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何気ない立ち居振る舞いの中に美しさを感じさせるのが日本の美であると思うが、最近は大胆に見せることに美的価値観をもっている方が多いが、何気ない、さりげない美しさというものは何故か後から思い出されるものである。さて「江戸しぐさ」の本の中から江戸しぐさを拾ってみることにする、『小雨降る浅草寺あたりを歩いていると、たまに芸者さんに遭遇することがあります。さすがに蛇の目傘はさしておらず、普通の傘をさしていますがどことなくサマになっている。参拝客の多い境内では傘をさして歩くのは難儀です。人とぶつかりそうになる。そんなとき何気ない「傘かしげ」を芸者さんに見ることができます。「傘かしげ」とは、雨の日に人と人がようやくすれ違えるような狭い路地を歩いていて向こうから同じように人が来た時に、すれ違いざまにお互いの傘を外側に傾け、まるで申し合わせたかのようにぶつからずにすれ違うしぐさです。絶妙のタイミングで傾けるのでお互い雨にぬれることもありません。粋でしょう?腰浮かしというのもあります。江戸時代の渡し舟(多分矢切の渡し)は大変混雑した。狭い船ですから人を押しのけ船の奥のほうに行くことはできません。船ですから立っているのも危険。そこで、座っている人は順番に腰を浮かし拳一個分つめてなんとか一人分の席を空け、譲り合ったのです。下町の路地は本当に狭い。雨の日でなくても向こうから人が来るとすれ違えないところもあります。そういうときは出る人を待ってから、路地に入ったものです。やっとすれ違えるところでは、すれ違いざまに肩を引きますね。肩ひき、腰うかし、傘かしげ・・・これらは「江戸しぐさ」と呼ばれ、江戸町民のマナー、つまりお互いが社会生活をおくる上での知恵でありルールでもあったのです。現代社会では歩く時もいろいろなことを考え、あるいはぼんやり歩くことも多いですが、少し江戸庶民を見習って粋に振舞いたいものです。』情景が目に浮かぶようである。
2007.11.15
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越川先生のお年を感じさせない(失礼・・)お話の中で特に印象に残った江戸っ子の条件を挙げる。1.目の前の人を仏の化身と思える(相手をかけがえの無いものとしてつきあえる) 2.時泥棒をしない(断りなく相手の時間を奪うのは、弁済不能の十両の重罪) 3.肩書きを気にしない(三脱の教え)4.遊び心をもっている(知恵比べ、腕比べを好む)明治維新前夜、日本人のしぐさをみてその礼儀正しさに欧米人がびっくりしたという話があるが頭だけの詰め込み教育ではなく、このような「しぐさ」を自然に身につける教育を心がける必要があろう。
2007.10.30
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最近、本屋で「江戸しぐさ」という本を見つけて読んだ。何かお作法の本かと思ったら、子どもの教育(躾)に良い内容である。「江戸しぐさ」のすばらしいところは、考えを「さりげない」「しぐさ」に変えることだ。「さりげない」行動は何ともいえない奥ゆかしさを感じさせるものである。日本の美の特徴はなんともいえない「奥ゆかしさ」である。西洋的美と違い相手に時間性をもって悟らせる働きがある。日本の商売の原点は商人とお客様との「おつきあい」にある。その長い「おつきあい」の中で培われてきたお客様に対するマナーが「江戸しぐさ」の中にあるようである。最近企業の新人研修を担当している人からよく聞く話であるが、年々新人さんたちのマナーの悪さが目につくようである。これは本来は家庭においてしなければいけない躾の部類に入るのであろうが、文句を言っても仕方がないので、まずは会社の上司の方々が自ら身をもって新人さんたちに見せるしかないないと思う。そのような姿勢のない会社は、どんな優秀なコンサルタントが入っても業績を伸ばし続けることは不可能なことである。
2007.10.26
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久々のブログである。忙しかったと弁明するわけではないが、やはり忙しかったと言わせていただきたい・・・・・。今日は陽明学について一言陽明学が幕末を演出した大きなバックボーンであったことは以前にも述べていたが、これは王陽明みずからが模範を示し、現実の苦難や困難を克服することでその心を鍛え上げ、その思想を形にしていったのである。他人との関わり合いである社会生活の中での困難苦難を克服するという努力や工夫の中で、心が鍛え上げられるという、現実世界に密着した現世重視の実践的教えなのである。宗教の陥りやすい世界として、山にこもって修行をするということも一時は必要なのだと思うが、仏教も言っているように俗世間を無視しての心の訓練はさほど期待するほどの効果が得られないのも事実である。一人で俗世間の煩わしさを避けて修行する、という考え方には「宗教的生と世俗的な生」「私とあなた」「心と体」というように世界を二つに分けて生活の全てにおいて比較し、分析的に判断してしまい、この考えが高じてしまうと利己主義、功利主義に陥ってしまう。このような状態では絶え間ない不安と葛藤を生み出し、心を歪ませ孤立化を招く恐れがある。その歪みは時として様々な破壊的な活動さえ生みかねない。このようなときにこそ、すべてに起こる様を意味あるものと捉え、解決すべく前向きに努力すべきであり、この時にこそが「良知(良心)」を知るべき絶好のチャンスなのである。
2007.10.05
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残暑の夏が甲子園と共に終わり、涼しい風が吹きヒグラシが鳴き始める・・・・今年は普通の高校生「佐賀北高校」が甲子園で初優勝した・・・。という見出しで始まるはずが何故か今年は暑~~い普通・・という見出しはいくらなんでも彼らにとって失礼であろうと思うが、見ているものに何かを感じさせる高校生であったことには間違いない。久々のブログは王陽明が言った「心の本体が明らかになれば、おのずと道も明らかになる」を題材にブログしていきたい。我々は自分の行くべき道を見出だしていく時、様々な書物を読みその中にヒントや具体的な道を見出していく場合が多いのであるが、中にはたくさん本を読むだけで何ら実についていない場合も多い。「伝習録」の中ではこの問いに対してどのような答えを提示しているのであろうか。それはこのような文章からそのヒントが伺える。『本の意味を明瞭に理解することはできても、一生涯それらを自分のものとすることはあり得ません。真の学問をする場合、頭だけではなく必ず心と体を通じて修養しなければならないのです。理解し得ないこと、実行できないことがあっても、必ず自分の心で体認するよう努めるなら、やがて詳しく知りぬくことができるのです。要は「四書五経」も、この心の本体を説いたものに過ぎません。この心の本体は「道心」なのです。ですから、心の本体が明らかになれば、おのずと道も明らかになるのです』ここで『四書五経』はキリスト教では聖書、仏教では法華経などと同じ役割と考えてもいいと思うが、やはり人生の目的を知るためには「心の本体」を知ることが大切なのである。夏の甲子園を制した佐賀北高の子供達のこころに去来するものは何であろうか。私のこころに去来したものは「これからの未来のりっぱな指導者は意外と普通の中に潜んでいるのかもしれない」ということである。
2007.08.25
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しばらくぶりにブログに筆?を入れます。日曜で参議員選挙が終わり、予想通り自民党が惨敗してしまいました。私は安倍さんの「美しい国日本」を応援しているんですが、今回は安倍さんにとってすべてが逆風になったようです。今年の干支のごとく積もり積もったエネルギー(亥)が流れる場所を探して彷徨していたようですが、安倍さんはそのエネルギーをうまくお使いになれなかったようです。前首相の小泉さんはその辺は非常に氣をお使いになるのがうまかったようですが、今後の安倍さんの日本丸の舵取りに期待するものです。
2007.08.02
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聖徳太子に流れる根底の思想は「和の心」。その心は「古事記」の中に書かれてある幽玄なときを得て、目に見えない神を自然の中に見出してきた日本人の伝統的な心に起因するものと思われる。この「和の心」は得てして、儒教的なものに解釈されやすいが、儒教で言わんとしている「和」とは趣が違う。もともと日本人の中に育ってきた「大和の心」と解釈していいのかもしれない。また「維摩経義疏」のなかで「心」ということでこう述べている。「心は万徳の元本なり。今の心が浄(よ)ければ、すなわち一切の功徳を生じ、なんぞ不浄なる事を得ん」「直心(じきしん)はすなわちこれ万行のはじめなり」これをみても儒教では「孝」が万徳の元本と唱えていたのに対し、聖徳太子は「心」が万徳の元本と説いていることからも中国と日本の違いがわかる。ここで政治的に見るならば、太子が作成した「冠位十二階の制」「十七条の憲法」が国家的自立を助け、大陸にある王朝を頂点とする中華秩序体制からの離脱と、他国に従属しない主体性のある国家作りをするのに十二分な働きをしたのは言うまでもない。やはり聖徳太子は日本におけるヒーローなのである。
2007.07.13
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最近多数の友人達からすばらしいメールを頂いた。本当に感謝である。この年になってと思うが人間いくつになってもロマンが必要であると思う。「神の目」という7つの願い事をかなえると言うものらしい。3000年に一度しか見られないというものらしい。今日はブログを見てくださる方に「きのうのあした」からのプレゼントです。みなさんもぜひこの「神の目」を見て7つの願い事をかなえてください。そしてこの写真を幸せになってもらいたい人に送ってください。
2007.07.09
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いわずとも知れた聖徳太子は仏教を日本に広めた第一人者である。その後太子の影響の下、最澄・空海・法然・親鸞・道元・日蓮・一遍と多くの仏教の教祖が現れたのも太子の残したものの大きさを物語っている。太子が著した「三経義疏(法華・勝曼・維摩)」は日本独自の仏教文明を開花させるのに大きな役割を担った。太子の仏教観は、出家して「聖」に入るのではなく、「俗」にあってその理想を実現することなのである。「三経義疏流」に流れている太子の思想はいかに仏教の精神を日常の生活に活かすということである。けっして特別な空間を作ってそこで修行をしろ、というものではない。ここで太子の思想の一端を紹介する。「汝は「仏はわが師である」と考えているけれども、仏は空であり、異教徒も空であるから、ともに一相であって、二つは別のものではない。ゆえに異教徒もまた汝の師である。もしも異教徒が汝の師ではないのならば、すべては空であって二つのものの対立がないということわりのゆえに、仏もまた汝の師ではないということになるのである。」この考えこそ日本の仏教の基本になったといえよう。やはり聖徳太子は仏教界のスーパーヒーローである。
2007.07.06
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聖徳太子にまつわるエピソードは数限りない。日本人にとって聖徳太子は日本のこころの象徴なのである。ここで聖徳太子伝説?と呼ばれているものを列挙しておく。 聖徳太子にまつわるエピソードは様々であるが、その中でも聖徳太子の生い立ちなどキリスト教におけるイエス伝と酷似している内容があると指摘する人がいる。その真偽は別として言われている内容を列挙してみる。またイエス伝と聖徳太子の伝説の相似点としては、当時渡来系の貴族として有名な秦氏の影響が大きいと言われている。・聖徳徳太子の母である穴穂部間人(あなほべのはしひと)皇女の夢に「救世観音」が現れ、太子の誕生を予告した。「うまやどの皇子」⇒聖書ルカ伝におけるイエスの誕生秘話・「工匠の祖」とされている⇒大工の息子イエス・聖徳太子が死んで往生したという「天寿国」、この有様を描いた「天寿国繍帳」 ⇒仏教では考えられない、天国の概念が入っている。キリスト教的天国の有様弥勒信仰と聖徳太子弥勒半跏思惟像(はんかししい):世の有様を憂い、解脱の境地を求めて瞑想にふける若き釈迦の姿を現している。⇒太子思惟像ともいわれている。*ここで弥勒とは第二の釈迦となることを約束された弥勒菩薩がやがてこの世に下生して仏教の真髄を説き、釈迦亡き後に衆生を救済する方。の意味であるやはり聖徳太子は日本人にとってヒーローなのかもしれない。
2007.07.05
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昨年から聖徳太子に非常に興味が湧いている。今日仕事先でまだ若いOLさんと話していると「先月、私奈良の法隆寺に一人で行ってきたんです。本当にそれから聖徳太子の本を読んでいるんですが、今太子のファンなんです。聖徳太子は本当にいたかどうか?きのうのあしたさんはどう思われますか・・」まさか20代半ばの娘さんから聖徳太子の話を聞くとは思わなかった。ジャニーズ系でもあるまいし・・最近不思議な人によく会う・・・。私は太子に対してはひとかどならぬ思いがある。なぜならば、個人の成長の事から国の法律までみごとに「和」に貫かれた思想があるし、かれの著した憲法や仏教の翻訳書はまさしく美しい芸術品のようであるからである。今日は夜遅いので前置きだけにして、次回からは聖徳太子に対して私が思うところを述べていくとする。
2007.06.28
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不思議に思うことがあるが、自分個人としては行動は慎重なほうであるが意外と湧きいづる思いの中で行動したほうが、いいことがある。「人は胸中に各々箇の聖人あり。只だ自ら信じ及ばず。すべて自ら埋倒す」と王陽明は言っている。これは自分の中には聖人がいるが、それを自分で信じることが出来ずいつの間にか曇らせているということであるが、この聖人とは陽明がいう「良知(良心)」ということである。同じようにシュタイナーもどんな人間の中にも感覚世界を超えてより高次元の世界にまで認識を広げることが出来る能力がある、と言っている。東西の世界問わず自分の内なる世界の声に従え、ということであろうか。真に自分が人間らしく生きるためには内なる自分(高次元の自分)を目覚めさせなければいけないと言うことであろう。そのような自分を目指していると不思議と出会う人が違ってくる。
2007.06.26
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最近仕事の関係でいろんな人に会うが、雑談の際に霊的体験があるんです、という話が飛び出してくる。テレビの影響であろうか?私もそのような体験は今までにあるにはあるが、あまり関心はない。その理由の一つに霊的特性を傘にして(実際はそのような経験はないのかもしれないが・・)人の弱みに付け込む人がいるということがある。スピリッチュアル時代という言葉が独り歩きしているが、それは単に見えない世界(霊界というのであろうか)のことを示しているのではなく嘘偽りのない純粋な心の世界への回帰を意味しているように思う。本物の自分が「自分らしく」生きていく世界こそ私たちが望んでいる世界だと思うからである。今は「水の時代」とよく聞く話であるが「上善なるは水のごとく」まさしく水に学びたいものである。
2007.06.24
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「人の欠点を指摘するより、その長所を励ませ」私が座右の銘にしているものの一つである。今日は仕事が終わり仲間と話す中でどうしても上司の悪口が出てくるのであるが、上のようなものを座右の銘にしている私がいつの間にかその悪口の会に加わっているではないか。この座右の銘は陽明学者としても有名な西郷隆盛がよく揮毫していたものであるが、これは陳龍川と言う人の「自分の欲望を限りなく満たしていくほど、禍になることはない。悪というのは、人の欠点を非難すること、悪口をいうことほど良くないことはない」という言葉の中のものである。なるほどあの西郷のかもし出す雰囲気はまさしくこの言葉を実践している結果であろう。彼の最後に際しても色々言いたい事は山ほどあったのであろうが、天に対する思いが深く彼の中には友(大久保利通たち)を許す心が自然と湧き出でたのであろう。私も心して実践したいものである。
2007.06.19
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昨日も英会話最大大手のノバがテレビのニュースを賑わしていた。あのうさぎのコミカルなCMは見るものにその気にさせる力がある。そういえば可愛いチワワのクーちゃんを使ったあの消費者金融のCMも同じものである。コムスンにしてもそうであるが、トップに行ったものは必ず驕りが出てくるのであろうか。傲(おごり)とは仏教では増上慢のことであり、増上慢とは自分の徳や果報を自慢することで、とくに真実のさとりを開いていないのに生半可に理解した境地を、悟りを得たと慢心をおこすことであるが、人間何時しかその行いの中に謙虚さを忘れ、自分を忘れてしまい本来の自分とはかけ離れてしまうものなのであろうか。ま~傲慢になるほど地位も名誉も金もないので自然体で謙虚であるということなのだろう。神は平等である。
2007.06.14
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先週休みの日に「日本誕生」というDVDを借りてきて見た。三船敏朗がヤマトタケルノミコトの役で出ているのであるが今の映画と違い特殊効果など殆どなく実にシンプルな作りのものであるが、意外と味わいがあった。三船敏朗も若いというか、今の人にとってははお嬢さんの三船美佳の方が知っていると思うのであるが若い三船敏朗をみるとさすが親子良く似ているな、と思う。古事記、日本書紀をモチーフにした映画である。以前はそれほど関心もなかった古史古伝であるが、日本人としてのDNAであろうか昨年よりかなりの数のその手の本を読んでいる。どこの国でも自分の歴史に誇りを持たない国民はないと思うのであるが、中国や韓国の口車に乗せられて、自国の歴史に対して嫌悪感をもつ風潮を作ってしまった現在の日本の教育界の現状を思うと憂うばかりである。虹は遠くから眺めるが故に美しく、人を感動させるものがある。我々も古より伝わる日本の伝統文化や当時の人々の生き様に触れることを通して忘れ去ったふるさとの「こころ」を取り戻すべきであろう。
2007.06.12
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今年の大河ドラマは「風林火山」である。戦国時代に武田信玄の軍師として名をはせた山本勘助が主人公である。私も毎週かかさず見ている。なかなかのものである。歴史に出てくる山本勘助と眼帯の位置が違うのが気にかかるが・・・・。兎角今の世の中の企業・組織においてナンバー2の存在は発展の大事な要といえる。なぜ今年の大河ドラマで軍師的存在が使われているのか?私的に解釈すると日本の社会構造がトップというよりもナンバー2的存在(政治家ではなく官僚)に支えられてきた社会であるので、今このとき日本が生みかえられる要は官僚(いわば公務員)の皆さんの奮起にかかっていることを暗に示していると解釈している(自分勝手に・・・)来年の大河ドラマは「天地人」だそうである。「天の時、人の和、地の利」成功の三要素として孟子が語った言葉である。来年への日本の未来の希望を込めて、この大河ドラマも期待したいものである。
2007.06.08
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仕事が終わり、ちょっと一息しているところに息子から「お父さん、北原白秋の詩知っている?」という質問が来た。はるか昔覚えていたような気がするが?と思っていると「赤い小太刀をかつぎつつ、 JOHNはしくしく泣いていく。 水天宮のお祭りが、なぜにこんなにかなしかろ。 ・・・・・・・・・ 行儀正しく、人なみに 神輿のあとに従へば、 金の小鳥のヒラヒラが、 なぜかこころをそそのかす」 とそらんじていた。 すると、すかさず上のお姉ちゃんは私の方がもっと昔のを覚えているわよ、とばかりに小倉 百人一首の歌 「春すぎて 夏来きにけらし 白妙への 衣もほすてふ 天の香具山」 をそらんじていた。 子供達がそのような詩を覚えるような年齢になったのか、という親としてなんともうれしい 思いと共に時代は変わっても歌い継がれてきた詩は何故か心を潤すものがある、と改めて感 じたものである。
2007.06.01
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最近とみに古典に触れる機会が多い。何千年もの月日の中で多くの人たちの心を捉えて離さなかった物だけに、読めば読むほど味わいがある。本来ならば学校教育においてもっと読んで欲しいものである。さて最近読んでいる「伝習録」のなかに「心の本体が明らかになれば、おのずと道も明らかになる。」という内容があった。王陽明は「心即理」すなわち心は天理であり、心の中に天理があるということを言っている。逆境やつらいことがあっても、それから逃げないで勇気を持って立ち向かった時に、すなわち心が鍛えられる環境の中に入った時に、真の幸福と言うものの意味を自分自身が悟ると言うことである。それはまさしく心と体が一つになっている境地と言える。本当の指導者というのは苦境の中で自己を磨き、自分が掴み取った徳によって多くの人を指導できる人であるべきであろう。昔からいわれている「修己治人」とは、まさしくこのことであり、その人はまさしく多くの人の心を理解できる人であるが故に「真の指導者」といえよう。
2007.05.26
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最近知り合いの方が、新しく家を建てたんだけど風水でどうなのか看てくれという依頼があった。最近はしばらく風水に接してなかったせいか、久々にだして使う羅盤もなぜか新鮮に感じた。風水も単純にいえば根底は気の活用法にあるわけだが、その気の流れを看るのに、今回は八方位の最もシンプルな八宅の盤を使ったが、なかなかシンプルな割りにその意味するところは非常に真理性のある内容が込められていると思っている。太極(すべての根本)より出発したものが八卦になるわけだが、これは全ての根本から出発したものが八人の家族の形態をとることを意味するのである。すなわち西洋で言う神は最終的には「家族」という形態をとるというのである。キリスト教で言う神は唯一、一人の存在であるが、風水の思想の中に流れる神は「家族」の中に存在するのである。確かに私たちは一旗あげたいと故郷を出て、都会に憧れ都会の中で一生生活していきたいと若い頃は思ったものであるが、しかし年を重ねていくと故郷が懐かしく、その懐に戻りたいと思うのである。それは人間が誰しも求め、追求してきたところのものが、実は自分が出発したところである故郷であり、親と、兄弟と共に過ごした愛のあるところであったというのである。古今東西、歴史を通して人間が求めてきたものは権力や地位やお金ではなく愛ある「本当の家族」だったのかもしれない。
2007.05.14
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新緑の季節は毎年なぜか郷愁を感じさせる季節である。つい先日も親友と食事をしながら話す内容は故郷のことである。やはり人間として一番落ち着くのは故郷の家族の下であるという話になった。人間として生まれ、死んでいく中でやはり最後に行き着きたいところは故郷であり、家族の下である。親が年老いて、姿かたちが変わっても故郷は昔のままである。人間が究極的に求め続けていく幸福の世界は単純にして、自らの足元にあるような気がする。そのキーワードは「家族」というものであろう。丁度、今がその思いを更に強く感じさせられる季節なのである。明日からの連休は子供達をつれて両親の元を訪れる予定である。
2007.05.02
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何にもまして「こころのあり方」重要であると以前から述べていることであるが、歴史の中で「こころのあり方」を明確に示した人として私は「聖徳太子」を挙げたい。聖徳太子の考え方の根底を流れるものは「和の心」。その心は「古事記」の中に書かれてあるように幽玄な時を得て、目に見えない神を自然の中に見出してきた日本人の伝統的な心に起因するものと思われる。この「和の心」は得てして、儒教的なものに解釈されやすいが、儒教で言わんとしている「和」とは趣が違う。もともと日本人の中に育ってきた「大和の心」と解釈していいのかもしれない。また聖徳太子が著した三教義疏のなかの「維摩経義疏」に「心」ということでこう述べられている。「心は万徳の元本なり。今の心が浄(よ)ければ、すなわち一切の功徳を生じ、なんぞ不浄なる事を得ん」「直心(じきしん)はすなわちこれ万行のはじめなり」これをみても儒教では「孝」が万徳の元本と唱えていたのに対し、聖徳太子は「心」が万徳の元本と説いていることからも中国と日本の考え方の違いがわかると思う。どこの国も真似できないすばらしい日本の文化の根底は「こころの世界」なのである。
2007.04.22
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日本人の心にもっとも強い影響を与えてきたのは仏教思想であろう。むしろ日本人は本場の仏教徒が解けなかった仏教の本質をつかんだといえる。仏教が究極的に求めるのは、迷いを捨てて悟りを開くことである。そこに至るまでの修行として苦から離脱し静寂を得て、悪を押しとどめて善をなすことが求められる。仏教の言わんとするところは、すべて「心の有り様」である。どのようなものの見方をするかである。仏教では三業(身・口・意)すなわち行い、言葉、心の働きが人間のすべてであると解く。その三業は楽しみももたらすが、その一方で苦しみももたらす。人間が人間である以上この三業を行えば、必ず「苦」がついてくる。世の中は無常であり、自分自身も無常の中に生きるのであるから、生きること自体が「苦」なのである。その「苦」からの解脱が究極の目標とされる。日本人は苦から開放される心のありかたを、長く追求してきたといえる。心の問題を探求するために日本人は仏教をもって、様々な実践の道を求めてきたといえよう。
2007.04.17
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前回に引き続きジェームズ・アレンの本から「救いについて」抜粋して考えてみる。否定する思いや考えは、その根っこからなくしてしまう必要があります。「私はできる」と肯定する考えだけが、幸せの実を結ぶのです。習慣の強力な木が育つまで、「できる」という考えを、自分自身で育てていきましょう。心の姿勢が変われば、習慣も、性格も、生活そのものが変わっていきます。自分の考えが、自分を束縛するのであれば、自分自身の考えで、束縛を開放できないはずがありません。誰かが自分を救ってくれるのではないか、不思議な力が、自分を導いてくれるのではないかそんな考えで生きているうちはそんな考えで、外に救いを求めているうちは、束縛の中に生きています。大きな救いの力は、自分自身の心の中にあるのです。 (運命を変える7つの学びのステージより)救いというのが宗教で問題になるが、よく自力なのか他力なのかという問題が論議される。私も良くは分からないが、キリスト教は他力的内容が強く、仏教は自力的内容が強い宗教であると認識している。キリスト教の救済観は簡単に言うとウルトラマン(最近まで子供がウルトラマンメビウスを見ていたが・・)がきて悪なる怪獣をやっつけてくれるのに近い感覚であろうか?しかしどちらも突き詰めていけば両方の内容を包括しているのであろうが、アレンのいう「自分自身の心の中に救いはある」というのがキリスト教においても仏教においても神道においても共通した「救い」の概念であると思う。
2007.04.13
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「原因と結果の法則」など様々な著書のあるジェームズ・アレンの本の中から「こころの成長」という観点で書き出してみることにする。目に見える「現実の世界」は目に見えない「心の世界」と連動しています。あなたの様々な思いがコンビネーションを創り、あなたの考えが、日々の出来事の流れとなり今の状況を創っています。幸せな出来事も、不幸な出来事も、すべては、あなたの成長に必要なものです。それは、あなたがかかわる人も、出会う人も直面する問題も、新たな情報も、今の状況の中で、あなたが手にしている条件は、自分を成長させていくために課題や材料になるからです。それぞれの思い、それぞれの考えから生まれる行動が、お互いに影響しあって、現実の世界を創っています。一人ひとりの考え方と生き方が、反応しあって、関係を築いていきます。つまり、一人ひとりが、それぞれの状況の一部になっているのです。あなたの現実を彩るさまざまな出来事、それに関係している人たちはあなたが思い、考えている世界をあなたと共に、創っているのです。
2007.04.12
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前回に引き続き「武士道」について考えてみる。武士道というものは最初からあったのではなく、日本人の太古からの精神性が軸となり、仏教・儒教・神道を融合した結果できたものだと私は思う。仏教でも特に禅宗の教えが根強く残っている。自分の運命に対し真正面から向かい、乱世の世を神仏に対して思いを一つとすることを通して乗り越えてきた武士たちがその乱世そのものを精一杯生き抜くことで真理を求めて修行した宗教者たちに似た境地が「武士道」の世界なのであろう。そこには変に頭でこねくり回して真理と叫ぶ、似非宗教の信者と違い彼らの中には生きて神仏と出会い、その出会いの積み重ねが「武士道」というものに集約されているような気がする。なぜ世界の人(中国、韓国は違うらしいが・・)が「武士道」なるものにあこがれるのかは、その求めてきた世界が、太古から人間が求めてやまないものの香りがするからなのではないだろうか。
2007.04.10
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『武士道は、日本の象徴である桜花に勝るとも劣らない、日本に固有の土壌である。わが国の歴史の本棚の中に治められている古めかしい美徳につらなる、ひからびた標本の一つではない』この文章は新渡戸稲造が書いた「武士道」の冒頭の部分である。日本が戦後失ったものの中で一番大きいものは「日本人としての誇り」であると私は思う。「武士道」は義・礼・勇・仁・誠の内容を包括した「道徳」である。宗教のように教義的内容の上に成り立っているわけではない。一千数百年の間、多くの日本人が体験してきた積み重ねである。強いて言えば「儒家」の教えが根底にあるといっても過言ではない。今日本の若者たちにとって、この「武士道」の精神を教育することが大事ではないかと思う。一流の企業人にとっても「己を磨き、戦わずして人に勝つ」武士道精神は今の時代生き残る要ではないだろうか。
2007.04.08
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丁度今は桜が満開の時期である。今日は近くにある桜の名所に夜桜見物に出かけた。本当に桜の花を見るたびに日本人なんだな、という感慨にふけるひとときである。なぜか日頃にない空間に入ると、生かされていることに感謝し、感謝の思いが出てくると小さい頃から祖父から言われてきたせいもあるが神様を意識するようになる。感謝という思いは一種の波動を持っているのであろうが、何故かその時ほど神様を考えるというのも、きっと神様も「感謝」という波動を持っておられるんだなと思う。いわゆる「共鳴作用」というものだろう。すべてのものから生かされている「感謝」という言葉を口にする時、何故か大きな力が湧いてくる。また明日もがんばろう!
2007.04.04
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私は自分を生み育ててくれた、この日本という国が限りなく好きである。だからといって他の国を批判する気はもうとうない。本当の国際人になるためには、自らの国をよく知り、愛さなければいけない。特に私が注目するのが日本人の精神性の高さである。かって日本人が知らない日本の良さを発見した人物に小泉八雲(ラフガディオハーン)がいるが、意外と外国から来た人の方が日本の良さが分かるものである。ここで民族的精神性の高さというものを論じるときに「言語」の問題を抜きに論ずることが出来ない。「言語」こそ文明の出所由来を明らかにする根本要素である。日本語の中には他の国の言語にはない、陰陽の調和がある。例えば漢字、ひらがな、カタカナと見事にひとつの楽曲の中にある音符のように見事に調和している。日本語と同じ先祖の言葉はどこにあるか、日本語に大きな影響を及ぼした言語はどこかと探してみると、残念ながら世界のどこにも見つかっていない。ということは殆どの言語が5000年~6000年前にさかのぼる所に語源があるとされる中で、日本語はもっと長い年月をえるところに語源を持つとされている。源日本語とされているものに「原縄文語」があり、これは縄文文化と共に始まり、一万年もの歴史を持っているといわれている。いわゆる人類史上もっとも古い言語体系を持っているものである。例えば漢字といえば、中国から入ってきたものであるが、日本人はこの漢字漢文を使った言葉(中国語)をありのままの中国語として受け入れ中国ナイズされたのではなく、完全に日本ナイズしてしまったのである。言い換えれば、日本人にとって中国語はどこまでも二次的なものであって、利用すべき対象でしかなかったのである。ここで日本人がそのような中で「訓読み」という新しい中国語の解読法を開発したということは、驚くべきことなのである。このような手法は中国の近隣諸国がやらなかったわけではないが、どの国も失敗した、という。お隣の国(北朝鮮、韓国)は完全に中国の真似をする国(小中華思想の国)になってしまって独自性が育ってないように見える。すなわち全てを消化し昇華でき、自分のものにする精神性をもったものでなければ到底できない事なのである。
2007.04.02
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最近開いた本の中に次のような文章があり目に入ったので書くことにする。「静はいままでにただの一度も動がなければ存在しない。動はいままでにただの一度も静がなければ存在しない。どうして動と静を分けることが出来るであろうか。」「善と悪は一つのものである」どれも伝習録(王陽明)の一説であるが、西洋的思想の中では善と悪、私と自然というように完全に区別し、別々のものとしてとらえている。それゆえに思いと行動を別のものとして捉え、人に見えることに関する行動は慎んでも、目に見えない心の中はあらためようとしない。だからこそ苦労というものが外的なもの、例えばお金が入らない、何をやっても成功しない等結果が自分の思うような形にならなかった事を一喜一憂しそれを「苦労」という形に処理してしまう。しかし、本当に結果が出なくても自らの心の中に満足のいくものが残ればそれは苦労とはいえないと思う。むしろ結果が出なかったがゆえに幸福を感じる道だってある。お金をたくさん持っているがゆえに不幸になっている人もたくさんいるのである。
2007.03.30
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日本人として、世界に類を見ない特性をあげるとしたら、歴史的に様々な外来文化の受け入れるのに懐が広く、外から多様なものを吸収しても、それをろ過して自分のものとして同一化させることができることであろう。言い換えれば、どのようなものが来ても自分の内部が崩れることはない、といった精神的なベースがしっかりしていることである。すなわち多くのものを吸収し、自分のものにすることが出来ることである。またその土台となるべき日本人の「精神性」がどのように育み育てられてきたかということを検証するときに、このように高度な精神性を持っていたということは、これは短期間に出来たものではなく、それなりの長い期間を費やしてきたものであろうと推測できる。私たちはもっともっと日本の良さを知るべきであると思う。その事こそが真の世界人として出発できる礎なのである
2007.03.23
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今日の読売新聞の欄にアメリカにおける従軍慰安婦問題がアメリカの親中国、親韓国派の議員による圧力と言う記事が載っていた。どうも最近の中国、韓国の反日教育をベースにした「従軍慰安婦問題」は国家的策略のにおいがする。ある団体はことさらに従軍慰安婦問題を取り上げて、日本の罪ということで人々を教育しているらしい。これは日本の国力を弱め、恩を仇で返すようなものである。みずからの国を愛することを教えずして世界を愛することは出来ないのである。以下に先回の続きを載せる。『安教授はまた日帝時代の土地収奪問題について、「公然たる土地収奪はなかったようだ。当時、国 有地は朝鮮王室の物だったが、これを朝鮮総督府の所有にした。掠奪と言えば掠奪だが、掠奪というより朝鮮王室の所有を国家の所有にしたものだ」と、当時の朝鮮総督府を国家と同一視する発言をしたりした。 安教授はまた、韓日両国が善隣のパートナーになるには日本の謝罪が必要ではないかとの質問に 対して、「それでは問題解決にならない。今後どんな関係を持てば我々の歴史的課題がうまく行くのか、を考えるべきだ」と答えた。「日本が過去を否定して嘘をついていても未来のために善隣の関係に行くべきだというのは飛躍した考えではないか」との司会者の反問に対して安教授は、「そうではない。過去にどれほど被害を受けた人でも、今自分にとって幸せな条件を過去に侵略した人が出してくれるのなら、それまで拒否する理由はないと思う」と発言した。 安教授は更に、「現在の我々の生活に何が役に立つのか、現在の我々の貧しい隣人のような状況を無くすために韓日関係をどうしてゆくべきか、を悩むのが真の国家指導者の姿勢だ」と強調して、現政権を批判した。安教授は、「過去の何が悪く何が正しかったを根掘り葉掘り調べても現実には全然役立たない。ちょうど盧武鉉政権のやり方で、逆に行き方だ」として、「私たちが協力すれば国がうまく行くのに、独島やら靖国やら何の解決の見込みがないことを持ち出して何年も始終ケンカばかりしている。こんなことをするなと言っているのだ」と表明した。』 兎も角、歴史認識の問題はつい感情に走ってしまったり、国家のエゴが出てしまうそのときこそ歴史学者の客観的な研究がものをいうのではないか。
2007.03.16
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最近テレビのニュースで知ったことであるがアメリカで従軍慰安婦問題に対する安倍首相の発言に批判が出ているということである。私も韓国へは何度か足を運び、韓国人の友人もいるが、事この「歴史教育」の問題に関しては何時も激論になるし、一度として彼らとは認識が合わない。下記はある韓国のメディアに載ったものであるが、最近は韓国側でもはっきりと正論(私は正論だと思っているのだが・・)を言われる人が増えてきているということは時代の波なのであろうか。以下韓国の雑誌の記事より『最近「4.19学生運動、5.16革命」波紋を投げかけた教科書フォーラムの余波がいまだ冷めやらぬ中、 ニューライト財団理事長を引き受けている安秉直(アン・ビョンジク)ソウル大名誉教授が6日のMBCテレビ 「ニュース焦点」に出演して、日帝時代の慰安婦強制動員の証拠はなく土地収奪もなかったと言明し て、再び波紋が予想される。 安教授はこの日のインタビューで、慰安婦がいたことを否定する人はないとしながらも、「問題は強制 動員だ。強制動員されたという一部の慰安婦経験者の証言はあるが、韓日とも客観的資料は一つも ない」として、慰安婦動員の「自発性」を強調した。 記録がないからといって強制性に対する評価を留保するのは間違いではないか、という司会者の質 問に安教授は、「軍隊慰安婦や一般慰安婦の生活は悲惨きわまりない。私たちはそのことに目を閉 ざしてはならない。韓国にも私娼窟という慰安婦が多数いるが、そうしたことを無くすためには、なぜ そのような現象が発生するのかを研究せねばならない。無条件強制によってそうした現象が起きる、 とは考えられない」などと、とんでもない返事をした。 安教授は更に、慰安婦業者のうち半分は朝鮮人だったとして、「(当時)朝鮮人が何の権力で強制的 に動員したというのか」と主張したりした。 安教授はただ、軍が強制動員した可能性があると思って自分は韓国挺身隊問題対策協議会と共同 で調査をしたと明らかにしたうえで、「3年活動してからやめた理由は、彼ら(挺身隊対策協)の目的が 慰安婦の本質を把握して今日の悲惨な慰安婦現象を防止することではなく、日本とケンカすることだっ たからだ」と主張した。そんな調子の反日運動が今日の私たちにとって何の意味があるのか、という 疑問から挺身隊対策協との活動をやめたということだった。 』(あと続く・・・)次回この続きを記載するとする。
2007.03.14
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人間力を身に着けるには、ただひたすら同じこと決めたことをコツコツやることです。単純なこと平凡なことをコツコツやることが大切です。皆さんもまず皆さんのお部屋の掃除からやってみませんか?風水でも掃除が一番というデーターが出ているようですよ。風水グッズ以上に効果があると思いますよ。自分の心を磨くつもりで掃除をしてみましょう。心がきれいになるとお部屋もきれいになり、運勢が出てくると思います。また今日は様々と風水アドバイスしていた私の友人であるNさんの娘さんが、千葉大にみごと現役合格したという知らせが入りました。おめでとうございます!
2007.03.08
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我々はすべてにおいて心配、悩むのは心を成長させる上で非常に大切なことだが、しかし心配過ぎ、悩み過ぎは良くない。親が子供達を愛するのは、自然の至情であるが、そこには当然天理というものがあるのである。過ぎてしまうと溺愛になってしまい、得てして子供は変に育ってしまう。「心に憂慮することがあると、心の正常さを得られない」と昔から言われている。自分の愛するもの、信じていたものを失うということは時として死ぬ方が楽だと思われることだってあるものである。だからこそ天理の中にある限度というものをわきまえて進むべきであり、その苦労を共有できる永遠の友を探すべきである。
2007.03.02
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「今この瞬間にベストを尽くす!」この言葉は自分に対する戒めの言葉である。人は往々にして自分の思う良い結果が出れば喜び、思わぬ結果が出れば悲しむ。しかし東洋的考えに則って考えると「良い結果」も「悪い結果」も表裏一体のもので、二つの現象としてとらえない方がいい。言葉の上だけで区別するだけであって、あるのは「今ここ」という一点の連続、すなわちプロセスなのである。最初から原因と結果を切り離したので変なプレッシャーや不安でやるべきものに全力を尽くすことが出来ない。だからこそ「今この瞬間にベストを尽くす!」
2007.02.25
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色んなものを学ぶものにとって大切な姿勢は何であろうか?中国の王陽明はこう言っている。「学ぶということは、自己反省することです。もし、やたらに人を批判していると、他人の欠点ばかりが目についても、自分の欠点は見えなくなるものです。 反対に、もしよく自己反省していると、自分には多くの欠点があることに気づくようになりますから、もう人の欠点を攻め立てている暇など無いのです。・・・・・・」いつの世にも自分以外の人から多くのものを学ぶ姿勢が重要である。それはけっして人の言いなりになれ、ということを言っているのではなく、色んなことを知っていても決して傲慢になることなく謙虚な姿勢を持てということである。
2007.02.23
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すべてにおいて謙虚な姿勢が大切である。私の知り合いのキリスト教系の新興宗教をやっている人は、何か自分が全て分かったかのような態度で何時も話してくる。仏教で「増上慢=おごり」に関して諭しているところがある。増上慢とは自分の徳や果報を自慢することで、とくに真実の悟りを開いていないのに、生半可に理解した境地を、悟りを得たと慢心をおこすことだ、とある。いつしか謙虚さを忘れた人は気づかないうちに自らが他人に諭す地獄に入っているものである。人の話を聞かなくなったり、自分たちだけが選ばれたものだと錯覚を始めるところから人格の崩壊が始まる。
2007.02.20
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中国の教えの儒教では「中庸」の大切さを教えているが、何か例に挙げて説明すると中庸とは表裏が無い生活をすること、誠実に生きること、すなわち表裏が無いということは両極の真ん中に立つということであり、バランスが取れているということである。シュタイナーという有名な学者がこう言っている「人間はつらい事を経験するときにそれを耐える力を備えていないといけない。人生は様々な苦しみや喜びをもたらしますが、時として喜びは苦しみよりも危険なものになることがあります。喜びは私たちから思考する力を奪い、感覚を鈍らせます。・・・・」人はつらい事で打ちひしがれ、立ち直れなくなるときがあるが、喜びもまた傲慢な人間になるという危険性をはらんでいる。だからこそ中庸すなわち真ん中の道を進んでいくことが大切なのであろう。そのためには誠実に、裏表ない人生を歩むことが大切なのである。自分自身に戒める内容である。みなさんはどう思いますか?
2007.02.17
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「ことば」は民族の精神の核である。私たちも世界に類を見ない伝統と精神性を持った「日本語」というものにもう一度目を向けていかなければいけない。最近は子供達の「ことば」遣いが悪くなっているといわれているが、それと共に青少年の非行が増え続けているように思う。「ことば」は私たち人間と目に見えない神様をつなぐ橋であるので、心霊に満ちた「ことば」は神に通ずるが、悪意に満ちた「ことば」は邪神に通じてしまうといわれている。言霊とは、言葉に宿る「神秘的な力」のことをいう。だから昔から 「良い言葉は吉事を招き、悪い言葉は凶事を招く」と言われているように、日本では「ことば」を非常に大切にしてきた。人を思いやる心は、まずその人の語る「ことば」によって導き出される。
2007.02.16
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久々というか何十年ぶりに聖書を開いてみた。これは箴言の二章にある聖句であるが 『慎みはあなたを守り、悟りはあなたを保って、 悪の道からあなたを救い、偽りをいう者から救う。』 長い歳月を通じて多くの人の心に語りかけてきたものだけに何か心の安らぎを感じるものがある。
2007.02.13
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「少くして学べば壮にして為すことあり。壮にして学べば老いて衰えず。老にして学べば死して朽ちず」 (佐藤一斎)いつでも、何からでも学ぶことが大切である。自分以外の人はすべて先生である。わたしが何時も心がけている内容である。たとえ悲しい出来事でも学ぶ姿勢があれば次に何かが出発する。
2007.02.10
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陽明学に「苦楽合一」という考えがある。どういう意味なのか?特に徳川家康の動きからこの二つの考え方の意味を知ることが出来る。ご存知であろうと思うが、松平家(後の徳川家)は長年の逆境を耐え抜き最強の徳川軍団を作ってきた。逆に色々と恵まれた今川家は12年間左うちわ何もしなかった。その時からすると今川は幸福で徳川は不幸と写るかもしれないが、時の流れを見ると徳川は逆境ゆえ真剣になり最強の軍団を作ることが出来た。恵まれすぎた今川家の頭領、今川義元は桶狭間で織田信長に敗れ、哀れその後今川家は滅んでしまった。すなわち「幸」「不幸」は区別が出来ないということである。すなわち「苦」も「楽」も所詮同じものであるということである。言い方を変えれば苦労の時でなければ幸福をつかむための力を蓄える時はないということである。今日の苦労は明日には希望になるということである。
2007.02.07
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昨年縁あって陽明学者の林田先生と知り合うことが出来た。先生の卓越した研究とその成果は私にとって非常に励みになる。ここで陽明学の開祖である王陽明の言葉を一つ一つあげていきたいと思う。「私は、道においても未熟であり学も粗雑であるが、誤って諸君の師になった。毎夜毎夜思う、私にはあくさえもなくなっていない、もちろん過ちはいうまでもないと。ある人は、師を諌めるには正直でしかも無礼にならぬように、婉曲でしかも隠さないようにといっている。私に善いところがあれば、諸君の諫言によって善いところがいよいよ善くなり、悪い所があれば、それによってこれを除去することが出来る。そもそも教えと学は、互いに益あるものだ。人に善いことをするように諸君にすすめるには、まず私から始めなければいけない。(王陽明)この文章から歴史を通じた教育者の基本的な姿勢がうかがえると思う。
2007.02.03
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最近仕事の関係で多くの人と出会うが、会って見てその人の物腰やら言葉使いでご両親初めいい環境の中で育ってきたんだろうなと思う人がいる。そのような人の共通している所は不思議とご両親が何かの信仰をしておられると言うことだ。私はすべての宗教はいいと思っている。本来ならば学校教育にももっと宗教教育を取り入れるべきであろうと思う。しかし反面ある宗教団体では、その教えを傘に着て法外なお金集めに奔走しているらしい。教育されるべきは自分たちであるにもかかわらず、他の人を教育しようと一生懸命になっている(そこでは伝道と呼ぶらしい)。今までの歴史において、自らを律し、国を愛し、世界を愛していく教育姿勢のない団体も地域も国も長く続いたためしがない。夕張市のように一時のパフォーマンスを繰り広げていけば必ず破綻するものである。
2007.01.28
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最近の子供は本当に本を読まない。我が家の子供も学校から帰ってくるなり直ぐゲームである。以前落語家さんたちのグループが子供達の非行の原因は日本の美しい言葉を知らなくなったからもう一度「ことば」の勉強をしなければいけないと言うようなことを言っていたまさしく同感である。聖書にあるように宇宙の出発はまず始めに「ことば」ありきである。私も初心に帰って2日間の休みは日本の美しい文学に触れてみようと思う。
2007.01.26
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新年早々ブログもゆったりになってしまった。今年2回目のブログである。 日本とユダヤの神観の共通性を探るものとして「古事記」と「旧約聖書」「タルムード」というものがある。そこに多くの共通した神観を見出すことが出来る。ここでいう日本の神観とは「古神道」における日本人の心に共通してある神観である。日本は多神教であり、ユダヤは一神教であるとするのが通説であるが、よく研究してみると「古事記」においては天御中主神が唯一神として登場し、八百万の神々を生み出していくその中でアマテラスとスサノウが天津神と国津神の系譜を生み出していく。ユダヤにおいては、唯一神エルから女性神アシュラ(アシュタロテ)が生まれ、そこから男神のバアルが生まれる、このバアルも荒ぶる神と言う表現がなされスサノウと同じ役割を持つ。このように日本とユダヤにおける神話の発生が非常に似通っている。ここで日本における「古事記」の中に古代日本人が、ユダヤにおける「旧約聖書」の中に古代ユダヤ人が、生活の中で捕らえてきた私と先祖、私と神との関係が「古事記」と「旧約聖書」の中に共通して見られる、このことを考えるとまるで遠く距離を隔てただけで、同じ民族の歴史のように見えてくるのである。ある歴史学者は日本には世界中の全ての宗教が流入し融合されていると主張する学者もいるがあながち仮説とは言いがたいような気がする。
2007.01.25
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新年明けましておめでとうございます。本年も「為に成る硬い話」よろしくおねがいします。さて新年の第一ブログとして、日本とユダヤの歴史の類似性について書くとする。世界の中で、生活の中で先祖を特に意識するという面においてユダヤ人と日本人は共通した意識を持つ。神と特別に近いという意識がある民族は非常に先祖崇拝を意識する。得てして、そのような所では母親の地位が高い。先祖を祭っていくことが家にとって一番であり、社会的地位は低くても、家の中で持つ母親の先祖意識は究めて高いといえよう。日本において、家の中では自然と「先祖から見守られているよ」「先祖に恥ずかしくないように・・・」といわれ続け、教育されてきた伝統がある。ユダヤでは「アブラハムの神」「イサクの神」「ヤコブの神」と云ったように自分たちの先祖と神とユダヤ教徒としての証は母親の信仰が全てにおいて優先するといわれているように、歴史を通して母親が家庭の中で伝えてきた伝統がその子供達の中に連綿として残ってきたといえよう。日本においてもすべての日本人が、本家筋にあたる天皇家につながり、また天皇家は天津神のニニギ命が天孫降臨した子孫であるとし、自分たちの先祖は天皇家につながっているし、当然神につながるという意識が古代から出来上がっているのである。なぜかしら日本とユダヤとは同じように先祖を非常に大事にする世界まれな民族なのである。
2007.01.04
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歴史の法則が実は人の心の力によって動かされていることを前回のブログで述べた。このブルクハルトのいう「生活形態」とは各時代によって違っているものであるが、根本的には人間の持つ「習慣性」は長い歴史的を見ても変わらないものであることは皆さんもお分かりいただけると思う。すなわち「人間のこころ(精神)」の深い闇の部分が未解決のままであるということは、同じような生活形態を繰り返すということであり、これがスパイラル現象を引き起こす原因となっているのである。すなわち、こころの叫びが最も大きい人、言葉を変えて言うならば精神性が最も高い人を中心に歴史が変革され歴史は繰り返すということである。ここでいう精神性の高い人とは、宗教的に言うならば、もっとも心の奥底の声に語りかける声、すなわち神の声を聴くことの出来る人のことをいうのであろう。
2006.12.20
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歴史を見ると社会変遷のある段階において一定の環境を収拾するために必ず中心的な役割を果たす代表者が登場し、その環境を収拾している。 その代表者が歴史を動かし、大きな時代の変革をなし新しい時代へと導いていく。そして歴史を動かしてきたのはそのようなごくわずかな数の代表者たちである。それではその代表者たちを動かすものは何であろうか。その原因となったのはその代表者たちの「こころ(精神)」に直接響いてくる声によるものが多く、その声を聞くきっかけになった宗教や思想からくる影響が大きいといえよう。 ブルクハルト(19世紀のスイスの歴史家)によれば、歴史を動かす究極的な力とは「人間の精神(こころ)」であり、それは自らのあり方に沿って各時代の「生活形態」つまり一つの時代を作ってゆく。しかしいったんできあがった「生活形態」はそれ自体で大きな力を持つようになり、その存続を知的に正当化する機能さえ持ち出す。 ところが「人間精神」そのものは、絶えず変化しようとして一箇所にはとどまっていない。そこでどうしても「生活形態」とのあり方と食い違いや矛盾が起こってくる。その押し引きや相克を続けているうちに、ついに誰もコントロールできないような形で急に状況が動き出し、ついには、誰も望まないような「大崩れ」が現実のものとなり、生活形態つまり国家と人間精神は双方とも、何百年かあるいは、一世紀に一度の大きな混迷期へと入っていく、というものである。(次回に続く)
2006.12.18
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