総合芸術と呼ばれることもある映画(絵画、写真、演劇、文学、音楽)を批評する方法を大別すると三つに分けられます。
(1)物語=脚本=文学を論じる方法
(2)映画のテーマ及び思想を論じる方法
実は、ほとんどの批評は、その二つの枠組みに収まってしまうんです。
(1)では、物語(あらすじ)、台詞、演技などを通して、もっぱら登場人物、特に主要人物の人間関係や内面を掘り下げるために批評的言葉が費やされます。そして物語が平板であるとか、人間が描ききれていないであるとか、台詞に厚みが無いであるとか、演技が稚拙であるなどといった表現が選ばれます。また、高い評価を下す場合は、その反対方向の語彙が選ばれるという訳です。
たとえば、脚本が丹念に書き込まれているですとか、人物描写が優れている・・・などなど。
つまり、映画作品の良し悪しを判断する要素として、文学の占める比重が非常に高いのです。そうすると、ちょっとした逆立ち現象が生じます。なぜなら、脚本が良ければ、誰が監督をしようが作品の出来は同じであるという事になってしまうのです。しかし、そんなことはありえないのです。
たとえば、脚本のト書きにこう書かれていたとします。
馬に乗った一団が、砂煙を巻き上げながら、大地を突進してくる。
ある監督は、その突進してくる一団を俯瞰ショットで撮るかもしれませんし、また別の監督は、真正面にキャメラを据え、次のカットで真横から捉えるかもしれません。さらに言えば、ロングショットで収める監督もいるでしょうし、ミディアムショットで撮る監督もいることでしょう。カットとカットの繋ぎ方まで含めると監督によって、それこそ百人百様です。
しかし、脚本(文学)を中心に論じようとすると、どの監督の作品もみな一様になってしまいます。同じ脚本で撮っているわけですからね。
そうなると、監督による視覚的差異がきれいに零れ落ちてしまいます。しかし、その差異にこそ、実は映画の「本質」が在るんです。
(2)のテーマや思想を論じる方法は、こういうことです。判りやすいので、戦争映画を例にあげてみます。すると、予定調和的に「反戦映画か、否か」という図式的なイデオロギーが浮かび上がってきます。
徹底した反戦思想の持ち主なら、反戦思想が鮮明な映画ほど高い評価を下したくなります。あるいは、「俺は、君のためにこそ死にに行く」ことこそが、美しい国家の有り様だと思っている人には、反戦色一色の映画作品は、空想的で非現実的な作品として低い評価を与えたくなるでしょう。
そこでは、映画と思想がすり替わってしまっています。映画は、思想を伝える「装置」というわけです。しかし、そのどちらの立場も誤りなのは明らかでしょう。だって、反戦映画にも映画として出来の悪い作品はありますし、好戦的な映画にだって出来のよい作品はあるんですから。
(1)と(2)が教えてくれることは、そうした映画批評が、実は映画批評ではなく、文芸批評だという事実です。肝心の映画の「本質」がスッポリ抜け落ちているんです。
では、「映画」を「映画」ならしめている本質とは何でしょう?
引き算です。
物語がなくても「映画」は存在できます。
演劇がなくても「映画」は存在できます。
音楽がなくても「映画」は存在できます。
しかし、スクリーンに何も映っていないのでは、「映画」は存在できません。
ですから、映画の「本質」は視覚的な構成要素、つまり絵画や写真の中に存在していることになります。
ということは、(3)は、映画で最も重要で必要不可欠な、「視えている事象」を語るということになります。
そこが、不可視な事象を語る文芸批評とは根本的に異なるところです。
ただ、冒頭でも述べましたが、映画は総合芸術ですから、(1)や(2)を上手に語れれば、その批評はとても豊かな物になるのは言うまでもありません。でも、(3)を抜きにした映画批評は成り立たないのです。
で、僕の流儀ですが、ほとんど(3)に偏っています。(1)と(2)を足し算して語れれば申し分ないのですが、その能力も根気もありません。正直言って面倒くさいのです(笑)
ですから、それは、若い金比羅系さんに託したいと思います。
僕の映画批評は、あらすじも無く不親切極まりない代物です。
だから、「通信」を読んでくださる方は、僕にとっては奇特この上も無い人たちなのです。これはもちろん、感謝の言葉です。
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