抽象的な肖像


窓の外は明るいけど、眩しすぎて僕には闇と変わらない。

ああ、僕は一人だったんだなあ。自分に確認するように声を響かせる。
誰も居ない独り言は頭の中で考えるのと代わらない。

今日は少し出掛けないと。部屋の扉を意識しながら微かな声で囁く。
部屋の外の誰かに聞かれると厄介だから。その瞬間に自由意志は束縛に代わり、義務へと取って代わる。

もう一度。今日は少し出掛けよう。さっきより少し大きな声で。下らないスリルを作り出すように。

 止め処ない思考が駆け巡る。僕の悪い癖だ。
何かをしようと考えると、思考が疾走し、追い越し、先回る。その時点で行動を終了した後の精神状態になっている。

行動計画→思考疾走→行動結果

間の行動がいつも抜けがちになってしまう。
そして、実際行動に移せても、その思考によって得られた結果と大差はないのだ。
行動することの意味を見失いがちになる。

社会から取り残されていくのは体、社会的地位みたいなものだけで、心がついていってるから逆に辛いのかもしれない。
きっと行動派の人々が聞けば、行動力の無さに対する言い訳にしか聞こえないだろうけど。

何かの本で読んだ。
究極の人体改造。頭だけになって、頭に直接栄養を送る。
そうすれば体なんて束縛もないし、食べ物を食べたり、排泄したりする手間もない。「最近運動不足で・・・」なんて心配もない。ただ、半永久的に栄養を送り続けるシステム、もしくは、頭だけになった自分を愛してくれて、世話をしてくれる人を探さないと。

もしかしたら僕は向いてるかも知れない。なんて思いながら、そんな人体改造が例え可能な世の中になっても、やる気は無いだろうとも思ってる。
まだ、肉体的な快感や、自分の意志で動けることに対する欲求みたいなものはあるみたいだ。

現実は、なんだか昔よりぼんやりしてしまって、「ここからが、現実。ここからが思考。そしてここからが夢。」そういう境がはっきりしない。
だから自分が本当に行動していなかったのか、思考だけで行動を済ませてしまったつもりになってるだけで、本当は行動をしたにもかかわらず行動したこと自体を、記憶の中で思考で済ませてしまったと思い込んでるのか、はっきりしない。

ああ、また思考が駆け巡っている。
こうやって文字を打ってるのが本当なのか、思考の中で済ませてしまってるのか分からなくなっている。

明日になれば、この文字列を見る。
そしてまた考える。「これは本当に見ているのではなくて、自分の思考の中で書いたつもりになっている文章を、思考の中で見ているつもりになっているのではないか?」


ぼんやりと。ただぼんやりと、通り過ぎるのを待って。
窓の外は明るいけど、眩しすぎて僕には闇と変わらない。

ああ、僕は一人だったんだなあ。自分に確認するように声を響かせる。
誰も居ない独り言は頭の中で考えるのと代わらない。

あれ?これはさっき書いたような気がするけど、気のせいだろうか。
もう一度、文の最初に戻ってみる。

ああ、これはさっき書いた文章だった。
いや、今書き始めたばかりだっただろうか?いや、これはさっきの思考で書いたつもりになって、見ているつもりになっていた文章をもう一度思い出して書き始めたところだっただろうか?

こうやってぐるぐる回る。

そう、そして、ぼんやりと。ただぼんやりと、通り過ぎるのを待っている。
ああ、やっぱり行動する前から行動の結果はわかっていたんだ。

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