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2006年03月03日
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時は少し遡る。
「遅いわね。」
ゆったりと鷹揚に、ひたひたと艶っぽく、少女はただ事実を唇に乗せてきた。
今は不在のこの屋敷の主の室の前の濡れ縁で、柱に凭れ掛かり月光を宝石のように纏いながら少女は男に視線を合わせ、余裕のある笑みをその紅い唇に佩く。
男は冷笑を浮かべただけで返事は返さないまま、面倒くさそうに吸っていた煙草を足元に落とし、潰した。
“何が”、などと聞くまでもない。
少女と男が待っているものはまったくの同じなのだから。
その一致にお互いなかばうんざりしながら、男は少女にどうでもよさそうに視線を向けた。
少女の白銀の髪は月光を綺羅綺羅と撥ね返し、血の青い筋が透けそうなほど白い肌もそれと同じ風情を感じさせる。

思わずこちらがゾッとするような感情を宿す瞳は、目が覚めるような湖面の碧。
とても十歳には見えない。
その少女の貌は神の悪戯のように恐ろしいほど整い、肌や瞳、髪の色と相まって人形のような冷たさと無機質さ、小奇麗さを見る者に与える。
その少女の唇が見る者に一種の怖さを感じさせるように涼やかに笑みを孕んだ。
「ぶち壊してやろうかしら。」
歳相応の愛らしい少女の声には不似合いなほど物騒な色が滲んでいる。
その声には本気しか含まれていない。
「不機嫌そうな面だな、紅丹【ぼたん】。」
男は少女の名を呼び、醒めた目で哂いを返し、皮肉の混じった薄い唇を歪ませる。
鷹のように鋭い目に、冷酷そうな雰囲気を漂わせる薄い唇。
余計な肉を殺ぎ落とした顎に、頬は妙に荒んだ雰囲気を醸し出している。

荒んだ気を垂れ流している男からは退廃的な空気が発されている。
渋みと荒んだ殺気を宿す男の顔はずいぶんと男前ではあるが、どう見ても今のこの男は裏の世界の人間にしか見えない。
「あの男の下心で自分の手がとどかない所にお気に入りの玩具が連れて行かれて、いい迷惑、か?」
男の刺々しい皮肉に、紅丹は負けず劣らずの冷ややかな、けれどきっぱりとした口調で切り返す。
「氷翠【シャナ】は玩具じゃないわ。取り消しなさい。」

まるで女王の様な威厳とプライドを持つ紅丹のその態度は、十歳という実際の年齢をはるかに裏切っている。
それはこの少女の生い立ち故だろうが、それでも紅丹は周囲が思わずゾッとするような老成した一面を見せることがある。
にっちもさっちもいかない連中ばかりが居るこの【禁足地】の村の中でも、ダントツに気難しい内の一人だ。
その紅丹が唯一絶対的な情愛と忠誠を向け、懐いている存在がこの禁足地のトップであり朱樺【シュカ】家の宗主である氷翠王【シャナオウ】である。
紅丹の機嫌が悪いのはひとえに、氷翠王が獅吼【シコウ】と共に外に出かけて帰ってこないからだ。
「つれない奴だな。・・・・・・で、何をぶち壊すって?」
男は暢気とも言える口調で受け流し、視線を少女に戻す。
「獅吼に決まってるでしょ。うざったいわ。それに、あの男が居なくなれば氷翠は私だけを見てくれるもの。」
真性の殺気を紅丹はその瞳に浮かべる。
何を確認しなくとも判る。
本気だ。
しかも愉しい事に、紅丹にかかればこの手のことは実現不可能なことではない。
紅丹は、【守人】だ。
守人は貴族の護衛と言うべき者達のことで、立ち始めた頃には剣を握らされ、暗殺業、正当な武術を全てたたき込まれる。
また、その血故に神懸かった力と容姿を持つ守人は、その度が過ぎた強さと美しさのため、堕天した神の御使いと呼ぶ者すらいるが、一騎当千を地でいき、死すことを恐れず、腕が千切れ、受けた傷から内臓が飛び出ようとも何事もなかったかのように単身戦い続ける彼らはまさにそう評するにふさわしいものであっただろう。
六歳から九歳ほどで戦場に出される守人達は子供であろうともその強さは比類ない。
その守人である紅丹が言うのだ。
洒落にもならない。
「怖ぇ奴だな。」
投げるように言い、男は煙草に火を点け吸い始める。
それに月光が撥ね返るような視線を向け、ゆっくりと紅丹はその紅い口唇を開く。
「あんたもよ?」
冷たく撥ね返る声音の後に、紅丹はゆるゆると男、・・・・・・煌【コウ】の視線と合わせる。
自分の言葉の威力を秤にかけるように。
「・・・・・・言うかよ。」
少しの沈黙を置いて、煌は薄笑いを浮かべた。
そのまま男は煙草をふかす。
煙草の苦い香りの中に、理性を狂わすような麝香の淫らな香りが混ざった。
その香に紅丹はゆるく、恐い微笑を唇に刻む。
「消えて。邪魔よ。」
何処から、誰の前から、消えるのは言わずとも伝わる。
それが紅丹には判っていた。
だから一層、この男が嫌いだ。
「俺に指図はするな。自分のことは自分が決める。」
棘のある眼差しで冷笑を浮かべて返すのは、この男のいつものスタンスだ。
だがその中に今、昏い翳りが宿るのを紅丹は見逃さなかった。
煌がその瞳を氷翠王に向ける時のものだと知っている。
この男は氷翠王に応対する時、かなり冷淡だ。
態度と視線にはあからさまに嫌悪と侮蔑が宿り、時には容赦のない平手がとびもする。
それを避けもできないほど、氷翠王はとろくはないが、それを甘んじて受けるほどには寛容で慈悲深かった。
けれど嫌悪と侮蔑、冷酷さだけがこの男の瞳に宿るのではない。
氷翠王がこの男に視線を合わせていない時に限られるが、その時、男の瞳に見え隠れしているのは激しく滾る情念の焔だった。
その業火は陽炎のように揺らめき、時折、氷翠王を焼き尽くすようにさえ見えていた。
おそらく、このことは氷翠王自身は知らないだろう。
神殺しの一族である陰【イン】家の人間であるこの男は、その神呪をかけた神の末裔の一族の朱樺家の人間の血を体内に取り込まないと生きてはいけない。
この理由から、この男は氷翠王から離れることはできない。
煌の氷翠王に対するスタンスは、『俺を生かすための食料で、使い捨ての駒だ。』で一貫している。
だが、その言葉に、『いざとなったら見殺しにできる覚悟があるくらいでないと気が狂う。』と続くのを知る者は少ない。
これは昔、煌に血を与えていた朱樺家の血を引く女性が、陰家の者に惨殺されたことに起因する。
この出来事が煌の抱える闇を一層濃くしたのは間違いない。
だから自己愛と利己的だが、その女性と今、同じ立場に在る氷翠王に必要以上の想いを持ちたくないという考え方は紅丹にも理解はできる。
絆が深くなることで背負う苦しみを増やしたくはないという心も。
深く向き合えば、自分のこの情念の意味が判ってしまう。
手放せなくなる。
前と同じように。
だからわざと冷たく氷翠王に当たる。
面を張り飛ばす勢いで罵倒と侮蔑の言葉を送り、暴力さえ厭わない。
他人の心の機微に鋭く敏感なくせに、わざと攻撃的で侮蔑的、冷酷さで装い、自分の心に対する他人の追及は煙に巻く。
決して、悟らせない。
男の眼に宿る氷翠王に向ける蒼い情念の焔も、氷翠王の前では痕もない。
氷翠王は気づいてもいないに違いない。
そしてこれからも気づくことはないだろう。
それでも、紅丹は安心できなかった。
煌の瞳のあまりに激しく剣呑な焔に。
「氷翠をドブで溺死させる訳にはいかない、愛してるから。」
真率でひたむきな碧の美しい紅丹の瞳が男の瞳を真っ直ぐに射る。
それに男は苦く笑う。
「・・・・・・・・・ドブか。」
「ドブよ。」
切るような鋭い声音が人形のように綺麗な少女の口唇に乗せられて、後は沈黙がその場を支配する。
美しい朱金の幾つもの灯火に彩られた庭園を望むこの濡れ縁は、蒼い月の光と深雪の光にまみれて、ひどく静かで、静謐だ。
その静謐を断ち切るように男は自分の声音を切って捨てた。
「・・・・・・・そうかもしれねぇな。」
そのまま立ち上がり、煙草を庭園に投げ捨てる。
後は、振り向きもしないまま何処かに立ち去っていった。





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最終更新日  2006年03月03日 19時39分48秒
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