ユダヤが解ると真実が見えてくる

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2012年02月18日
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カテゴリ: ユダヤの基礎
ニールスが世に出したプロトコールは、ユダヤ指導者の計画の最新版に過ぎな
い。いかにしてそのプロトールが広く知られるに至ったかの物語は、極めて興味深
い。
 一八八四年のこと、ロシアの一将軍の娘、ジュスティーヌ・グリンカ嬢が、パリ
で政治情報を収集する任務を帯びて勤務中のことだった。彼女はセント・ペテルブ
ルグのオルゲフスキー将軍<原注4>と連絡をとっていた。この任務のために、彼
女はジョセフ・ショールストというユダヤ人を雇った。ある日、パリの[フリー
メーソンの]ミズライム・ロッジの一員であるショールスト<原注5>が、ロシア
にとって非常に重要な文書を提供するから二千五百フラン出さないかと話を持ちか

グリンカ嬢に手渡された。<原注6>
 嬢はフランス語の原本に前書きを付け、ロシア語訳を添えてオルゲフスキーに届
けた。オルゲフスキーは今度は皇帝に届くように、上官のシェレーヴィン将軍に手
渡した。だが、シェレーヴィンは、裕福なユダヤ人から負債を負っていたため、握
りつぶしてただ資料保管所に保存しただけに終った。<原注7>
 一方、パリではロシア宮廷生活のことを書いた書物<原注8>が出版され、ロシ
ア皇帝の不興を買った。皇帝は秘密警察に著書を見付け出してくるように命じた。
このことが、恐らく意図的にねじ曲げられて<原注9>、グリンカ嬢が著者である
ということにされ、彼女はロシアへの帰途、彼女の農園があるオレルに追放の身と
なった。グリンカ嬢は、この地方の貴族であるアレクシス・スホーティンに、プロ
トコールの写しを一通渡した。スホーティンはこの文書を、ステパーノフとニール

刷し配付した。ニールスは、初めはツァルスコエ・ツェロ(ロシア)で一九〇一年
に、『卑小の内なる偉大』という書名で出版した。次いで、同じ時期に、ニールス
の友人G・ブトミもまた写しを一部持ち出し一九〇六年八月一〇日、大英博物館に
寄託した。
 その間、ロシア警察のユダヤ人たち<原注10>を通じて、一八九七年のバール

<原注12>の内容と酷似していることが判った。
 一九一七年一月、ニールスは改訂増補版を出版する準備をしていた。だが、同書
が市場に出回らないうちに、一九一七年三月の革命が起こり、政権を取ったケレン
スキーはニールスの本を全冊処分する命令を出した。一九二四年、ニールス教授は
キエフでチェカに逮捕投獄され拷問を受けた。ニールスは首席裁判官のユダヤ人
に、この処分は「プロトコールを出版することで測り知れない損害を人々に与えた
こと」に相応する措置であると言われた。数ヵ月後に釈放されたニールスは、今回
はモスクワで再びGPU(ゲーペーウー、チェカ)に逮捕され監禁された。一九二
六年に釈放されたが、ニールスは追放先のウラジミールで亡くなった。時に一九二
九年一月一三日だった。
 ニールスの第二版は数冊押収を免れ、外国へ持ち出され刊行された。ドイツでは
ゴットリート・ツム・ビーク(一九一九年)、英国ではザ・ブリトンによって(一
九二〇年)、フランスではジュアン氏が『秘密社会国際評論』で、また、ウルバ
ン・ゴイェが『ラ・ヴェーユ・フランス』、アメリカ合衆国ではスモール・メイ
ナード会社(ボストン、一九二〇年)である。後には、イタリア語、ロシア語、ア
ラビア語、そして日本語でも刊行された。
 以上が、プロトコールがいかにロシアにやって来たかの手短かな物語であり、以
来、広くこの書が読まれるようになっている。
 この点に関するステパノフ氏の調書<原注13>を裏付け証拠として、ここに掲載
する。「一八九五年、トゥーラ地方の私の知人、元市長のアレクシス・スホーティ
ンが、私に『シオン長老のプロトコール』の手書き原稿をくれました。スホーティ
ンは、パリに居住する知り合いの女性が、その女性の名前は言いませんでしたが、
ユダヤ人の友人の家で見付けたものだと言いました。パリを立つ前に、彼女はひそ
かに翻訳して、その一部がロシアに来て、スホーティンの手に渡ったと言いまし
た。
 初め私はこの翻訳を謄写版で印刷しましたが、読みにくいものでした。それで活
字印刷することにしましたが、何時だったかどこの町の何という印刷所だったか覚
えておりません。この件に関しましては、その頃、セルギウス大公の執事長だった
アルカディ・イッポリットヴィッチ・ケレポフスキーに手伝ってもらいました。彼
がこの文書を地方の印刷所に印刷させたのです。それは一八九七年のことでした。
セルギウス・ニールスは彼の著作の中にこのプロトコールを入れ、彼自身の注釈を
付けました。
           (署名)フィリップ・ペトロヴィッチ・ステパーノフ
               元モスクワ長老教会事務弁護士、式部官、枢密院委
               員、現在(一八九七年)オレル町所在モスクワ・カ
               ーク鉄道代表。一九二七年四月一七日。
            証人 ディミトリ・ガリツィン王子
               スタリ・フォンタク所在ロシア移民居留地代表」

<原注1>ギリシャ語のprote(最初)+kolla(にかわ、接着剤)。
<原注2>この返書は、十六世紀のスペインの書物、フリオ・イニゲス・デ・メド
ラーノ著『ラ・シルヴァ・クリオサ』(パリ、オリー出版社、一六〇八年)の一五
六頁から一五六頁にかけて掲載されている。(写真説明略)
<原注3>フェルディナンド王。
<原注4>当時の内務大臣シェレーヴィン付き秘書官。
<原注5>別名シャピロで、彼の父親はロンドンでこの二年前、偽造罪で十年の懲
役宣告を受けた。
<原注6>ショルストは、エジプトに逃亡したが、フランス警察の記録では、同地
で殺害された。
<原注7>一八九六年、彼は死に際してプロトコールを含めた自分の回想録をニコ
ラス二世に遺贈した。
<原注8>ヴァシーリー伯爵 の偽名で発行されたこの本の真の筆者はジュリエ
ット・アダム夫人で、デミドフ・サン・ドナコ王女、ラジヴィル王女その他のロシ
ア人の提供した資料を使って執筆した。
<原注9>パリのロシア秘密警察にいたユダヤ人にマニウロフがいて、この憎むべ
き人物はM・パレオローグの『回想録』に描かれている。
<原注10>明らかにエノ・アゼフとエフロムである。エフロムは、以前ラビであっ
て一九二五年に逃避先のセルビアの僧院で死没した。彼はよく修道僧に、プロトコ
ールは世界を支配しようとするユダヤの計画のほんの一部であって、異邦人に対す
るユダヤの憎悪を弱々しく表現したものに過ぎないと語っていた。
<原注11>上記、第一部三四頁。
<原注12>ロシア政府は、ブナイ・ブリスが一八九三~四年にニューヨークで開い
た会議で、ヤコブ・シフ(上記、六三、六四頁)がロシア革命運動委員会代表に選
ばれたことを知った。
<原注13>著者訳。





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最終更新日  2012年02月19日 03時18分29秒
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