フリージア

フリージア

エッセイ集




 ある四月の夕方、いつものようにラジオを聞きながら車で帰宅していたら、○○市の店紹介をしていた。「○武」という名前で、居酒屋風。和の料理の店だという。
 そこには世界に何台もないという「ベーゼンドルファー」という白いピアノがあり「誰でも弾いてもらって良いですよ」とオーナーが話していた。「これは良いことを聞いたな。早速長女に知らせよう」と帰宅後、携帯電話でメールを送ったら「すぐにでも行ってみたい」と返事がきた。
 私の都合と長女の都合が合った十五日の夕方行くことにした。長女は四歳からピアノを始めたけれど、上手とはおよそ言い難い。ただ音に関してはひどく敏感だ。

 いつぞや岐阜県出身のピアニストのコンサートに一緒に行った時、私には、ほとんど解らなかったが、曰く「あのピアニストのコンサートには次回からは行かないからね。あんなに音を間違えてばかりいるなんて、プロじゃない」と、わかった風な口をたたいていた。

「ベーゼンドルファー社」はオーストリアのウィーンで千八百三十年頃生まれた伝統のあるピアノの老舗。かの有名なスタインウェイよりピアニッシモの音に最適なピアノらしい。
 さて、出向いたのは良いけれど、初めていく店なので前もって地図で調べておいたのだがまず、どこの信号から入ってよいのか解らず途方にくれて、あちこちで聞きながら辿り着いた。
 しもた屋風の玄関のたたずまいの裏に、だだっ広い駐車場があった。オーナーによれば倉庫として使っているのだとか。店内は広々していて飲み客が集まりそうな雰囲気。私たちには少し場違いな感が,
なきにしもあらず。
 遠慮がちに「すみません。こちらにベーゼンドルファーというピアノがあると聞いて」と尋ねると「ああ、こちらです。どうぞ」とピアノが鎮座ましますフロアに案内された。つい二人で「オオ! 」と歓声をあげた。大げさすぎたかなとちょっぴり気恥ずかしかった。
世界に何台もないというのに誰にでも弾かせてくれることがすごいと思った。「どうぞどうぞ、触って弾いてみてください」と気安く声をかけて、忙しいらしく厨房に退いたオーナー。
 ピアノは思い描いていたように真っ白で、脚や譜面台のところには手の込んだ装飾が。
格調ある綺麗なピアノだと思った。長女は「この鍵盤、黒檀だわ。へー」と言いながら、ポロンポロンと弾いていた。しばらくすると戻ってきたオーナーが「その辺においてある楽譜を自由に使って下さい」
「ありがとうございます」
 適当に弾いていた長女は「お母さん、なんだか鍵盤が軽い。弾きやすいわ」
「ほんと。ふうん。そう」
「ピアノは、懇意にしている知り合いから譲り受けた物でしてね。実は私が持っていた土地が売れ、そのお金の顔を見ると惜しくなるので売れたまま持って行ってピアノと交換したのです」
「えーー! そうなんですか。ではすごい金額だったんですねえ」
「さあ? どうでしょうね。土地代は見ていないので」
「はあ。そうですか」
「ピアノを手に入れてから、人がいっぱい来てくれるようになってね。本当に嬉しいです。北は北海道から南は沖縄まで。どこからか聞きつけてきてくださるんですよ」
と、言いながら訪れた人達の記帳簿を取り出された。
 冊子には全国各地のさまざまな人の名前があり、著名なピアニスト名も見つけた。外国からの客人も。
「毎月来てくれて弾いていく二人の人がいましてね」
と、オーナーが話し出す。
「一人はタクシーの運転手の人。どういう経緯でタクシーの運転手になられたかは解らないけれど、どんな曲もさらさらと弾ける。思う存分弾いたら帰られる。いやはやうまいと思いますよ」
「もう一人は、どこかの会社員の人。この方も、どんな曲も弾けるし、うまい。いつか店に客がおおぜい入っていた時にちょうど弾いていて、客からリクエストされた曲を何でも弾きこなしていたよ。この人はスーツをぴちっと着こなして、きっちりした書類ケースを手に持ち、たったったっと規則正しく入ってくる人。帰る時も、たったったっとしゃきとした雰囲気で帰ってゆく」
 動作も真似されるので思わず長女と顔を見合わせて微笑んでしまった。
「二人が、どういう人か知りたいね」と、イメージをふくらませていた。
「このピアノは人を引き寄せる。本当に手に入れて良かった。ここでコンサートもよく開くし、人がきてくれることが嬉しい」
 ピアノばかりでなくオーナーの心意気にも人が集まってくるゆえんだと感じた。



 ◎アメリカの空港にて


 二〇〇八年五月十日ダラスの空港に降り立った私は途方にくれた。どこへ行けばよいのか解らず、やたら広く感じる空港は、よそよしかった。
 何故、ダラスに一人で行ったかと言えば、会社から勤続十五年で五日間のお休みがもらえ、この機会を利用して次女が在学しているアメリカへ行ってみようと思い立ったからだ。英語が出来ない私は不安感でいっぱいだったが好奇心も旺盛だった。
「よく一人で行くわね」と会社の人に言われたが事前に次女から航空券が送られて来ていたし、メールで名古屋のセントレアと、成田空港とダラス空港の地図が送られてきていて、印刷し持参していた強みもあり「まあ、大丈夫だろう」と、たかをくくっていた。セントレアから成田、成田からダラス間は、ごく順調だった。
成田からのアメリカン航空機の中、早口で「コヒィオアティ?」と話しかけられた時、他にも何か言われているのだが聞き取れず何度も聞き直し、やっと飲み物なんだと解り「オレンジジユース」と答える有様だった。汗をふきふきという心理状態だったが、もちろん機内では汗など出なかった。寒いくらいだった。提供された機内食を食べ終わる頃にはずいぶん落ち着いた。
外国は物騒との先入観に囚われ、お手洗いに行く度に機内に持ち込んだショルダーバッグをがっしと抱え込み、中まで持って入った。さすがに帰国時の飛行機内ではそんなことはしなかった。
 ダラスには各ゲートを一周するモノレールが走っていて目指すゲートに着いたら降りる。さて降りたがゲートが見当たらない。荷物をガラガラと引っ張りながら歩いていくと日本人らしい小柄な年配の女性が「あっ! 日本人? 乗り換え? じゃあそこへ荷物預けて」と教えてくれた。「ああ良かった! 日本人の人がいて」とほっと胸をなでおろし、空港の荷物受け取りの人にスーツケースを渡した。
 入国審査に並んでいると日本語の解る審査官らしき女性が(これがまた小柄な日本人の年配女性)「日本人? ちょっと見せて」と、機内でスチュワーデスから記入するよう渡された入国に必要な用紙を取り「ここと裏側が書いてないよ。書いて!」と高飛車に言われた。字が細かくて読めず、うろたえていたら、ちょうどすぐ後ろに日本人らしき青年の団体を見つけた。「ちょっとすみません。ここって何を書けって書いてあるの?」と聞くと「ここは姓と名。ここは住所ですね」と親切に教えてくれた。ふと見ると青年の持っている用紙はすべて機械印字がされていた。「楽でいいなあ」と少しうらめしそうな目で見てしまった。
 入国審査には、アメリカ国民と外国人に行列が分かれている。なんとなく日本人、韓国人、スペイン語圏、ドイツ語圏、フランス語圏と、話している言語でだいたい見当をつけて眺めていた。私の列の三人ほど前の日本人らしき美形の女性が、大きな白い犬のぬいぐるみを抱えていて、二人並んで座っているうち右の審査官のところで三十分ほども質問されたり、答えたりしていてなかなか進まず、すぐ後ろに並んでいた外国人が少しいらいらしていた。
私はひそかに「あの審査官に当たりませんように! 左側の審査官に当たりますように」と祈っていた。私の前の人たちはスムーズに左の審査官の所へ行き、さっと通り、「お! この調子だと私も左だわ」と喜んだ途端、ぬいぐるみの女性が終わって、右の審査官が「次!」というように私にうなずくではないか! もうこうなったら度胸を決め、左手に次女から送ってくれた紙を必死に握り締め右手にはパスポートを持ち、少し心落ち着かせるように、ゆっくりとすすんだ。
左手の紙には、英語で質問が書いてあってその答えが英語でこう答えるのだとこまごまと記入してある。たとえば「Why d0 you visit here?」と聞かれたら「No. I don’t have Visa.」と答える等。私のためにカタカナの振り仮名までしてあって内心「まああ。何てご丁寧な!」と思っていたが、それが役立つだろうなと次女に感謝した。しかし、なんのことはない何の質問も発せられず、にこにこしながら指の指紋を取る機械の上に指を乗せ押しつけるように指示され終わったら手でどうぞと出口を案内されただけだった。緊張してこちこちになっていた私は拍子抜けして「え? これだけ? なんだあ。どきどきして損した」と思わず、つぶやきそうになった。
無事、入国審査も終わったのでふと思いついて次女に電話する気になった。あちこち探してみたらテレフォンカードの自動販売機を見つけた。おそるおそる購入し、いざかけようとしたらどうしてもかからない。近くにいたインフォメーション係りらしき人にカードを見せ、身振り手振りでかからないと言うと、その人は「かかるからあそこでかけてきて」のように電話機を指し示して、しらんかおしていた。困っていると旅行客らしき黒人の女性が親切に電話機の傍まで行ってくれて一緒にやってくれた。
やはりかからないわねというような身振りで、もとのインフォメーションの女性に何やら話し、私に「ヌーカード、ヌーカード」と連呼する。私が解ったとうなずくと、このフロアをまっすぐ行ってインフォメーションに行けとの動作をする。
言われた通り、まっすぐ進むと大きなインフォメーションがあったので「ヌーカード」と差し出した。その女性もカードをまた電話機で試したがやはりかからず、別の人に聞いてやっとある番号をまわしてから向こうの電話番号を回すということが解った。次女に電話がつながった時「お母さん、よく電話かけられたね!」と驚いていた。私は「ふっふふ。うまくかけられたでしょ!」と自慢そうにしゃべったことである。
乗り換えもうまく行きダラスからアーカンソー空港まで小型飛行機で行った。アーカンソーには、次女と次女のホストファミリーであるビルというアメリカ人が迎えに来てくれていた。初対面の挨拶を交わして私の荷物を荷物受け取りのところで待っていたが私の荷物がない! くるくる回るレーンが止まってもなかったので、次女とビルとでバゲッジクレームという受付へ行きかけあっていたら次女が「お母さん、スーツケースは何色?」と聞いてきた。すかさず「ダークグレー」と答えると次女が係りに話した途端、壁の向こうに消え、がらがらと私の荷物を押してきた。「あっ! それそれ、私の!」と大きな声を出した。やれやれと安心したが同時にどっと疲れた。迎えに来てくれたビルの車のところまで三人で話しながら歩いた。その後やっとアーカンソーの次女のアパートに落ち着いた。


  ◎突然の出来事


 その日は家の仕事が忙しかったため、会社を休んで、家の仕事を手伝っていた日であった。
 母が息せき切って工場のほうへ連絡にきた。
「小学校から今、電話があって広君がうんてい
から落ちたから迎えにきてほしいって!」
「ええー! なんだって! そんな」と叫んだ私は急いで家に帰り、どう着替えたかも覚えがないまま、車で小学校までかけつけた。
「こんにちは」と教室へ入っていくと先生が「保健室にみえますので、すぐ病院へ連れて行ってあげて下さい」と、保健室まで案内された。
保健の先生が「応急措置で添え木をしておきましたが、早く病院へ行かれたほうが良いです」と説明された。
担任の先生は「うんていから落ちたようですが傍にいなかったので状況は、はっきりわからないのです。落ちたときに体をかばって左手を地面についたため、折れたようです」と説明を始められたが、私は気が気ではないので「すぐ病院へ行きます」と、カバンと靴を揃えてもらって車に乗せた。幸い、足はどうにもなっていなくて、歩けたので良かった。
 車に乗せて「大丈夫? がんばりいね」と、長男に声をかけると「うん。大丈夫」と、言ったきり、ずっと黙って「ううう」とうなっている。
しばらくしたら「お母さん、お願いがあるんだけど」と言う。「え? 何?」「ぼく、すごく泣きたい気分なんだけど、泣いてもいい?」と、聞いてきた。
私は、内心「あまりの痛さに泣きたくなるのは、判るわねえ」と思ったので「良いよ! 泣いても」と答えたが「ん? まてよ。泣いても痛みが取れる訳じゃないし、男の子だし」と思い、長男がもう今から泣くぞと息を吸った途端「待った!やはり、泣かないほうが良くないかな? 泣いても痛みは取れないからね。男だし、我慢できるやろ?」と言った。
長男はそこでまた、ぐっと我慢して、泣きそうな声で「わかった」と答え、病院まで泣かずに着いた。
私はほめてやりたくなり「よく我慢したね。えらかったね」と言うと「うん」と、短い返事。
何はともあれ病院に着いてほっとした。病院へは事前に電話しておいたかいがあって、すぐ担架で手術室へ入った。
主治医の先生が「奇跡的に手術なしで骨が繋げました。早急に連れてきてもらったのと、的を得た手当てがやってあったから良かったです。手首とひじで骨折していました。モンデール骨折と言って、かなりやっかいな複雑骨折でしたよ。手術なしで本当に良かった」と言ってくださった。
私は、「そんなにひどい骨折だったのか。泣かないように言ったのは酷だったかなあ?」と、少し反省した。
入院はしなくても良かったので、胸をなでおろした。やはり、早く連れてくるということが良いのだなあと思った。しばらく通院した後に完治できた。
そのころの私は長男のことを、「男の子なのに、ちょっと気が弱いなあ」と思っていたが、この出来事で「意外としっかりしているわ」と、見直したのであった。


◎雅子おばちゃんの庭


「ただいまあ」
 小学生のころ学校から帰ってきたら、ポーンとカバンを上がりかまちに放り出し、すぐ裏の雅子おばちゃんの庭に集まるのが日課だった。
 庭は石垣で囲まれていた。石垣の上には刈り込まれた槙がぐるりと植えてある。地面は少し固めの砂交じりの泥で、水はけが良く雨が降った後でも、ぬかるまなかったので格好の遊び場であった。
「陣地取りにする? 缶けりにする? かくれんぼにする?」と、どの遊びにするか毎日わくわくしていた。近所の同い年や年上や年下の子達が三々五々寄ってくる。人数が多いときは、かくれんぼや缶けりになった。少ない時は四角取りやメランキュー(釘でビール瓶のキャップを取る)や、毬つき。楽しくて楽しくて時間がすぐ過ぎ去ってしまった。
 薄暗くなり始めると帰らなきゃいけないのはわかっていながら、いつまでも粘れるだけ粘っていた。家には少しも帰りたくなかった。

 その当時何とか空を飛びたいと思っていた私は石垣から良く両手をぱたぱたさせて一秒でも空中にとどまっていられないか試していた。いつも結果は惨敗に終わっていたが。どうしてうまくいかないのかいくら考えても良い案が浮かばなかったので随分悲しかったものである。
そのうち、私の家の裏口から母の「いい加減に帰ってきなさい! ごはんだよお」との叫び声が聞こえるのであった。後ろ髪引かれる思いで「はああい」と答え帰宅する。
雅子おばちゃんは、近所でも評判のとても優しい人で暗くなるまで子供たちが自分の庭で遊んでいても決して怒らない人であった。注意する時も優しく諭し、声を荒げて話すところは見たことがない。広場のようになっているところ以外は立派な庭が作ってあり、いつも綺麗に草が取ってあった。

 おばちゃんちは、旦那様と養子に迎えられた男の子がいた。私たちはそんな男の子がいることに全く気づかずに「ここの家は子供がいないんだ」と勝手に思っていたものだ。多分、おとなしい優等生だったのではなかろうか? 
おばちゃんは花が好きで春は、すみれやひなげしやチューリップ、夏は、ひまわりや朝顔、秋は菊やコスモス、冬は水仙や梅や薔薇が咲き、通りすがりに目にするのが楽しみだった。


その庭も今ではすべて立派な庭に変身していて遊ぶ場所は、全くなくなってしまっている。また、暗くなるまで外で遊ぶ子供たちも、とんと見かけないこのごろ。あのやさしかった雅子おばちゃんは、数年前天国に召されてしまった。
今頃は、きっと天国の花畑でおだやかな笑顔のまま、花を見つめて暮らしているんじゃないだろうか。

 ◎沖縄キャラバン                    


 二十一歳の一月、事情で寺に修行に入っていた私に「灯火の会」(清掃活動や孤児院訪問などの活動する会)という若者中心の集まりである主事から
「沖縄キャラバンという全国修養団主催の奉仕活動隊募集しているけど、応募して行ってみたらどう?」と勧められた。
 沖縄には行ったことがないし、その当時アメリカから返還されたばかりの沖縄に興味もあり、即座に快諾した。もともと、高校時代から心に引っかかっていた所であった。
 高校時代、全校討論会が催された時、色々な討論テーマ毎に教室が分かれ、一番人気が「男女交際について」だった。が、私は近々返還される予定とニュースで騒がれていた沖縄に、興味を持っていたので、敢えて「沖縄について」を選んだ。
さて討論という段になった時、私も含めてほとんどが沖縄に対しての知識があまりに乏しかった。ただ、ほんの一握りの人が意見を言っただけだった。「この討論会で沖縄に関する知識を得られるかも知れない。しめしめ」と不届きな考えで参加した私は何もこれと言って意見を言えない自分に愕然とし、恥ずかしさを覚えた。
 この時のことが頭をよぎり、これは現地で沖縄に触れる良い機会だと考えた。行くことに決め、早速申し込んだ。
同じ寺で修行をしていたKさんと一緒に新幹線で出発。鹿児島に集合して全国からやってきた三十人程の若者たちとオリエンテーション(自己紹介、今後の日程説明等)後、鹿児島港から船で出港。港から、テープを投げてもらっての出港は始めての経験で、なぜか胸がきゅんとなった。船のへりからテープが、すだれのように垂れ下がる様は圧巻だった。映画の一シーンを見ているようで、いつまでも心に残っていた。
 沖縄に着いてからは、現地の青年団のような組織の家に二、三人づつ位に分かれて泊まらせてもらった。
 楽しかったのは泊まった近くにクラブ? のようなお店があって現地の人の案内で入ったことである。生真面目で通っていた私には、どきどきする出来事だった。少し薄暗い店内でお茶を飲んで談笑しただけなのであるが。
 当時、家の近辺では見たことがなかったドライブスルーの店に連れて行ってもらった。車で入るレーンがたくさんあり、「いったいぜんたい、ここは何の店?」と、助手席で、ぼーっと考えていたら、案内してくれた現地の青年が「早く注文してよ。そこにマイクあるでしょ!」と、催促してきた。何を注文してよいか解らず、おたおたしていたら、じれったそうに「良いよ、ぼくが注文するから。じゃあハンバーグ五個、コーラ五個、ポテト五個」などと、すらすらっと注文していた。「ほー! 何て進んでいるの? 沖縄って! すごいなあ。この人!」と、あこがれと尊敬の入り混じった目つきで見ていた。
 泊めてもらった青年団の家で夕食後、車座になって談笑していた時、「沖縄をどう思いますか?」と聞かれて、それぞれに「良いところですね」「景色が綺麗」「海が青く澄んでいて綺麗」と答えていたら「ヤマトンチューには沖縄のことが解っていない」と、少し激昂した調子で話し出されたことに少なからず驚かされた。
 ヤマトンチューという聞きなれない言葉の意味が、しっかり解らなかったが話を聞いているうちに沖縄の人のことを「ウチナンチュー」本土? の人を「ヤマトンチュー」と言うと解ってきた。
「アメリカの基地について、どの位知っていますか?」「基地に依存している現状を知ってほしい」等々。自分が勝手に思い描いていた沖縄のイメージとの違いを指摘された思いだった。
 アメリカの基地のことで複雑な悩みがあるのだなあと思ったが意見を求められてもそれほど深く沖縄のことを調べてきているわけではなく、ただ表面的な沖縄しか知らないことを言葉には出せなかった。皆、一様に言葉を発せないまま黙っていた。何の反応もないまま一人話し続けていた青年は、「どうせ何もわかっちゃいないよな」と少し悲しげに言葉を結んだ。私は、半分遊びのような気分で来ていたことに後ろめたさを感じた。
沖縄のアメリカ基地に沿うように作られた道路は両側が高いフェンスで囲まれていて網目から両側が透けて見えた。基地の中の長く続く一本の道であった。覗いた中は、やたら広く、病院も学校も設備が整っていた。一種異様な気分で通過した。「何? ここって本当に沖縄なの?」と、いう疑問が、ふつふつと沸いた。
 海洋博が開催される場所や「沖縄子供の国」の清掃や草刈りに汗を流し、各地の「青年の家」と呼ばれる宿泊施設に泊まった
 食事は私には少し油っこく全部食べきれずに残していたら、残す前に食べてくれる人が見つかり、その人に行く先々で食べてもらっていた。話をよくするうちに「すごくやさしくて、頼もしい人だなあ」と、ひそかに思った。その人もそうだが、数人の仲間の人達とは、ずっと今でも年賀状のやりとりをしている。
 あちこち見て回った風景の中で、一番のおすすめは、海水が手でぱちゃぱちゃできるくらいの近さにある海岸の岩の上で大洋に沈む夕日を見る場所。私はこの景色に遭遇し、涙ぐんでしまったものである。
 解散してみんなとホームで別れるときは涙が止まらなかった。みな、一様に別れがたく握手やハグで別れを惜しんでいた。寝食をともにして一緒に活動してきた仲間とは絆が芽生えるものだなと感じた。
 しかし、一方、高校時代から何の成長もしていないことを強く感じた旅だった。


 ◎めいほう高原音楽祭



 毎年七月頃に開催される「めいほう高原音楽祭」に二〇〇四年七月三十一日(土)に行った。二年前の音楽祭に初めて行った時、綾戸智絵の演奏や、おしゃべりに感動したので、どうしても、もう一度行ってみたいと思ったからだった。
 めいほう高原へは車で行った。長女と二男、二女も一緒で、二男が運転し、高速道路を使った。駐車場は、たくさん設けられているが人が多く、近くの駐車場は確保をあきらめた。キャンピング用のテント持参のカップルやバーベキューセット持参の家族。そこらじゅうから、がらがらと手押し車の音が聞こえてきた。入り口は長蛇の列で、開催時間前に区切って人数制限しながら入場させていた。
バーベキュー+椅子エリア、椅子エリア、一般エリアにわけられていた。一番後ろがバーベキューエリアで、前に進んでいくうちに、あちこちから煙と匂いが漂ってきてお腹が鳴った。
前方に大画面のTVが設置されていて後ろからでもよく見えるように配慮されているのには感心した。
高原なので夜は夏といっても寒いくらいの気候になる。
夕方から涼しい空気に包まれてきた。空は澄んで青いし、さわやかな気分。「気持ちが良いなあ」「ほんと!」と話しながら待った。長袖を持っていって良かった。涼しいので半袖だと風邪を引きそうだ。
「さて、腹ごしらえしますか」ということで、次男と長女が買出し役を引き受けてくれた。
入場口付近には様々な屋台が設けられていて威勢の良い掛け声が降る。遠目に首を伸ばしてみて見ると人々はふらふらと歩きながらいろいろな店を覗いて、顔を紅潮させながら、いかにも楽しそうに買っている。
買出し組が帰ってきて皆で平らげた。次女はまだ食べたらないらしく、また長女と二人で買いに出かけた。
薄暗くなり、いよいよ始まった。レーザー光線も設置されていて華やかな舞台が闇に浮かび一段と盛り上がってゆく。
ジャズを弾くバイオリニスト寺井尚子の演奏は力強い。ジャズピアニストは良く耳にするがバイオリニストはこの人の存在を知って初めて耳にした。リズムに乗ってスイングする、のりの良さに、惜しみない拍手を送った。
若きジャズピアニスト松永貴志の演奏は初めて聴いたが、力強く迫力があってどんと胸に響く音は、さすがと思った。十五歳からプロ活動、十七歳でCDデビューと頭角を現している。
マリーナ・ショーは、おなかの底から沸きあがる迫力のある歌声で観客を魅了した。
極めつけは、森山良子の「さとうきび畑」という曲。生で聴くとイメージがふくらみ、情景が脳裏に蘇るようだ。一面のさとうきび畑に風が吹き渡り揺れている様子が。そしてその土の下に眠る人々の心が。本当に感動した。その歌が始まると会場は水を打ったように静まり、涙もろい私は、雰囲気に呑まれてハンカチが離せなかった。
最後のオルケスタ・デ・ラ・ルスの演奏と歌は、楽しくて楽しくて仕方ないというような曲で、会場全員が立ち上がって踊りだした。
私たちも、もちろん思い切り羽目を外して踊り続けた。
何度来ても良いものだなあ、何て楽しいの! と思いながら帰途に着いた。


 ◎さくらんぼ狩り


 近所の班長が女性だけのツアーを企画し班内をアンケートが回った。さくらんぼ狩りの案とぶどう狩りの案の二択。結果、山梨県のさくらんぼ狩りに決定した。一人、都合で行けない人があったが他の人は大丈夫。五月二十六日に決まった。
 集合は朝七時、班長宅のワンボックスカーに七人が乗り合わせて出発。喫茶店へ行ってモーニング食べようという楽しみがあったから早い集合にしてあった。もちろん家族には言っていない。内緒である。
 ツアー指定の集合場所まで行き、近くにある目当ての喫茶店に歩いて行く。私は始めて入ったが、慣れた人は何度も来ているようだ。注文の飲み物と一緒に出されてきたトレーの上を見て目が点。「ええっ! モーニングに、こんなに付いてくるの?」とはじめての人は一様に驚いた。
 飲み物、ゆで卵、サラダ、スポンジケーキ、ゼリー、薄めにスライスされたトーストを半分に切ったもの二枚。とても食べきれないので皆、持って帰れそうな物をカバンに仕舞う。コーヒーもサラダもおいしかった。また、次回の旅行のときは覚えていて来ようと密かに誓う。「きっとそう思ったのは私だけじゃないわよね」と内心にたりとしながら考えた。
 山梨までは、途中二回の手洗い休憩をとってくれた。最初のサービスエリアは長蛇の列。男子トイレに駆け込む女性が数人いて「そこまでせっぱつまっていないよね。さすがに真似は、できないよね。」と私は横目でそちらを見ながら、しずしずと進むのであった。
次のサービスエリアは、あまり観光バスが立ち寄らないとみえ、空いていて手洗いもすごく綺麗。殺風景な色でなくエンジに塗ってあっておしゃれだった。
昼は石和温泉のホテルでランチバイキング。これがまた良かった! 名物の「ほうとう」あり、「味噌汁」に、「ちらし寿司」に「パエリア」、「そば」に、「ちゃんちゃん焼き」。「ちゃんちゃん焼き」は、その場で料理人が焼いてくれていた。飲み物はリンゴジュース、オレンジジュース、お茶が飲み放題。フルーツやメロンゼリーも豊富。
 そばがおいしいと言ってグループの一人は、おかわりしていた。私は、ちゃんちゃん焼きが初めてなので、絶対食べようと思って取ってきて食べたら「お! これはなかなか」と思った。しかし「おかわりはもういらないな。焼き鮭がメインに使ってあるのか。ふうん? おいしいのはおいしいけど、私はそばのほうが美味しいわね」などと思いながら食べていた。美味しかったのは大根おろしの上にシラスがのった一品。そば。ちらし寿司。パエリヤ。鯉のアライ等。ホテルだけあってメニューは大体美味しかった。満腹になった。
 バスで移動して、さくらんぼ狩りの会場へ。ほとんどの人が、「お昼を食べてすぐさくらんぼなんて食べられないわ。もう少し時間をあけてほしいわ」と話していた。ごもっともである。私も食べられないんじゃないかと思った。
 会場は勾配が急な坂の上にあり、バスを降りて歩いて十分ほどの所。まるで山登りのようだ。足どりが重くなってきた。さくらんぼの木にはぐるりと網が張ってあって入り口だけ網がくるんと上に巻き上げてあった。そこをくぐって入る。中には向こうに、ロープが張ってあってそこから先には入るなってことらしい。一人のおじいさんが、手ぬぐいと帽子を被って、ロープの向こうに座っていた。「ん? 何だろう? いったい誰?」と不思議だったが、「あ! 見張っているのか。ここの会場の人なんだ」と合点がいった。思ったとおりロープの先に足を踏み入れた人に注意していた。
 ロープの先には入れないが、ロープから身を乗り出して、向こう側になっているサクランボを取って食べるのは良いらしい。やはりロープの先のさくらんぼの木のほうが、ずっと美味しかった。甘くて味がまろやか。
皆「食べられないわ」などと話していた割には、ずいぶんと食べた印象がある。出口で、土産用に入っていたさくらんぼパックの二倍は食べたと思った。土産用のさくらんぼは、ほんの少し入っていて「千五百円」もしたため私は「やめた、やめた」にした。同じグループの人達は買い求めていた人が結構あった。
 帰りのバスでは眠くて仕方がなかった。居眠りをたっぷりした。山登り? と満腹が、ずいぶん効いたようである。


 ◎名古屋の店にて



 暑い日だった。長女の住む名古屋のマンションへ出かけた。
その日は、友達と食事の約束があった。夕方からの食事会が終わり午後九時頃マンションに着いた。
 長女は、岐阜でピアノレッスンを受けているので帰りが遅い。
いつまでも帰ってこないので、風呂を沸かして入ったり床の掃除をしたりした。テレビを見ながらくつろいでいたら、やっと帰宅。
 まだ食事をしていないと言うので近所の店を物色に出かけた。
午後十一頃では、もうやっていないだろうなあと思っていたが、歩いて行った通りの向こうに電飾がきらめいていた。
 外観は素敵だし、洒落た雰囲気である。長女と私は中に入ってみた。中に入ったら、土曜日の夜と言うのに誰も客がいない。この時に長女が「この店、大丈夫かしら?」と少し不安そうな言葉を一言漏らした。
 席に着くとメニューがきた。二人で選んで「マグロのカルパッチョ」「白身魚の味噌焼き」にした。私は「トマトジュース」だけ頼んだ。
 店内は、アジアンテイストではあるが、カーテンにしろ、天井の高さにしろ、テーブルのキャンドルにしろ、ちょろちょろした小川の流れに鯉を泳がせた趣向にしろ、高級感が演出してあった。
 さて、最初に頼んだ飲み物がきた。「グレープフルーツジュース」と「トマトジュース」飲んでみたら結構美味しい。話していたら、テーブルにコーディーネートされているろうそくが、消えてしまった。早速ウェイターの人がやってきて、新しいろうそくをキャンドルにおいた。「なかなかの演出だねえ」「いいんじゃない?」と、話していたら最初の料理「マグロのカルパッチョ」が運ばれてきた。
 食べ進むうちに長女が、ん? と変な顔をする。「どうしたの?」と聞くと「サイコロ状に切ってあるマグロの中の一個が凍っている。」と言う。「ええ~! そんなん、いけないでしょう!お店の人に言いましょうよ」と言うと「良いよ。お母さん、溶けてから食べるから」「でも、言ったほうが良いんじゃあない?」「良いって!」と言うので黙っていることにした。食べ終わったら次の料理がきた。
 「白身魚のみそ焼き」は、きっと美味しいに違いないと思っていた。
ところがである。一口食べた途端、「辛い!」と一言。「え?」「塩辛くてとても食べられたものじゃないわ」と、二口ほど食べただけで、すべて残してしまった。「やはり文句言おうよ!」「やめようよ」と、私をさえぎるので代金を払って帰ることにした。
 なぜか知らないが、レジの若い兄さんが、最敬礼のお辞儀をしたのが印象的だった。
 長女は「もう、ここへは二度とこないわ。客が一人もいない理由が判ったわ!」と嘆いた。
 店の外観や雰囲気で決めてはいけないという良い教訓になった。


© Rakuten Group, Inc.
X
Design a Mobile Site
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: