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3日ぶりの日記復活デス。ちょっと大人の仕事が忙しかったもので(笑)、どーらくの時間が取れませんでした。(汗;さて前回の日記で、HARUさんからのコメントを頂きました70年代のディスコDJについてちょっとノーガキをコイてみたいと思います。(笑)たぶん当時HARUさんが感じていたことと、委員長の感じていたものが同じだったということもありますが、ディスコ・ディスク・ジョッキーについての成り立ちみたいなものが実は、極めていい加減だったということが当時から少なからずコンプレックスになっていたような気がするんです。まあ、当時業界に関わっていた人なら概ね似たような感覚でいたのではないかと思います。何に対するコンプレックスかといえば、もちろんそれはラジオやTVで活躍するプロのディスクジョッキーや評論家の皆様に対してです。大体、ディスコのルーツであるゴーゴーハウスそのものは、バンドがメインでしたから、「生演奏」で踊るというのが常識で、ディスク(レコード)の音源はバンドの合間を繋ぐジュークや有線みたいなものが一般的でした。ですから、70年代初頭はロックバンド=ゴーゴーとして認識されていたのではないでしょうか。新宿のアシベ会館(ゴーゴー・アシベ)とかは、グループサウンズ全盛の頃から不良の溜まり場、エレキで痺れた(笑)若者が髪振り乱して踊り叫ぶ悪の巣窟のように言われていましたよね。今で言うドラッグとかでラリッちゃったりして、元祖不良の老舗みたいなもんですか。(笑)まあ、ドラッグったって今みたいに種類も豊富にありませんから、オフタリドン(ピンキーとか呼ばれてましたっけ)とか睡眠薬ガリガリ噛み砕いてコーラと一緒に飲む、みたいな、結構マジで危なかったですよね。(笑)あとはシンナーかな。どっちにしろ、最近の健康ドラッグ(笑)とかに比べると結構危ない遊びだったような気がしますね。そーいえば子供用の喘息のシロップ薬なんかもありましたっけ。えー、すぐに話が脱線しますが、バンドの話に戻すと、何故バンドだったのかというと、当時は外国のヒット曲のディスク(レコード)が日本で発売されるのが大変遅かったからなんですね。まあ遡ると戦後進駐軍が日本に入ってきて以来、この形態が続いていたようですが、要は最新の外国(まあ主に米国ですが)のヒット曲をダンスホールで踊るには、日本のバンドのコピーしか方法がなかったんですね。だからバンドもできるだけ原音に忠実にコピーしようと躍起になったし、できるだけ早く原音を入手することがバンド・ビジネスの要でもあったわけです。ということは、音源入手が一番早いのは米軍基地ですから、必然的にベース周りのバンドが当時の花形ということだったわけですね。ただ、当時ゴーゴーの主流はROCKでしたから、比較的コピーも容易だったのですが、流れがリズム&ブルース、いわゆるSOUL系に変わっていったあたりからは管楽器が入ったバンドと、それまでのトリオやコンボ編成のROCKバンドとは相当な差が現れ始めてきたんですね。だってジェームス・ブラウンのコピーなんてブラスが無かったら、薄っぺらい単調なリフレインが続くだけでしょ。(笑)まあ、元々JBのヴォーカルなんてのはコピーできるはずもありませんが、セックスマシーンとか当時の課題曲なんかをそれなりにコピーしていたわけですね。ゲロンパ、ゲローライって歌ってごまかしたみたいな~(笑)そうこうしているうちに、ベースのGIが日本に持ち込んでくるディスク(レコード)そのものを入手するようになってくると、ダンスホール(踊り場)も次第にヒット曲が充実してくるようになったわけですね。バンドが演奏する、いわゆるそれまでの定番ヒットメドレーから、ビルボード誌のヒットチャート順位に沿った原音の入手を目指すようになりました。言い方を変えれば、質より量ってことですか。バンド演奏の技術(コピー優劣)から、ディスク(レコード)の所有数みたいな競争へと移っていきました。そして、後の輸入盤業界の先駆けとなったアーリーバード吉岡氏の大活躍もあって、都内の踊り場に直輸入盤シングル・ディスクが回り始めていったのでした。(ってなんか歴史ドキュメントみたいですねー)同時にダンスホール(踊り場)はリズム&ブルース、いわゆる黒人音楽、ダンスミュージック一色の時代へと突入していき、それまでゴーゴーと呼ばれた踊り方も、ステップなる形のある踊りへと移っていったのでした。いよいよ、このあたりから、ステップとDJの密接な関係が踊り場に築かれていき、後年のディスコブームなる世界的な流行が始まっていくんですねー。あれっ!? ディスコDJの話するつもりだったのに、なんか遠回りになっちゃいましたね。ということで、続きはまた明日。(^^;
2006年11月06日
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今日もちょっと懐かしい音楽のお話です。私は昭和30年生まれで、いわゆる団塊の世代の人たちの背中を見て育ってきた世代です。ベトナム戦争、学生運動、フォークブーム、ドラッグ、サイケ、アングラ、ハレンチ、東映やくざ映画、ETC.。。。。そんなポップカルチャーを憧れを持って背伸びしていたのが私らの時代ですね。今、巷で「団塊の世代」がちょっとしたブームになっているようですが、私なりにこの先輩方の時代を振り返ったときに、まず頭に浮かぶのが「戦争」なんですね。とにかく、みんな何かに向かって戦っていたっていう印象が強くて、それは情熱とも言えるのでしょうか、古いものをぶち壊していく「力」みたいなものを感じていました。対して自分の時代はどうだったかというと、そういう先輩たちが切り開いて行った道に要領よく乗っかっていったみたいな感じです。ベトナム戦争も終わり、学生運動も収束し、フォークと反戦運動はその行き場を失って、毒の抜けたニューミュージックへと変貌し、破壊のROCKはダンスミュージックへと移行し、要するに「戦い終わって」中味のない浮かれた時代の始まりだったような気がします。合っているかどうかわかりませんが、第二次世界大戦で敗北したツケを負った子供たちがこの団塊の世代で、その世代の燃えカスが私らの時代だったと思います(笑)そんな人畜無害の時代で開花した私の青春ですが(笑)、私らが憧れの眼差しで見ていた団塊世代と呼ばれる先輩方から受け継いだものといえば、やはりそれは「アメリカ」だと思うのです。もちろん、その歴史は第二次大戦後の進駐軍に端を発しているわけですが、私らの時代はベトナム戦争にそのすべてのルーツがあると思います。それは、横須賀、横浜、立川、福生など、米軍が駐留していた基地から流れ出てきた、大きな意味でのアメリカでした。そんな目の前に現れたアメリカ文化、それはテレビや雑誌で見ていた憧れのアメリカが、まさに自分の前に突如として現れ、生活の中に入り込んできたそんな衝撃でもありました。そして、そんな自分の体験が重なる、今でも心に残る歌がこの「フェンスの向こうのアメリカ」です。楽曲は柳ジョージさんで、詩に描かれている情景は柳さんの子供時代、横浜本牧あたりの思い出のようです。せっかくですからご紹介しときますね。*フェンスの向こうのアメリカ*石畳の坂を登れば海の見える丘に出た防波堤にあたる波間に俺を呼ぶ声が聞こえたどんなに離れてもけして忘れなかったよ朽ち果てた俺の家と鉄のフェンスAREA ONEの角を曲がればおふくろのいた店があった白いハローの子に追われて逃げてきたPXから今はもう聞こえないおふくろの下手なブルース俺には高すぎた鉄のフェンスあばよのひとこともなく 消えうせたあの頃 帰りたいHOME TOEN SUITEネオンライトの空に飛び交う黒い懺悔のハーモニードラとジープの吼える声は昨日と今日の道しるべ今はもう流れない潮風と赤いキャンディー高いフェンス越えて見たアメリカせめて肩の重荷 降ろすことができたら 帰りたいHOME TOWN SUITE高いフェンス越えて見たアメリカどうですか。詩だけだと感傷的かもしれませんが、曲は中々ポップで軽やか、ノスタルジックな爽やかさみたいな感じです。でもって、この詩のテーマである、米軍キャンプのフェンスを隔てたアメリカと日本、これこそまさに私らの時代そのものだったような気がするんですね。鉄のフェンス越しに垣間見たアメリカ文化。未だに私の中にくすぶっているアメリカ文化は、このフェンスを越えてはいませんね。
2007年04月16日
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