オキナワの中年

オキナワの中年

新川明『沖縄・統合と反逆』上




2000/11/06(2003年4月21日に一部訂正) 
新報文芸/大野 隆之/新川明『沖縄・統合と反逆』 「大城立裕論・ノート」/半世紀超す思想対立 相対化に徹する大城の方法


 新川明『沖縄・統合と反逆』(筑摩書房)の第三章「大城立裕論・ノート」を読んで驚いた。
 今年三月に行われた岡本恵徳教授退官記念パーティーにおいてあいさつに立った大城立裕は、「『琉大文学』の闘士みなさん」と切り出した。会場の人々はどちらかと言えば苦笑といった感じではあったが、特に殺気だった雰囲気はなかった。私は一九五〇年代の対立は、もはやここにいる両者にとって青春の一コマなのだろうなどと、部外者ゆえののんきな解釈をしていた。ところがこれはとんでも無い間違いで、半世紀を超え、今なお沖縄のきわめて重要な思想対立の一つなのかも知れないのである。
 新川の批判は多岐に及ぶが、純粋に「文学」の問題として考えるとき、論点は「政治と文学」および「作家大城立裕の〈日本〉志向」と言うことになるだろう。もちろんそれ以前に「純粋に文学の問題」など存在するのか、という厄介な問題があるのだが、ここではその点には踏み込まない。
 「政治と文学」は古くて新しい問題であるが、現在の一般的な理解では、極端に政治に肩入れすると必然的に文学はやせ細る、という大城の主張が主流であろう。これはプロレタリア文学が非常に数多くの作品を生みながら、わずかの秀作しか残し得なかったという事実に裏付けられている。しかし新川の、一九五〇年代沖縄のような過酷な状況においては「政治的主体の確立」(社会主義リアリズム)抜きには文学は不可能だ、と言う主張も強力な説得力を持っている。プロレタリア文学においては、実は作家本人はさほど貧困ではなかった、というケースが多かったのに対し、戦後沖縄では誰もが政治的困難の当事者であった。
 ただ、この問題は抽象的に議論すると、結局は世界観の相違というところで終わりかねない。そこで問題を具体化し、理念としては正しかったのかも知れない新川の主張が、なぜ実作、特に小説の分野で実を結ばなかったのか、と置き換えることにする。
 ここで小説というジャンルの特性を考える必要がある。例えば論文の様な主張形態があるにも関わらず、なぜ小説というジャンルを選択するのか。感性、という問題なら、詩でもいい。実際に新川自身が、詩においては高度な達成を残しているのだ。
 この問題については、現在では「多声性」という概念で説明されることが多い。論文は一つの立場に貫かれる必要がある。また詩も一人の作者の、いわば心の叫びである。これに対し小説には多数の人物が登場し、多様な理念を持ちながら、ぶつかり合い葛藤(かっとう)していくというジャンルである。そのような言語空間において、作者の理念もまた、多くの声の中の一つに過ぎないのだ。すなわち小説を書くというのは、自己の理念と他者の理念をぶつけつつ、迂回(うかい)を繰り返しながら進む、自己の理念の絶えざる相対化なのである。
 例えば『琉大文学』の成果として必ずあげられる作品に、池沢聡(岡本恵徳)の「ガード」がある。表現にやや未成熟な部分もあるが、加害者としての沖縄というモチーフまで含んだ、戦後十年に満たない沖縄の状況においては、驚異的な作品である。先にあげた退官時のパーティーのおり、池沢復活の要望が多かったが、仮に研究ではなく実作に進めば一体どんな作品を残したか。これは同時代を生きた文学青年達の共通した夢なのであろう。
 作品中確かに「権力者は喜んでよいわけだ。労しないで権力の代行者を一人そだてたんだから」というような生硬なマルクス主義的な表現が見られ、支配者アメリカの財産を守るために、同じ沖縄人を撃ち殺さなければならない、ガードの葛藤を描き出している。ところが、そう考える主人公は仲間の内で孤立し、社会主義的連帯は全く実現していかない。収入を得るためには仕方がない、と考えるもの。最初は葛藤するが、開き直ることで事態に適応するもの。その中で主人公はひとり死んでいく。
 「社会主義リアリズム」とは本来、社会主義の絶対的正しさを証明し、連帯を促進し、あるべき世界・理想を提示しなければならない。ところがこの作品では、むしろ社会主義的な抵抗の理念が、他者の中で孤立し、挫折していく様を描いている。そして作品としては、そのような自己葛藤・相対化を通して、同時代の中で群を抜いた達成を示しているのである。
 そもそも「社会主義リアリズム」を字義通り受け入れようとすれば、実作者は立ち止まらざるを得ない。社会主義の理念を順守しようとすれば、リアリズムを大幅に犠牲にせざるを得ず、リアリズムに徹すれば、理念の実現の困難性ばかりが浮上してしまう。従って実作者は池沢のように、理念を内部から食い破っていくか、あるいは理念と現実のあまりの隔たりに、呆然(ぼうぜん)とするかいずれかであっただろう。
 自己の理念の相対化を、意識的な方法として切り開いていったのが、大城立裕である。大城は図式に陥りかねない危険を冒しても、相対主義を貫こうとする。その典型が「カクテル・パーティー」であろう。沖縄人、中国人、日本人、アメリカ人四者が、それぞれの背景と理念をぶつけあい対立葛藤する。そしてその葛藤を通じて、新しい自己と出会う。これが「カクテル・パーティー」の枠組みである。また、これが「単声的」な「社会主義リアリズム」に対する大城の回答であった。
 このような相対主義の背景の一つとして、大城の中央志向があった。これが二つ目の課題となる、「作家大城立裕の〈日本〉志向」の問題なのであるが、紙数がつきてしまったため、回を改めたい。


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