の4つのタイプがあり、さらにFAB分類等で細かくわかれるのです。急性骨髄性白血病は、M0~M7まであり、この種類によって、同じ白血病でも、治療法や予後が違います。この2ヶ月後に、M0は急性骨髄性白血病の中でも発症数も少なく、予後(完治するかどうかの見通し)のとても悪いもので、通常骨髄移植を考慮するタイプだと知りました。(このことに関してはまたのちほど書きます。)広い会議室の張り詰めた空気のなか、主治医の先生の厳しく大きな声と、研修医の先生のペンを走らせる音だけが聞こえました。「造血幹細胞」「寛解」「地固め」・・・聞きなれない言葉が次から次へと出てくるなか、私は他人事のように上の空で聞いていました。まだ現実を受け入れられずにいました。難しい話のあとに「最後になにか質問はありますか」と言われ、答えはわかっているのに「髪の毛抜けるんですか?」となんとも間抜けな質問をしました。生きるか死ぬかというときに、脱毛のことなんて、バカみたい・・自分でもそう思っていましたが、白血病に関して、あまりに無知だったので、何を聞けばいいのかがわからなかったのです。それに、やつれた表情の母の前で「生存率は?」などと聞くことはできませんでした。先生の答えは想像通り「すべて抜ける」でした。「子どもたち、私の髪が抜けたらびっくりするだろうな。あらかじめ言っておかないと・・なんて言えばいいんだろう」そんな心配をして、その夜もずっと眠れずにいました。
2005.12.15
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入院当日、子どもたちに「ママも頑張るから、あなたたちも頑張っていい子でいてね」と何度も言って、学校へ送りだしました。ついていたテレビの「今日の運勢」をふと見ると、私の星座は、愛情、金銭、健康運すべて最悪。 (T_T)義父母に「子どもたちをよろしく頼みます」とだけ言い、夫とともに大学病院に向かいました。本当は、義父母には、きちんと話をしたかったのですが、私も義父母もそれ以上話したら、ボロボロに泣き崩れてしまうのがわかっていたので、お互い目を合わせることさえできませんでした。大学病院に着くと、採血をし、2時間近く待って教授の診察を受け、正式に入院が決まりました。でも、ここでショックなことが・・空いている部屋は1泊4万2千円の個室しかなかったのです。 「4万2千円!?」かかりつけの先生から「最低でも4ヶ月以上の入院」と聞いています。10日で42万、100日で420万、プラス治療費。と、とっさに計算・・退院まで、いったい何百万かかるんだろう・・もしかして一千万くらいかかっちゃうの・・目の前にいるのは教授なのに「そんなの無理です」と思わず言ってしまいました。病気のことよりも、あまりの高額な入院費で、頭はいっぱいに・・・結局、4万2千円の部屋は10日間位、その次に3万7千円の部屋に1週間位いたのですが、その後、血液内科病棟の部屋が空き、念願の無料の部屋に移ることができました(^_^)vその頃テレビも雑誌も、季節柄、温泉特集が多く、「露天風呂付き客室、カニ食べ放題で1泊○万円」なんていうのを見ると、4万2千円や3万7千円の部屋を見回しては、ため息がでてしまいました・・(>_
2005.12.14
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かかりつけのお医者さまは、大学病院の血液内科の教授に電話し終わると、「かなり辛い治療になるけど、頑張るんだよ」と励ましてくれました。私は、最後にひとつ質問しました。「髪の毛、抜けちゃうんですよね。これから美容院に行って短くカットしたいんですけど、行ってもいいですか?」先生は、私のことを気遣ってか、脱毛のことには触れず「しばらく髪の毛が洗えないと思うから、切ったほうがいいかもしれないね。」と言いました。99%は白血病と覚悟していたのですが、残りの1%は「もしかしたら間違いかも」というかすかな望みがあったので、病院からの帰り、夫が運転する車の中で、私はずっと泣いていました。「白血病の疑い」と言われてから4日間、子どもがいないときは、恐怖と不安でずっと泣き通しでした。でも泣いてばかりじゃいけない。気を確かに持って、しっかりしないと・・自宅に帰ってから、そう自分に言い聞かせて、すぐに入院準備をし、美容院に行き、髪をばっさり切りました。そして、そのまま自転車でスーパーに行き、入院用のパジャマを買いました。『明るい色は体を健康にする』と何かの本で読んだのを思い出し、普段は着ないようなピンクのパジャマを選びながら、「ちょっと疲れるけど、自転車にも乗れるし、買い物もいつも通りにできるじゃない。こんなに元気なのに、私、本当に白血病なの?」と自分でもまだ信じられずにいました。スーパーからの帰り道、息子たちの通う小学校に寄り、たまたま次男の1年生のクラスの灯りが点いていたので、教室に行き、担任の先生に、「急に入院することになったので、不手際も多くなるかもしれませんがよろしくお願いします。」と頼みました。自宅に着いたときは、もう外は真っ暗でした。携帯も持たず、帰りの遅い私を心配して夫は、美容院に電話までしたそうです。もうずっと食欲はなかったけれど、家族で義母の作ってくれた夕食をとりました。子どもと義父母の前では、ぜったい涙を見せないと決めていたので、極力笑っていつものように過ごしたつもりです。その夜、子どもが寝てから、トイレの掃除をして、年賀状の整理を行いました。年賀状を小学校、中学、高校、短大、就職後の友達にわけ、付箋を貼り、夫に「私に万が一のことがあったら、この付箋のついている人に連絡してね。お葬式に友達が一人も来ないなんて寂しいから、忘れないでね。」と頼みました。そして「大丈夫、大丈夫」と何度も言う夫の隣で、一晩中また泣き続けました。
2005.12.13
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その日は、とても寒く、体もだるかったこともあり、お腹にカイロを貼り、ホットカーペットの上でゴロゴロしていました。お風呂に入っても、体が温まった気がせず、寒くて仕方なかったので、熱を計ったところ39.2度。次の日、内科を受診すると、先生は「インフルエンザかな。ハイ、口を開けて」と言い、私の口を診た途端「この間より歯茎が随分腫れている。すぐに血液検査をしよう」と言い、採血しました。帰宅してからも、不安でいっぱいで、家にある古い医学辞典をだし『口内炎』を調べました。そこには、いくつかの病名が載っていました。そのなかに『白血病』と言う文字も・・「まさか・・」そう思っていても「白血病だったらどうしよう。」「もし、大きな病気だったら、ドラマみたいに病院から電話がかかってくるはず。」「でもかかってくるはずない。」「私が白血病のはずない。」といろいろなことを思い、なかなか眠れませんでした。翌日9時、電話の音で目を覚ましました。病院からでした。夫とともに病院に行くと、すでに待合には何人かの患者さんが待っていましたが、すぐに診察室に通されました。いつも穏やかな先生の顔がとても厳しく「入院しなくてはいけない病気かもしれないんだ。」と言いました。「先生、病名は?」と私が聞くと、先生はカルテに文字を書いたまま、なにも言いませんでした。私は「もしかして、白血病?」と聞くと、先生は頷きました。頭のなかは真っ白になりました。私と子どもがお世話になっているこの先生は、実は血液内科が専門の先生で、週に2度大学病院でも診察しています。そして、翌週その先生の大学病院に行き、胸骨や腸骨から骨髄液を取るマルク(骨髄穿刺)という検査を行いました。骨に注射をするので、とても痛い検査なのですが、その時はとても緊張していて、痛みもそれほど強く感じなかったような気がします。検査を終え、大学病院を出てすぐに実家に電話をかけました。それまで父や母に心配をかけたくなくて、ずっと黙っていました。「お母さん、私ね、入院することになったんだ。白血病だって。でもぜったい大丈夫だから、心配しなくていいからね。大丈夫だからね。」ぜったい泣かないと決めていたのに、涙がこぼれて止まりませんでした。母も「大丈夫よ、大丈夫よ。」と言いながら泣いていました。翌日、夫とともに病院に行きました。先生は「残念な結果だったよ。すぐに入院しなくてはいけないんだ。あなたは子どもがまだ小さいんだから、ぜったい帰ってこなくてはいけない。だから、良い病院を紹介するから」と言って、私の目の前で、ある大学病院の血液内科の教授に電話してくれました。「あなたはぜったい帰ってこなくてはいけない」その言葉は「あなたは死ぬかもしれない」と言っているように聞こえました。
2005.12.09
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2003年の年末、伊勢海老を調理していた際に、指に何箇所か小さな切り傷を作ってしまいました。伊勢海老は、義父の知人が毎年送ってくださるのですが、いつも調理するたびに指を切ってしまうので、その時は気にもしなかったのですが、いつもならすぐに治るはずの傷が、化膿で指が腫れ、ちょっと触るだけでも激痛が!数日経っても、治る様子もなく、顔の吹き出物も気になっていたので、重い腰をあげ、近所の皮膚科に行くことにしました。先生は、私の傷を診て「どうして、こんなに治りが悪いのかなー」と言い、塗り薬と抗生剤をだしてくれました。これが12月28日のことです。我が家は、仕事の関係で、年末年始はとても忙しいので(仕事の話は、またのちほど書きます)、「これでもう治る。仕事頑張らなくっちゃ!」と安心してました。お正月になり、指の傷も顔の吹き出物も徐々にではありますが、治ってきました。でも、今度は歯茎が腫れてきたのです。それから、恥ずかしいのですが、お尻も痛くなってきました。でも、のんびり休んでいる暇などないので、仕事も例年通りこなしました。新年すぐに皮膚科に行きましたが、歯茎の腫れは抗生剤の副作用かもということで様子をみることに。でも、数日経っても、やはり治らなかったので、歯科と内科を受診しました。内科ではたしか違う抗生剤をだしてもらったような気がします。「今度こそ治る」と思っていたのですが、その2日後・・
2005.12.09
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急性白血病は、治療しないで放置したままだと、発病して1ヶ月~数ヶ月で、亡くなります。私が病院を訪れたのは、発病して2~3週間経った頃だったようです。でも、入院する5ヶ月前から、体に異変は起きていました。2003年の夏頃から、口内炎に悩まされるようになりました。普通、口内炎ができても、数日経てば自然と治るものなのに、ビタミン類を飲んだり、市販の薬を塗ったりしても、なかなか治らず、やっと治ったと思うと、次の日には、違うところにまた大きなものができる・・・その繰り返しで、それは入院するまで続きました。秋になると、風邪でもないのに、喉が痛み、咳が出始めました。その痛みはそれまで経験したことのない強烈な痛みで、咳は、出始めると吐き気を催すほど長時間続き、夜も眠れず、リビングのソファで座ってウトウトする日が続きました。内科、耳鼻科にも行きましたが、薬を処方されるだけでした。喉や咳は1ヶ月程で徐々に治まってきましたが、12月になると、今度は、顔中、大きな吹き出物がたくさんでき始めました。あまりに恥ずかしかったので、大きなマスクで顔を隠すほど。こんなにいろいろ症状がでていたのに、その頃はストレスや年齢のせいと思い込み、暮れで慌ただしかったこともあり、「年が明けても治らなかったら、皮膚科と内科に行こう」くらいにしか考えていませんでした。「なんかおかしい」と感じながらも、「自分だけは大丈夫」と過信していたのです。いえ、本当は怖かったのだと思います。
2005.12.09
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