サリエリの独り言日記

サリエリの独り言日記

2010.08.06
XML
カテゴリ: カテゴリ未分類
 それにしても、どれだけ見映えを変えたところで、並んでいる本の中味ばかりは如何ともしがたく、このたびの本屋さんめぐりで、どれだけ書棚の間を徘徊しようが、並んでいる本そのものから驚きが出て来るわけではない。そういうことなら古本屋さんめぐりのほうが、「未知との遭遇」の機会は多いでのでしょうが、私はいかなる意味でもフェティッシュな本マニアではありません。

 前にも少し触れたことがありますが、私が若いころ読み耽っていた本で、何やかやのゴタゴタで、いつの間にやら無くなってしまった本というのが、こうした大書店ならあるかもしれない。こうして時々本屋さんを訪れる大半の理由は、どうやらそうしたことなのです。
 そんなこと、ネット検索で済むじゃないか、と言われそうですが、失われた本の記憶というのは、その造本というか背表紙とか扉に刻まれた刻印とともに、ごく視覚的手触り的な記憶として残っていて、ハッキリとはタイトルも著者も、まして出版社名も思い出せない。だけど実物を書棚に見つけて、それを手にとって扉を開くとき、初めて読んだころの感覚が、その周辺の記憶とともにありありとよみがえって来る。一冊一冊の本に染みついた記憶には、その周辺にボヤッとしたシミのような拡がりが、原子核を取り巻く電子の雲のように覆っていて、どこまでがどれだというような境界面の特定など出来ません。
 こうした感覚というのは、どうも電子書籍では味わえないもののようです。電子パッドに気に入った本を千冊も二千冊も好きなだけ取り込めると言われても、それがどうしたという気がするのです。

 電子書籍の効用は、やはりデータ的な活用にのみその効果を発揮するので、一冊一冊の本が放つこうした微光のような輝きは、それを手にとって読んだ人の指先と目線で刻まれた記憶でしょう。そういう意味で、これも以前話したことがありますが(インテルメッツォ 50.2009年11月26日)、図書館の活用というのも、読書という優れて個人的な行為とは、その公共性という性格からは馴染まないところがある、と私は思っているのです。
 データ的活用とは、一冊一冊の本に刻まれた活字が、自ずから生み出している時間性を、バラバラに解体していくという行為をいうので、電子パッドからは実際の本の扉を開けたときのような、そうした時の経過という感覚は出て来ようがないのです。早い話、活字の間に動画や写真が現れたり、語句の説明が出て来たり、文字を拡大したり字体を変えたり、横書きを縦書きに表示したり、あげくに関連書籍の宣伝が現れたりと、およそ書籍を読むという行為で考えられる利便性を、ほとんどすべて備えているといってよい電子パッドなのですが、「そこまでやってくれるなら、いっそイチイチ活字を読まなくても、自動的に中味が頭に入るようにしてくれ」と、今どきの怠惰に慣れた脳ミソはすぐ思ってしまうでしょう(実際SFの世界では、そういうふうに一瞬にして記憶を頭に焼き付ける、フラッシュメモリーのようなツールが日常茶飯的に登場しますね)。

 でまた、そこでそれがどうした、バラバラに解体された活字に何の効用があるのか、ということになって来ます。養老さんが言われるごとく、データ=情報には時間性が無い。ここでいう時間性とは、身体性という言葉に置き換えてもよいので、頭は限りなく効率を(手抜きを)求めてデータ的処理を希求するけれども、身体はどこかで手間ヒマのかかる時間を掛けてやらないと、物事が本当には完全に腑に落ちていないところが(少なくとも私には)ある。
 これは間違いなく私たちが生身の身体をもった、生き物であるところから来る感覚なので、身体性とはどうやら時間そのものの感覚であるようなのです。平たく言えば何事も、頭で分かっていても、実際に手を下すには、しかるべく手間がかかるということで、生身である私の身体に物事を納得させるには、手間ヒマを掛けるしかない。

 というわけで、我が身の過去を発掘する考古学者のような気分で、相変わらず私はベタな本屋さん巡りを繰り返すということに相成ります。今回「ああやっぱりな」とため息をつきながらも(そのため息だって、本屋さんに行く値打ちの一つですよ)、一つだけ収穫をあげるとするならば、以前から探していてどうしようもなく「ネットで古本を買うしかないか」、と思っていた本が一冊だけ見つかったことでした。


 どんな文章かというと、

― 一般に古典の注釈では、文法的規範や辞典的権威がのさばりすぎており、かかる科学的主義が古典の解釈を毒している例は、ほとんど掃いて捨てるほどあるといえる。これは、科学という概念が動詞的に働かずに名詞的に凝固し、研究者が古典の言葉を、絶対的観察者の椅子に坐って、過去の言葉として、あとから見ていることに関連する。 … 対話という水準はしかし、研究者にこうした観察者の椅子から、現在形の話す主体(Speaking Subject)との共犯、からみあいの関係にまで降りてくること、すなわち相手にいうことをきかせるのではなく、そうかといって対象埋没的にこちらが自己を放棄するのでもない相互的な立場に立つよう呼びかける。 ― 西郷信綱「古事記の世界」(岩波新書)より 

 四十年ほど前に、わけが分からぬままに、それでも好んだ言葉つきとか用法とかが、ありありと浮んでくるのですが、今どきの居並ぶ新書コーナーで、このような文章というのは、はたしてお目にかかることが出来るのでしょうか?





お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

Last updated  2010.08.06 11:57:18
コメントを書く


【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! -- / --
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
X

PR

×

Calendar

Archives

2026.10
2026.09
2026.08
2026.07
2026.06

Profile

TNサリエリ

TNサリエリ

Comments

TNサリエリ @ Re[1]:Kyoto Tachibana High School Green Band 10.(09/07) ナガノさんへ  コメントいただき、ありが…
ナガノ@ Re:Kyoto Tachibana High School Green Band 10.(09/07) 2年遅れで、この文章を読んで泣けてしまっ…
TNサリエリ@ ふたたび、コメントありがとうございます。 cocolateさんへ 私自身、彼女の演奏に刺激…
cocolate@ Re:エレクトーンというガラパゴス 1.(06/17) 再びおじゃまします。 826askaさんのYouT…
cocolateさんへ@ コメントありがとうございます。 三年ほど前に826asukaさんのことを知り、…

Favorite Blog

まだ登録されていません

© Rakuten Group, Inc.
X
Design a Mobile Site
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: