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座禅を始めた。と言っても、まだ三日目。十分三日坊主の可能性があるわけだが、寝る前に20分。出来るならば30分やれ、と書いてあったのだが、足の痺れが20分で限界だったのだ。「最初から無理をしては続かない」というのはよく知っているので、出来る範囲、20分を始めてみた。私は飽き性である。が、それ以前に、非常に面倒臭がりだ。以前の私は、「どうせ続かないんだから」といろんなことに挑戦する事もしなかった。常に0の位置から動こうとしなかったのだ。そして、0の位置から100の位置に居る人を見てその才能を羨ましがり、自分はダメなんだ、と決めつけていた。そう。私はダメだった。しかし、私は100の位置に居ることが出来ないからダメ、なのではない。私がダメだったところは、0の位置から動こうとしなかったところ、なんだ。これに気付こうとしなかったところがダメだったのだ。自分が「何もしていない」ことから目を背けていたのが、最大の「ダメなところ」だった。100の位置にいる人だって、最初は0に居たはずなのだ。そこから一歩を踏み出して、1になった。勿論、そこから100までは後99もある。だから、次の一歩を踏み出して、2になる。でもまだ、そこから100に辿り着くには、後98もある。更に次の一歩を踏み出して、3になる…そうやって一歩一歩進んだから、今100の位置に立つことが出来ている。一番大事なのは、1になること。0じゃ何にもならないけれど、1になったら可能性が出来る。自分は1になることが出来たという自信にも繋がる。それは微々たる一歩だけれど、0と1は大きく違う。10が11になるよりも、大きな差だ、と私は思う。どんな物体も動き出す瞬間に、一番力が必要なんだから。今はまだ、100の位置を見上げることしか出来ない。100の位置に辿り着くまでにたくさんの苦しさがあるかもしれない。でも、だからと言って、立ち止まっていては何にもならない。小さな一歩でも進めば、それだけ100に近付くことが出来るのだ。100の位置に立った時、「もう充分」と思うか「1000まで行きたい」と思うかは、100まで行かなければわからない。けれど、1になる、というのは、100になるためには必要なこと。羨ましがるだけだったことが、目標に変わる。私は座禅を始めた。布団に入ってからぐだぐだ考えて、いつまでも眠れなくなるくらいならば、思いきって20分の間、頭の中を空っぽにしてみようと思った。夜中に良い考えは生まれない、といろんな人が言っている。夜は眠る時間なのだ、と。眠る前に足を組んで、ゆっくりと呼吸を数える。心も体も空っぽにする。すると不思議なことに、頭と身体が軽くなった。リラックスできたのだろう。私はこの二日間、煩わしいマイナス思考に捉われて眠れなくなることがなかった。座禅効果かどうかまだわからないけれど、もう少し続けてみようと思う。というわけで、私は今から座禅をする。みなさま、おやすみなさい。
Apr 7, 2010
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昔から作文が嫌いだった。今も決して好きではない。それでも、昔より「何か」は書けるようになった、と思う。以前の私は、「○○について」なんて言われても、何を書いていいかわからなかった。しかし、自由作文になるともっと何を書いていいかわからなくなった。私には、何も思うところはなかったし、考えたこともなかったし、主張したいこともなかったんだろう。自分の思いや考えを、「まとめよう」とした事がなかったんだろう。頭なんて使わずに生きていたに違いない。人は、何か情報が入ってくれば、その情報に対して何か思うことが出来るはずだ。入ってきた情報に、頷けるのかそうではないのか、くらいは考える事ができるはず。頷けるならば、どこに頷いたのか。そうでないならば、何故頷けないのか。作文が書けなかった私はきっと、そんなことさえ考えずに生きていたんだろう。入ってきた情報は右から左へ流れてゆき、それに賛同することも反対することもなく、生きていたんだろう。私には今も、そういうところがある、と思う。「どうでもいい。」と思考を放棄してしまう癖が、ある。これではダメだ、と気が付いた。私には、私だからこそ生み出せる考え、があるはずで、それは、ただ頭の中にある、だけじゃ、何もないのと同じなんだ、と気が付いた。だから、言葉にしてみる。私が考えている事を、少しずつでも言葉にして、私と言う人間を確認してゆきたい、と思う。こんなことを思い、こんなことを考え、こんなことを主張したいのだ、と、ちゃんと人に伝えられる形で、言葉にしてゆきたい、と思う。ここは、その第一歩。文章を書く、練習の場。これは、自己主張。私という人間がここに生きている、と主張する、行為。
Apr 3, 2010
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