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苫治安

苫治安

2005.08.19
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カテゴリ: カテゴリ未分類
第5回。最終回である。

ある日、彼らは病気で歩けないような人々を除いて、全員アウシュヴィッツから別な場所へ移動するよう囚人たちに通達する。
病気の人、子ども、年寄り(は、最初に殺されてるからいないか?)などの取り残された人々は、本来、そのあとにやってくる部隊によって皆殺しにされるはずだった。何しろ彼らは生き証人なのだ。
だが、混乱の極みにあったためか後続部隊は到着せず、代わりに現れたのはソ連軍だった。

むしろ、移動した人々が移動先で殺されたらしい。やっぱり生き証人だから。
道中、逃げ出した人々だけが生き残った(んだったと思うがうろ覚え……(汗))。

待ちに待った解放。
もはや手の届かぬ夢に成り果てていたその喜ぶべき現実は、しかしながら、元囚人たちにすぐさま幸せを運びはしなかった。

同じソビエト兵でも、収容所での生き残りは「スパイではないか」とあらぬ疑いをかけられ、ソビエト内の収容所に送られた。家に帰ることができたのはスターリンの死後、戦後20年以上が経ってからのことだった(確か)。

さらに、喜び勇んで故郷へ帰ったユダヤ人は愕然とした。
家がないのだ。
正確には、家はあるのに別の人間が住んでおり、別の人間の財産になっていたのだ(固定資産が認められていなかったとかなんとか……よくわからん)。
ある女性は、厄介者のような目で見られ、そのまま故郷をあとにした。以来、一度も帰っていない。
またある男性は、やはり他人が住んでいたために帰れず、10年くらいして初めて元の住処を訪ねてみた。中からは見知らぬ男が現れ、男性を家の中に招き入れた。そして「あんたが何しにきたか知ってるぞ。お宝を取りに来たんだろう?」と言った。男性が腹を立てて立ち去ろうとすると、住人はなおも追いすがって「取り分は半々でいい」と言い募った。もちろんそんな隠し財産なんかどこにもなかった。男性は嫌な思いだけして帰った。その数年後、もう一度様子を見に行ってみると、住人はおらず、家は荒れ果てていた。近所の人に話を聞いたところ、彼が帰ったあとに男は家中を引っくり返して財宝探しを始めたらしい。それが高じてついには住めないまでに荒れてしまったわけだった。

ちょっとびっくり。
「事実は小説より奇なり」というけれど、それ以前に想像の範疇を超えているような……。
隠し財産の妄想は、「ユダヤ人=金持ち」という先入観から来ているのだろうか。
それにしたって。
あったところで他人の財産だろう。どうして自分がもらえると思うわけ?(←真の問題はココではないけれど)


アウシュヴィッツ強制収容所は消滅したはずだったが、何もかも終わったわけではなかった。
今度は復讐が始まった。
強制収容所から解放され、列車で移動していたユダヤ人は、あるドイツ人を車内で圧死させた。何の罪悪感もなかったし、今でも当然の権利だと言って憚らない。そのドイツ人は同じ収容所の囚人だったのに。もしかしたらユダヤ人より低い扱いを受けていたホモの人だったかもしれず、あるいは反ナチの政治犯だったかもしれないのに。
あるいはまた、アウシュヴィッツにいたわけではないが同じユダヤ人である者たちによって、親衛隊隊員への私的粛清を目的とする旅団が結成され、かなり長いこと活動していた。
要するにテロ集団だ(どんなに正当化を図っても彼らのやったことは「リンチ」であり「暗殺」である)。


奇しくもフランクルが『夜と霧』で指摘するように、不正の犠牲者だからといって、自分も不正を働き返すことは全く正当なことではない。泥棒に入られたからといって、他人の家に泥棒に入るだろうか? テロを受けたからといって、戦争を仕返すのは実は論理破綻の行為なのである。
囚人たちはあまりにも大きな傷を負ったために、正しい正義の認識を回復するまでに非常に時間がかかったと、フランクルは指摘していた。ユダヤ人の中には、今なおそれが回復していない人々がいるのかもしれない。それは理由の無いことではないのだが、だからといって正当化されるべきではない。
(全く同じことがアメリカの9・11をはじめ世界各地の各事象に言えるのだが……個人個人の心情を慮るに、実際に正しい正義の認識を回復するのは困難だろうと察せられる)

まぁそっち側の極端な例はひとまずおくとして、戦後、強制収容所にいた親衛隊隊員の捜索が始まった。
彼らは皆、通常の兵士としてドイツ軍内に紛れ込んでいた。
所長のルドルフ・ヘスも多分に洩れず、水兵の格好をして追及をいったんは逃れた。
しかし連合軍はヘスの妻を拘束し、尋問にかけた。
彼女は「夫は死んだ」と言い張っていたが、息子のシベリア行きをネタに脅され、息子を救いたいがためにヘスの潜伏先と偽名を白状した。
その晩、ヘスはある牧場で捕まった。
彼は裁判にかけられ、アウシュヴィッツの地で絞首刑になった。
あるユダヤ人は、ヘスが絞首台に立ったときに何か言うのではないかと思って待っていた。彼が筋金入りの親衛隊隊員であることを知っていたので、ナチスのお題目か何かを唱えるのではないかと思ったのだ。
だが、ヘスは一言も発しなかった。自分は間違っていたとも、間違っていなかったとも言わなかった。

もっとも彼は、裁判にかけられるまでの期間に、「アウシュヴィッツ強制収容所」の覚書を書いている。
どういうふうに強制収容所を作っていったか、そこでの生活はどうだったかなど、事実を列挙した。
だが、虐殺に対する後悔や反省は、一言も書かれなかった。
彼が後悔したのはただ一点、「家族と過ごす時間をもっと作ればよかった」ということだけだ。
もしかして最初から最後まで、彼にとってユダヤ人は「人間扱い」の範疇外だったのかもしれない。

アウシュヴィッツの運営には直接関わらなかったが、ユダヤ人移送(&虐殺)を推進した立役者アイヒマンも、いったんは追及を逃れ、その後15年にわたって身を潜めていた。
しかし、1960年、遂に見つかって捕まり(よく見つけたな)、裁判にかけられた。もちろん死刑になった。
悪名高いメンゲレ博士は、どこだかのだれだかを買収(!)して南米へ逃れ、消息不明となった。

アウシュヴィッツには数千人の親衛隊隊員がいたらしい。
そのうち、戦後裁判にかけられたのはわずかに800人程度。

番組にずっと出演していたグレーニングも、追及を逃れた一人だった。
彼はアウシュヴィッツで会計のようなポストにいた。
インタビューを聞いていると、どうも自己保身に走りがちな感じで、それほど好感が持てたわけではなかった。
だが、それは最後に逆転した。
彼がインタビューに応じ、自らの口を開く決心をしたのは、「ホロコーストはなかった」とする主張が台頭してきたからだった。
そんなことはないのだ、と、彼は言いたかった。
アウシュヴィッツは在った。
ガス室は存在した。
毎日何千人ものユダヤ人が殺され焼かれていた。
私はそこにいたのだ、だから信じろ、と。

フランクルが言うように、想像を絶する残虐さを証明したのが人間なら、その悪環境にあっても輝けることを示してみせたのも同じ人間である。
グレーニングは「仕方なかった」と弁明するが、彼も他の隊員たち同様、厳密には有罪を免れない人間である。
だが、「アウシュヴィッツは在った。歴史を正しく伝えるべきだ」という彼の思いと現実の行為は、そのことを帳消しにしてしまうほど価値があるのであり、まさに高い人間性を示したものなのである。

歴史を正しく認識すること。
彼が自分自身をかけて訴えたそのことを、我々は受け止め、遂行していくべきだろう。

そして最後に。
陥穽に落ちないために、アウグスティヌスより引用。

「もっともよい復讐の方法は自分まで同じような行為をしないことだ」





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Last updated  2005.08.24 13:30:44


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