富田秀夫のブログ

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2024.03.01
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先日荒木さんから八代さんの葬儀に出席したとの連絡があった。まさか、あの八代稔さんがなくなるなんて信じられない、まだ68歳のはず。山形リコー時代には三浦さんと八代さんは私にとって本当にお世話になった恩人でした。頭脳が明晰で行動的で私の不足部分を十分すぎるほど補って頂いた。人柄も良く、敵はいなかっただろう。山形リコー時代には我が家のも時々来て頂いたし、10年前に死んだ私の長女や次女を可愛がって頂いた。公私両面でお世話になり、家内も訃報を聞き悲しんでた。彼のリコー人生は波乱に富み数奇な人生を過ごされた。特に奥さんが運転してトラックと交差点で衝突し、長女を亡くし長男が失明した。山形私立病院で1年以上治療受けたが治療不能とギブアップされた。そこで私が習ってた氣の先生(創設者)を紹介して宇都宮まで何度も通った。すると見えるようになり、数年後にはバトミントン部でプレーできるまで回復した。しかしその後10数年後に交通事故で亡くなり、残った次男も病気で帰らぬ人になった。お子さんは不幸にも皆亡くなり傷心のあと、リコーも退社された。その時は私は定年退社してたので、是非会いたいと思ったが叶わなかった。彼の奥さんだけが遺族として残ることになった。私は彼の自宅にも何度もお邪魔し、彼のご両親とも懇意にして頂いた、実にいいご両親だった。この親にしてこの子有りの典型だった。悲しいけど安らかにお眠りください、さようなら。
追伸:書くかどうか迷ったが、彼の名誉のために話します。実は昭和62年に山形リコーでクーデターが起こった。高内という常務が管理職7名を引き連れ新会社を造った。当時圧倒的な権限を持った彼に従わざるを得なく、殆どが不承不承高内の会社に行った。しかも卑怯に極秘の数千枚のリース契約書をコピーし持ち出し、キャノンのコピー機に買い替えをユーザーに迫った。多くは泥棒の様なこの会社に市民権を与えてはいけないと好意的ユーザーが多かった。7名のうちほとんどが1~2年内に辞めた。その後八代さんもその会社に行かざるを得ない事態に発展し、辞表を持ってきた。彼は山形リコーでとんでもない事故を起こし、高内が後始末をしたという事実があったのを知っていたため、私は引き止める事はできなかった。高内の会社に行くことで義理を果たさざるを得なかったのだろう。そのことを多くの山形リコー社員、特に管理職は彼のことを裏切り者と言ってたとも聞いた。でも高内の会社に入社後2年後に退職した。すかさず三浦部長と彼の復帰を促し、躊躇する彼から承諾をもらった。その後も山形リコーの繁栄に大きな貢献をしてくれた。本当に数奇の運命だった。





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Last updated  2024.03.02 18:35:12
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