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フランスのルールドの“奇跡の泉”でさえ、この旅で赴くまでは詳細について殆ど知らなかった。文献で読んだ知識と違い、実際に見聞し触れたルールドは驚きと感動の連続であった。しかしさらに驚いたことには、何と我らが日本にも、長崎をはじめ九州一帯に「ルールドがある!」というのだ。これまでたびたび長崎を訪れていながら、そう意識して周遊したことはなかった。 前提として、日本では、その多く、つまり“奇跡の泉”もしくはそれにあやかった聖地は“ルルド”と呼ばれているが、実際にはルルド=ルールドは地名のことである。日本では、“奇跡の泉”や巡礼地の意を込めて固有名詞として使用されているのが興味深い。この短いコラムでは、フランスの聖地はルールド、日本における“奇跡の泉”および巡礼地にあやかった“場所”をルルドと縮めて、当地風に表記することとする。 さて、日本、それも長崎でもっともポピュラーなルルドは、『聖母の騎士修道院』のルルドである。この修道院は、アウシュヴィツで殉教した現代の聖人マキシミリアノ・コルベ神父が創設したことで知られるが、ちょうどルールドの泉がマサビエールの洞窟とセットであるように、彦山の崖を利用するようにルルドが作られている。聖地ルールドを模したこの長崎のルルドは、聖母マリアとベルナデッタの像も据えられ、数多くの奇蹟があったとしてバチカンからも公式に“奇跡の泉”として認定されている。 いまひとつ重要なのが、長崎は五島列島にある井持浦教会のルルドだ。井持浦教会は明治28年に、フランス人宣教師ペルー神父によって建てられた、五島最初のロマネスク様式の教会だが、ペルー神父がこの井持浦教会にルルドの泉を模した洞窟を作ることを考えついたという。五島の各地より取り寄せられた石で洞窟を作り、そのそばに井戸を掘り当てた。 ここからがこの神父のこだわり並々ならぬところで、この井持浦教会にフランスのルールドから取り寄せた聖母像を置き、さらにルールドの泉から汲み上げた聖水を運び込んで、先の井戸に混入させたのだという。 この井持浦教会はまた、日本で最古のルルド巡礼地であり、最初のルルドが設けられた点で重要だ。 ほかには長崎市深堀の善長谷教会のルルドのほか、松浦半島は田平町にある田平天主堂に、あるいは熊本県では天草の大江天主堂にもルルドがあるそうだ。(了)
2005/11/18
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そうそう、パリのルーブル美術館訪問日記はこちらで読んでみて下さい。(了) さぁ、いよいよ映画『ルパン』も公開します。ぜひ映画『ルパン』公式サイトで詳細をチェックしてみて下さい。
2005/09/11
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今年の春に、研修と楽しみをかねて一週間ほどフランスはルールドに行って参りましたが、その後、この貴重な旅行がずぅ~っと、日々の憂さを払う清めの塩であり、また明日の元気の原動力となってきたわけですが、旅で感覚した衝撃や刺激、思い出などは消えませんけど、物理的/肉体的な体験や経験は時とともに薄れていきます。しかし旅とは、その両方があってはじめて成立するもの(脳内トリップや、逆にただ足=身体を運んだだけ、という旅もありますけど)。 じゃ、薄れゆく体験や経験を少しでもフレッシュに保つ“無駄な抵抗”をするには・・・少しでも関連情報に触れ続けることなのかな、と思います。それが、より立体的だったり、動的ならなお良いですよね。 ということで、最近海外のサイトなどを渡り歩いていて、面白いサイトに出会いました。ナントルールドのマッサビエールの洞窟の様子を放送するライブカメラのあるサイトです。ま、画像は小さいんですけど、まさにあの聖母の現れた洞窟を、引きの定点カメラで一日中(かな?)追っかけてるのです。 まぁ、いるわいるわ、聖母の洞窟に巡礼する世界各地からの巡礼者。その雰囲気を見るだけでも、現場にいたときの自分の皮膚感覚を取り戻す思いなのです。 もしかしたら私がいた時も、こうして世界中にその姿が放映されていたのか・・・と思うとちょっと恥ずかしい、と言うかムズかゆいですけど、でもやっぱりしばらく画像をボンヤリ見つめていると、またすぐにでも足を運びたくなってしまうんですよね。来年も行きたいなぁ。(了)↓私がブログで公開してきたフランス旅行記は*テキストのみ(少々読みづらいですが、一挙に載せています)はコチラに*写真付きのものは『過去の日記』の5月分~7月分の間に11回にわたって連載しています。 ぜひ読んでみて下さい!!映画『ルパン』を応援しています。気になった方は映画『ルパン』公式サイトで詳細をチェックしてみて下さい。
2005/08/30
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ようやく、ようやく。一月半あまりにわたって日記で取り上げてきたフランス旅行記も、先ほどの11回目をもって終了となりました。長いコト引っ張って済みませんでした。でも、気長に読んでくださった訪問者の皆さん、ありがとうございました。 今振り返ると、結構まとまった量の日記になってるな、なんてちょっと達成感もあります。こうして形に残しておくと、旅の記録にもなるし、その時々の自分の考えや感じ方がわかって面白いですね。これまでの旅行先の旅日記を書き起こすのはちょっと難しいですけど、これから訪ねた先などは、またこうして日記に残しておきたいです。 とりあえず11回、すべての旅行記に一枚ずつ写真がついてまして、それはやはり写真と一緒に読んでいただくのが一番良いのですが、文章だけでもいい!!という方には、11回分すべてこちらにまとめてあります。 さぁ、大物が終わってしまいました。明日からはネタに困るなぁ・・・。(了)
2005/07/11
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いったん皆で集まり、その後のフライトまでの説明があると、最後の軽い夕食は近場のブラッスリーで摂ることにキマリ。しかし、思いのほかお腹が減っておらず(さっきの休憩で水気をとり過ぎたせい?)、結局パンと、25センチ四方ほどの厚切りのチーズを注文し、紅茶といただくことに。この、いわば“チーズのステーキ”とも言うべき塊が実に美味で、おそらく、この旅で食したチーズの中でも最も後を引く風味でした。 さぁ、小一時間ほどで空港へ出発です。しかしバスでの移動中も感傷的な気分になれません。感慨に耽るでもありません。いつもであれば「次にこの場所に来られるのはいつだろうか」とか「最後までこの目に、街や夕陽を焼き付けていたい」などとひどく名残を惜しむのですが、この時は穏やかな気持ちで席に座っていました。というのも、この街にはまたそう遠くない将来に再び戻ってきそうな、そういう予感や確信を抱いていたからに他なりません。 パリ・ド・ゴール空港に到着。ここで、この旅の最初で最後のトラブルが発生。荷物の重量オーバーです。と言っても、ことさら大量の荷物を積み込んだ覚えはありません。並ぶ人皆、カウンターで荷物の重量軽減を指示され、チェックインできずに傍らでトランクを広げています。私も同じ目に!! 飛行機に預ける分の荷物の重量制限は、その日に都度決まるとか。それで、この日は通常よりも10キロ近く低い20キロが天井となっていたのです(なるほど、これならほとんどの旅客が引っ掛かって当たり前ですね)。私は8キロのオーバー。それも当然、ルールドの水に買い集めた本や画集がたくさん入っているのだから!!それらを手荷物扱いにし、19キロまで落として合格。晴れて荷物を預けることが出来ました。 しかし、預かり扱いの荷物の重量制限を厳しくすれば、結局は一人一個と決められた手荷物が増えるだけだし、またいくらトランクの重量に制限をかけても、全部積めば総重量に変わりはないはず。その辺りの合理性の欠如が、規則の厳しさに反していて、いたって奇異に思えた次第です。 この一件で、余裕のないままゲートは搭乗開始。さぁ、あとは日本へ向けて平穏なフライトを祈るばかり。 飛行機に搭乗して10分と経たぬうちに眠気に襲われた私は、頭からジャケットと毛布をすっぽりと被り、静かに睡眠に突入。*********************** どれくらいの時間が流れたのでしょうか。次に目が覚めた時、隣に座った同行者に「あとどれくらいで着くんでしょうかね?」と寝ぼけまなこで問えば、「よく眠ってましたねぇ。あと1時間弱で着陸ですよ」。!!!何と、飛行機に乗って即座に目を瞑ってから実に10時間近く眠りっぱなしだったのです。1回食べ損なった夕食を飛ばされて残り1回の軽食を摂れば、間もなく飛行機は日本の地にその車輪をこすりつけました。*********************** フランスの旅は終わりました。成田空港で、缶コーヒーを買おうと財布に小銭を探ると・・・残っていたユーロ硬貨の中に一枚だけ、旧2ユーロ硬貨が見当たりました。裏面には大好きな、詩聖ダンテのレリーフが施されていました。粋な偶然に自然と頬が緩みます。もっとも今回は、ウェルギリウスもマレボルジアにも縁のない“極楽の旅”だったのですが。(了)*写真は、詩聖ダンテのレリーフが彫られた旧ユーロ硬貨です。
2005/07/11
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“不思議のメダイ教会”を後にすると、フランスでの滞在時間は刻一刻と減って行きます。ここからは後回しにした名所を、一気に“一目拝むツアー”の始まりです。 さてやはり、一度はシャンゼリゼ通りを闊歩しておきたいもの。であれば、まずはこの入り組んだ市街地からひらけた場所に出る必要があります。一路、タクシーでコンコルド広場に向かいます。 コンコルド広場では、かの有名なオベリスクが見えます。ナポレオン1世がエジプトから掠奪して来たそれは、征服者の昂奮そのままに、今も隆々とそそり立っています。この暴力がもたらした糧があるとすれば、それは西欧世界でのエジプト文化の研究がにわかに活気づいた事でしょうか。オベリスクに刻まれた象形文字(ヒエログリフ)は、野心的な言語学者シャンポリオンによって解読が進められ、後のエジプト文明への憧憬と情熱を駆り立てるのに一役買いました。 無論この広場は、18世紀末のフランス革命時にはギロチンが置かれ、ルイ16世とマリー・アントワネットらが処刑された、“旧姓・革命広場”であることは説明不要でしょうか。 このコンコルド広場から頭を廻らせれば、聖マドレーヌ教会が視界に入ります。そこだけ、切り抜いて来たギリシャ神殿のよう。使い道も決まらないうちに、時の権力者がこのコリント式の建物を造ってしまい、最終的に教会として使用することが決まったという曰く付きの建物は、18世紀フランスの何とも不思議な感覚が垣間見える建造物です。ギリシャ神殿の外観を持つ、聖マリア・マグダレーナに捧げた教会。これが異教的でないはずがないワケで。キリスト教史/神学史の中でも、常に不安定な位置づけをされて来たマグダラのマリアに相応しいと言って、失礼にあたるとも思えませんが。 現在パリは、オリンピックの誘致に邁進しているそうで、開催都市として名乗りを上げているそうです。そのロゴをあしらった布が聖マドレーヌ教会にも大きくかかっていたが、どうもその字体が『トイザらス』に見えて仕方がない!! ここから、凱旋門に向かって全長約2キロのシャンゼリゼ通りを散歩。しかしこの日はまた異常に暑い。蒸し暑いだけでなく、季節外れの日差しが皮膚を射します。この時期フランスは、冬支度からようやく一枚脱ぎ去ったくらいの服装でちょうど良い、そういう季節のはず。気温も、摂氏15、6度と聞いていた。この日、おそらく摂氏で25度を超えていたのではないでしょうか。 シャンゼリゼ通りは、やはりヨーロッパの、フランスの、そしてパリの目抜き通りを歩く満足感を与えてはくれますが、異様な暑さの中、道すがら増えた荷物を持って歩くには2キロの距離も楽じゃない・・・。 本来なら地元で流行るCDの一枚二枚は仕入れたいヴァージン・レコードの見えるあたりにさしかかって、シャンゼリゼ通りの踏破を断念。体力的にも勿論ですが、今日はもう空港へ向かい、日本へと飛び立つ日。集合時間に遅れる訳にもいかないのです。残りの距離はタクシーと割り切れば、逆算して若干の時間的余裕もできます。 目についたカフェで30分ほど休憩し、パリでの時間を惜しみます。やがてリミットは訪れ、タクシーでホテルに戻りました。(つづく)*写真は、タクシーから名残惜しむように撮った凱旋門。パリの石畳で車が揺れるので、斜めになっています。
2005/07/03
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華やかなパリの夜も明け、翌日。何はともあれ、であります。今回の旅の、主にパリでの最大の目的は、ルーヴル美術館見学。ルーヴルを拝まざれば、それこそ画龍に点晴を欠くというもの。30年以上、ほとんど空白期間なくいつの日も美術が好きだった私にしてみれば、永年の悲願が一つ達成されることにもなります。しかしこの日は同時に、早くも日本に向けてフランスを発つ最終日。 メーデー明けの観光客による混雑を予想して、9時のオープンより早めに着くようホテルを出発。 事前に用意した“短時間見学コース”のコピーを片手に、入り口でもらったパンフレットとつき合わせて、自分なりの3時間コースを手早く考えます。 しかしこの美術館、足を止め出したら一生かかっても見切れないほど、止まる場所、目を移す先、その全てが必見の名作なのだから気が抜けなません。ゆっくりと鑑賞できるパリの市民が妬ましい!! まずはモナリザとして知られる『ラ・ジョコンダ』目がけて一目散。幸いまだ人が少なく、多少の混雑であの微笑と対面。さすがに感動が大きい!!しかしそれにも増して、他の作品もスゴすぎて、モナリザだけに感動する余裕がなかったのが正直なところです。ラファエッロ、マザッチョ、チマブーエ、フラ・アンジェリコ、ティツィアーノ、ブーシェ・・・・。その全てに囲まれて、どれか一つに感動をせよという方が無理な話。 物理的な意味のみならず、この美術館は疲れます。陳列される名作の数々に圧倒され、興奮するというよりも脱力感にとらわれるのです。作品の、いや作者のエネルギーに魂を吸い取られるような感覚。 2階ドゥノン翼のルネサンス期のイタリア絵画を皮切りに、ドラクロワ、アングル、ダヴィドなど同じエリアでフランス絵画の大作を押さえて3階へ進み、シュリー翼でコローやフォンテーヌブロー派(あまりに有名な!!)を堪能し、リシュリュー翼にフィールドを移してフランドル派の冷ややかな宗教美術に慄えあがり、この日の絵画部門の締めくくりであるフェルメール目指して歩き回りました。しかし待てよ・・・。散々歩いて該当エリアにたどり着き、シャッターを目にした瞬間フェルメール氏が不在であることに気が付きました。この時期、フェルメールの作品はドイツのシュテーデル博物館の特別展に貸し出されていたと知ったのは、勿論帰国後のこと。気持ちを切り替えて今度は一気に彫刻や遺跡、宝物部門へ。 素っ頓狂なエジプトの座像やラムセス二世の像、異様に黒光りして不気味なハムラビ法典。メソポタミア文明の、不可思議で幻想的だが人頭だけがやけにリアルな反獣半人の巨像など、世界史や美術の教科書ではるか昔に見かけた文化遺産の数々を惜しげもなく晒すこの美術館で、それらを当たり前のように見飛ばしている・・・。なんとも畏れ多いことです。 ここで、すでに持ち時間はわずか。潔くミケランジェロを諦め、天下一の美女ミロのヴィーナス『アフロディテ』を拝んで締めくくり。 本当はオルセー美術館にも行きたかったのですが、ここ数年の気分から言えば、作品そのものはルーヴルの方がマッチしており、オルセーのカラーに今は惹き付けられません。ただ足を運んだことの証明のためだけなら、今回の旅には必要がないということで、アテのない後日にリターンマッチ、としました。*********************** ルーヴル美術館を息も絶え絶えに飛び出しリヴォリ通りへと出、街角のカフェで昼食。サンドウィッチにフレンチフライ(!)。こんな陽気には屋外で、通りの方でも向いて空腹を満たすのが楽しいもの。 ここから数100メートル歩いたところに、次の目的地である“不思議のメダイ教会”があります。と、そこで引ったくりを目撃。目の前で3人の警官に取り押さえられ、その場で御用となりました。この辺りはやや物騒だと聞いてはいましたが・・・。(つづく)*写真は、最近『ダ・ヴィンチ コード』であまりに有名になった“ルーブルのピラミッド”です。
2005/06/30
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3時間に及ぶ午前の散策を終え、午後はモンマルトルの丘に地下鉄で。この小高い丘は、実は宿泊しているホテルの窓からよく見え、明け方は上る太陽に照らされて大変美しいのです。この丘には、サクレ・クール(聖なる心)寺院がありますが、メーデーで他に行くところがないせいか、モンマルトルの街は訪問者でごった返していました。なんでも、このサクレ・クール寺院の足元、なだらかな丘の斜面は昼寝に絶好のスポットだそうで、事実この日も、斜面に沿って絨毯のように無数の人が寝そべっており、ほとんど地面の緑が見えないほど。 サクレ・クール寺院は、ロマネスク・ビザンチン様式の大聖堂で、この日の午前に見物した教会とはまた違い、突き抜けた美しさ、潔白な美しさがあって壮観。パントマイマーやアコーディオン弾きが辺りでパフォーマンスを繰り広げ、観光客に愛想を振りまいていました。そんな景色がまた、やけにしっくりする街です。 その後は市内バスでモンマルトルを周遊。カナダのギャスタウンのような街並み。途中、ロートレックも通い詰めた享楽の悪名と文化の薫香高きキャバレー、ムーラン・ルージュを通過。ムーラン・ルージュのシンボル、赤い風車とフレンチ・カンカンは健在だそうですが、残念ながらこの旅ではそれを愉しむチャンスはありません。 とはいえ、このモンマルトル周遊の後の夕食はリドーで取ることになっています。このリドーこそ、ムーラン・ルージュと双璧をなすパリの、いやヨーロッパ最大級のナイトクラブ。50年の歴史を誇るリドーは、まさに大人の社交場といった感じで、前座のバンドがスタンダードナンバーやビッグバンドスタイルのジャズを流すと、いよいよ本ステージ開始。肌もあらわな男女のダンサー達が、一糸乱れず(一糸まとわず、ではないです。悪しからず)歌い踊る様はエロティックというより幻想的でスタイリッシュ。また舞台装置や演出が秀逸で、誇張なく、まさに1分1秒も無駄にすることなくステージが変わる様は、“これぞショービジネスの鑑”的な根性を感じました。妖しく、華やか。賑々しく、艶やか。パリの夜は更けゆきます。(つづく)*写真はモンマルトルの人だかり。奥に見えるのがサクレ・クール寺院です。
2005/06/20
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パリ2日目。旅先で思い出したように知ったことでしたが、この日はよりにもよってメーデー。しかし、そんな日なりの遊び方を、私が知らないわけでもないので、早速出発。 まずは地下鉄1号線に乗ってバスティーユ広場へ。何があるわけでもないけれど、まさに「フランス革命はここから始まった」ともいうべきポイントです。辺りには、メーデーのイベントに備える市民や警備に当たる警官が、早くも臨戦態勢の緊張感で待機しています。ここから20分ほど歩いた、通りから奥まった閑静な場所に、オープンが確認できたピカソ美術館があります。友人の勧めもあり、またピカソに大きな影響を受けたフランシス・ベーコンとの特別展も始まったばかりだというので足を運んだ次第。ここピカソ美術館は、ピカソに関しては世界最高のコレクションを誇るとか。 私は、ベーコンの才能や繊細さは認めますが、はっきり言って作風は嫌いです。なのに、つい見入ってしまう。あのグロテスクさが、やけに惹きつけるからでしょうか。実に、ピカソの思想・技法・テイストを、一気にダークサイドに叩き落すとベーコンになるような感じです。 ピカソ美術館を後にして、セーヌ河に向かってシテ島をまたぎ、サンジェルマン・デ・プレの周辺を散歩。ひらけた場所に出ると、目の前には、古びた教会が姿を現しました。これは、偶然のこと。予定外に飛び込んできたこのサン・ポール・サン・ルイ教会を見学し、セーヌ河沿いにてくてくと歩き続けます。スタンドらしき出店が楽しい!!どこから集めてきた知れぬ小物、いつ頃の、誰が読んだかも分からぬ古本、街の雰囲気のせいか上手そうにも見える絵の類、なぜかあちこちで売られるチェ・ゲバラ関連のグッズ・・・。 散策の果てに、この日の目的地であるサン・シュルピス教会はありました。ここを見てみたかった理由は二つ。教会内部入り口付近の天井にドラクロワが描いた珍しいフレスコ画『デモンを撃つ聖ミカエル』があること。今ひとつの理由は、この教会にはまた、フランスでも最大規模のパイプオルガンが据えられていること。折しもミサの最中で、巨大なパイプオルガンが体を震わせるほどにガンガンに鳴り響いていました。 サン・シュルピス教会からほど近いところに、より有名なサンジェルマン・デ・プレ教会があります。ここには、イエズス会士で日本にキリスト教を持ち込んだ聖フランシスコ・ザビエルに捧げる礼拝堂があるということで見物に行きました。バスティーユ広場から始まったサンジェルマン・デ・プレ教会までの周遊コースは、実に3時間以上の長い散歩となった。ひとまず、午前中に巡るべき箇所は観たので、再び地下鉄を乗り継いでホテルに戻り、午後はモンマルトルへと向かいます。(つづく)*写真は、街角の肉屋さんに飾られた『豚の足』をウインドウ越しに撮影したものです。
2005/06/17
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さて、ルールドでの滞在が、研修それも“全人的癒し”のスピリチュアルな側面だとすれば、昨日モンパルナス入りして以降の残りの日程、パリでの逗留は主に文化的側面からの自己研鑽の場であったりもするのでしょう。ま、そう言えば大袈裟になりますが、要するに観光です。ただし、パリには、訪れた人の興味関心に応えるあらゆる回答が存在しますから、目的意識を持って訪れれば、それは単なる観光を超えるかも知れません。 私の場合は、幼少時から一度として冷める事がなかった美術への愛情や、建築、歴史、音楽について、パリの気分を呼吸することは、この上ない体感のチャンスだったわけです。 一昔前は主に同性愛者と男娼の巣窟として悪名高かったのが、今ではすっかり健全になり、明るい公園と変わり、パリジャン/パリジェンヌにとって絶好のジョギングやサイクリングコース、休日の家族の憩いの場となったブーローニュの森を皮切りに、この日はパリの名所を片端から訪ねる一日なりました。19世紀には植民地博覧会を鼻高々と開催したシャイヨ宮からは、エッフェル塔がよく見えます。さすがに壮観ですが、あまりにもベタな名所に、照れ臭い私は素直に感嘆の声が上げられない・・・。しかし、ちゃっかり写真を撮りまくってしまいました。 そして、私なりに楽しみにしていた、中世ゴシック建築の至宝であるノートル・ダム寺院を訪問。我らの聖母を名乗る寺院はまた後ろ姿も美しく、まったく違うキャラクターを見せますが、この背面、セーヌ河越しに見るのがまた素晴らしい。そうそうセーヌ河って、隅田川と姉妹河川なんですってね。驚きました。 昼食後はヴェルサイユ宮殿(食後には濃厚過ぎます!!)。フランス王政の歴史をもっと勉強していれば、この見学は絢爛豪華を愛でる以上の収穫があったはずだから、今更ながらフランスへの苦手意識/勉強不足が惜しまれましたが、それでもここでは、もう十分というほどに、目も眩むばかりの装飾品や調度品、客間や寝室の数々を目にしたから満足。 夜は、エッフェル塔の足元からセーヌ河にクルージング。つかの間の船旅を祝すかのように、折からエッフェル塔が夜のライトアップでクルージングを盛り上げます。昼間のエッフェル塔は東京タワーに比べて地味なのですが、夜のエッフェル塔はスゴイ。真夜中は別の顔!! 町並みのみならず、くぐる橋のすべてが、時に楽しげに、時にムーディに、時にしっとりとライティングされクルージングを飽きさせません。 また、昼間の散策と趣きを異にして、川面の目線から見上げる名所の数々も別の表情を見せて興味が尽きません。ノートル・ダム寺院、オルセー美術館・・・そのすべてが光で化粧をし、喧騒の町を大人っぽく演出しています。はて、行き交う船から観光客が大声とともに手を振るのは万国共通か?川岸には、古来変わらぬ恋人たちが囁き合う風景が散見されました。 ルールドののどかさから一転、見るもの全てが観光名所というパリでの初日は、まさに観光旅行を地で行くような、それでいて追い立てられる事もなく、ノンビリと純粋に楽しむ事が出来た一日でした。(つづく)*写真は、パリの市場の野菜売り場。旅先の市場は、その街の生活が分かって楽しいです。
2005/06/12
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この旅の中日は、ちょうどルールドからパリへの移動日です。11時17分のTVG(ヨーロッパの新幹線)にて7時間、一路パリはモンパルナスの駅に向かいます。こうした移動時間は、普段なら無駄に思えるのに、ヨーロッパでの陸路での移動手段をじっくり体験してみたかったし、ノンビリとした移動もなぜかしっくりと気分に馴染むから不思議です。 ポー、ボルドー、ポワティエ・・・と北上。乗り心地は静かですが、車窓から見える景色のせいかスピード感がないよう気も。全席禁煙、携帯電話使用禁止。 乗車時に弁当を持って乗りましたが、このランチボックス、中身はと言えば、1:リンゴ1個2:ミネラルウォーター1本3:パン1個4:ポテトチップス1袋5:メインディッシュ という内容。なんか素っ気ないけど可愛いです。 さて、安全点検などで予定よりやや遅れ、降り立ったモンパルナスの駅は喧噪そのものといった様子で、ちょうど15年以上前に初めて訪れたニューヨークのセントラル・ステーションを思い出しました。 夕食は、パリで若い人達に人気というレストランで。しかしメニューを聞いて唖然。エスカルゴ!? 実は、私は貝類が苦手。のみならず、カタツムリやナメクジなどの生き物も苦手なのです。サザエのつぼ焼きだって絶対食べれません。 さていよいよ運び出されるエスカルゴ。恐る恐る口に運ぶと・・・。バターとバジルで殆どエスカルゴそのものの味は分からないけど、食感は最高。美味い。美味すぎる!!この旅で初めて口にした白ワインともよく合います。 旅先では、普段できないことにもトライできる瞬間風速的な勇気の湧く瞬間があるようです。かつてシンガポールで、首にニシキヘビを巻いた時もそうでしたし。それと同じことが、パリのエスカルゴで起こったということ。ただし、エスカルゴは今後も口にするだろうけど、ニシキヘビはもうご免です。 小さな自分の勇気(?)に気を良くしながら、ほろ酔いでホテルに帰り、翌日の予定を立て直して就寝。スローなルールドから一転、都会のスピードに慣れていないのか少々疲れた模様。(つづく)
2005/06/11
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沐浴というのは、要するに水浴びのことです。ヒンドゥー教においてもガンジス川での沐浴は特別な意味を持つが、それは勿論キリスト教でも同じこと。古来、水は人間の罪業を清める重要な意味を持って来たのでしょう。 その沐浴、しかもルールドの奇跡の泉から湧く水での沐浴をこの朝することになりました。 聞けば朝9時のオープンに合わせて大勢の人が詰めかけるとのこと、早めに準備し、7時30分には沐浴場に待機。9時までは構わないけれど、それ以降、この待ち合いでの私語は禁じられています。皆、沐浴に臨むにあたって、心の準備と黙想をせよということなのでしょう。 早くから待機したので、オープン後、すぐに沐浴場に招き入れられます。ボランティアに誘われて、シャワーカーテンのようなキレが下がる小部屋が並ぶ、細長い中待ち合いに進みます。 ボランティアと言えば、ここルールドには、採用に2年も待たされるほどに、巡礼をサポートするボランティアを希望する人がいるそうです。実際、滞在中もボランティアが巨大な車椅子を引いたり、巡礼者の介助をする光景ばかりが見られました。これは信仰に起因するのなのか、一概には決められませんが、そうでなくても、この何万分の一かの精神があれば、日本も随分住み易くなるだろうな、と感じました。ただ、ボランティアという概念そのものが一人歩きしている現状、望むべくもないのかも知れません。 この春退任された、学生時代の生命倫理学の恩師は最終講義で「海外で何故ボランティが長続きするのか。それは無理しないからです。体の不自由な人の家に掃除や洗濯に行くのに、ちゃんと交通費を要求します。しかし日本はそれをやらない。ボランティアなのにお金をいただくなんて・・・と言って、受け取らない。それで、結局負担になって皆止めてしまうのです」と話されました。こうした気質もまた、日本のボランティア精神そのものが抱える課題と言えるでしょう。 さて、中待ち合いに招かれると、それぞれ6人部屋の個室に入れられます。そう、つまりカーテンの仕切りの向こう。水の匂いがキツく、水泳に打ち込んでいた頃をふと思い出したり・・・。この部屋で、見も知らぬ人たちの中、いきなりパンツ一枚になるよう指示されるのです。 そうしているうちにさらに奥、沐浴用の浴槽がある小部屋に入るよう促されると、中には、ボランティアのヘルパーと神父の計2名が中央の浴槽をまたいで左右に控えます。入ってすぐヘルパーに指示され、その場で最後の一枚、頼みの綱のパンツをも脱ぐよう説明が!!さらなる動揺。真っ裸。 すかさずヘルパーが、腰に布を巻いてくれます。この姿、まさに洗礼者ヨハネから洗礼を受けるイエスと同じ。身には、腰布一枚。 やがて神父が聖母に願をかけるよう話し、「準備はいいか」と問いかけます。準備などいいはずがないワケで、前の晩から「アレを祈ろう」「コレを願おう」と考えていたのに、この不思議な雰囲気にすっかり呑み込まれてしまい、何を祈るべきかも思い出せないのです。しかし「できた」と応えてしまい、前に進んでしまいました。これが、今の私の限界。精一杯なのかもしれません。 つま先から浴槽に進みますが、水は想像以上に冷たい!!と、足先に伝わる容赦ない水温を噛み締める間もなく、いきなり左右から両腕を取られ、軽々と浴槽に沈められます。「!!!」声もあげられないほどに冷たい水の中で、何かに躊躇う私に神父が、心配しないで肩まで浸かりなさいと語りかけます。いったん、何もかも(?)が収縮し、やがて弛緩。1秒?それとも2秒?いや3秒か?実にわずかのはずが、長大な時間に感じられました。 立ち上がって半身を水から出すと、神父がコップを差し出し、それに蛇口から滴る奇跡の水を汲み飲み干し、一礼して退出。沐浴終了です。 さて、この不思議な雰囲気で行われた沐浴にまつわる心の揺れは、果たして神秘体験なのでしょうか?その答えは先延ばしにしたとして、少なくともこの沐浴で味わう爽快感は、一つのカタストロフィには違いありませんでした。 その後は聖域の裏手にある、イエスがピラトから刑を言い渡される場面から、己の十字架を背負い、磔刑に処され、死に、やがて復活するまでをブロンズ像で表現している観光名所『十字架の道行き』を散歩。まさに“聖地のカジュアル化”を地で行くような観光名所ですが、それでも磔刑の場面の像の前では、信者が立ち尽くして熱心に祈りを捧げる姿も目撃されました。 午後からは、3両編成の市内バスでルールドの街を廻り、ピック・ド・ジュール、つまりケーブルカーの駅まで。ここからケーブルカーで約6分、標高1000メートルの山に登りました。 ケーブルカーを降りた中腹からはルールドの街が一望できます。神秘的な沐浴を体験した街。ボランティアの熱気が溢れる街。賑やかさと静謐さを同時にたたえた街。そのルールドが、澄んだ空気の向こう、襖のようなピレネー山脈の足元で静かに鼓動していました。(つづく)*写真は聖域内に植えられた木。何か、人間が元気一杯に体操しているように見え、面白くてエネルギッシュだったのでつい写真を撮りました。
2005/05/30
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さてルールドでの初日は、ツアーそのもののハイライトとなる奇跡の泉を訪ねました。ホテルから聖域まではわずか数分の距離。聖域の入り口から坂を下り、我々を迎えるのは完全なる受容を表す聖母マリアの像。聖母像の足元に伏し、我を忘れて主イエスへのとりなしを祈る人の姿もチラホラ。振り返った目線の先、見る者をその峻厳さで畏怖させるのがロザリオ聖堂です。 このロザリオ聖堂(およびシュペリウール・バジリカ聖堂)は、ネオ・ビザンチン様式、聖ベルナデッタの前に出現した聖母のロザリオに敬意を表して建築されたものです。正面から見ると一つの聖堂のように見えますが、実はこの聖堂は二重構造になっており、外階段から中二階に上がると、その奥にシュペリウール・バジリカ聖堂があります。遠近法の妙で、二つの建物が重なって一つの大きな聖堂のように見える仕掛けです。 この中二階からは聖域を一望できますが、ここから見下ろす聖域は、あたかも聖母の手が幼子を包み込むような形状に設計されているようにも思えました。 聖堂を抜けて山道を下ると、流れの速いガヴ・ド・ポー川に出ます。このほとり、ちょうど聖堂の背面真下にあたる位置にあるマサビエールの洞窟こそが、聖ベルナデッタが聖母のお告げに従って掘り出した、奇跡の水の湧く泉のある場所なのです。 早速奇跡の泉から引いて来た水を飲んでみます。この水の味について、特別かそうでないか、思い込み以上の分析は私にはできませんが、しかし憧れ、夢に見、ようやく辿り着いた聖地の水を特別な感慨なく飲めたと言えば、これは嘘になるでしょう。 この水飲み場からまっすぐ聖域を抜けると、ちょっとした商店街“洞窟通り”に出ます。この洞窟通りからすこし逸れたところに、聖ベルナデッタの生家があります。昼食の後は聖ベルナデッタの育ったバートレスの街へ。 このベルナデッタ、相当に貧しい生活をしていたらしく、その口減らしのために預けに出された土地、そここそがバートレスなのです。ベルナデッタは幼少期を、ここで乳母の手によって羊飼いとして育てられました。 バートレスは実にのどかな街で、きっと誰もが思い描くヨーロッパの田園風景そのものといった趣きでした。 夕食後は、ルールドの宗教行事であるロウソク行列に参加。それぞれが、聖母に捧げるロウソクを手に持って、聖域を練り歩きます。おそらく、この日ルールドの街を訪れていた巡礼者、観光客のほとんどがこの行列に参加したのではないでしょうか。 信仰ある人々の大きな渦の中で、文化や信仰の違いなど抱え切れないほどの曖昧さを抱えたまま歩を進める自分がいました。しかし、神秘的な灯りのページェントに浮かされたままホテルに戻り、この日は夢見心地で日本の家族にハガキをしたため就寝したのです。(つづく)*写真は聖域内、シュペリウール・バジリカ聖堂。二つの聖堂が重なって、正面からは一つの大きな聖堂であるかのように見えます。
2005/05/25
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この旅では、1週間余りの旅程を二カ所、つまりルールドとパリで過ごしますが、まず一体、ルールドとはどういう場所なのでしょう。ルールドの奇跡の伝説の発端は150年近く昔にさかのぼります。 大変貧しい羊飼いだった少女ベルナデッタは1858年、14歳の時、現在のマサビエールの洞窟付近で妹と薪拾いをしていた際、初めて聖母マリアの出現に遭います(ルールドの聖母を象った聖母像がすべては、ベルナデッタの聖母目撃の証言をもとにしているそうですが、その姿は白衣に青い帯を付け、足元には薔薇が咲いていたそうです)。聖母を目撃して3日目、あと15日間この洞窟に来なさいとのお告げを、土地独特のオック語で聞きます。結局合計18回にわたって聖母はこの少女の目の前に姿を現し、ついに聖母は少女に「ここを掘り、草を食みなさい」と告げます。ちなみに最後のお告げまで、聖母は自らを名乗らなかったそうです。最後のお告げでようやく、ただ「私は無原罪の御宿りを受けたものです」とラテン語で打ち明けたそうです。ラテン語はもちろん、神学用語など知らず、地元のオック語しか解さないはずのベルナデッタが、この女性の正体について地元の神父に告げたことから、これはただ事ではないと調査が開始されたのです。 さてベルナデッタは四這いでそのお告げを実行しましたが、この獣の姿は罪人への清めを表していると現在では解釈されています。 周囲の皆が、少女は気が触れたのだと思い始めたその矢先、岩場から水が湧き出しました。この水を飲んだり浴びたりした人の病気や怪我が次々に癒されていきます。この奇跡の噂は噂を呼び、やがてヨーロッパでも最大級のキリスト教の巡礼地へとなっていったのです。 これがいわゆる「ルールドの奇跡」ですが、こうしてルールドは、のちに列聖された一人の少女の神秘体験によって、一躍キリスト教の聖地となったのです(ちなみにルールドの聖母の祝日は2月11日)。 この聖地ルールドに来て、巡礼者が必ずすることにはいくつかあるそうですが、1:奇跡の泉の水を飲む2:奇跡の泉の水を汲む3:奇跡の泉の水で沐浴する4:マサビエールの洞窟の壁に触れる5:聖母マリアにロウソクを供えるあたりにまとめられそうです。当然、最初の逗留地ルールドではこの目的を体験することになるのです。(つづく)*写真は羊飼いの少女ベルナデッタへの聖母のお告げによって「奇跡」が起こったマサビエールの洞窟。洞窟上部には、お告げをもとにした“ルールドの聖母”像が優しく見下ろしています。
2005/05/21
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今回の旅は“リフレッシュと勉強が半々”、そういうイメージを自分なりに抱いていました。まず向かうルールドは、キリスト教(特にカトリック)における聖地のある街ですが、ここで信仰や文化、人種や性別を越えて“癒しとは何か”について、実際に見聞するのが目的です。 ヒーリング(癒し)、ヒール(癒す)、ヒーラー(癒し手)。サイコセラピーは勿論、通常の西洋医学や美容健康の世界でもお馴染みの言葉ですが、この“heal”の語源はギリシャ語のホロスであり、ホロスはまた英語の“whole(全体)”語源でもあります。K先生は、心理学や教育学を通じて、全人的医療=ホリスティック・メディケーション実践時代へ向けての啓蒙活動をライフワークとされていますが、その“ホリスティック”もまたホロスと同根であることは説明不要でしょう。 ホリスティックな健康のあり方とは、言うまでもなく、肉体のみならず、精神も心も(あるいは、拡大解釈すれば、その人をとりまく人間関係や社会関係にいたる“関係性”を含めることも出来るでしょう)全てにおいて、健全なバランスが保たれていることです。 ルールドという信仰の地は、当然皆癒しを求めて人々が集まるので、そこでは想いや祈りがエネルギーとして凝縮されているでしょうし、またそれに応え続けて来たルールドという土地自身が、あるいは癒しの磁場として、これまたエネルギーを放出してるでしょう。 この人と土地が相互に関係し合う“交差点”ルールドで、全人的な健康に欠かせない心身の癒しについて体験する訳です。******************** 日本からパリ・ド・ゴール空港までの所要時間は約12時間。機内では、特に退屈もせず過ごしました。映画は『Mr.インクレディブル』と『スカイ・キャプテン』が上映。どちらも楽しく鑑賞。なるほど、パリへの上空で“スカイ・キャプテン”とは!!粋な偶然。 現地時間17時20分、パリ・ド・ゴール空港に到着。ここでエアバス(国内便)を駆って、1時間弱でトゥールーズへ。緯度のせいで、夜でも日本の夏のように陽が高く明るいのです。余談ですが、ここトゥールーズは学問の都としても知られています。 ここで再びバスに乗り換えて、今度は陸路でルールドへ。途中車窓からは、夕陽を受けたピレネー山脈がバス左手にその稜線を顕しました。奇麗でした。この向こうに、スペインが在るのかな、なんて想像したりして。 バスで2時間あまり、やがてルールドに到着。ホテルは、“奇跡の泉”という聖地を擁する聖域にほぼ隣接し、この聖域までは徒歩にして3分弱という好ロケーションでした。ここルールドは、人口わずか1万5000人の街であるにも関わらず、年間600万人近い人が、各国から巡礼に訪れる土地で、なんでもパリについで二番目にホテルの多い場所とか。 辺り一帯お土産屋や神具のお店で賑わい、夜中でも人通りが絶えません。さながら伊香保温泉の佇まい。しかり、日本の温泉も各々のルーツをたどれば、奇跡や伝説に彩られ癒しの場として機能して来た、いわば聖地。そこは、聖俗の混在する場だけが放つ独特のエネルギーに満ち溢れていました。(つづく)*写真は小高い山の中腹から望むルールドの街。街は自然に抱かれ、聖地は街に抱かれ、人は聖地に抱かれる。そういう場所です。
2005/05/17
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帰国後、やはり時差ボケが出てますね。朝まで眠れず、午前8時くらいからウトウトし、夕方まで熟睡という感じです。その合間にも、旅のメモをまとめていますが、なかなか骨が折れます。書き始めると、どんどん膨らんでしまう。 日頃締め切りや字数制限のあ原稿ばかり書いているせいか、久々に自由に文章が書けると思ったらやけに生き生きしてしまって。 旅の記憶が鮮やかなうちにひとまとめにしておこうと、眠い目をこすって奮闘しています。月曜日から仕事復帰、こんなので大丈夫なのかな???(了)
2005/05/07
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無事、フランスより帰国しました。ルールド~パリの旅、非常に濃厚なものとなりました。この旅の様子は、追ってブログでも紹介したいな、と思っています(かなり膨大なメモを取ったのですが、逆にまとめるのが大変そうです)。 不在中コメントをくださった皆さん、訪問して下さった皆さん、ありがとうございました。(了)
2005/05/06
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明日からフランスに赴きます。聖地で有名なルルドへまず入り、数日逗留した後、パリに移動します。もともと沖縄にいた頃に関わった心理学研究所の関係のワークショップとして開催された研修ツアーで、任意参加ですが、私もカウンセラーの資格取得後はすっかり自己研鑽を怠っておりましたので、これをきっかけにまた勉強を重ねようと思い参加しました。 なにぶんヨーロッパは初めてなので、ゆっくりと自己洞察をする余裕もないかもしれませんが、チャンスを生かして実りある旅にしたいものです。数日日記更新をしませんが、帰国後はまた旅日記などもアップしようかな、なんて考えています。それでは行って来ます!!(了)
2005/04/25
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今日はなんだかノンビリと過ごしてしまいましたが、考えてみれば、あと一週間後にはフランスへの小旅行が控えています。「まだちょっと先・・・」なんて言い続けているうちに、アッと言う間に残り一週間に。 意外と何も準備ができていなかったりするんだ、これが。さぁ、ぼちぼち下準備を始めなくては!!(了)
2005/04/17
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