ライフキャリア総研★主筆の部屋

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2003年10月29日
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 いままでとはなんとなく違う流れが出てきたような……。

 魂や霊性といった、個人を超える何かにも着目する心理学であるトランスパーソナル心理学では、そんなときに「運命のささやき声に耳を傾けよ」という。

 それは、言葉を超えた言語以前のメッセージのようなものとして送られてくる。「何かが私に知らせている」とか「運命から呼ばれている」と感じる感覚である。

 昨日、友人の告別式に参列したときに、変わり果てた彼女の亡骸を見て、いままでの人生では体験したことのない衝撃を受けた。美しかった彼女が、あんなにも変わってしまったなんて。

 ガツーンと、誰かから殴られたような感じ。脳味噌の中だか、心臓の中だかに手を突っ込まれて、ぐりぐり揺さぶられたような感じ。自分が考えたくて考えようとして生まれた考えではなく、「思い知れ!」と誰かから大声で叱りつけられたような感じだ。

「同一人物とは信じられないんですよ。まるで他人みたい」。お母様は淡々とおっしゃった。

 朝には紅顔ありて、夕には白骨となれる身なり……

 浄土真宗で葬儀のときに読誦される蓮如上人の教えが、心に沁みる。ああ、無常だ。人生は、はかない。人は誰も、いずれは死んでいく運命だ。誰が先で誰が後かは全く分からない。唐突にある日突然、人生の「当たりくじ」は届けられる。

 生きていない人間の身体は、まるで「抜け殻」のようだった。何が抜けたのか。それは、「いのち」というよりも、やはり「たましい」ではないかと思った。

 命が喪われるときの、痛々しい痕跡は、抜け殻に残っていた。さぞや苦しかっただろう。

 抜け殻は抜け殻に過ぎず、もはや彼女ではないように思われた。

「たましい」は、どこへ行ったのだろうか。救済されたのだろうか。雲の上で満足そうに下界を眺めているのだろうか。

 宗教はもちろんだが、詩歌や文学は、死者の魂をなぐさめ、鎮魂するために始まったと言われる。太古の人は人知の及ばない災厄に遭遇したとき、それは荒ぶる死者の魂のしわざだと考え、鎮魂の祈りを捧げ、歌をうたった。

 現代においては、ほとんど全ての災厄の物理的、心理的原因が解明されつつあり、私たちは死者の魂と共生し、鎮魂する習慣を失いつつある。

 祈りや詩歌は形骸化されてしまった。だが、それでも、私たちの魂を揺さぶる祈りや詩歌もある。

 私たちは脳というよりも、身体の奥深い部分に、死者の魂とつながろうとするもの、共振するセンサーのようなものがあるのかもしれない。

 分からない部分が多過ぎて、うまく書けない。まとめようとすると、ウソが多くなるような気がして。

 なんだかよく分からないが、私たちは私たちを超える何か大きなものによって、たまたま生かされているだけの存在で、ある日突然、屍……単なるモノになってしまうかもしれない。

 それでも、生きることに意味があるのだろうか。

 いや、だからこそ、いつかは死んでしまう存在だからこそ、日々、意味をさがし、意味をつくらずにはいられないのかもしれない。

「私の人生には何の意味があるのだろう」

 何の意味もないのだよ。見つけようとしない限り。創り出そうとしない限り。





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最終更新日  2003年10月30日 18時59分05秒


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