2003年01月31日
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 知床連山の雪は消えていたが、宇登呂(うとろ)の風は、まだ冷たかった。
高台からは、漁港に出入りする漁船の姿が、絵のように見えている。
 この小さい集落を尋ねる途中で立ち寄った芽室(めむろ)でも、
まだ野生のスズランが咲いているくらいで、本格的な花の季節には、
間があるようだった。
 札幌の、花に埋もれたきらびやかさとは別世界の、観光とは無縁の表情が、
そこには漂っていた。
 足元を確かめながら、ゆっくりと、港町に降りた。
漁港は、深い底まで見通せる澄んだ碧水が、キラキラと陽光を跳ね返していた。

温み始めた柔らかなうねりは、感じられた。
波音が、ピチピチと、岩壁を叩いている。
 船着き場から水中を透かしてみると、小さい魚影が、そこここに見える。
その種類は知らない。
 時に、白く鱗光を放って、反転するものがいる。

 釣り心が疼いたが、天候を考えると、糸を垂れるのは惜しい。
撮影にもってこいの日和なのに、ここで時間を浪費しては、
後悔することになりかねない。
明日の天気は、知れたものではない。
 カメラと三脚を肩に、フィルムはポケットにねじ込んで、
集落のあちこちへ、そしてまた港を見下ろす岩山へと、歩き回った。



今回は、前年の夏に続いて、また訪ねたのである。
 夏の知床は、若者たちが押し寄せて、町の人と話をする隙もない。
だが今回は、まだ観光客も、わずか数人に過ぎない。
 土産店も、準備をやる気がなさそうに、所在なげだった。

 昼時になっても、食堂にも活気が生まれない。虫の羽音さえも、物憂げに聞こえる。

「いらっしゃい。お客さん、今来ても、花は咲いてないし、見るものもないでしょう?」
「ええ。去年も来ましたから、今年は静かな知床を見たいと思って。」
「どちらからおいでになりました? 東京からですか?」
「横浜からですが、東京からでも、あまり変わらないかも知れませんね。」
「東京って、ビルがたくさんあって、凄い都会なんでしょう?」
「でもうちは横浜の外れですから、そんなに大きいビルもないんですよ。」

「テレビで見ても、ビックリするようなビルがどこまでも続いてて、
凄いなあ! って、驚いてるんですよ。」
「まだ。行ったことはないんですか?」
「子どもが東京に、修学旅行で行ったことがあるんで、話は聞いたことがあるんですがねぇ。
 お祖母ちゃんなんか、この知床からだって出たことがないんですよ。」
「奥さんは、札幌は? 東京も、札幌と似たようなものですよ。」
「札幌も、行ってみたいと思ってんだけど・・・。旭川までなら、
行ったこと、あるんですよ。
札幌は、もっと大きいんだって、聞いてんだけど、そんなに大きいですか?」
「旭川も、大きいですけどねぇ・・・。」

 北海道が広いのか・・・。
日本にいながら、まだ北海道の、それも知床の周辺から、
離れたことがない人がいる。
 この自然が、今の生活が、人世の総てだった人がいた。
そして今も、それを総てとして、生活をしている人がいる。
叶えようと思えば叶えられる“夢”を、胸に秘めたままで、今を生きている人がいる。
 それも人世。そこで不足を感じなければ、それも幸せな人生に違いない。
閉塞された世界の中でも、外界を“夢”としてしか捉えなければ、夢は夢のままで終わる。
この知床の地は、閉塞されてはいない。
この奥さんも、夢を叶えようと思えば、何時でも出られる。東京にも行けるだろう。

 昨年この宇登呂を訪ねたときには、この店先に、可愛らしいヒグマの子が、
鎖に繋がれて、無邪気に遊んでいた。
その子熊に会いたくて、今年もまた、ここを訪ねた。
何もない季節の知床を訪ねたのには、そのような意味もあったのである。
 その子熊の姿が、今日は見えない。

「昨年の夏に来たときに、可愛いヒグマがいましたね?」
「ああ、あの子ね。まだ子どもだから、じゃれて可愛かったでしょ?」
「ここで生まれたんですか?」
「そうじゃないんですよ。猟師さんが撃ったヒグマが母熊で、
傍に子どもがいたものですから、可哀想だと言うことで、うちで飼っていたんです。」
「今は、動物園にでも?」
「食べちゃったんですよ。」

「え? 何が? 何を?」
「人に慣れすぎて、うちの旦那にじゃれついたんですよ。
その時に、ズボンに爪を引っかけて、破いちゃったんです。
それで旦那が怒っちゃって、『食っちゃえ』って言うことになって・・・。
済みませんねぇ。」
「野生の熊ですから、大きくなると、手におえなくなるでしょうからねぇ。」
「まあねぇ。お客様に怪我でもさせたら、大変ですから。」

 昨年は、あんなにも愛らしかった子熊だが、大きくなってからのことを考えれば、
そのまま飼い続けることはできないと、判断されたのだろう。
それとも、夏の間だけ客寄せに利用して、
オフシーズンには“鍋”にして暖まるつもりだったものか。
 いずれにしても、厳しい大自然の中で生きている、人と自然との生業の、
ひとこまに過ぎないことなのだろう。
 美味しかったか? とは、聞き損なってしまった。

 その夜は、漁り火さえも遠くに小さく光る、宇登呂漁港の外れの民宿に、宿を求めた。

「去年の夏は、泊まるところを探すのも大変でしたよ。今は空いてて、いいですね。」
「この季節が、一番いいでしょ? 夏の間は、どこの民宿も、稼ぎ時ですから。
一杯に詰め込んでしまうんですよ。」
「去年は、3段ベッドの相部屋でしたよ。」
「2ヶ月半で、1年分を稼ごうって言うんだから、そうなりますね。」
「そんなに稼げるんですか?」
「2000万円以上は、稼ぐでしょうね。アキアジ(鮭)の漁業権を持っている家では、
そんなに頑張らないんだけど、漁業権を持たない家は、民宿だけが頼りだからねぇ。」

 この民宿が、夏にはどのような対応をしているのかは、知らない。
だが、オフシーズンの宿は、夏のような殺気だった雰囲気が無く、
くつろいだ気分で、泊まることができた。

 あの漁業権の話は、今も健在なのだろうか。
そして、あの時の奥さんは、札幌見物をしただろうか。
またどこかに、鎖に繋がれて無邪気に遊んでいる子熊は、いるのだろうか。
 北海道は、広い。





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最終更新日  2003年01月31日 21時48分08秒


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