ユダヤが解ると真実が見えてくる

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2010年06月18日
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カテゴリ: ユダヤの基礎
彼らの自己を正当化する大言壮語

彼らの、うわ言のような気違いじみた無意味さが完壁であるために、彼らは神を讃美し、次の事に感謝をささげる。第一に彼らが人間であって勤物ではないといふ事に。第二に彼らがイスラエル人であってゴイム(獣)ではないといふ事を。三番目に彼らが女としてでなく男として創造されたことを。かかる馬鹿げた行為を彼らはイスラエルから学んだのではなく、ゴイムから学んだのである。というのは、仮にこのような冒涜と涜神の行為とが神の讃美と言われ得るとすれば、ギリシャのプラトンもまた毎日同様な、神に対する讃美と感謝とを捧げていたと歴史家達は記しているのであるから。プラトンは次の三点において神を賞美していた。即ち、彼が人間であって動物でない点、男であって女でない点、ギリシ
ャ人であって野蛮な非ギリシャ人でない点である。こうしたものこそが愚者の祈りであり、神を汚す野蛮人の讃美なのである。
誰も彼らがイスラエルの血統及ぴ種族である事について大言壮語するのをやめさせられない。、旧約聖書によれば、そのため彼らは多くの戦闘で敗れてきた。(ユダヤ人達は誰もこの事を理解できない。)すぺての預言はその故に彼らを叱責している。なぜならそうした事は魂と信仰をぬきにした誇りと現世的な憶測にすぎないからである。



悪魔の子供達

我々の主は、また彼らを「毒蛇ども」と呼ぴ給うた。ヨハネ傅八-三九「もしあなたたちがアプラバムの子孫であるなら、アブラハムの行ないをなすはずである」。八-
四四「あなたたちはあなたたちの父、悪魔に作られた者である」彼らが悪魔の子供達であるという事は、彼らが現在でも未だにそのような呼ばれ方に耐える事ができないように、かれらにはとても耐え難い事であった。というのは、もし彼らがこのよりどころ(アプラハムの子孫であるという)を示さねばならないとするなら、全て彼らが築いたものは崩壌し、違ったものになってしまうからである。

もし神がユダヤ人達に封して慈悲深くあるぺきだとすればユダヤ人達はまづ彼らの宗派から、彼らの心から、彼らの口から、すぺての涜神的な祈りと歌、そして彼らの血統に関する大言壮語や高慢さをなくしてしまわねばならない。かかる祈りこそがユダヤ人に封する神の怒りを絶えず増大させているのであるから。しかし彼らは決してそうすることはなく自らえへ目になることはないであろう。神が与え給う
筈の彼らへの悪るぺき絶減から特別にお救いになろうとするほんの数名の者を除いては。



自分達を高みに置く

ユダヤ人達が自分達を他の民族より高い位置におき、他の民族を軽蔑する際にその根櫨としているのは、彼らがアプラハム以降、割礼を行っているという事である。その故に、我等異教徒はその宗派、祈り讃美歌、そして教義においてどんなに災難を被らねばならないのだろう。我等が割礼を為さぬがゆえ
になんと我等軽蔑さるぺき國民は、彼らの鼻の前で醜くも悪臭を発しているのであろうか。

同時に、神を喜ばせようと努力し、それゆえ預言者達を殺害したのである。

聖書が、いたるところで証明しているように、彼らは預言者達の説教や教えや叱責によって自分達の邪悪な心を善きものにしようなどとは金輪際考えない、罪深く高慢な国民なのである。それでも彼らは神の召し使いたらんとし、神の御前に立とうというのだ!

彼らは今日にいたるまで自らの高貴さと血筋を自画自賛する以外、何もできない。彼らは自らの宗派、祈祷、教義において自分達だけを讃美し、全世界を罪あるものと宣告する。しかし彼らは自分達が神に最も親しい子供達として神の御前に立っていると勝手に想像しているだけなのである。




彼らは本当の嘘つきにしてしつこい「いぬ」である。彼らは聖書の全ぺ-ジを始めから終っわりまで彼らの解釈で絶間なく曲解したのみでなく、それを偽造したのである。ユダヤ人達の切望とため息のすぺてがいつの日か我々異教徒を、彼らがかつてエステルの時代にペルシャで異教徒を扱ったと同様に扱いたいという所に向けられているのてある。ああ彼らはなんとエステル書を偏愛している事てあろうか。その書は彼らの血に飢えた、執念深く残酷な欲望と希望とをまことにすばらしくも肯定しているのてある。自分達を神の民と妄想し、異教徒を殺し、押しつぶしてしまいたいと望み、またそうせねぱならぬと考へている彼らユダヤ人達ほど血に飢え、執念深い人達の上には、太陽が輝く事は決してなかったのである。彼らが期待する彼らの救世主の主要な約束は神が彼らの剣によって全世界の人々を殺害する事なのである。彼らがまづ我々キリスト教徒に封して示したように、もしできさえすれば、彼らは、しばしばそうしようと試みて、繰り返し自分達の鼻先をこっひどく叩かれてきたのである。

つまり彼ら自身の欠陥と高麗礼的なプライドとを暴露している。

(ルーテルはここで割礼に加えて、ユダヤ人達が自慢する多くの文献を列挙している。寄せ集め的な法文集とそれに基づくユダヤ的独善性、そしてユダヤ民族が信仰から外れており不信心で邪悪である事を嘆く聖書の中の多敷の文章を引用し、その上で悪魔をユダヤ人と比ぺて語っている。)

異教徒より邪悪な者達

もしユダヤ人達が神の戒律を持たず、またそれを知らなかったとしたら、どんなに彼らにとって、ましな事であっただろう。なぜなら、もし彼らがそれを持っていなけれぱ彼らは有罪を宣告される事はなかったからである。彼らは神の戒律を持っていながら、それを守らぬばかりか、絶間なくそれに反逆して行動するが故に呪われているのである。
(ただ知っているだけなのである)

こんなことが成り立つなら、もし例えば、殺人者、売春婦、泥棒、ならず者達、そしてすぺての悪人どもは、もし彼らが神の言葉を持ち、神を恐れ、従ふぺきである事を知り、神を愛し、彼に仕え、神の御名を構ヘ、殺人や不倫を犯すぺきでばない事を知っている等々であるなら、(知っていると言うだけで)これらの者共が目分達は神の神聖にして選ばれた人々である等と公言しても良い、というのと同じ事になってしまうのだ。

しかしながら披らは現に罪を犯しており、呪われているのだから彼らがたえへもっとも神聖にして正しいところの神の言葉を新有しているとしても、これら悪漢どもがそれに反して罪を犯しているという事には変わりはないのである。それなら、ユダヤ人達と同様、これら悪党どもに、神は神の律法を通して彼らを神聖化し、彼らを神の特別な民として選抜なされたという事を、すぺての諸国民の前で彼らに自慢させようではないか。ユダヤ人達が自らの宗派を自慢し神が神の律法を通して彼らを浄化して神の選民と為し給うたことで、神を賞美し感謝を捧げている時、一方では彼らは自分達がそれらの戒律などまったく守っておらず高慢と妬み高利貸し、貪欲、そしてすぺての卑しさに満ちているという事をよく承知しているのである。そしてまた、彼らは何よりも祈祷において敬虔にして神聖にふるまう者達ではあるのだが、彼らユダヤ人達の栄光もまた前述の悪党共の栄光と同じ事になってしまうのである。彼らは高利賃しを行うのみならず、(私は今は彼らの他の悪徳についてば黙っていよう。)高利貸しを神がモ
ーゼを通して彼らに命じ給うた権利として教えるほどに盲目であり、この点に関しても、彼らは他の場合と同様ひどいやり方で神について嘘を述べへているのであるが、これについて今は詳細に述ぺる余裕はない。


彼らは十戎を愚弄する。神を馬鹿にする



それは、あたかも悪魔の統領が、祭司か牧師の衣装をつけて我々の間を歩き回ったり、その様な方々のすぺての戒律や生き方を順守するかのようにふるまっているのと同様である。しかしながらその様な精神の面での粉飾の下に真の悪魔、オオカミ、教会の敵冒涜者が居り福音も十戎も、ともにふみにじり、呪いそして非難しているのである。神の御前てそれは何と素晴らしい聖人ではないか。あるいはもしこの世で、一人の美しい女性が慎み深いしとやかさと純潔さに満ちたマナー、公正さ、立居振舞をしなが処女である事を示す花飾りをつけてそぞろ歩いていたとしても、裏では十戎に背く淫らで恥づぺき売春婦であったとしたら、たとへ彼女が見える所では純潔の公正さや振舞いを守ったとしても彼女の素靖らしい従順さはいったい何の役に立つのだろうか。彼女はだらしのない公娼達の七倍も軽蔑されるという
結果になるだらう。

このように神は、彼らが外見は戒律と高潔さの様子を示しながら,あらゆる種類の偶像崇拝と邪悪な行いをしているので、神の預言を送ることにより、常にイスラエル人を卑しい売春婦と叱ったのである。特にホセアが二章四、五で嘆いたように。「私はその子らを哀れまない。彼らは淫行の子等だからである。彼らの母は淫行をなし、彼らをはらんだ披女は恥ずぺき事を行
った。彼女は言う。『私は我が懸人達についていこう。彼らは私にパンと水、羊の毛と麻と油、そして飲み物を与える』と」乙女や女性が敬虔かつ清潔で見苦しくなく装い外見上、慎ましやかに振舞うを見るのは、実に素晴らしい事である。しかし彼女がもし、売春婦であるならその(すばらしい)衣装、装身具、花飾り、そしてアクセサリーは、ぬかるみの中の雌豚が身につけたほうが、より、まともにみえ る事てあろう。ソロモンが言うように「きれいで馬鹿な女は、雌豚の鼻の上につけられた黄金のモールのようである」。

親愛なるキリスト教徒よ、こうした事から盲目のユダヤ人どもが貴方たちを誤り導くのを黙認する時には、自分達が何をしようとしているのか、よく気を付けるぺきである。このような場合には一つの諺が確かに成り立つであろう。すなわち、「盲目の者が盲目の者を導くなら、両者とも、堀に落ちるであろう」という諺が。それ以上のことで彼らユダヤ人から学ぶものはない。神の戒律を知らず、それでも異教徒達に封し高慢で居丈高になる。神の前に出るなら、異邦人のほうがまだましである。何故なら、彼らは神聖さに関してそんな高慢さを持っていないが、しかしおごり高ぶる聖人達や罪深い涜神の者や嘘つき者どもより、はるかに律法に適ったことを為すからである。









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最終更新日  2010年08月25日 18時01分51秒
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