リュミエール通信

リュミエール通信

2007年10月23日
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カテゴリ: 映画

どうもただ事ではない。
クリント・イーストウッドの西部劇を観る者は、訝しげな表情でそう呟く。
寡黙な画面には、それとは似つかわしくない饒舌な磁場が張り詰め、緊張で漲っているからだ。
その気配の濃さが尋常ではないのである。
『許されざる者』や『ミリオンダラー・ベイビー』を取り上げた際にも述べたが、クリント・イーストウッドの映画は難解である。物語の構造が単純であるにもかかわらず非常に語りにくいのだ。もちろん、そうした困難さを強いるのが、映画監督クリント・イーストウッドであるのは言うまでもない。

だが、彼が困難さを強いるからといって、我々の想像力を根こそぎ奪ってしまう映像的ファシストでは決してない。むしろ、事情は正反対である。映像作家としての彼は、極めてリベラルで自由主義的な倫理の持ち主なのだ。
なぜなら、彼の映画は作品自体が、何かの隠喩であったり、登場人物の存在が両義的であるばかりか、ときに多義的であったりするからだ。解釈は、観る者の想像力に委ねられているのである。その意味において、クリント・イーストウッドは稀にみるリベラルな映画作家であると言っているのだ。

『ペイルライダー』には、よく比較される『シェーン』のような「悪」対「善」という単純で素朴で楽天的な図式が存在しない。
アラン・ラッド演じる流れ者のガンマン、シェーンが、縁あって開拓移民のスターレット一家に厄介となる。卑劣で凶悪な牧畜業者に痛めつけられていた彼ら開拓移民たちに、シェーンは力を貸し、争いを収める。広大な山並みを湛えた風景の中を、馬に乗って去っていく後姿のシェーンに、少年が「シェーン!カンバーック!」と叫び、その声がこだまするあまりにも有名なシーンを持つ映画『シェーン』には、観る者の心を不安に揺らす要素はなにひとつ無い。

アラン・ラッドが演じるシェーンは、スクリーンの画面に映し出されたそのままの、透明な人物であり、物語もそれ自身と等身大である。いささかも解釈を必要としないのだ。そこでは、物語に身をまかせ安心して感動できるという訳である。
そういう意味で、『シェーン』と『ペイルライダー』は両極に位置する作品だといえよう。予定調和的な物語は、我々の想像力を抑圧するからだ。
それに対して、クリント・イーストウッドは物語の衣装を纏うが、その衣装は借り物に過ぎない。実際には、彼が視覚化する映像には、「単純さ」と「過剰さ」という相反する表象が矛盾をきたさず存在してしまっているのだ。その抽象性が、クリント・イーストウッドの映画を難解な物としているのだ。

どの映画の登場人物にも似ていないクリント・イーストウッドに対し、輪郭を欠いた言葉しか思い浮かばない我々は、鉛のような感動にたじろぎ、ただ「凄い」と呟くことしか出来ない。
そもそも、『ペイルライダー』の中でイーストウッドが演じた「プリーチャー(牧師)」なる人間はいったい何者なのか?凄腕の孤独なガンマンなのか、プリーチャーなのか?
保安官一味との対決の日の朝を迎え、牧師の証である真っ白なカラーを外したクリント・イーストウッドに、彼を慕う中年女性サラはこう訊ねる。
「Who are you?」 「Who are you reary?」
しかし、彼は言葉を濁して答えない。

一方、サラの娘メイガンにとっては、プリーチャーは神秘的な存在として大天使のイメージと重ねあわされる。
その象徴的なシーンが、鉱山主に雇われたならず者達に愛犬を虐殺されたメイガンが犬の墓前で奇跡を祈る場面だ。

その象徴性と神秘性を醸し出すために、映画監督クリント・イーストウッドは、凡庸な監督には到底及びもつかない驚くべき繊細なキャメラワークを施す。
メイガンが復讐を誓い、主に御加護(奇跡)を請うシーンから画面いっぱいに広がる山並みにショットが切り替わり、また次のショットで、メイガンが祈りを捧げる姿を再び映す。そうしたカットバックが数回繰り返されると、キャメラは、広大な山々を背景に従え、白馬にまたがったクリント・イーストウッドの姿を雷鳴と共に忽然と映し出す。祈りを捧げるメイガン。馬に乗り何処へと向かうイーストウッド。その二つのシーンをカットバックで交互に捉えたあとに、ふたりのショットがひとつの画面で融合し重なり合う。

我々は、その「絵の繋がり」を見せられることで、クリント・イーストウッドに帯びた神秘性を視覚的に納得させられるのである。
だからといって、我々は彼を神の化身として素直に受け入れるほど楽天的ではない。
厄介なのは、プリーチャー(クリント・イーストウッド)の背中に惨たらしく刻まれている六発の弾痕である。その傷跡はプリーチャーのイメージとはあまりにもかけ離れているからだ。はたして、クリント・イーストウッドは、プリーチャーなのか?ガンマンなのか?それともそのどちらでもあるのか?その謎が宙吊り状態のまま物語は進捗し、謎はさらに深まる。

何しろ、この作品におけるクリント・イーストウッドは、牧師(プリーチャー)という記号的な存在のままで自身の名前すら明かされはしないのだ。






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最終更新日  2007年11月05日 05時34分27秒
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